第2話
(2)
牧師である父が帰宅しても八重子は気付かなかった。彼女はテーブルに頬杖を付きすらりと足を組んだまま片方はだらりと下げて座っていた。
父はひとりではなかった。丈の短い地味な野良着を着た女と一緒だった。
項垂れた頭(こうべ)を上げて八重子は父を見た。
「お父さま、どうしたのです?」
「この娘が思い詰めたように教会の前に立ち尽くしていたので中へ入ってもらった」
女はふけて見えたが傍でよく見ると顔にはまだ幼さが残っていた。
「まあそこへ座りなさい」
牧師は八重子の隣に座り女には向かいの席に座るように優しく声を掛けた。
女は俯き加減におどおどしながら座り暫くは俯いていた。
埒があかないと言葉を掛けようとして女を見ると目立たぬように縫い当てがしてあった。それを観た八重子は言葉に詰まった。
「お名前はなんと仰るのです」
牧師が優しく尋ねた。
「浅沼妙子といいます」
「歳は幾つなの?」
八重子が尋ねた。
妙子の歳が十七と分かり八重子は驚いた。八重子より五つも年下なのに老けて見えた。
八重子はテーブルの上に置かれた妙子の手に視線を移した。途端に彼女はテーブルの下、自分の膝の上に置き直した。八重子の見た彼女の手はひび割れして娘の手ではなかった。
父はなぜ教会に来たのか理由(わけ)を尋ねた。
妙子は重い口調で静かに喋り出した。
「今日は麻布の連隊に行っての帰りなんですが・・・」
妙子は母と兄の三人で小作農をしながら、茨城の田舎で節約してどうにか喰っていけると云うギリギリの生活をしていた。だが一家の働き手である兄が徴兵に取られてからは母と二人で同じだけの畑仕事をやらないといけなかった。一度土地を返すと中々分けてもらえない。土地は返さないのだから今までと同じ小作料を払わねばいけない。
兄の抜けた畑仕事は本当に辛かった。それも除隊まではと歯を食いしばって来ましたが、あの事件のあと兄の部隊は満州への移駐が決まり張り詰めていた気力も抜けて仕舞いました。
昨年は収穫が落ちて肥料費や小作代は嵩みもう二人ではやっていけないと途方にくれました。麻布で兄と面会して移駐を知ってから気が付けばこの教会の前に居ました。
「もう二人の耕作では地主さんへの借金は払えないし、かと云って土地を失えば生活出来なくなるんです・・・」
「それはお気の毒に・・・」
聞き終えた牧師は深く頷いた。
八重子も中原から妙子の様な話は聞かされていた。そして八重子もそれなりに同情を寄せていた。だが実際に当人の切実な話を目の前にして、八重子は中原の苦悩が言葉だけの世界でなく現実として肌で実感すると心に深く浸透した。
二ヶ月前に青年将校たちは彼女ら貧農の心情を汲み、昭和維新を叫び決起したはずなのに結果は裏目に出ている。
「中原さんにお前から掛け合ってもらってはどうかねぇ」
「お父さま、今は何を言っても無理です。だってあの人は憲兵隊も捜しているのですから」
「エッ? 彼は事件とは無関係だろう、彼は決起部隊には加わっていない」
「あのう・・・兄が言ってました。軍隊と云うところはそんなに甘いところじゃないと。一度上層部に決めつけられるとどんなに否定しても無駄だと言ってました。『連隊の名誉が傷ついた。最前線で一死を持って贖罪せよ』と云う空気が隊内に漂っていると言ってました」
妙子は恐る恐る小声で語った。
「そんな無茶な話はない。下士官や兵には関係ない。命令に従っただけでしょう」
牧師の父が口調を強めた。が妙子は同じ調子で尚も語った。
「兄は正義感の強い人でしたから。兄は腐敗した軍部と農村の貧困の為に立ち上がったと言ってました。でもそれは本当なんでしょうか?」
お上の裁きに真実はあるのでしょうかと妙子は訴える様に八重子を見た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます