第3話


 この時に一人の軍人が中を確かめながら入って来た。

 驚いた八重子は立ち上がり軍帽を深く被った男に駆け寄った。

「中原さん!」

 男は軍帽の鐔(つば)を挙げた。

「いったいどうしたのですか!」

 八重子の問いより先に中原は辺りを見回した。

「此処にはまだ憲兵隊は来ていないのか?」

 八重子は頷き、中原を一隅に有る応接用のテーブル席に座らせた。中原は席に着くなりこの娘はと云う目を八重子に向けた。八重子はその目に応じて説明した。

「ああ、あの浅沼と云う兵隊の妹さんか」

 と中原は納得した。そして初めて彼女の手をじっくりと見た。彼女の手は兵隊の手より黒ずんでいた。それを観て今さらながら浅沼の苦労を思い、その思想に共鳴した彼にも納得した。

浅沼は実直な男だった。都会育ちの中原は時々は浅沼から田舎の話を聞かせて貰っていた。小作農で父を無くして居た彼は少年の頃から大人と同じだけの農作業をこなしていた。

 お陰で彼の体格は恵まれたが彼の一家の暮らしはそれでも恵まれなかった。更に追い打ちを掛けたのが彼が徴兵に取られたことだった。中原はできるだけ彼に外出許可を与えて畑仕事をやらせていた。だが農村の貧困に歯止めが掛からなかった。最近は田植えで特別休暇を認めてやった。その折りに一度浅沼の家へ行った事があった。天井はなく梁がむき出しになっていた。土間と居間が一続きで土間の囲炉裏で暖と煮炊きを取っていた。壁には鍬や鋤が掛けてあった。典型的な貧農の小作農家を見て、何とかしてやりたいと中原はそれを八重子に語っていた。

「あれほどダンスのお上手な貴方がなぜ門限破りなどなさったのです」

 八重子はおどけながら言った。

「あれは世を忍ぶ仮の姿さ」

 と中原も愛嬌を口元に浮かべた。

「じゃあ大石内蔵助ってところかしら」

 一人の兵隊の実家の現状を語った中原を思い出してさもありなんと突っ込みを入れた。

「討ち入りを果たしても天聴に達せず逆賊となり、すべての真相は闇に葬られた」

「それでも義侠心の強いあなたは加わらなかった。なぜですの? まさか私の事が脳裏を掠めた。なんて調子の良いことは言わせませんよ」

 八重子も目許に微笑を浮かべた。

「それもあるが」

 中原も笑いを浮かべてそれに応えた。そして傍に居る妙子を見た。

「私は皇道派の思想に影響を受けた。そして妙子さん、貴方のお兄さんの暮らしを知ってから大きく傾いた。しかし彼等の云う昭和維新で本当に君のような人々が救われるのなら私も彼らに加わっていた。しかし私は他の道を探した・・・。だが今の軍閥と財閥はあなたのような弱い人々の上に成り立っている。それを覆すには余りにも我々は微力だった。すまぬ」

 中原は妙子に頭を下げて視線を曇らせた。

「何も出来ぬままに満州の荒野に屍をさらすだけなのか・・・」

 自問した中原は軍帽を取ると急に立ち上がった。そして八重子に一礼した。

「最後に君に逢えて思い残す事はない」

「満州で立派に死んでおいで」

 強い言葉とは裏腹に八重子の瞳は潤んでいた。

 中原は八重子の言葉に笑って応えた。彼は軍帽を被り外へ出た。

「待って!」

 八重子も立ち上がり後を追った。

 あとに妙子と牧師と沈黙が残された。二人を包む部屋の灯りが周囲に零れステンドガラスにマリヤの像が闇に仄かに浮かんでいた。

 沈黙に耐えきれず妙子が言葉を零した。

「牧師さん、わたしはどうすればいいのでしょうか・・・」

迷える子羊に光明を与えるすべもなく沈黙の中に時間だけが過ぎていった。


 一方で教会の庭で中原は門限破りの真意を八重子に話した。

「あれほど熱心に聞いてくれた浅沼が豹変してしまった」

「それで軍人のあなたが軍の規則を破るなんて」

 生真面目過ぎる。これほどの不器用さに八重子は呆れてしまって、泣くことさえ忘れて説得した。

 しかし中原はすでに腹をくくっていたのである。

ーー中原と共に貧困の為に同じ思想に共鳴した浅沼がその貧困の為に脱落した。その訳は決起した彼等の軍事裁判と並行して憲兵や特高による切支丹禁止令の様な弾圧が共鳴する思想家に加えられたからだ。都会に住む中原には精神的な問題だが、とくに浅沼の様な小作農家は周囲の目にさらされる共同体である農村では生活出来なくなる。土地にしがみつく者にとっては村八分や爪弾きにされると農村に残る限り生きていけないのである。

 浅沼がその思想に固執すればするほど地主や身内、親族、その地域住民すべてに被害が及ぶからだった。中原が彼にこの思想のユートピアを説いて賛同してもあの事件で現実離れしてしまった。そして思想を完遂するには地下組織に生息するしかないが、浅沼にはそれが出来なかった。そしてこれはすべての貧困家庭の共通点だった。

 教会の庭で中原はこの絶望した事実を八重子に語った。

「今の世の中をどう思います」

 無意味だが八重子は今一度中原に思いとどまるようにあえて訊いた。

「浅沼や彼の妹が救われない世の中は間違ってる」

 それでも方便でも否定してくれればさっばりして未練も残らないものを・・・。やはりこの人は一つの嘘で自分の人生のすべてを否定したくない。八重子はその真っ直ぐなところに惹かれて仕舞った。

「あたしもそれは思います。貧富の差が余りにも大きすぎます。でも・・・、もうどうにもならないのですか・・・」

 最後の言葉は八重子自身に問いかけた。

「それで奴らは決起したが良くなるどころか益々世相が荒れて来てしまった」

荒れる国土にはペリーに続くマッカーサーの第二の黒船を待つしか無かった。

力なく肩を落とす中原を残して八重子は一人教会に戻った。

 牧師と妙子は突然のドアの開く音に怯えるように身を起こした。

「まるで懺悔のようね」

 軍帽を被った八重子がつかつかと入って来た。彼女は先ほどの椅子に座り足を組むと軍帽の鐔を前にしてテーブルの上に置いた。八重子は頬杖をして失せた瞳のまま軍帽の記章を 見詰めていた。

「中尉さんは?」

 父は視線を彷徨わせて訊いた。

「これを形見に置いて逝ったわ」

 八重子は顎で示した軍帽を手に取った。カーキ色の軍帽に彼女の白い指が可憐に絡んでいた。

「満州へ?」

 父はまた同じ調子で尋ねた。

 八重子は顔を左右に振って持て余す軍帽を彷徨う視線の中で被った。

 やがて一発の銃弾が教会の庭から響いた。

 八重子の瞳が一点を捉え、そして、潤み、目許に泪が溜まると八重子は軍帽の鐔を深く下げた。

 瞳を隠した将校用軍帽の下からふたすじの泪が頬を伝って流れた。時代は彼女らの涙の隙間を縫って茨の道へと流れていった。

 八重子の涙の乾かぬ内に第一師団の満州移駐が決まった。

 兄を見送ったホームには日の丸の小旗と歓呼の声が溢れた。その中で妙子は茫然と立ち尽くしていた。

(完)

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動乱の彼方へ 和之 @shoz7

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