科学喫茶と猫の悪戯

 こんにちは。

 鳩川はとかわ文帖ぶんちょうです。

 初対面の人や、名前を知らない人を相手にすると、私は大抵、フルネームで名乗りを上げてしまいます。それは、相手をどう呼べば良いか分からず、困ってしまうことが多いからです。私が名乗れば、相手も名乗るのではないかという期待から起こる事象でもあります。もっとも、大抵の場合、私がフルネームで名乗ると、相手方は困惑するか、変人を見るような目で見るかのどちらかです。ですから、あまり、初対面で名乗りを上げる方法は有効ではないようですが、小さい頃から挨拶をするときに一緒に名乗るような癖がついてしまっているため、なかなか治りません。挨拶をする相手がフルネームを知っている知人であれば、ただの挨拶だけで済むのですが、そういう相手も少なくなってしまいました。なかなか、上手く行かないものだと思います。

 二ヶ月程前まで、私は、ある事情で入院していました。入院期間も二ヶ月程でしたので、今から四ヶ月程前に入院したことになります。ある事情と言うのは、自殺未遂です。私は自殺を試みたのですが、どうにも死ねませんでした。出血や窒息ちっそくはなんだか嫌だなという気持ちがあり、服毒自殺を試みましたが、生きながらえてしまいました。もっとも、今になって思うと、どうして自殺という結末を選択したのか、その時の気持ちが思い出せません。一種のそう状態だったのだろうとは思います。もちろん、私のミスで、同僚の腕を切り落としてしまったことは、許されることではありません。ああ、そうです。私は、仕事中、安全確認をおこたった状態で、機械を稼働させ、同僚の腕を切り落としました。これは、法律が許しても、同僚が許しても、許されることではありません。自分で自分が許せないのです。自分が同僚の立場であれば、私は自分の腕を切り落とした人間を、許せないことでしょう。一生涯いっしょうがい、片腕を失って生活するなんて、耐えられません。だから私は、私が許せず、私が許さないものですから、生きているのが辛くなり、そこから逃げ出すために自殺を試みました。しかしながら、生き永らえました。今は、逃げ出す自分の方が許せなくなってしまったため、生きています。もちろん、同僚の腕を切り落としたことも許せませんが、それ以上に、卑怯な自分が許せないのです。

 まあ、私の話はどうでも良いでしょう。

 すみません。私はついつい、自分の話をしたくなってしまいます。

 今、私は、ある店に向かって歩いていました。自殺をする前に、ある程度、身辺整理をしたため、今の私にはほとんど何も残っていません。私は以前、結婚していたのですが、自殺をするために別れました。その際、夫婦間で貯めた財産は、九割以上、妻に渡しました。自殺のための身辺整理が終わるまでの生活費だけを残して、それ以外の物品や金銭は、ほとんど渡しましたし、自分が持っていた不要なものは、ほとんど処分してしまいました。そのため、私には、現在、資産がありません。二人で暮らしていた賃貸マンションも解約してしまいましたし、個人的な貯金もほとんどありませんでした。携帯電話も持っていませんし、退職と同時に切れたであろう社会保険もありません。国民健康保険にも加入していません。生命保険は十年以上入っているものがありまして、保険金が元妻に渡るように設定していたのですが、自殺未遂に終わったため、特に意味をなしていません。まだ、継続して払い続けています。ああ、すみません。また自分の話をしています。つまり、私は新しい人生をスタートさせるため、仕事を探していたのです。今日は、その面接の帰りでした。午後二時からの面接が終わり、今は会社から大きく離れ、閑静な住宅地を歩いています。そう、店に向かっているのです。

 そう言えば、面接の際に前職を辞めた理由を尋ねられ、自殺をしたなどと言ったら採用を見送られるのではないかと思い、過労と、それによる離婚が原因だと嘘をつきました。罪悪感に耐え兼ね、面接が終わってすぐ、公衆電話から元妻に電話をしました。嘘をついた上に、元妻の評価を下げるようなことを言ったと思ったからです。元妻は仕事中かとも思われましたが、すぐに電話に出て、

「あらそう。別に気にしてないわよ。そっちの方が心証しんしょうが良いんじゃない? あなたの就職が決まったら、一緒にご飯でも食べに行きましょうね。じゃあ、仕事に戻るわね!」

 と言って、一方的に電話を切られました。

 元妻は相変わらずでしたし、私も相変わらず、考え込みすぎる悪い癖があります。私は少しだけ、気分が軽くなりました。私はきっと変わり者ですが、元妻はそれを把握した上で私と結婚し、私と別れた後も、入院時に世話をしに来てくれました。変わり者同士の元夫婦です。子どもはいませんが、再就職が出来たら、収入の何割かは、慰謝料や養育費みたいな形で理由を付けて元妻に渡そうと考えています。迷惑を掛けたのですから、当然です。入院費用も、いくらか元妻から借金していますので、それも別口で返済する予定です。

「あら、だったら再婚すればいいんじゃない? それか、一旦私の扶養ふようにでも入ったら? ああでも、後出しで医療保険って効くのかしら。よく分からないけど、調べておくわね!」

 入院中、元妻はそんなことも言っていました。果たして、入院費用の返済にいくら掛かるのか、実はあまりよく分かっていません。両親は田舎に住んでいるため、簡単に頼ることも出来ず、ついつい、入院中の問題などは、全て元妻に任せてしまいました。多分、私は、ダメ男に分類されるタイプなのだろうと思います。今のところは、失業保険で何とか生活をしています。再起しようという意気込みもあるのです。退院してすぐ、年老いた両親に保証人になってもらい、狭い部屋も借りました。本格的に夏になるまでには、再就職を目指しています。まあ、別にどうでもいいですね、私の話は。すみません、またやってしまいました。

 住宅地の中にある、『C3-Lab』という店に、私はやってきました。ここは、いわゆるひとつの喫茶店です。私は現在、完全週休二日制の職場に応募しているため、再就職が叶った暁には、平日の日中にここを訪れるのは難しくなるでしょう。そのため、出来る限り、今のうちに、この店の昼の顔を見ておこうと思っています。この店は、私の再起に関わる店なのです。私の心を軽くしてくれた店です。この店と、私の自殺が未遂に終わったことは、直接は関係がないのですが、私に生きる希望というか、生に対する、非科学的な信仰心を与えてくれた店なのです。信仰心というと少々宗教みていますが、信じるものがない私にとっては、とても重要なことでした。また、私は友達が少ないので、話し相手が得られるという側面もあります。悲しい話ですが。

 いい加減、店に入りましょう。

 私は、オープン、という掛札を確認してから、店に入ることにしました。来るのは何度目でしょう。もう、十回以上は来ていると思われます。常連客というほどではないと思いますが、お店の人や、他のお客さんと軽く会話をする程度には、顔見知りなのかと勝手に思っています。

 ドアを開け、店に入ります。

「こんにちは」

 私はいつも通り、挨拶をして、フルネームを名乗りました。

「鳩川文帖です」

「いらっしゃいませ」

 抑揚のない声が響きます。カウンター席が空いていたので、私はスムーズに、いつもの席に座りました。九割くらい、この席に座っています。私が椅子に座りますと、すぐに、小さなコップ……コップではないですね。ビーカーですかね。それに水が入ったものが、差し出されます。

「あのう……今日は、いらっしゃらないんですね」

 私は、カウンターの周囲に視線を巡らせながら、尋ねます。その質問には、具体性がないのですが、私の視線を見れば、きっと分かってもらえるだろうという甘えがあって、具体性がなくなってしまっているのです。

 なんと表現すれば良いか……私は、フルネームを知らない人に対して、名前を呼ばない変な癖があります。今もそうです。主語を明確にしない悪い癖があります。どうしても特定しなければならない場合でも、お嬢さんとか、お兄さんとか、とか、そういう曖昧な呼び方をします。名前に対して、変なこだわりがあるのでしょう。しかし、それでは誰のことだか分かりませんし、心の中でも整理がつかず、分かりにくくなってしまいそうです。私としては、良かれと思ってやっていることなのですが、大抵の場合、悪手あくしゅとなります。何を言っているのか分からないと言われるのです。

 現在の状況を説明するために、店内にいる、私の話し相手に名前がないのは困ります。そのため便宜的に、カウンターの中の人を、猫目ねこのめさんと呼ぶことにしましょう。もちろん、心の中でだけです。下の名前は知りません。いや、常連客の小さなお嬢さんが名前らしきものを呼んでいる場に何度か遭遇そうぐうしているため、発音は知っているのかもしれませんが、略称である可能性もあるため、本人から名乗られない限り、気安くは呼べません。そもそも、苗字さえ、ご本人から名乗って頂いたか覚えていません。多分、名乗られていないと思いますが、私の推理では、猫目さんという苗字のはずです。

 話の続きをしましょう。

 私が尋ねると、猫目さんは、「すぐに来ると思いますよ」と言いました。時計を見ると、午後三時半を過ぎていました。私はアイスコーヒーと、何か軽食のようなものがないか尋ねました。「そうですね、冷凍のケーキならありますよ。チーズかチョコか」と猫目さんが言いますので、チョコレートケーキを注文しました。私は結構、甘いものが好きなのです。

 何度か顔を合わせていますので、猫目さんとは雑談のようなことが出来る間柄になりました。なったというか、勝手にそう思い込んでいるだけかもしれません。実験器具に、氷と珈琲が注がれていきます。アイスコーヒーはどうやら事前に準備をしてあるようで、魔法瓶のようなものから注ぐだけになっています。チョコレートケーキは、冷蔵庫から出されて、作業台のような場所に置かれました。解凍しているのかもしれません。解凍しているということは、冷蔵庫ではなく、冷凍庫なのかもしれません。

「どうぞ」

 猫目さんが、アイスコーヒーを出してくれます。一口飲むと、痺れるように濃厚な風味が香りました。珈琲とアイスコーヒーは別の飲み物だということを訴えかけてくるようです。この刺激的な液体に味覚が反応し、面接での緊張も、少しほぐれます。

 ほっとしてから、店内に視線を向けました。現在の私が知っている常連客とおぼしきお客さんは、小さなお嬢さんと、お店が混雑していたときに手伝いをしていた青年だけです。そのどちらも、今はお店にはおりません。かといって、閑散かんさんとしているわけでもありませんでした。今は私を除き、五名の客がいます。中年女性の三人組と、女子高生と思しき二人組でした。女性の比率が非常に高い空間です。私はなんとなく、居場所を求め、猫目さんに質問をします。

「少し、話をしても良いでしょうか」

「どうぞ」

 抑揚のない、かと言って、拒絶するようでもない返事があります。猫目さんは、実はあまり客と会話をする人ではないようです。私は偶然、会話をする機会を得ました。その後も何度か会話をしていますし、今はお店も落ち着いているので、話しかけても良いだろうという判断でした。

 この頃の私は、不思議な体験をする回数が増えていたように思います。不思議というのは、非科学的、つまり、心霊現象のようなものです。常連客の小さなお嬢さん……これも便宜的に、なのかさん、と呼ぶことにします。名前の発音だけは知っていますが、漢字は分かりません。猫目さんのように、想像することも出来ません。猫目さんの苗字も、漢字は知らないという意味です。ですが、猫目以外に該当しそうな漢字がありませんから、消去法で選んでいます。なのかさんの場合、七日という字ではあまりに名前っぽくないですから、ひらがなで考えることにします。ちなみに、なのかさんの苗字も私は知りません。自己紹介されたかもしれませんが、はっきりとは覚えていませんでした。しかもこのなのかさんというお名前は、どうやら略称のようです。うっかり本名かと思って呼んだら、親しい間柄にだけ許される呼称という可能性もあります。そういう危険性があるため、私は極力、適当に人の名前を呼ばないようにしています。不確定な呼称は、馴れ馴れしさから来る不快感を相手に与える可能性があるからです。ええと、そうでした。その、なのかさんと会ってから、非科学的な現象との距離が縮まったような、そんな気がしていました、ということを言いたかったのです。

「私、今、転職活動をしていまして。あのう、私、フォークリフトの免許を持っているんです」

「荷物などを上げ下げする車両のことですね」猫目さんが応じます。

「そうです。前職で、免許を取りまして、実際に動かしたりしていたのですが、まあ車の運転が出来なくても、割と簡単に取れる資格なんですけれども、やはりこの歳で再就職を考えると、全く未知の業界に飛び込むのは難しいんです」

「そうですか」感情のない声が返ってきます。

「なので、職安でですね、その資格があるということで検索して、とにかく数を打つ気持ちで会社を探しましたら、なかなか良い条件の会社がありまして、給与とか、雇用条件だけを見て、早速応募したんです。しかし、よくよく見てみると、場所が遠かったんですね。最寄り駅から私鉄に乗って一時間くらいの場所に会社があったんですよ。今週のはじめに、そこに面接に行きました。市内で検索したら、とんでもない場所まで表示されるんです。市町村合併の弊害ですね」

 猫目さんは、話を聞いているのかいないんだか分からない態度でしたが、しっかりと聞いているものと思われます。解凍が終わったチョコレートケーキとフォークを、カウンターに乗せてくれました。お皿は、ガラス製のものでした。

「どうぞ」

「ありがとうございます」一緒に、伝票も添えられます。「それで、あの……会社というのが、結構山の中にありまして。会社というのが、いわゆる倉庫なんですね。ほら、引き出物なんかで、カタログがあるんですが……ご存知ですか」

「ギフトカタログですか」

「そうですそうです。そこにある品物なんかを管理していて、カタログの注文があったら、倉庫から出して、業者に渡して、配送をお願いするというような会社です。ちらっと見ただけでしたが、結構な倉庫でした。その外れに小さな事務所があって、簡単な応接スペースがあったんですが……まあ、会社のことはどうでも良いですね。お話したいのは、面接後、そこからの帰り道なんですが」

「何があったんですか」

「猫にですね、追いかけられまして」

「はあ」

 猫目さんは、呆れたような声を出しました。もしかすると、猫目さんに猫の話題を振ったことが、変に作用してしまったのかもしれません。私は内心慌てましたが、そこに関しては無視することにしました。心を強く持たなければなりません。反省会は、帰ってからするものです。

「実際に、何か被害を負ったとかいうわけではないんですが……その会社というのが、随分ずいぶんと山奥にありまして。私鉄の駅から、歩いて二十分くらいの場所だったんです。まあ、倉庫ですから、住宅地や駅前からは離れていまして。もっとも、駅前と言っても、ほとんど過疎地です。スーパーが一軒あるくらいで、他には何もありません」

「西の方ですか」猫目さんが言います。

「ええ、そうです。終点の二個手前の駅です」

「ああ、あそこですか。確かに、田舎ですね」

 猫目さんがご存知だということに驚きましたが、その話を膨らませる気はありませんでした。会話の脱線は、良い結果を生みません。

「面接は二十分くらいで終わったんですが、平日の昼間の上り電車は、一時間に一本ペースでした。時間があったので、ちょっとぶらぶら散歩でもしようと思ったんですね。時間を潰せそうな、喫茶店のような場所もなかったですし。かと言って、歩くだけでは面白くないです。そうして辺りを見ていたら、どうも近くに神社みたいなものがあったので、そこを見て帰ろうと思ったんです」

 猫目さんは、自分用にもアイスコーヒーを作り始めました。視線は私を見ていませんが、興味がないという風ではありません。時折相槌あいづちを打ってくれるのが、何よりの証拠です。そう信じています。

「駅がある場所よりも標高の高い場所に会社がありまして。それよりさらに高い場所に、神社があるようでした。周りは畑ばかりで、日陰というものが存在しません。その日は晴天だったので、日差しにやられて少々意識が朦朧としながら、私は神社に向かいました。私をそこに駆り立てたのは、神社の方は山になっていて、木が生い茂っていたため、木陰で休みたいなと思ったからなんです。途中、自販機を見つけて、炭酸ジュースを買いました。どこのメーカーのものか分かりません。偽物みたいな飲料ばかりが並んでいて、全品百円でした」

「田舎にたまにありますね、そういう自販機」

「そうなんですよね。田舎だなあ、と思いながら買いました。それで、会社から五分くらい歩いて、森に向かいました。神社の入り口を示す立て看板があったのですが、随分と奥にあるようで。私、てっきり、常緑樹っていうんですかね? そういう森だと思っていたんですが、近くに行ってみると竹林でした。地面は乾燥した土で、踏み慣らされていました」

 猫目さんは無言で、アイスコーヒーを飲みました。私も真似をするようにアイスコーヒーを飲んで、チョコレートケーキを少し食べます。甘さとほろ苦さを混ぜたような味が、口いっぱいに広がります。

「なんだかまだ時間がありそうですが、せっかくここまで来たんだからと思って、私は奥へと入っていきました。するとですね、どこからともなく、猫の鳴き声が聞こえてきたんです。野良猫かと思って、姿を探したんですが、どこにもいないんですよ。不思議に思いながらも歩いていると、また鳴き声が聞こえてきました。あれ、さっきと聞こえる方角が違うな、と思いました。で、ずんずん奥へ進んでいくと、鳴き声が増えて、なんて言うんですかね、ステレオを超えて、サラウンドになったんですよ。八方塞がりなのではないかというくらい、全方位から、猫の鳴き声が聞こえて来て、もうなんか、私、怖くなってきてしまって……これ、不思議でしょう?」

「たくさん猫がいたのでは」猫目さんは淡々とおっしゃいます。

「そうだと思うんですが、私には姿が見えなかったんですよ。でもなんでしょう、後ろの方から追い立てられているような雰囲気があって。あ、これはなんだか、怖いなと思ったんですね。一匹の猫なら、困るなあくらいで済むかもしれませんが、複数の鳴き声だったので、もう怖くて怖くて」

「それで、どうなったんですか」

 猫目さんの言葉から、結論をくような印象を受けたので、結論を急ぐ話し方に変更することにしました。話は聞いてもらってこそ価値を持ちます。

「私は猫の声から逃げるように、竹林を走りました。奥の方へ向かっていたんだと思いますが、その時は本当に……あの、私って結構、思い込みが激しいというか、自分を追い込んでしまう癖があるので、一度怖いと思うと、もうだめなんですね。それで、ほとんどパニック状態で、とにかく道の続いている方へ向かいました。多分、走っていたと思います。そして……どうなったと思います?」

「それを聞いてます」

「そうですよね。ええ、結論としては、私、気付いたら竹林を抜けて、入口に戻ってきていました。さっき見た、立て看板の場所にです。私がそこまで来ると、猫の鳴き声もふっと止みました。不思議に思ったんですが、なんだかもう一度入るのも怖くて……そのまま、電車に乗って帰りました」

「そうですか」

 猫目さんはそう言って、スツールに腰を下ろしました。あまり興味のなさそうな反応でした。話し方を間違えたかもしれません。私は、怖い話を怖く聞こえるように伝えるのが苦手なようです。実際に経験すれば、誰しも怖くなる現象なのに、どうして話では怖く感じないのでしょうか?

 女子高生と思しきお客さんたちが、席を立って、喋りながらカウンターに近づいてきます。聞いた話ですが、このお店は、実験器具を使って飲食物を提供しているので、見た目がオシャレということから、若い女性に人気があるようです。これを写真を撮って、インターネットに公開するようです。良い楽しみ方だと私は思います。女子高生たちは、猫目さんと少し好意的な会話をして、お金を払って帰っていきました。猫目さんはどうも、若い女性に人気があるようです。どことなくクールな印象があるので、そのせいでしょう。私は、若い女性はおろか、年老いた男性にも人気がありません。

「それは多分、化猫ばけねこですね」と、猫目さんがふいに言いました。

「化猫ですか」

変化へんげする猫、という意味ではなく、人をかす猫、という意味です。化かすというのは、だますとか、からかうとか、そういう雰囲気の言葉です。恐らく、神社で猫たちの集会などが行われていたのでしょう。知らない人間がそこに来ようとしたから追い払った。猫たちの理由としては、そんなところじゃないですか」

「そんなことがあるんですか」

「さあ?」猫目さんは言いました。少しだけ、笑っているように見えます。「非科学的な話をしてみました。科学的に解釈するなら、それは鳩川さんの幻聴では? あるいは、竹の葉のれる音が、偶然猫の鳴き声に聞こえたか。それとも、神社で何らかの神事しんじが行われていたかもしれません。考え付くのは、そのくらいです。一番あり得るのは、鳩川さんが過去に同じような体験をしていて、その時のトラウマが反映された、というものですね。一度恐怖に支配されると、なんでもないことに、過去の経験を重ねてしまうものです」

「ああ、なるほど……よくそう、すぐに仮説が思いつきますね。いえこれは、感心しているという意味です。私はすっかり、妖怪か何かの仕業だと思っていたもので……小さいお嬢さんがいれば、そういうのを見たことがあるか聞こうと思っていたんです」もちろん、それはなのかさんのことです。

「妖怪なんていませんよ」猫目さんは言いました。「非科学的です」

 なのかさんが来ないかな、と私は考えていました。ふと時計を見ると、もうすぐ午後四時になろうという時間でした。なのかさんは大体、このくらいの時間に小学校が終わるようなので、午後四時過ぎに、お店に来るようです。なのかさんにお話を聞けば、化猫の存在が証明出来るのではないかと考えていました。もちろん、科学的な証明を求めているわけではありません。私が信じられる要素があるかどうか、ということです。

「妖怪というものは、存在しないんですかね」私は問います。

「幽霊も妖怪も存在しませんよ。証明は出来ませんが」

「悪魔の証明ですね」私は知っている言葉を口に出しました。「そもそも、存在というのは、どういうことなんでしょうね。生きていることなのか、そもそもこの世に発生したこともないことを言うのか。小さいお嬢さんなら、死んだあとであれ、人間は存在し続けると言いそうですが。あるいは形を変えて、存在するように見せかけるのかも」

「ええ、そうかもしれません」猫目さんは目を伏せて言った。なのかさんの発言に対しては、肯定も否定もしないつもりなのかもしれない。

 私はそこで、なんとなく、話が一区切りついた、という印象を受けました。猫目さんも、テーブルの上に放置していた器具を片付けるため、カウンターを出ていきます。私は鞄の中から、書類を取り出し、今日頂いた名刺などをテーブルの上に広げます。今日面接を受けた会社は、化猫騒動があった会社とは別です。今借りているアパートからも近く、このお店にも、比較的近いです。いわゆる、本命の会社です。フォークリフトの免許はあまり役に立ちませんが、前職での経験が役に立ちそうな工場こうばです。化猫騒動のあった倉庫からはまだ連絡が来ていませんが、会社とは関係のないところでケチがついてしまったので、受かっていても、お断りしてしまうかもしれません。

 猫目さんが戻ってきて、器具を食器洗浄機のカゴに置いていきます。なんとなく気まずく感じ、私は沈黙を紛らわせるように、チョコレートケーキを食べることにしました。元妻に借金をしている身でこのような贅沢をして良いものか、という不安もありましたが、あまり考えないことにします。元妻にこういう発言をすれば、きっと、

「へえ、喫茶店に行ったの。そこ、珈琲美味しい? ふうん。じゃあ私も行くから連れて行ってよ」

 と言いそうな気がします。いや、間違いなくそう言うでしょう。

 ああ、これが存在なのかな、と、私はふいに、独自の解釈を思い浮かべました。ここにはいないけれど、元妻はどこかに存在しています。会話をしなくても、何を言うかが想像出来ます。あるいは、例えば猫目さんにしてみれば、私の元妻の存在など、架空の存在です。しかし、存在はしています。いるかいないか分からないものの、頭の中に生み出される。それが存在という言葉の意味なのかもしれません。ならば、化猫も、確かに存在していたのかもしれません。姿が見えなくても、そこにいて、鳴き声を上げていたのかもしれません。

 不確定な存在ですが、それでも存在している。

 実在とはまた違う、ということなのかもしれません。

 あるいは物語の登場人物も、存在していると言えるのではないでしょうか。

 私が妙な思考をこねくり回していると、勢いよく、ドアが開く音がしました。

 軽やかな音を奏でるはずのドアベルは、衝撃の強さで、一度だけカンと高い音を立て、そのあとは申し訳程度の余韻よいんを残します。この勢いの良いドアの開け方を、私は知っていました。

「ただいまー!」

「おかえり」

 二人分の声の応酬がありました。

 私の想像通りでした。動作などによって、姿を見なくても、誰が入ってきたのか想像することが出来る。もしかすると、これも存在なのでしょうか。私は振り返りながら、そんなことを考えました。

 店に入ってきたのは、なのかさんと、店長さんでした。

 普段は店の中で見る二人組なので、二人が同時に店に入ってい来るという光景は、妙に新鮮でした。

「ああ、鳩川さん、こんにちは」と、店長さんが言いました。

「こんにちは!」なのかさんが元気に言います。

「こんにちは」私はそれだけ言うに留めました。名前を呼ばれて自己紹介するのも、変な話です。自分が後手に回る場合は、私の挨拶は大人しいようです。

蒼太そうた、ありがと」

「うん」

 店長さんは、猫目さんに言いながら、カウンターに入っていきます。詳しく聞いたことはないですが、この二人は姉弟きょうだいだという推理を私はしています。そーた、というのが本名かは知りません。そうたろう、とか、そういう名前の可能性もあります。もしかしたら苗字も違う可能性もありますが、全て不確定です。かと言って、自分から聞くのもなんだかはばかられます。私は基本的に、臆病なのです。

「蒼太お兄ちゃんもこんにちは!」

「こんにちは」猫目さんは優しそうな表情で、なのかさんを見ました。「七佳なのか、また倒れたんだって?」

「そうなんです」困ったような表情で、なのかさんが言います。「六時間目の算数の途中で、倒れちゃいました」

「ああ、お迎えに行っていたんですか?」私が尋ねます。なのかさんが頻繁に幽体離脱してしまう体質だということを知っていたので、何があったのか、なんとなく想像がつきました。

「ええ。ご両親が動けなかったようなので、代わりに」店長さんが答えました。「まあ、いつもみたいに保健室で休ませていても良かったんですが。今日は丁度、蒼太も家にいましたし、お客さんも少なかったので」

「姉は人使いが荒いんですよ」猫目さんは、私に向けて言いましたが、小声ではなかったので、店長さんににらまれていました。

「蒼太は、どうする。部屋に戻る? それとも、何か飲む?」

「うーん、せっかくだし、姉ちゃんの珈琲でも飲もうかな。コロンビアで」

「七佳は」

「私もせっかくなので、緋子先生の珈琲を飲もうかと思います。コロンビア? にします」

「今日は暑いし、オレンジジュースにしようか」

 店長さんはいつもなのかさんに何を飲むか尋ねますが、大抵の場合、その意志は尊重されません。私はこのやりとりが好きだったので、思わず頬を緩めました。

 猫目さんはエプロンを外すと、カウンターから出て来て、窓際のテーブル席に座ります。科学喫茶には雑誌を置くようなラックや、小さな書棚がありましたが、ここから一冊文庫本を抜き取って、読み始めました。細身でクールな印象があるため、絵になる男性だな、と感じます。女子高生たちに人気があるのも、頷けます。

 私は、なのかさんたちに対して、猫目さんにしたのと同じような話をしました。どうせ怖い語りが出来ないと分かっていたので、端的に事実だけを伝えました。

 話し終えた後、なのかさんの反応は、「私も猫さんに囲まれてみたいです」でしたし、店長さんの反応は、「そういう道なんでしょう」でした。二人の反応を見るに、猫目さんが、いかに私の話に温情ある反応をしてくれたか、と身にみました。

 それから二十分程、私はなのかさんの今日の出来事を聞きながら、時間を過ごしました。ケーキもアイスコーヒーも終わり、半分以上の時間、私は水を大切に飲んでいました。これが終わったら、この場にいる権利を失うような気がしたからです。

 午後四時半に差し掛かる頃になって、私は水を飲み干して、家に帰ることにしました。財布から、伝票に書かれた通りの硬貨を出して、立ち上がります。

「私、そろそろ帰ります。どうも、ごちそうさまでした」

「どうも」店長さんは愛想なく応じます。

「さようならー」

 なのかさんが元気よく手を振ってくれるので、私も小さく手を振りました。小さな子ですし、本来であれば守るべき存在なのですが、私にとって彼女は、恩人の一人です。面接という一大イベントを終えた今日、私は何とも言えない充足感を味わいながら、店を後にします。ドアベルの心地良い音色に後ろ髪を引かれながら……。

 今日の楽しみはこれで終わりです。明日は特に予定はありませんが、何もしない日に贅沢ぜいたくをするわけにはいきません。私は、とぼとぼと、来た道を歩き始めました。これから家に帰っても、誰もいません。私が選んだ生活ですが、時折、無性に寂しくなります。寂しさが募り、元妻に電話をしてしまいそうになりますが、元妻には迷惑ばかり掛けていますし、私が無理を言って離婚してもらったのですから、プライベートをおかすような真似は出来ません。多分、元妻は気にしないと思いますが……私にも、妙な拘りがあります。頑固なところがあるのでしょう。

 店から離れ、大通りに差し掛かろうという所で、私は一度、猫の鳴き声のようなものを聞きました。

 幻聴だろうか、と考えます。

 後ろから聞こえた気がしたので、振り返りました。

 ですが、誰もいません。

「鳩川さん」

 私は驚きのあまり、声が出せませんでした。何の前動作もありませんでした。急に名前を呼ばれ、肩にも手を置かれていたのです。私はまた振り返ります。つまり、今までの進行方向を向きました。

 そこに立っていたのは、猫目さんでした。

「これはどうも……」私はそんなことを言いました。

「鳩川さん、忘れ物ですよ」

 猫目さんは、手に小さな紙を持っていました。何かと思い受け取ると、それは、今日面接を受けた会社でもらった名刺でした。カウンターに書類を広げた時、忘れてきたのでしょう。色々と混乱しながらも、私は頭を下げます。もう、店からは五分以上歩いていたはずです。なぜ、猫目さんは私がここにいることが分かったのでしょうか。ずっとつけられていたのでしょうか? それにしては、背後からは足音がしませんでした。途中で気付いてから、走って追いかけたにしては、足が速すぎる気もします。猫目さんは、息が上がっているようには見えません。そもそも、私の家を知らないはずですから、進行方向も知らないはずです。一体……。

「あの、猫の鳴き声が聞こえませんでしたか」

 私は何故か、混乱してしまっていたため、そんなことを言いました。言ってから、すぐに後悔しました。猫目さんには、その話をしたばかりですし、大人が猫を怖がっているなんて、呆れられるのではないかと思ったからです。しかし猫目さんは、

「ああ、さっきのは私です」

 と、不思議なことを言いました。

「実は俺、化け猫なんすよ」

 そして、急に声のトーンを変え、可笑おかしそうに笑います。接客中とは違った口調でした。からかわれているのか、と思いましたが、なんだか怖くなってしまって、猫目さんの言っていることが現実にならないよう祈りながら、私も笑うことにしました。きっと冗談を言っているんだ、と祈るような気持ちです。笑っていなければ、すぐに何か悪いものが襲ってきそうな気がしたのです。

「すみません、ありがとうございました。名刺」

「今日は集会もなくて暇でしたから、構いませんよ」猫目さんの口調は接客中のものに戻っていました。

 私は頭を下げて、再び帰路を歩き始めます。すると、「でも、気を付けてくださいね」と、猫目さんが言います。忘れ物のことだと思い、「はい、次からは確認します」と言いました。

「ああいや、名刺じゃなくて」猫目さんは、両手の人差し指を立てて、顔の両側に置きました。耳を表しているようです。「化猫は、信じる人間に悪戯いたずらしますから。怖がってると、いつまで経っても、悪戯されますよ。相手にしてくれるから、嬉しいんです。彼らは、素直に怖がる人間と、全く怖がらない人間が、大好きですから」

「そういうことがあるんですか」

「さあ?」猫目さんは首をひねります。「非科学的なことを言ってみました」

「化猫って、本当にいるんでしょうか」私は問います。

「いるわけないじゃないですか」

 猫目さんはそう言いましたが、猫目さんの瞳が、細く鋭くなっているように見えて、私はなんだか怖くなり、何度も頭を下げて、やはり元の進行方向を向きました。これはきっと、猫目さんが言った通り、科学的に証明出来るトラウマが、私の中にあるのだろう、と考えました。そう考えなければ、説明がつきません。

 すぐに、どこかで猫の鳴き声が聞こえた気がしました。

 後ろを振り返ると、今度はそこには猫が一匹、ちゃんと存在していました。

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