科学喫茶と蒸留思考

「今日はどうしたの」

 いつも通り、午後四時過ぎに科学喫茶『C3-Lab』にやってきた七ツ森ななつもり夏乃佳かのかは、いつも以上に機嫌が良い様子だった。椅子から落ちてしまいそうな勢いで、身体を左右に揺らしている。床に届いていない足も、前後に揺れていた。パターンを観察するに、身体を左右に揺らすと、反対側の足が出るように連動しているようだった。

「今日はですね、お父さんとお母さんとお夕飯なんです!」

 ふんふん、と鼻歌を漏らしながら、夏乃佳は上機嫌で言った。

「そうなんだ。良かったね」

「はい!」

 店主の猫目ねこのめ緋子ひこは、現在、夏乃佳用のオレンジジュースを用意しているところだった。用意と言っても、ビーカーに氷を入れて、瓶に入ったオレンジジュースを注ぐだけだが、全ての計量が正確であるため、実験をしているように見える。

「じゃあ、今日は何も食べない?」

「はい! 今日は、お母さんの手作りカレーなんですよ」

「そうなんだ。すごいね」

「すごいんですよー。お母さんのカレーは」

 おナスが入ってるんですよー、と言って、夏乃佳はまた嬉しそうに揺れだした。なんだかこっちまで幸せな気持ちになるな、と、緋子は夏乃佳を見ながら思う。

 金曜日だった。平均して、夕方以降の客入りが悪い曜日だ。駅前の喫茶店などであれば、あるいは待ち合わせなどに利用されることもあるのかもしれないが、住宅地に近い科学喫茶では、そのような傾向は見られない。

「はいどうぞ」

「ありがとうございます」

 夏乃佳は美味しそうに、オレンジジュースをストローで飲み始める。夏乃佳が揺れすぎているので、ビーカーからオレンジジュースが溢れそうだった。

「じゃあ、今日はお母さんが迎えに来るの」

「そうなんです! だから今日は、それまで良い子で待ってるんですよー」

「そうなんだ。えらいね」

「えへへー」

 満面の笑みを浮かべる夏乃佳を見ながら、緋子は、今日の夕飯をどうするか、ということを考えていた。

 夏乃佳の両親は仕事の都合で連日帰りが遅いため、一ヶ月のうち、平日の七割くらいは緋子が夏乃佳の面倒を見ていた。その分の報酬はちゃんともらっているし、父親もそれを認識しているので、これは仕事と言っても差し支えはないだろう。夏乃佳が小学一年生の頃から同じ生活をしていて、つまり緋子は、夏乃佳のベビーシッターのようなものだった。

 七ツ森家には、両親のどちらかが必ず、午後七時までには帰宅するような取り決めがあるらしい。しかし、それから夕飯の支度をすると夕飯の時間が遅くなるし、かといって外食ばかりというのも、子どもの育成として何らかの問題があると考えているようだ。もちろん親子で過ごせるのが一番だが、両親共に替えの効かない立場であるため、現実的には難しいようだ。夏乃佳の祖父母に当たる人物について、緋子は詳しい情報を聞いたことがないが、恐らく近所には住んでいないのだろうと推察される。

 そういうわけで、科学喫茶を閉めたあと、夏乃佳は緋子の作った夕飯を食べて、二人で七ツ森家まで帰るのが日常だった。もっとも、緋子が夕飯を作るのが面倒な日は、二人で飲食店に行き、夕飯を食べてから帰ることも多々ある。これは、夏乃佳の両親は知らない情報だ。全体のうち、二割にも満たない回数であるから、容認してくれることだろう、と緋子は勝手に考えている。

 既に、夏乃佳の母親である冬子とうこがカレーを仕込んでいるのだろう。そうなると、緋子は一人で夕飯を済ませなければならなくなる。弟の蒼太そうたがいれば一緒に食べるのだが、今日は朝から姿を見ていなかった。お互い、極力プライベートには干渉しなようにしているため、どこに行っているのかを緋子は知らない。蒼太はよく、「集会」という言葉を使っているが、実態はわからない。犯罪には無縁だと言っていたので、緋子はそれ以上は追求しないようにしている。

 一人で夕飯を食べに出ても良いし、店で軽食を作ってそれで済ませても良い。緋子は一人で夕飯を食べることに寂しさを覚えるような性格でもなかった。だが、特にイベントらしいイベントもなく、当たり前のように過ぎてしまった一週間の締めくくりとしては、変に寂しい気持ちもあった。土日は店が混むため、ゆっくり出来るのは、金曜日の夜くらいなものなのだ。そこをスルーしてしまうのは、ちょっとだけ、胸騒ぎに近い感情が顔を出す。

 まれに発生する、アンニュイな感情が、緋子を支配しそうになる。

 もちろん、それを表に出すようなことはない。

「今日は貸し切りですねー」夏乃佳は店内を見渡しながら言う。「緋子先生といっぱいお話出来るから嬉しいです!」

「そうだね」

 午後四時半過ぎ、客は夏乃佳の他には誰もいなかった。と言っても、経営に影響があるような状態ではない。一日単位で見れば、確かに今日の売上はあまりかんばしくなかったが、一週間単位で見れば、平常通りだ。

 普段なら、夏乃佳に賞味期限がせまったチョコレートケーキでも出すところだが、家族で囲む夕飯を楽しみにしている夏乃佳にそのような提案は出来ない。かと言って、一人だけ食べるというのも変な感じだ。緋子は三角フラスコに残った珈琲を一口飲む。そう言えば、今日は昼食は抜いていたんだっけ。意識したからか、空腹度が増したような気がした。

「今日は、学校はどうだった?」と、緋子は尋ねる。沈黙を回避するための、お決まりの質問だった。

「今日はですねえ、六年生のお兄さんが交通事故にったから、車には気をつけましょうって帰りの会で言われました」

「あそう。物騒だね」

 交通事故というワードから、何かが連想されそうな気がしたが、具体的には思い出せなかった。前にもそんな事件があった気がする。ニュースで見たのか、ネットで見たのか、それともまた別の話だろうか。子どもが犠牲になるニュースが多すぎて、最近、感性が麻痺しているような気がする。

七佳なのかも気を付けてね」

「はい!」

 言わなくてもわかってはいるはずだが、会話の流れとして、そう言っておいた。幽体離脱体質の夏乃佳は、必要以上に危機管理が出来ているはずだった。例えば、歩行者用信号が青であっても、横断歩道の途中で意識が飛ぶ可能性もあるのだ。

「じゃあ、お客さんもいないし、何かゲームしようか」

「はーい!」夏乃佳は大きく手を挙げる。「私はオセロが良いと思います!」

「いいよ」緋子はカウンターの下部に置かれた箱から、小さなオセロセットを取り出した。

「今回は、多分、半分くらいひっくりかえせる気がします」

「そうなんだ。がんばってね」

「はい!」

 スツールを移動させ、夏乃佳と向き合うような位置に陣取り、カウンターにオセロボードを置いた。大人には少し扱いづらいサイズだったが、夏乃佳には丁度良さそうだった。


 ◇


 ドアベルが鳴り、客のおとずれを告げる。緋子と夏乃佳は、反射的に出入り口に視線を向けた。午後六時前だった。オセロゲームは三回戦に突入している。前二戦は緋子の圧勝で、現在の戦況も、緋子が有利だった。

「お母さん!」

「夏乃佳、お待たせ」

 店にやってきたのは、夏乃佳の母親の冬子だった。夏乃佳は椅子から飛び降りると、冬子の足に思いきり抱き着く。冬子も、自然な動作で夏乃佳の頭を撫でていた。とても親子らしい仕草だと、緋子は観察する。

 冬子は仕事帰りそのものという雰囲気だった。長い髪をポニーテールにしていて、皺一つないスーツを着ている。眼鏡のフレームが半分赤く、そこにだけ遊びが見られた。実年齢の割にひどく若く見えるため、就職活動中の大学生と言われても、ほとんどの人間が信じることだろう。全体的な評価をすると、足元に張り付く少女の母親だとは、誰も思わないはずだ。自分よりも若く見えるんじゃないか? と、緋子は世界の理不尽さをなげきながら、思う。

「いつもありがとう、緋子。遅くなっちゃった」

「とんでもないです」自分の駒を置き、白い駒を三つ反転させる。「冬子さん、今日はすぐに帰るんですか?」

「ええ、今日は車で来ているから」

 科学喫茶には契約している駐車場がなかったため、恐らくは、店の近くに路上駐車しているのだろう。緋子は珈琲でもと考えていたが、住宅地の車道はそんなに広くはないため、長時間の駐車は迷惑になるだろうし、店の評判に影響しないとも限らない。名残なごり惜しいが、今日は引き止めないことにした。夏乃佳の楽しみを奪うのも、忍びない。

「今日は閑古鳥かんこどりが鳴いてるのね」冬子が店内を見渡しながら、言う。

「金曜の夜は、いつもこんな感じですね」

「忙しすぎるより、よっぽどいいじゃない」冬子は優しく微笑む。「じゃあ、夏乃佳、帰ろっか」

「はあい」

 夏乃佳は普段より、少し幼い感じの声を出した。母親に甘えている、というよりは、きっとこちらが素なのだろう。普段が、他人に気を使いすぎている節がある。

「来月は少し休めそうだから、土日にでも、家族で来るつもり。旦那も連れて」

「夏休み、取れるんですか?」

「ええ、一週間くらいは。家族水入らずの予定なの」

「よかったね」緋子は、夏乃佳に向けて言う。「お待ちしています」後半は、冬子に向けられた言葉だった。

「じゃあ、またね。本当に、いつもありがとう」

 冬子は夏乃佳を引きはがすと、その小さな手を握った。夏乃佳が嬉しそうに、にぎられた腕を勢い良く振る。冬子もそれに、自然に付き合っているようだった。

「ほら夏乃佳、お姉ちゃんにおやすみなさいは?」

「お姉ちゃんって」緋子は苦笑いしながら冬子を見る。「冬子さんと一歳違いですからね」

「緋子先生、おやすみなさーい!」

「おやすみ、七佳」緋子は普段通り、自然な笑顔で手を振った。

「それじゃ」

 余韻を残していたドアベルが、再び軽やかな音を立てる。

 冬子と夏乃佳が去って行くと、店内は静けさに包まれた。今日はこのまま店を閉めても問題がなさそうだ、と緋子は考える。

 科学喫茶には定休日という概念がいねんがなく、また、閉店時間もある程度ランダムだった。決まっているのは、午後六時半にラストオーダーとなるとういことだけ。客がいない場合はそのまま閉店する。最終閉店時間は、一応は午後七時ぐらいを想定しているが、一時間ほどのバッファがあった。もちろんそれは、夏乃佳がいない場合である。夏乃佳の夕飯を用意する場合は、六時半には極力店じまいすることにしている。

「さて」

 緋子は、一人きりになった店内で、珍しく独り言を呟いた。オセロボードを片付ける気にもならない。何とも言えない、寂しさのようなものが周囲を浮遊している。これから何をしようか、という、気合いを入れるための独り言だった。

 いや、寂しさではないはずだ。こういう静かな生活こそが、緋子の求めるべき日常であった。だから緋子は一人で喫茶店を営んでいるわけだし、家族を持とうとも考えていない。わずらわしさとは距離を置き、時折訪れる知人を受け入れる。あるいは、新しい知人を作る。回転する多角形同士のような関係が理想だ。円が触れ合い続けることや、共有部分を持つほどの交わりを求めているわけではない。例えば四角形の緋子と、八角形の誰かが、異なる速度で回転したとして、たまに頂点同士が触れ合う。それくらいの関係性が良い。毎日一緒だと、飽きてしまう。もちろん、蒼太や夏乃佳という例外もいるが、彼らにしてみても、四六時中一緒に居続けるわけではない。だからこれは、緋子の望むべき夢の暮らしであり、そこに何の不満もなかった。

 それでも稀に、一人だな、と感じることがある。それはただの事実でしかないのに、不思議と、一人だな、と思う。それ以外の言葉では、この状況を説明することが出来ない。ああ、今、一人だな。そういう気持ちに、突然襲われる。寂しさでも、喪失感でもない。数を数えるだけの時間だ。

 仮に客が来ないとしても、緋子はこのまま店を閉める気にはなれなかった。店を閉めた瞬間に、今日の役目が終了してしまう。別にそれでも構わないのかもしれないが、何故だかすぐには決断出来なかった。夏乃佳が残していったビーカーを手に取り、食洗器のカゴに置く。夏乃佳が使っていた側の駒を持ち上げて、盤面に置いた。少しだけ、白の数が増える。しかし、この行為の結末を予測して、すぐに手を止めた。駒を片付け、オセロボードも片付ける。来客はなく、静かな時間だった。

 あと三十分程でラストオーダーの時間になる。閉店間際に滑り込みで来る客は少なく、遅い時間に常連客が訪れることもまずない。金曜日であれば尚更だ。緋子はカウンターを出て、店内の掃除を始めた。いつもより念入りにテーブルの表面を拭き、床を掃く。もちろん、毎日徹底した清掃を行っているつもりだが、今日は必要以上に意識を高めて掃除にのぞんでいた。

 六人掛けのボックス席には、三人用のソファが二つ向かい合って配置されていた。それを動かして、普段手の届かない場所まで掃除する。久しぶりにソファを移動したら、ソファの脚に蜘蛛の巣が見つかった。施工せこう主はどこにいるのだろうかと探してみる。小さな塊が動いていたが、それが犯人かは疑わしい。それでも緋子は蜘蛛をチリトリに取ってから、店の外に逃がした。

 観葉植物に水をやり、試験管の中身の補充や、紙ナプキンの補充を行う。窓ガラスを拭き、水場周りも普段以上に綺麗に片付けた。在庫点検も行い、不足分をメモ書きする。それらは全て、普段は閉店後に行っている作業だった。集中していたせいか、時間経過が早く、全ての作業が終わる頃には、ラストオーダーの時間を過ぎていた。

「……よし、やるか」

 緋子はまた独り言を呟いた。すぐに店の受話器を手にし、仕入先に電話を掛ける。電話の相手が店名を名乗ったあと、緋子は一方的に注文を告げて、受話器を置いた。無駄のない、いつもの注文方法だ。

 緋子はドアを開けて外に出ると、掛札を、オープンからクローズに裏返した。しかし、内鍵は掛けない。カウンターに戻り、戸棚を開ける。ガラス戸ではないため、客からは中が見えないようになっているタイプの戸棚だ。

 緋子はいくつかの瓶と、シェーカーを取り出した。照明を半分落とし、BGMを変える。普段は、朝はクラシックを、昼過ぎからはジャズを掛けることにしている。今流れているのは、スムースジャズだった。普段よりも、少しだけ音量を上げる。薄暗い、隠れ家のような雰囲気が出来上がった。

 メスシリンダーにアルコールを注ぎ、計量する。それらの液体と、シロップや、ジュース、そしていくつかの氷をシェーカーに加えた。緋子は今、カクテルを作ろうとしている。これは仕事としてではなく、趣味でやっていることなので、計量以外に関しては適当な部分が多かった。シェーキング技術に関しても、お粗末そまつなものだ。それでも両手でシェーカーを持つだけで、見た目だけは十分にバーテンダーらしいスタイルになっていた。店内に、氷が打ち付けられる音が断続的に響く。

 緋子は混合された液体を、普段はあまり使われないカクテルグラスに注いだ。これがなんというカクテルなのかは分からない。つまり、名前のないカクテルである。毎回、その時の気分で、様々なものを混ぜ合わせて作っている。その量を正確に測り、割合をメモしている。奇跡的に美味しいものが出来上がれば、おんの字だ。いつかはそのカクテルに、店名を付けようと考えていた。夢という程ではないし、それが目的でもないが、そういう密かな計画が、緋子にはあった。自分のためのカクテル。素敵な響きだ、とうっとりしそうになる。

 出来上がったカクテルを一口飲んでみる。まあ、悪くはないけれど、それほど美味しい感じもしなかった。どこかで飲んだことのあるような、平凡な味だ。

 カウンターに頬杖を付き、遠くを見ながら、アルコールを味わう。緋子はあまり、アルコールに耐性がある方ではない。だが、歳相応にはたしなんできた。お酒の楽しみ方は分かっているつもりだし、酔うのは好きだった。思考力が低下して、笑いの沸点が下がる。悲しみに見初みそめられている時は、無理をしてでも笑っているのが一番だった。

 いつ頃まで、鍵を開けていようか。緋子はぼんやりと、ドアを見つめる。誰か来るだろうか、と考える。どちらでも構わないが、来るなら来い、という気持ちだった。少なくとも、注文した品が届くまでは、来客を待つつもりである。もし誰か客が来るようなら、楽しい夜になるんじゃないか、という期待もあった。


 ◇


 腕時計を確認して、鳩川はとかわ文帖ぶんちょうは小さく溜息をついた。既に、午後七時を過ぎている。

 つい最近働き始めた会社は、定時が午後六時となっていたが、大体、会社を出るのは午後七時という有り様だった。業務以外の雑務が多いし、定時を過ぎてからの業務連絡も連日行われている。職場内では作業着で仕事をしていたので、着替えの時間も必要だった。行きつけと言える喫茶店のラストオーダーは午後六時半と聞いていたので、やはり仕事帰りに寄るのは難しそうである。

 彼には、つい数日前に、再就職後初の給料日が来たばかりだった。と言っても、働き始めてすぐであるので、一週間分くらいの給与である。それでも、今の鳩川には大金と言えた。七月も後半に差し掛かろうとしているため、午後七時の気温はまだ夏を感じさせた。浮き足立った夜の街を歩いていると、せっかくの金曜日なのだから、どこかで一杯ひっかけたい、という気持ちが芽生えてくる。

 どこに行こうか、と思案していると、ふいに行きつけの喫茶店が夜間にバーをやっているという話を思い出した。金曜日の夜は、営業の可能性が高い、とも言っていた気がする。鳩川はもう一度、腕時計を見た。一か八かの賭けになるが、行ってみる価値はあるかもしれない。普通に閉店していたとしても、大した問題にはならないだろう。どうせ、明日は休みなのだから、ちょっと散歩をしたと思えば良い。鳩川は進路を変え、科学喫茶に向けて歩き出すことにした。

 ふいに、鳩川の前を、大きな影が横切った。時計を見つめていたせいで、前方に注意を払っていなかった。鳩川は立ち止まり、視線を上げる。ぶつかりこそしなかったが、危ないところだった。

「すみません」と、ごく小さな声で言う。ほとんど息だけが吐かれた形だ。

「おや」

 そのまま歩き続けようとしたが、相手から反応があった。いちゃもんをつけられたかな、と思う。自分の悪さは自覚しているので、怒られたらもう一度謝らなければならない。鳩川は怯えながら視線を上げて、相手を見た。

「やっぱり、鳩川さんでしたか」

 鳩川の顔見知りの青年だった。猫目蒼太という名前の若者である。鳩川の行きつけの喫茶店で、軽く話をする程度の付き合いがあった。鳩川は彼を、店主の弟だと認識している。今日は黒っぽい服装で、ラフな感じがあった。蒼太は背が高いため見栄えが良く、服も高級ブランドなのではないかと疑いたくなった。

「ああ、どうも……これは失礼しました」

「お仕事帰りですか」蒼太は鳩川の全身を見てから言う。彼がスーツ姿だったため、そう判断したのだろう。「お疲れ様です」

「ええ、どうも。そうだ、私ちょっと前に、ようやく再就職しまして。以前、忘れた名刺を持ってきていただいた会社です。覚えてます? それ以来のご無沙汰ぶさたですよねえ、確か」

「ああ、ありましたねえ、そんなことが」蒼太は懐かしむように言った。「そうか、じゃあ久々に労働して、ようやく金曜日って感じですね。今日は花金はなきんじゃないですか。どこかに飲みに行かれるところだったんですか?」

「そうですね……実は、お恥ずかしながら、そちらにうかがってみようかと思っていたんです。あの、以前、夜にバーをやっていると伺ったことがあるものですから」

「ああ、うちですか。なるほど……じゃあ、一緒に行きましょうか? 私もちょうど、家に帰る途中だったんですよ」蒼太は言って、鳩川の横に並んだ。「せっかくだし、もし開いてなくても、私が開けますよ。鳩川さんの再就職祝いということで、一杯ご馳走させてください」

「あなたが、バーを開けてくださるんですか?」

「ええ、一応、一通りの対応は出来ます。それに、商売ですから、姉に止められるいわれもないです」

「いやいやそんな、ご馳走になんてなれませんよ」

「安心してください。一杯目以降は、しっかり営業しますから」

 そう丁寧に説明されると、鳩川としては断る理由はなかった。同時に、自分は今、キャッチに捕まったようなものなのではないか、とも考えた。冷静になってみると、酒が飲みたいだけであれば、スーパーで発泡酒でも買った方がどう考えても安上がりだ。でも、家に帰っても一人きりだという現実もある。だったら、少し苦手意識があるけれど、この青年と会話をしていた方が有意義なのではないか、という期待が膨らんだ。なぜこの青年に若干じゃっかんの苦手意識を持っているのかは、実は鳩川はよくわかってはいないのだが。

「ちなみに鳩川さんは、どういうお酒がお好きですか? ビールだと、在庫があるか分からないんで、途中でどこかに寄らないといけないかもしれません」

「私はウイスキー党です。ハイボールとか、そういうのがあると嬉しいですね」

蒸留じょうりゅう酒ですか。だったらありますよ。ああでも、やっぱりどこかで買い出しはした方が良いかもしれないな。うちの店は、アルコールもそうですけど、酒のつまみになりそうな塩気のあるものが少ないので。姉はつまみというものを食べない人間だから、用意が悪いんですよね」

「あの、私、本当にお邪魔してよろしいんですか? もし、普通に店じまいしていたら、やっぱりご迷惑なんじゃないですかね」

「いえいえ、大丈夫ですよ。閉店後に、私が知り合いと店を使うこともありますから。家具の配置を変えたり、無断で店のものを飲んだり食べたりしない限り、怒られません。姉のいない間に商売していれば、むしろ褒められるんじゃないですかね?」

「そういうものですか」鳩川は恐縮しながら、蒼太の隣を歩く。

「まあ、行ってから考えましょう。でも今日は多分、やってると思いますよ」

「今日が金曜日の夜だからですか?」

「いや、今夜の鳩川さんは縁起が良さそうだからです」

「どういうことですか?」

「さあ」蒼太はとぼけたように笑って、「非科学的なことを言ってみました」と言った。


 ◇


 ドアベルが鳴り、客が入ってくるのが分かった。緋子はカウンターの内側で、スツールに腰を下ろしていた。二杯目の実験シェーキング検査テイスティングが終わり、三杯目を作るか、あるいは商品の到着を待つか、と考えていたところだった。

 現れたのは、女性客だった。緋子はすぐに名前を思い出す。二階堂にかいどうという名前だ。下の名前は聞いていないと思う。アルコールによる一時的な記憶喪失は起こっていないようなので、まだ酔っていないな、と緋子は判断する。もっとも、顔を見てから名前を思い出そうとすること自体、普段通りではないことに、緋子は気付いていない。

「やってます、よね」と、二階堂という名の女性客は言う。「えっと、もうバーになってます?」

「どうぞぉ」緋子は緩やかに言った。

「ああ、もう酔ってらっしゃる」二階堂は控えめに笑って、店に入った。

 彼女は昼間の喫茶店にはあまり来ない、モーニングとバーの常連客だった。出社前にモーニングを食べながら、スマートフォンを見ていることが多い客だ。週のうち、三日以上は平均して訪れる。いつも、朝は言葉少なではあるが、注文の仕方が丁寧で、好感が持てる。礼儀正しい女性だと、緋子は認識していた。かっちりとした服装をしていて、今時の若者にしては、いくらか真面目に見える、という印象だった。多分、緋子よりも、五歳くらいは若いはずだ。もしかすると、二十代前半かもしれない。顔を合わせるようになって、もう二年くらい経つことだろう。

「ビール、ありますか?」二階堂がカウンター席に座り、尋ねる。

「まだなんだよねえ」緋子もスツールに腰を下ろし、空になったカクテルグラスの口を指先でなぞる。「もうちょっと待ってもらっていもいい?」

「もちろんですけど……緋子さん、カクテル、何杯飲みました?」

「うーん……二杯かなぁ、二杯だった気がする。一杯ってことはないね、間違いなく。だってグラスが二つあるもの」緋子は自分で言って、少し笑う。

「緋子さん、お酒弱いのに好きですよね」二階堂はそこで、また笑顔を浮かべた。「今日のカクテルは、美味しかったですか?」

「うーん……そうだね、そこそこ。ハンバーガーくらいは美味しかった」

「よくわかりませんね」

「あ、どうする? 『二階堂スペシャル』ならすぐに作れるけど」

「いえ、大丈夫です。ビールの到着を待ちます」二階堂は笑顔で応える。「そう言えば、あれを超えるカクテルは、まだ完成しないんですか?」

「うーん、ダメだねえ。何故か、初めてのお客さんに出すカクテルは美味しいんだけど、続かないんだよね」緋子は残念そうに言った。「他のお客さんに出したものでは、いくらか増えたんだけどね、美味しいやつ」

「頑張ってください」

「頑張るよお」

 二階堂が酔っ払いつつある緋子を眺めていると、また来客があった。二人はドアに視線を向ける。店に来たのは、大柄の老人だった。両手に、木製のカゴを二つげている。それは、丸いカゴの中に十字の仕切りがあり、瓶ビールが四本ずつ入れられるような珍しい構造をしていた。カゴが二つあるので、全部で八本の瓶ビールということになる。

「あ、古樹ふるきさん、いつも突然すみません」緋子は立ち上がり、カウンターから出る。二階堂に接する時よりも、いくらか口調に緊張感があった。

 老人は軽く頭を下げ、カゴをカウンターに置いた。一本ずつ、ビール瓶を取り出していく。そして最後に、薄い紙を置いた。領収証らしく、分かりやすい位置に『古樹酒店』と書いてあった。緋子は小さい金庫から紙幣と硬貨を取り出し、老人に手渡す。これはどうやら、突発的な仕入れのやりとりであるらしい。

「お店はもう閉めました? バイクじゃないですよね」と、緋子が尋ねる。「良ければ一本どうですか? ご馳走しますよ。というか、ギャラリーになってくれません?」

 老人は無言で被っていた帽子を脱ぐと、顎を引いた。肯定の意味だろう。そして、入り口付近のカウンターに腰を下ろす。そこは普段、夏乃佳が利用している席だった。

「二階堂さん、ビール来たよー」緋子は瓶ビールを六本冷蔵庫にしまい、代わりに冷やしてあったビーカーを取り出す。「どうぞ」そして、瓶の栓を抜いて、カウンターに置いた。

「ありがとうございます。あとは何か、おつまみってありますか?」

「うーん、今日は、ナッツとか、チーズかなあ。適当に出すね。ケーキもいくらか残ってるから、欲しかったら言ってね」

 緋子は同じ動作を、老人に対しても行った。老人は一言も喋らず、黙って瓶とビーカーを受け取り、軽く頭を下げる。そして、静かに手酌てじゃくを始めた。

「緋子さんは、ビールは飲まないんですか? それとも次のカクテルですか?」

「ううん……そうだね、飲もうかな。でも太るんだよね、ビール。どうしよう。ああ、美味しそう……やっぱり飲もうかな」冷蔵庫に入れたばかりのビール瓶を、再び取り出す。冷えたビーカーもセットだ。「飲みすぎると酔っちゃうから、控えめにしないといけないんだけど。それに、チャンポンになっちゃいそうだし……控えめにね。酔うとろくなことがないから、私」

「もう、酔ってますよね」二階堂が笑って言った。「はい、乾杯しましょう」

「そうだね」

 緋子と二階堂が、ビーカーを軽く打ち合わせる。それを確認してから、老人がやっとビーカーに口を付けた。


 ◇


 鳩川と蒼太は喫茶店に向かう途中、スーパーに寄っていた。蒼太が仕入をしていく、と言い出したためだ。鳩川もただ待っているのは手持ち無沙汰だったため、ヘパリーゼを一つ買った。これは、アルコールを飲む前に服用しておくと、翌日の二日酔いのダメージが激減するという、社会人にとって重要なアイテムであった。

 鳩川は蒼太が会計をしている間に店を出て、ヘパリーゼを飲み干したあと、自販機のゴミ箱に捨てた。なんだか、工場で働いていた頃を思い出す気分だった。これから酒を飲むのだ、という、強い意志が感じられる。飲み会の直前などは、同僚で集まって、ワイワイと騒ぎながらヘパリーゼを飲んだものだ。

「鳩川さん、そんなに飲む気なんですか?」レジ袋を提げて店から出来てた蒼太が言った。「二日酔い対策バッチリですね」

「いや、私、割と年齢が行っているので、飲んでおかないと翌日が辛いんですよ」と、鳩川は弁解する。「三十を超えますとね、あなたもわかるようになります。まあ、飲まなければ良いのかもしれませんが」

「肝に命じておきます。まあ、私はあまりお酒は飲みませんけどね」

「え、そうなんですか? 意外ですね」

「嗜む程度には飲みますけどね。これでも人間なので」

「大人なので、じゃなくてですか」

「構造的な話です」蒼太は言う。「人間ですから、多少アルコールを飲みすぎても死んだりはしません。毒というわけではありませんから、ちゃんと分解してくれます。でも、あまり好んでは飲みませんね」

 もっと遊んでいそうな青年だと思ったが……と、鳩川は蒼太を見ながら考える。彼は思っていた以上に、真面目な青年なのかもしれない。鳩川は彼を得体の知れない人間だと思っている節があるが、実は自分の方がよっぽど破天荒はてんこうな人間かもしれない、思い直す。少なくとも、自殺未遂という過去がある時点で、鳩川はかなり特異とくいな人種と言えるだろう。普通ではない。

 その後、目立った会話もないまま、二人は科学喫茶を目指した。鳩川がレジ袋を持とうとしたが、やんわりと断られたくらいで、会話らしい会話は発生しなかった。

 住宅地に入ると、遠くからでも、科学喫茶の明かりを見ることが出来た。「やっぱり、やってましたね」と、蒼太が鳩川に言う。そこには喜びも、自慢げな雰囲気もなかった。

 ゆっくりと、蒼太がドアを開ける。

「あれえ、蒼太じゃあん」二人が店に入るなり、カウンターの中から緋子が声を上げた。「わあ、鳩川さんもいる。こんばんはあ」言いながら、大仰おおぎょうに手を振った。鳩川にはそれが、飲み会から帰宅する際、二次会に行くメンバーに対して、別れを告げる時の手の振り幅に思えた。

 鳩川は怪訝けげんそうに蒼太を見上げる。何か、自分にだけおかしなことが起きているのではないか、ということを確認するための視線だった。

「あ、思い出した! 蒼太に何か聞こうと思ってたんだ……なんだっけ? 七佳に関係してたような……えっと……なんだっけ。蒼太、覚えてない?」

「知るか」蒼太は言ってから、鳩川の視線に気づき、「ああ、鳩川さんはバーは初めてですよね。姉は酔うとこうなんです」と小声で伝えた。

「こう、ですか」鳩川も小さな声を出す。それ以上は何も言えなかった。

 店内には、鳩川の記憶にない客が二人いた。一人はOL風の女性で、線が細く、背が高そうに見えた。眼鏡越しに見える目も細いが、どこか知的な雰囲気があり、仕事が出来そうだな、という印象を鳩川に与えた。

 もう一人は老人だった。彼は体が大きく、表情から推察される年齢にしては、筋肉質に見えた。体を動かす仕事をしているのかもしれない。そういう、強さみたいなものが、オーラとなって解き放たれているように見える。

 二人とも静かに酒を飲んでいる様子だったため、一人騒がしい緋子のテンションだけが、異常に見えた。

「どうぞ、こちらに」蒼太は鳩川にカウンター席を勧め、カウンターの中に入っていく。女性客の二つ隣の席だった。「お、ビールもあるみたいですけど、どうしましょう。ハイボールで良いですか?」

「ええ、ハイボールでお願いします」

「鳩川さん、どうもぉ」緋子がカウンターの中から鳩川を見て言う。

「はい、こんばんは」

「今日はスーツですね。どうやら……私の推理が正しければ、就職されました?」

「え? ええ、そうですね。二週間ほど前から……」普段と違う緋子の様子に、鳩川はたじろぐ。「ああそうだ、忙しくて、お店に顔を出せてなかったんですよ。お世話になったので、報告しようと思っていたんですが」

「そうだったんですかあ。ふうん。そうですねえ」緋子はうんうん頷いた。「会社づとめは大変ですよねえ、時間は取れないし、人間関係は面倒だし、上司は鬱陶しいし……」

「ええ、そうですね……」鳩川は、普段の緋子とのギャップに戸惑とまどっている様子だった。

「あのさ、働かないなら、カウンターに座っててくんない? お客さんとして」蒼太が言う。

「なに? お姉ちゃんになんてこと言うのあんた」

建設けんせつ的な意見を言ったつもりなんだけど」

「ここは私の店よ」

「あー、はいはい。おおせの通りに」蒼太は手を広げて、肩をすくめる。

「相変わらず、仲がよろしいんですね」と、鳩川が口を挟む。

「でしょう?」緋子が何故か嬉しそうに言った。

 蒼太はジョッキに氷を入れて、ウイスキーを二割ほど注ぎ、さらに炭酸水を加えた。炭酸水は、市販のペットボトル入りのものだった。先程スーパーで買ったものだ。五百ミリリットルのサイズで、赤いラベルが貼ってあった。

「ねえ、実験しなさいよ」緋子が言う。「重曹もクエン酸もあるんだから」

「いや、どんだけ手間なんだよ」蒼太は作業をしながら、緋子を見ずに言う。

「ケミカルラボなのよここは」

 緋子のあまりの変わりように、鳩川は不安になって、他の客に視線を向けた。二階堂と呼ばれた女性客は、うつむいているように見えたが、どうやら笑いをこらえているように見える。老人に関しては、身動き一つせずに岩のようにたたずんでいた。昼の科学喫茶とは、まったくおもむきが異なってしまっている。しかも、鳩川が想像していたような、おしゃれなバーという雰囲気がない。いや、照明が薄暗く、BGMもシックな感じではあるのだが……バーというより、場末ばすえの飲み屋といった方が、あるいは正しいのではないかとさえ思えてしまう。多分、店主のせいだろうが。

「姉は無視してください」蒼太はそう言いながら、鳩川にハイボールのジョッキを差し出す。反対側の手には、真っ白な液体で満たされたグラスを握っていた。「再就職、おめでとうございます」そして、グラスを差し出す。

「これは……ありがとうございます。乾杯、でいいんですか」

「ええ、乾杯です」

 二人はグラスを軽く交わして、液体を二割ほど飲む。ハイボールは思ったよりも濃い目に作ってあるようで、飲み込むと、体内にアルコールが染み込んでいく感覚があった。おじさんくさいと思いながらも、鳩川は、ふう、と息を吐くのが我慢出来なかった。

「それは、何のお酒ですか?」鳩川は蒼太のグラスを指差して尋ねる。

「これは、ミルクです」

「ミルク」

「別名は、牛乳と言います」

「あ……ただの牛乳ですか。そういえば、牛乳を飲んでからお酒を飲むと、酔いにくくなるんでしたっけ。昔そんな話を聞いたことがあります」

「そうなんですか?」

「あれ、違いましたっけ?」

「いや、私は好きで飲んでるだけですよ」蒼太はもう一口、ミルクに口をつける。「成長期なもんですから」

「これ以上成長するおつもりですか」

「出来れば、身長は二メートルくらい欲しいですね」

「あの……」

 鳩川と蒼太は、会話を止めて視線を動かした。声を発したのは、先ほど笑いを堪えていた女性客のようだった。蒼太は軽薄に手をひらひらと動かし、親しみのある笑顔を浮かべている。鳩川は恐縮しているのか、軽く会釈をした。もしくは、うるさくしてすみません、という意図だったのかもしれない。

「あの、私、二階堂と申します」女性客は名乗り、頭を下げる。「はじめまして」

「ああどうも、こんばんは。鳩川文帖ぶんちょうです」

「二階堂さん、久しぶり」蒼太は相変わらず軽薄な受け答えをする。

「はあい」二階堂は嬉しそうに、蒼太に熱い視線を送る。「ああ、えっと、すみません、ちょっと気になったもので。あの、牛乳を飲むと酔いにくくなるって、確か、迷信ですよね……って、お二人の話を聞いてて思っちゃって。突然話しかけて、ごめんなさい」

「え、そうなんですか?」鳩川が言う。

「私も詳しく知ってるわけじゃないんですけど、科学的には証明されていないって、どこかで見たことがあって。あ、いえ、あの……だからどうということではないんですけど。会話の入り口として、言ってしまいました。お話に混ざりたいな、と思って」

「ああ……そうだったんですか。へえ……私、てっきり先人の知恵だと思っていました。学生の頃に先輩から聞いて、それからずっと……もう二十年近く信じてましたね。なんでも、牛乳を飲むと胃に膜が張られるから、酔いにくくなるんだと」

「非ぃ科学的な話ですね」ふいに緋子が口を挟む。「牛乳が胃に膜を張ったとしても、アルコール吸収を阻むことはありませんよ。ゴアテックスでもアルコールは通します。多分」

「なんて?」蒼太が言うが、緋子は答えない。

「そうなんですか……じゃあもしかして、ヘパリーゼも効かないんですかね」

「ヘパリーゼ?」今度は緋子が尋ねる。

「お酒を飲む前に飲むドリンクです」二階堂が答えた。「ウコンの力とか、そういうのです。知りませんか?」

「知らない」

「まあ別に、どっちでもいいんですけどね」と、蒼太が言って、またミルクを口にした。「お酒を飲むつもりはないので。飲んだとしても、グラス一杯程度かな」

「飲みなさいよお。せっかくバーなんだから。そうだ、あとでカクテル作ってあげようか? 今日はなんか、美味しいのが出来る気がする」

「うっぜえ」

 姉と弟の小競こぜり合いに、鳩川と二階堂が顔を合わせて笑う。ああ、こういう感じは良いな……と、鳩川は感じていた。笑い合う相手が、若い女性だったからではない。もし相手が老人であろうと、同じように良いな、と感じていたはずだ。最近、あまり人とまともに会話をしていなかった気がするので、この感覚は久しぶりだった。仕事上でのちょっとした会話はあるが、常に緊張した状態で、新しく覚えることばかりだったため、気が抜けなかった。それとは違う、見知った顔がいる中で、見知らぬ人と知り合う感覚。あまりに楽しく感じたため、もう酔っているのかも、と思い、鳩川はジョッキを見た。ハイボールはまだ半分も減っていなかった。

「すみません、蒼太さん、ビールのお代わりを」と、二階堂が手を挙げる。「緋子さんは……もう接客は無理そうですね」

「そんなことないけどな」と、緋子は言うが、立ち上がる気配はない。

「姉は、変にアルコール度数の高いカクテルでも作ったんでしょうね。普段より潰れるのが早いし」蒼太は微笑んで、冷蔵庫から出したビール瓶の栓を抜いた。「そういやさっき色々、つまみになりそうなものを買ってきましたけど、二階堂さんも食べますか? カルパスとか、ビーフジャーキーとかがありますけど」

「あ、じゃあカルパスを」

「かしこまりました」

 蒼太は個包装されたカルパスを一つずつ丁寧に剥いて、シャーレに乗せ、それを二階堂に差し出した。仕入れ値がいくらかは分からないが、おそらく二倍か三倍の値段になっていることだろう。鳩川はそれをぼんやりと眺めていたが、その原価と提供価格の差を知っても、不思議と悪い気はしないと思っていた。この空間や、ちょっとした手間に金を払っていると思えば、安くすら思える。鳩川の飲んでいるハイボールだって、原価を計算すれば、とんでもなく安いはずだ。だが、これを家で一人で飲んでも、ここまでは美味しくないだろう。そういう時間に、自分はきっと、金を払っているのだろう。

「鳩川さんも何か?」

「ああどうも。では、私はジャーキーを」

「まいどどうも」蒼太は袋を漁り、ビーフジャーキーを取り出す。「そうだ、鳩川さんにきちんと紹介しておかないと。こちらの二階堂さん、常連さんなんですよ」

「やっぱりそうなんですか。まあ、バーにいるから、そうだろうとは思っていたのですが……お二方と親しげだったので、実は気になってたんです。普段のお店では、お見かけしませんでしたし」

「私は、ほとんど朝か夜しか来ないので」二階堂は微笑みながら言う。「このお店、通勤路にあるので、夜やっている時は、ほとんどいますね。私、緋子さん目当てで来てるんです。ファンなので」

「嬉しいこと言ってくれちゃって」緋子は頬杖をつきながら、笑顔で二階堂を見ていた。「彼女は、朝と夜の常連さんなのですよ」後半の言葉は、鳩川に向けられていたようだが、それは既に知っている情報だった。

「なのですか。じゃあ、私よりもずっと先輩ですね。これはこれは……私は、そうですね、四ヶ月前くらいかな、それからちょくちょく来るようになりまして。主に、夕方頃にお店に来ていました」

「再就職された……と、さっきちらっと聞いたんですが」二階堂が尋ねる。

「ええ、そうです。あのお嬢さん……ああそうか、もしかして、ということは、あのお嬢さんのことはご存知ないんでしょうか?」鳩川は緋子に視線を向ける。「朝と夜は、あのお嬢さんはいらっしゃいませんよね」

「ああ、うん? 七佳のことですか? ……どうかな、そう言えばそうかも。気にしたことなかった」

「誰ですか?」二階堂が尋ねる。

「えっと、小学生くらいの、小さな女の子なんですが……なんて言いましたっけ、お名前は」

「七ツ森夏乃佳」蒼太が言った。「姉や私は、略して七佳と呼んでますね。ええと、二階堂さんは会ったことがないんじゃないかなあ。その時間帯に来たことはないですよね、多分」

「その子は、常連さんなんですか?」

「常連ですけど、お客さんとは言えないかもしれません。その子のご両親が姉の大学時代の先輩なんですけどね。ご両親ともにお忙しいご家庭なんで、夕方、少しだけお子さんを預かってるんですよ」蒼太は説明をしながら、鳩川の前にビーフジャーキーの乗ったシャーレを置いた。「ちょっと変わった子なので、学校で遊ばせたり、学童がくどうに通わせるのも心配らしくて」

「変わった子って?」

 二階堂の質問を受け、蒼太はちらと緋子を見た。話しても良いか、という意味合いの視線だった。緋子は軽く頷いて、視線を二階堂に向ける。

「二階堂さんって、幽霊とか信じる?」

「え? 幽霊ですか? ……いえ、信じてませんね」

「心霊現象とかで、困ってること、ある?」

「……ありません。え? なんでですか?」

 話してもいいんじゃない、と、緋子が小声で蒼太に言う。蒼太も頷き、鳩川に向かって、「じゃあ、お話しください」と言った。

「え? 私がですか?」

「身の上話をするのは、新入りの役目って言うじゃないですか」

「それは何かのことわざですか?」鳩川が尋ねる。

「さあ」蒼太は笑って言うが、それ以上は何も言わなかった。


 ◇


 鳩川の身の上話のついでに、先日起きた化猫ばけねこ騒動まで聞かされた二階堂は、何度も何度も頷いてから、「にわかには信じられないお話ですね」と言った。

「同じく」と、緋子が言う。

「私だって、お嬢さんにお会いするまでは、そういうものは信じていませんでしたが……今ではすっかりそっち側の人間になってしまいました。もちろん、私には霊的なものは見えませんが……ええ、それでも、いるんじゃないかな、と感じています。幽霊がいたっていいだろう、と」

「まあ、いても別に困りませんしね」と、二階堂は応える。「でも不思議な組み合わせですよね。霊視と幽体離脱って、別物ですよね」

「何で?」緋子が尋ねた。

「えっと、幽霊って、科学的に証明されてないじゃないですか。妖怪だってそうですよね。いえ、逆に言えば、非科学的な超常現象として扱われているのかも……でも、幽体離脱って、実際にあり得るものとして、なんとなく定着していますよね。そこまで非科学的な扱いをされてないというか」

「あー、確かにね。科学的に証明されてはいないと思うけど、現実に起こり得ることとして、なんとなく認知されてる気がする」

「多分それって、幽体離脱の実例が数多く観測されているからですよね。だから例えば、その女の子みたいに霊視が出来る人が全人口の半分以上存在したら……幽霊も市民権を得るのかなって、お話を聞いてて、考えちゃいました。つまり、昔の妖怪とか、迷信なんかも、経験者が多数だったから定着したっていうことなんじゃないかなって。今は逆に、減っちゃったのかもしれないですけど」

「お酒を飲む前に牛乳を飲んで、酔いにくくなった人が多かったとかですかね?」鳩川は笑いながら、二階堂に尋ねる。

「他にも、チャンポンして酔いやすい人も、昔は大勢いた、とか」

「え、二階堂さん、あれ嘘なの?」緋子が言う。

「ええ、それも迷信だったと記憶してます。あとはそうですね……何かありますか? 夜中に爪を切ると親の死に目にあえないとか、落ちてる鏡を拾っちゃいけないとか、夜に洗濯物を干すなとか……あれ? これは体験するようなものじゃないですね。ごめんなさい、迷信はちょっとジャンルが違ったかも」

「二階堂さんの言ってる迷信っていうのは、さっきの話……霊視とか幽体離脱なんかが含まれる心霊現象とはちょっと違いますかね。迷信は、人々を危険から遠ざけるためにとなえられたものがほとんどですよ。お酒や牛乳の件は、多分、噂の出所でどころが違うと思いますけど」蒼太は説明しながら、空になった鳩川のジョッキを手にする。「鳩川さん、次もハイボールにします? それとも、ロックで?」

「ああ、では、ロックを」

「かしこまりました」

「そう言えばさっき、掃除してる時に、蜘蛛見たっけな」緋子がビーカーの底を見つめながら言う。「なんかあったよね、蜘蛛の迷信。夜の蜘蛛って、どっちだったっけ。殺していいんだっけ?」

「朝の蜘蛛は良くて、夜の蜘蛛は悪いんじゃなかったんでしたっけ」二階堂が応える。

「そっか。じゃあ、殺しておけば良かった」

「姉ちゃん、お客さんの前で物騒なこと言うなよ」

「うるさいな」

「あ、一つ思い出しました」

 鳩川が言うと、三人の視線が興味深そうに鳩川を向いた。どういう話の流れで迷信の話題になったのか、いまいち思い出せなかったが、みんなが自分の知識を披露ひろうしあっている。なんだか楽しい雰囲気だ、と鳩川は感じていた。

「小さい頃、お墓で転んで怪我をすると、治りにくくなる、みたいなのを聞いたことがあったような気がします。うろ覚えですけど……膝を擦りむくと、足が腐るんだったかな。それか、怪我が治りにくいんだったか……」

「ああ、それは実際そうなんじゃない?」と、緋子は砕けた口調で言った。「その迷信がいつ頃に出来たかは知らないけど、明治頃にはまだ土葬どそう文化もあったようだし、不衛生だったんでしょうね。転んだら、傷口からばい菌が入りやすかったのかも」

「ああ、なるほど。そう言われるとそうか……お墓ですから、なんとなく霊的な話なのかな、と思ってましたが、科学的な根拠がありそうな迷信ですね」

「じゃあこの迷信は科学ボックス行き」緋子は、見えない何かをすくう動作をして、その手を横にずらした。「牛乳とチャンポンは非科学ボックス行きね」

「なんですか? そのボックスは」と、二階堂が笑顔で尋ねる。

「なんだろう? 片方あげるね」

「ありがとうございます」

「そういえば、迷信と言えば猫にまつわるものが多いですよね」と、蒼太が言う。「どうぞ、鳩川さん。ロックです」

「ああ、これはどうも……えっと、猫ですか? 何かありましたっけ」

「猫が顔を洗ったら雨が降るとか、オッドアイの猫は幸運を呼ぶ、とか」

「あと、黒猫に横切られたら幸福になる、とかもありましたよね」

 二階堂の発言に、緋子が「不幸になるんじゃないの?」と尋ねる。

「あれ、そうでしたっけ?」

諸説しょせつあるみたいですよ。国によって違うみたいです。横切る猫を黒猫に限定している国もありますし、逆に、白猫だけという場合もあります。まあ、基本的には黒猫は不幸の象徴という意見が多いようですけど」

「へえ……そうなんですか」鳩川が頷く。「ああ、ダメだ。以前の化猫騒動を思い出しちゃいました」と言って、体を縮めてウイスキーグラスを両手で持った。

「諸説あるなんて、完全に非科学ボックス行きの迷信ね。蒼太ぁ、新しいビール出してえ」

「姉ちゃん、もうやめとけば?」あきれ顔で言いながらも、蒼太は冷蔵庫からビール瓶を取り出した。「まあ、迷信なんて受け手によるとしか言いようがないですよね。科学的に証明出来ないなら、受け取り方次第で、それによって幸せになる人もいれば、不幸せになる人もいる。鳩川さんだって、そうじゃないですか」

「え? 私が何ですか?」急に話を振られて、鳩川は慌ててグラスから口を離す。

「鳩川さんは、七佳の話を聞いて、救われた気になったことがあったんですよね。そこには本来、科学的な根拠は一切ないわけです。でも、それで心が救われたのも事実。いわゆる、信じるものは救われるってやつですね。いや、これはことわざだったっけ……」

「ああ、まあそうですね。ええ……本当にその通りだと思います。最終的には、全て自分で判断するしかないことですよね。なんか、深い話になってますけど……迷信だの、言い伝えだの、幽霊だの妖怪だの、そういうものは……自分が信じるかどうかであって、他の誰かが強制するものではないですよね。なんかちょっと、宗教くさい考え方かもしれませんが」

「いやいや、俺はその通りだと思いますよ。それに、そう思った方が楽しいじゃないですか。今日だって、俺とばったり会って、実際、幸福になったでしょう?」蒼太がいたずらっぽく笑って言う。

「え?」

 鳩川は訳がわからない、と言った様子で視線を周囲に向ける、が、すぐに二階堂が、「もしかして、猫に横切られたんですか」と笑った。

「猫に? ……あ、ああ、そういうことか。なるほどなるほど、そうですね。猫目さんに横切られたんでしたね、私は。危うくぶつかりそうになったんですよ」

「それに今日は、俺の服も黒っぽいし」

 鳩川と蒼太と二階堂は、可笑しそうに笑い合う。緋子はその様子を、じっとりとした目で見つめていた。何が面白いのかわからない、という感じだった。酔いが覚めたのだろうか、と思って、手酌でビールを注ぐ。急に、明日は店を開けたくないな、と、現実的なことを考えてしまった。


 ◇


「よし、美味しいカクテルを作ろう」

「おっ、出た」

 緋子が宣言してすぐに、蒼太が茶々ちゃちゃを入れた。

 迷信話が落ち着いたあとで、四人はそれぞれ、自身の近況などを話し合っていた。話題の提供は、主に鳩川だった。年齢的には一番上だと思われるが、この店内では、鳩川の地位は低いように感じられた。客という立場ではあるが、その立ち位置が心地良い気もするから不思議だ。若い人間に囲まれていると、なんだか、自分まで若返ったような気持ちになる。

「カクテルカクテル〜」

「えっと、ここは、カクテルもあるんですか」

「ここは、カクテルラボですから」緋子がさも当然とばかりに言う。「鳩川さんも、良ければ。ウイスキーがお好きなようなら、ウイスキーベースのカクテルをお作りしますよ。どうぞ、実験にお付き合いください」

「へえ、それはそれは。ぜひお願いします。すみません、カクテルの知識はまったくないので、格好良い注文の仕方は出来ませんが……なんか、良さそうなのを。少し甘い感じでいただけると、嬉しく思います」

「うちのカクテルに名前なんてないですよ」蒼太が小声で言った。「姉が適当に液体を混ぜ合わせるだけです。客商売をしていて言うのもなんですけど、完全に趣味の領域ですよ」

「これは化学実験だから」緋子は何故か得意げに言った。

「あ、じゃあ私ももらおうかなぁ……いいですか?」

「もちろん。じゃあ、鳩川さんの次に、二階堂さんね」

 蒼太は突然、冷蔵庫からビール瓶を取り出し、コップを持ってカウンターを出た。緋子に戦場を譲ったのか、と鳩川は観察していたが、そのまま出入り口付近に移動して、老人の隣に腰掛けた。そこで鳩川は、そう言えば老人がいたな、ということを思い出していた。あまりに寡黙かもくで、店の雰囲気に完全に馴染なじんでいたため、家具の一部のような気がしていた。この店内で一番年上なのは、どうやら自分ではなかったらしい。

「古樹さん、相変わらず上品なペースですね」

 蒼太がビール瓶を傾ける。一本目が空になっていて、ビーカーの残りもほんのわずかだった。老人は無言だったが、少しだけ口角を上げた。客をよく観察しているな、と鳩川は思う。古樹は残りを飲み干して、さかずきをもらったあと、蒼太に返杯へんぱいしていた。

「そうだ、古樹さんは色々知ってるんじゃないですか、さっき話してた、言い伝えとか迷信とか、そういうの。この中じゃ一番、年のこうがありそうだし」

 鳩川も二階堂も、自然と古樹に視線を向けていた。カウンター内では、緋子による化学実験が始まっていたが、誰もそれに注目していない。

「……そうだなあ」と、古樹は思い出すよう、視線を遠くに投げる。「詳しいことはよくは知らねえが、小さい子は神の子だって言われてたのはよく覚えてるよ」

 しぶく、重厚じゅうこうな声だった。決して大きな声ではなかったが、非常に聞き取りやすく、店全体に染み込むように響いた。鳩川と二階堂は、その声に、自然と耳を澄ませる形になる。

「神の子? へえ、俺は聞いたことないですね、その迷信は」

「昔の子どもは死にやすかった。だから神の子だって言って大切にした。俺が子どもの頃、爺さん婆さんがよく言ってた。俺も小さい頃は、神の子って言われたもんだ」

「子は宝、みたいな話ですか?」蒼太が尋ねる。

「いや、そういう意味じゃない」

「それ、ななつ子は神の子、ですよね」

 答えたのは緋子だった。四人の視線が一斉に緋子に集まる。彼女はシェーカーの蓋をしめているところだった。準備が整ったらしい。

「なんて?」蒼太が問う。

「とーりゃんせーとーりゃんせー」

「……なんて?」

「この子の七つのお祝いに、ってやつですかね」二階堂が言う。「七つ子って、七歳の子ってことですよね」

 緋子は、とーりゃんせ、と小声で唄いながら、シェーカーをリズミカルに振り始める。わらべ歌を唄いながら無表情でシェーカーを振るので、何かの儀式のようで、少し不気味だった。

「七つ子は神の子か。そういやそんな言い方だった」古樹が言う。「七つまでは神の子とか、七歳前は神の子とも言ったな。とにかく、七歳までは、子どもは死にやすくて、怪我をしやすくて、霊的な体験にも遭遇しやすかった。神隠しやら、前世の記憶があるってのも、そのたぐいだ。そういう不安定な子どもたちをまもるために、七五三しちごさんって神事しんじがあるとも聞いたような気がする」

「子どもの頃は特に怪我をしやすいですからね」鳩川が言う。

「転んだり、高熱出したり、しやすいですよねえ」二階堂が補足ほそくした。「私も、公園で転んで流血騒ぎになりました。本当に、小さい頃の話ですけど」

「そう言えば、さっきのお墓の話も、実は私が転んだ時に聞いた話なんですよ。幸い、大怪我にはなりませんでしたけど。言われてみれば、小学一年生くらいだったかな……確かに、七歳より前ですね」

「子どもの頃なんて、そんなものですよね」

「あ、思い出した!」

 シェーカーを置いて、緋子が突然大声を上げた。なかば強制的に、全員の視線が緋子に集まる。

「そうそう、蒼太に聞きたかったの、この話だ。蒼太も小さい頃、おっきな事故起こしたことあったよね?」緋子が蒼太を見て尋ねる。「そうだよ、忘れてたけど……もう、すごかったもんね。車にかれて……半年くらい入院してたんじゃなかったっけ? えっと……十何年前?」

「あったなあ。でもその話題、姉ちゃんの歳バレるぞ」蒼太が笑って言う。「正確に計算してやろうか」

「いやっ、やめて」

「姉ちゃんが何歳の頃の話だったかなぁ」

「でもさ、今思うと、蒼太ってほんと、あれからよく復活したよねえ」緋子は話をらすように、食い気味に言う。「救急車も来て、家族中大騒ぎで、大変だった気がするんだけど……でも、なんだろ、あんまり覚えてないな……流石にお見舞いに行ったと思うんだけど、ほとんど記憶にないかも。どこの病院だったっけ?」

「まあ子どもは怪我しやすいけど、治りやすいってことじゃない? だからこそ、神の子なんでしょ」と、蒼太が早急に結論付ける。「姉ちゃん、飲みすぎで記憶飛んでんじゃない? それか、歳のせいかな」と、からかうように付け加えた。

「へえ……そんなことがあったんですか。ご無事で良かったですねえ。まあ、私にはそんなこと言う資格なさそうですけど」鳩川は呟きながら、思いついたことを口にする。「実は私、今の話聞いて、一瞬、あのお嬢さんのことかと思っちゃったんですよ。七つ子は神の子、ってやつ」

「七佳ですか? あいつはもう十歳ですよ」蒼太はそう言ってすぐに、「ああそうか、七ツの子ですね」と笑った。「鳩川さん、それ、ダジャレじゃないですか」

「いや、失礼しました。思いついてしまったもので……忘れないうちに言っておこうかと」

 皆、酒に酔っていて正常な思考回路ではなかったのか、小さな笑いが起きた。親父ギャグをばっしようとする乾いた笑いではなかったのは、鳩川にはありがたかった。

「はい出来た」いつの間にか作り終わっていたカクテルが、鳩川に差し出される。「味は保証しませんけど、サービスなので、大目に見てください。就職祝いに」

「ああ、これは素敵な色ですね。美味しそうだ……」

「七佳はまだ神の子だから不思議なものを見るのかなあ」緋子が虚空を見ながら言う。「確かに、子どもの頃は不思議な経験をするかもね。私もあったし、子どもって何かしら体験するよね。七佳もそういう、一過性のあるものだといいけど……それにしては度が過ぎてる気がするのよねえ」

「それか、名前に七の付く子は霊媒体質、とか?」二階堂が言う。「おっと、これは、新しい迷信を生み出してしまいましたね……」

「七佳の場合は、遺伝じゃないの?」と、蒼太が問うた。「なんだっけ。お母さん……冬子さん? 本職なんでしょ」

「あの人は旧姓が雨宮あまみやだし、嫁入り前からそういう体質だったから、名前は関係ないでしょ。じゃ、その迷信は非化学ボックス行き」

「でもなんだか、私、お嬢さんの名前を伺ってから、ずっと神秘的だとは思ってたんですよね。七ツ森夏乃佳って、どこかにまつられていても不思議じゃないというか。神の子も、神子カミコとか、神子カノコと読むと、お嬢さんの名前みたいですし」

「あんた、人の名前で遊んじゃいけねえよ」古樹が唐突に言った。「これは迷信だかなんだか分からんが、子どもの頃、婆さんに何度も言われたもんだ。人の名前はいじっちゃいけねえって」

「あっ、これは失礼しました」鳩川は深々と頭を下げる。「すみません。本人のいないところでは、特に気を遣うべきでしたね。申し訳ない」

「別に怒っちゃいないよ。ただ、俺も昔、散々からかわれたからな、気になった。気を悪くしたなら、すまん」

「へえ、どんな風にからかわれたんです?」蒼太が楽しそうに尋ねる。

「俺の名前は要吉ようきちってんだが、全部読むと古樹要吉だから、『古き良き』なんてからかわれたもんだ。俺が何か言うと、『それ古き良き考えだ』とかな」古樹は言ってから、「まあ、今となっちゃ話の種になるんで、それほど気にしちゃいねえが」と少し笑った。

「……思えば、私もよくからかわれましたねえ。変な名前ですから、鳩川文帖って。鳩に餌やり、とか言われました。いじめってほどではなかったですが……確かに、あまり良い気はしませんでしたね。ポッポーとかいうあだ名がついた時期もあったかな……」

「私もよくからかわれた。猫だから」緋子が言う。

「ああ、俺も俺も」と、蒼太が手を挙げた。

「……あれ、私もからかわれてた方が良かったですか?」

 二階堂が言うと、また小さな笑いが起こった。

 笑いのタイミングを幕にして、緋子はシェーカーを洗って、二階堂の分のカクテルの準備を始める。蒼太は古樹のビーカーにビールを注ぎ、鳩川はカクテルに口を付けた。ウイスキーベースだが、注文通り、ほのかな甘みを感じる。口ざわりが良く、飲みやすいカクテルだった。

「あ、これ美味しいですね」鳩川が言う。

「本当? どれどれ」と言って、緋子はカクテルグラスを勝手に取り上げ、一口含んだ。「あ、本当だ。うーん、なかなか。オムライスくらい美味しい。いや、ステーキくらいはあるかもしれないな……」

「どんなたとえだよ」蒼太が呆れながら言う。

「いや本当に、すごく美味しいですよこれ。なんていうカクテルですか?」鳩川はそう言ってから、ひたいを叩いた。「そうだ、名前はないんでしたっけ。それじゃあ、二度と同じのは作れないんですか? これ、すごく私好みの味です」

「いえ、作れますよ。レシピは全部記録しているので。名前は『鳩川スペシャル』ですね」

「ああ、そうですか。それはよかった。いや、これは、良いものに出会えました」

「あ、じゃあ私も例のカクテルにしてもらえますか?」と二階堂が言った。「久々に飲みたくなっちゃいました」

「うん? ああ、『二階堂スペシャル』でしょ?」緋子が笑いながら言って、足元からファイルを取り出す。「確か、二年前くらいだよねえ……最初に二階堂さんが来たのって。何ページくらい前だろ……」

「これも迷信ですよね」と、二階堂が言う。「初めてのお客さんに出した緋子さんのオリジナルカクテルは何故か美味しい、という」

「へえ。他にも何件かそういう事例があるんですか?」

「不思議なことに、全員そうですね。もう、かれこれ十人近く」緋子がファイルを見たまま言う。「何故かね、二回目からは味が落ちるの。本当に不思議なことに。私も自覚するくらい、最初の一杯の方が美味しいのです。鳩川さんのも、これが最高の一杯」

「それは、確かに迷信っぽいですねえ」カクテルを飲みながら、鳩川がしみじみと言った。「そのうち諺に昇格するんじゃないですか、この現象は」

「それ、二度あることは三度ある、じゃないですか?」二階堂が言う。

「既にありましたか。それか、最初で最後、とかでも通じますかね」

本木もときに勝る末木うらきなし、じゃないか」古樹が言う。「何事も、最初の一回目が一番だって意味の諺だ」

 誰もその諺を知らなかったようで、各々おのおのが、へえ、とか、知らなかった、と小声で言った。実際は男女関係について使われる類いのことわざだが、そのことは、古樹自身も知らない様子だった。

「ねえ、みんなで私の趣味にケチをつけないでよ」

「別にケチなんかつけてないけどさ。そもそも新しいのを作るんじゃなくて、最初の一杯をアップデートしていけば?」

「弟が姉に指図するんじゃない」

「せっかく一回目で美味しいのが出来たんならさ、その方が効率が良いでしょ。試行錯誤して、最高の一杯に近づければ良いわけだし」

「いいの、私は適当に混ぜるのが楽しいんだから」

 緋子はファイルを開いて、特定のページを広げた。『二階堂スペシャル』と、赤字で書かれているレシピが載っているページだった。

「でも、なんで最初の一杯目なんですかね?」二階堂が首をかしげる。「もちろん、その後に作ってもらったカクテルも、私は美味しくいただいてますけど……最初の一杯を超えられないというプレッシャーって、結構、辛そうですよね」

「ねえ、なんか、すごくやる気がなくなるんだけど」緋子がレシピ通りにアルコールを計量しながら言う。「まあね、いいですよ。次で必ず美味しいの作りますから。迷信にとらわれるなんてのは、科学者として失格です。私がそのジンクスを打ち破ってみせますよ。やり続けていれば、必ず結果はついてくるものですから。継続は力なり。初志貫徹しょしかんてつ雨垂あまだれ石を穿うがつ」

「他になんか、いい諺ないですか?」蒼太が古樹に尋ねる。

「馬鹿の一つ覚え」

「あ、今ので怒った」緋子は顔を上げて、カウンター席を見渡す。「みんな、今夜は高くつきましたよ。古樹さんにもご馳走はしないことになりました。ビール代もおつまみ代も、ちゃんと請求します。鳩川さんもカクテルのサービスはなくなりました。残念ですが」

「私は緋子さんの味方ですよ。そういう地道な姿勢、大好きです」と、二階堂が笑顔で言う。

「そう? じゃあ、二階堂さんにはカクテルサービスしちゃうね」

「あの、私、完全にとばっちりなんですが」鳩川が恐る恐る手を挙げる。

「それは知りません。ここでは私がルールですから」

「おかしいな……触らぬ神にたたりなし、という言葉がありませんでしたっけ」

「姉は七歳じゃないので、神ではなくなりました」

「蒼太は明日、朝から仕込みね。今夜もタダ働きだから」

「私、カクテル美味しい、としか言ってない気がするんですが……」

「俺が横切ったせいですかね」蒼太は肩を竦めて、鳩川を見た。「鳩川さんには悪いことしました。すみません」

「いえ、まあ……楽しいので良いですけどね。美味しかったですし、気持ち良く払わせてもらいます」

 実際、場を盛り上げようと言っていただけで、不満はなかった。鳩川は力なく笑って、もう一度カクテルを飲む。これに、『鳩川スペシャル』という名前がつくのだろうか、と考えると、むしろ安いくらいだと思った。

「それじゃあ、『二階堂スペシャル』作るから。みんな静かに見てるように」

 緋子が宣言してシェーカーに液体を流し込む様を、大人四人がじっと見守っていた。まるで、公開実験に付き合わされているようだったが、大人たちは酒を片手に、その様子を楽しげに眺めていた。


 ◇


 アラームの音で、緋子は目を覚ました。アラームを聞いて起きるのは久しぶりな気がする。普段は、音が鳴る五分くらい前に自然と目が覚めている。どうしてだろう、と考えて、昨日のアルコールのせいだということに気付いた。

 昨日のことをあまり覚えていない。飲み過ぎたのかもしれない、と思ったが、それすら思い出せない。少し重たく感じる頭を持ち上げて、ベッドから抜け出す。服は着替えてから寝たようだし、化粧も落ちていた。毎日の反復作業が生きたのだろう。それか、蒼太が介抱かいほうしてくれたのか。後者の確率の方が高そうだ。

 開店までの時間的余裕があったので、服を着替えて、顔を洗い、簡単に化粧を済ませる。ふと、思考に何か引っかかりを感じた。アルコールで飛んだ記憶とは違う、変な違和感があった。昨晩のことは、断片的になら覚えているが、シーンとシーンが繋がらないことが多い。この引っかかりも、そうした一場面なのだろうかと思いながら、身支度を整えて階下に向かうと、既に、濃厚な珈琲の香りが立ち上っていた。

「おはよう」緋子は憮然とした表情で言った。「私、昨日はどうだった?」

「おはよう」仕込みをしている蒼太が答える。「だいぶ酔ってたね」

「あそう」

「でも、みんな十時頃には帰ったし、そんなに長引かなかったな。マナーの良い大人たちの、密かな楽しみ、って感じだったよ」

「ふうん」

「まあ、本当、みんな楽しそうで良かったよ。鳩川さんも、二階堂さんも、古樹さんも。姉ちゃんは特に楽しそうだったけど、俺も楽しんだ」

「良かったね。で、あんた今日は? どっか行くの?」

「うーん、特に予定はないな。店、手伝おうか?」

「どっちでもいいよ」

 緋子は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、ビーカーに注いだ。アルコールを摂取しすぎた日の翌日は、オレンジジュースを飲むとすっきりするような気がする。科学的にどうかということは詳しくは知らないが、若い頃からの習慣だった。多分、糖分が影響しているのだろうと思うが、これは専門外の知識だ。あるいはこれも、迷信だろうか。ああそうだ、迷信についての話を、長い時間していた気がする。断片的に、記憶が思い出される。

「姉ちゃん、顔洗ってきたら?」

「失礼な。顔も洗ったし化粧もしたよ」

「じゃあ、明日は雨だな」蒼太が笑いながら言う。

「あ、それだ」

 緋子は突然、声を上げた。

「何が?」

「昨日、そんな話してたよね?」

「ああ……忘れてたのか」蒼太は笑いながら言う。「迷信の話とか、諺とか、言い伝えとか、そういう話のことだろ? 確かに、盛り上がったよ。ていうか、本気で何も覚えてないのかよ。冗談言ったのが馬鹿みたいじゃんか」

「いや、うーん……お酒飲むと、聞き流しちゃうんだよね。右から左に流れるの。基本的に、お酒の席の話って、馬鹿話だし、覚えている意味がないから。でもそう、迷信の話。七つの子がどうとかって、私、言った気がする」

「七つ子は神の子、だっけ? 確かに言ってたな。古樹さんの話から広がってたよ。俺は聞いたことなかったなあ、あれは。姉ちゃんが知ってるのも驚きだったけど」

「その話してる時に、なんかすごく引っかかることがあって、結構酔ってたと思うけど、ちゃんと覚えてたんだよね。すごく大事なことだから、忘れないようにしなきゃって、そう思ってた気がする」

「何だよ、大事なことって」

「あんた、どうして助かったんだっけ」

 仕込みをしていた蒼太が、一瞬、動きを止めた。

「何が?」

「事故のあと」

「え? だから何が?」

「入院したんだっけ。そもそも、あんた、どこ怪我したの?」

「……ああ、その話か。もういいじゃん、別に」

「良くないよ。だって、何も思い出せないの。これ、おかしいよね。だってあの時私、まだ実家にいたでしょ。忘れるわけない」

 緋子は蒼太の腕を掴んで、真剣な表情を向けた。

 お互いに、お互いの瞳を見つめる。猫目という苗字だからと言って、お互いに猫のような目をしているわけではない。

 人間の目をしている。当たり前だ。

 でも、なんだろう? 変な違和感がある。

 弟は、こんな顔をしていたっけ?

 小さい頃の弟の顔は、どんなだったっけ。

 思い出せない。小さい頃の蒼太の記憶が、事故以前の記憶が、曖昧あいまいすぎる。

「……いや、だから、俺も正直覚えてないんだって。前にも話したよな、これ。事故って、入院して、気付いたら退院してて。ほとんど、記憶にないんだって。それにもう、十五年以上前の話だろ? 今更なんだよ。今が良ければ、それでいいんじゃないのかよ」

 蒼太は強めに、緋子の腕を振りほどく。

 蒼太の表情は、険しく、野性的な雰囲気をともなっていた。

 弟のそうした態度はあまり見たことがなかったので、驚いてしまい、緋子は何も言えなくなってしまう。振りほどかれた手を、反対側の手で抑える。

「あ……悪い、姉ちゃん」

「ううん。私こそ、ごめん。変なこと聞いて」

「ていうか、昨日はあんなに馬鹿話してたのに、姉ちゃんってそんなどうでも良いことだけ覚えてんのな」と、蒼太は一転して、笑顔を見せた。「せーっかく楽しいこといっぱい話してたのに。もう、つまんねえことなんか忘れろって」

「なんだろ、確かに楽しかったっていう記憶はあるんだけど、どういう話してたか、詳しく覚えてないや。全部蒸発じょうはつしちゃったのかな」

 緋子が力なく笑うと、蒼太の無邪気な笑顔が返ってきた。確かに、どうでも良いことだ。今が幸せなのだから、それで良い。この生活に不満はないのだから、何事かを考える必要はないはずだ。そうやって、いろいろな感情をふうじてきたんじゃないのか。多くを求めないように、閉じこもったのではないのか。

 それでも何故か、緋子の中にあるその思考だけはずっと、頭にこびりついて離れようとしなかった。あるいはずっと、いつからか、残り続けていた記憶なのかもしれない。今になって、それに気付いた。それに気付かなかったことに、やっと気付いたのだとしたら。

 どうして忘れていたんだろう?

 どうして思い出したんだろう?

 スツールに座りながら、ぼんやりと、蒼太を眺めた。ふいに、この男の人は誰だろう? という気持ちに襲われた。すぐに、自分の弟じゃないか、と思い直す。

 やっぱり二日酔いなのかもしれない、と思って、オレンジジュースを飲んだ。頭が冴えたような気がしたが、思い込んでいるだけかもしれない。やはりこれも迷信なんじゃないか、と思い、思考を非科学ボックスに投げ入れた。

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『科学喫茶』 福岡辰弥 @oieueo

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