動乱の彼方へ

和之

第1話

 今年は遅い春を待ちわびたように散り際の桜を見納めにと人々は争って出掛けた。

 ひと月前に起こった青年将校達による騒ぎのせいか、この春は心から浮かれる者はなかった。

 やがて若葉が一斉に芽吹く新緑の爽やかな季節なのに足取りは重かった。春雪を衝いて決起したあの軍靴の足音が人々の耳から離れなかった。

 そんな街角を二人の青年将校が足早に品川の教会を訪ねた。

 開かれたドアから淡いベージュのブラウスに紺色のフレアースカートに細面女性が対応に出た。

 二人の青年将校は硬い表情のまま麻布の歩兵第三連隊前川中尉と葛西中尉と名乗った。彼女は目許に微笑を浮かべて二人を迎入れた。

「八重子さんですね」

 前川中尉が尋ねた。

「はい、そうですが何の御用でしょうか?」

「一寸お邪魔してもよろしいですか」

 と二人は中を窺った。

「はい・・・」

 八重子は二人を教会へ招き入れた。教会の正面には祭壇がありその一隅にテーブルが置かれていた。椅子は四つ備えてあり三人はそこに座った。

「中原中尉をご存じですね」

 前川は頬を緩めてから単刀直入に訊いた。

「はい」

 それが何かと言いたげに八重子は前川を見た。

「実は門限を過ぎても彼だけがまだ隊に戻らないのです。もしかしたら此処へ来て居ないかと思いまして・・・」

「いいえ、お見えではありません」

「本当に此処へは来ていないのですか?」

「ええ。でもあの人の事ですからどこかの酒場で酔い潰れて帰れなくなったのではありませんか」

「まさか、中原中尉に限って、それに我々は近々満州の最前線に出兵する事が決まってます」

「我々は最前線の弾よけなんです」

「葛西、めったなことを云うもんじゃない」

「何故だ! 決起した彼等は逆賊の汚名を着せられ我々にも死ねと云ってるようなもんだ」

「お二人とも何のお話をなさっているんですか。それに私は中原さんとはそれほど親しい仲ではありません」

 八重子は凜として答えた。

「我々はおふたりの仲を知って言ってるンですよ」

 葛西は言葉を荒らげ。前川はそんな葛西を目で制して言った。

「 ご心配は無用です。我々は彼の友人です。それに軍旗祭の折りには仲むつましいお二人を拝見しました」

* * *

 軍旗祭、連隊に軍旗が下賜された日を記念する行事で兵隊は無礼講でお祭り騒ぎになる。この日は民間人も兵営に自由に入れた。中原中尉もこの日に八重子を招待していた。

 もっとも出会いはあるダンスホールだった。

軍帽を深く被って椅子に座っている中原の足に躓き掛けたのである。だが中原は動じなかった。よく見ると彼は寝ていたのである。

「陸軍さんはダンスホールでしか睡眠を取られないのですか」

 海軍の将校が来ることがあっても陸軍は珍しかった。それで踊れもしないのにとわざと不(ぶ)躾(しつけ)な質問をぶっつけたのである。

 此の言葉に失敬なと彼は飛び起きた。

「俺はダンスをしに来たが上手い相手が居ないだけだ」

 と彼は居直った。嘘ばっかりとろくに踊れもしないくせにお目当てはモダンガールの物色と八重子は鼻を明かしてやれとばかりに。

「じゃああたしで良ければお相手させていだたくわ」

と彼を誘ったのがそもそもの事の始まりだった。

* * *

「まァ、ご覧になったのですか?」

「遠くからですが、しかし後で中原中尉からその人が八重子さんだと聞かされました」

「そうでしたの」

 八重子はさらりと聞き流した。

「あの人は律儀な麻布の兵隊さんの中にあっては、なかなか洒落気が有ってモダンな人で、何よりもダンスがお上手でいらっしゃいました。それだけの人です」

「本当にそれだけなんですか?」

「ええ。ああそうそう、一緒に踊っている時はとても麻布の軍人さんには見えませんでしたわ」

 揶揄するように付け加えた。

「真面目に答えて下さい」

 葛西の眼に険悪の視線が混じった。

「それだけの人です。もう帰ってください!」

「八重子さん!」

 葛西は彼女に鋭い視線を浴びせた。

 前川は苛立った葛西を制して、中原の友人で有ることを今一度強調した 。

「我々は軽率な行動をする中原を案じているんです。八重子さん、もし彼が来れば直ぐに連絡してください。憲兵隊の手にかかると少しややこしくなりますので・・・」

「その心配はご無用です。あの人は軽率な事は致しません。必ず信念を持って行動する人ですから」

「軍人である以上は今はその思想が危険なんです」

「思想じゃありません。信念です。あの人の生き方なんです。これは誰も止められません。中原はそう云う人なのです」

「その前に彼は軍人であるべきです」

 ーー一度、八重子は軍人である中原に『貴方にはカーキ色は似つかわしくありません』と云った。彼は笑って『俺は人を騙してまで生きる事は出来そうもない』と答えていた。 

 確かに世渡りの上手な人じゃなかった。だから商人には向かないし手に職も付けられない不器用な人だった。でも筋は通っていたこの二人の軍人より。

 八重子は中原とこの二人の相違点を見極めるとこれ以上話し合うことの無意味さを感じ取った。

「分かりました」

 八重子は感情を押し殺して告げると二人は教会を去った。

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