科学喫茶と煙の火種

「いらっしゃいませ」

 午前十一時だった。科学喫茶『C3-Lab』の店内には、現在、六名の客がいた。二人客が二組、一人客が二名。二人客のうち、一組は六人掛けのボックス席に座っている。もう一組と、残りの一人客たちは、テーブル席を利用していた。つまり、テーブルもボックス席も満席の状態だった。この時間帯にしては客の入りが多いな、と、店主の猫目ねこのめ緋子ひこは考えた。

 入店してきたのは、一人の若い女性客だった。しかし、一見して、性別がすぐに判別出来る容姿ではなかった。活動的な服装に、アクセサリの類は一切なく、自然な色のショートカットで、ボーイッシュな印象だった。身体の起伏も少なく、身長も緋子と同じくらいだ。女性にしては比較的高いと言える。非常に中性的な見た目をしていた。バッグも持っておらず、トータルして見ると、ラフな印象を受けた。年齢は、二十代後半くらい。休日が不規則な仕事をしているのだろう、という予想をした。

 緋子が女性と判断したのは、サンダルから覗く爪先に、ペディキュアが塗られていたからだ。それだけ深く観察した理由は、彼女に見覚えがなかったから。つまり、初めての訪問であるように見受けられた。緋子は割合、客の顔を覚えるのが得意なタイプだった。

「一人、なんですけど」

 女性は入口で立ち止まり、緋子に状況を説明した。声は高く、女性的だった。緋子は自分の推測が当たっていたことに、満足する。もちろん、声が高くても、女性だという証明にはならないが。

「カウンターでもよろしいですか」

「ええ、大丈夫です」

 緋子は、L字型のカウンターの長辺にある席に女性を案内する。既に午前ピークを過ぎていて、店内には緩やかな空気が流れていた。恐らくテーブルに座っている客たちから追加注文はないだろう、というのが緋子の悲観的な予想だった。だが、それだけカウンターから出る回数が減るので、疲れなくて済む。ほとんどの時間を一人でこなしている緋子にとっては、カウンターに座る客は、ありがたい存在だった。

 女性はメニューを開き、内容を確認する。その間に、緋子は浄水機能のついたタンクから伸びるホースで、小さめのビーカーに水を注いだ。タンクには、H2Oという化学式が書かれている。

「どうぞ」

「ありがとうございます」女性は顔を上げる。若いことには変わりないが、心労があるのか、肌は少し劣化して見えた。「わ、お水もビーカーで出てくるんですね」

「変わってるんです」他人事のように、緋子は言った。

 女性が注文をする前に、テーブル席に座っていた一人客が立ち上がり、会計を済ませた。ブレンドとパウンドケーキの注文だった。千円札を受け取り、二百円返す。緋子が礼を言いながら客を見届けたあと、「すみません」と声が上がる。

「はい。お願いします」

「ブレンドコーヒーと、シュガートーストを」メニューを指差しながら、女性が言う。「ミルクとお砂糖ってありますか?」

「ブレンドとシュガートーストですね。お砂糖はこちらです」と言って、緋子はカウンターに並ぶ試験管を示す。「ミルクは珈琲と一緒にお出しします」

「お願いします」

 電気ケトルに水を張り、スイッチを入れる。食パンを一枚分切り分けたあと、表面に六分割するような切れ込みを入れた。その上にマーガリンを塗って、グラニュー糖を適量振り、オーブントースターに入れ、アナログタイマーのノブを五分にセットしてから、三分に戻す。七十パーセントの作業がこれで終わった。ケトルが沸騰を知らせる前に、緋子は客のいなくなったテーブル席から器具を回収し、後片付けを済ませた。器具を食洗器に入れて、サイフォンの準備に取り掛かる。カウンターに座った女性は、その動作をぼんやりと眺めていた。

「初めてのご来店ですよね」

 緋子が尋ねると、女性は驚いたような表情を見せた。

「あ、はい。初めてなんです」

「どうもありがとうございます」緋子は手元に視線を向けたまま言う。

 ひとりで喫茶店に来る客には、大きく分けて二種類のタイプがいる。誰とも話さずに静かに過ごしたいタイプと、あまり接点のない他人と会話がしたいタイプだ。緋子は、テーブル席が空いたのに移動を希望しないところを見ると、彼女は気が弱いか、あるいは自らの意志でカウンターを選択しているようだ、と考察した。もしおしゃべりが希望であれば、軽い話し相手になる準備はあった。それも仕事のうちである。

「あのう、実は、人に教えてもらってこのお店を知ったんです」

「はい」緋子は失礼にならない程度に、無機質な口調を心がける。

「使っている食器が珍しくて、ガラス製のものが多くてオシャレで、こだわりがあるって。あと、珈琲が美味しいとも聞きました」

「はい。ありがとうございます」

「あと、心霊現象の相談にも、乗っていただけるって」

「はい。……はい?」

 緋子は思わず聞き返したが、サイフォンが逆流を始めていたので、作業を止めるわけにもいかなかった。内心では、またか、という気持ちになっていたが、なるべく表情に出ないように心がける。

 この数ヶ月の間にこの手の客が来たのは、緋子が正確に記憶しているだけでも三人目だ。一人目の時は、まあそういう噂が流れることもあるだろう、と適当に考えていたし、二人目の時も、偶然は重なるものだ、程度に考えていた。しかし、三度目ともなると、これはいよいよ、共通した情報源が存在するのだ、と考えられた。火のないところに煙は立たない。もっともこの場合、火種はこの店の小さな常連客を指すのだろうが。

「あのう……幽霊とか、お化けとか」

 同じ意味じゃないのか、と突っ込みを入れたかったが、作業が重要な局面だったので緋子は返事をしそこねた。抽出ちゅうしゅつ攪拌かくはんが終わってから、アルコールランプを消火する。スリーブが巻かれたビーカーを食器棚から取り出して、「ええと」と思案するように切り出した。

「どういう、噂? なんでしょうか。その、心霊現象というのは」

「幽霊なんかが見える店員さんがいて、そういう、超常現象? 的なことについて、相談に乗ってくれる、みたいな感じでした。……もしかして、違いますか?」

 緋子はビーカーに珈琲を注ぎ、小さいサイズのアルミバットにトーストを乗せた。冷蔵庫から、小型のビーカーを取り出す。中には既にコーヒーフレッシュが入っていた。

「お待たせしました」

「どうも、ありがとうございます。あ、すみません、お砂糖ってありますか?」

「こちらの試験管のものをご利用ください」と言って、カウンターに置かれた試験管を示し、ガラス棒を添える。「マドラーにはこちらを」

「理科室みたい」女性は嬉しそうに言った。

 珈琲は二杯分を一度に作っていた。緋子はそれを、朝から使っている自分のビーカーに注ぎ、カウンターの内側にあるスツールに腰掛ける。猫舌なので、少し冷ます必要があった。

「あのう……」

「それは、うーん、そうですね、半分くらい正しいです」緋子は困惑しながら応じる。「ですが、うちはそういうサービスはしていません。過去に何度か、そういうお客様がいらっしゃって、偶然、何らかの解決に結びついたことがあります。でも、それはお客様自身が解決したことで、私たちが何かアクションを起こしたということではありません。それにそもそも、そういう依頼を受けていたわけではないので」

「あ、そうだったんですか……」

 女性は残念そうに言ったが、すぐに、表情を明るくした。

「でも、素敵なお店を知ることが出来たので、結果オーライですね」

「結果オーライ」緋子は言葉を繰り返した。「結果的には、オールライト」と、小声で呟く。

「なんですか?」

「いえ、なんでもありません」

 緋子は一瞬停滞した空気を、適温になった珈琲の中に集めて、飲み込んだ。胃の中がオールライトになった、と感じてみるが、当然、そんなことにはならない。結果オーライとはどういう意味なんだろう。多分、この女性客の望みは、まったく叶えられていないはずだが、と考える。

「ちなみにその、お願いとかをするつもりはないんですが、店長さん……あのう、あなたが、店長さんですよね?」

「他に従業員はいませんから、そうなりますね」緋子は言う。「たまに、繁忙期には、お手伝いが出てきますけど」

「ああ、ずっとお一人で。それは、大変そうですねえ……」

「私より、お客さんが大変ですね。注文をしたくても、結構、待たされるので」

「じゃあ、店長さんが霊能力者なんですか?」

 そんな非科学的なものに憧れたことは一度もなかったので、緋子は苦笑した。首を振り、「まさか」と言う。

「じゃあ、どなたが?」

「そういう能力を持っているように観察されるのは、うちの常連さんです。なので、お店として、そういう相談は受けられないんです。個人的なことであれば、まあ、好きにやって、という感じですけど」

「ああ……それは、そうか、当たり前ですね」女性は緋子の説明に、納得した様子だった。「すみません、不躾ぶしつけなことを訊いてしまって」

「別に構いませんよ」緋子はそこでふと、質問を思いついた。「代わりに、私も不躾なことを質問してもよろしいですか」

「はい? 何でしょう」

「その噂って、誰から聞きました?」


 ◇


 午後二時だった。

 店内は安定していた。つまり、客が一人もいなかった。緋子は最後の客が帰った午後一時半頃に電子レンジでパスタをで、フライパンでナポリタンを作った。ピーマンの他に、余ったレタスとコーンを入れてみたが、あまり良い結果は得られなかった。レタスはサラダにした方が良かったかもしれない、と実験についての振り返りをしていた。ひらめきによる実験が上手く行くケースはほとんどないが、成功する実験も、大抵の場合、閃きが重要である。そもそも、規定通りの実験をしても、楽しくない。

 ドアが開き、ドアベルが鳴った。「いらっしゃいませ」と、緋子は立ち上がり、姿勢を正す。

「こんにちは」

 来客者は、男だった。一見すると若いが、全体的に悲壮感が漂っている。頬がこけていて、いかにも不健康そうな見た目だった。見覚えがあるな、と緋子は思ったが、脳のデータベースにアクセスするより前に、男は、

鳩川はとかわ文帖ぶんちょうです」

 と言った。

「あ」

 緋子はほとんど絶句した。

 まさか、この男が来るとは思っていなかった。

「お久しぶりです」

「……お元気そうで」緋子は通常の接客を諦め、スツールに座りなおした。「てっきり、死んだものかと」

「いやいや。まだ、ツケが残っているので」

「九十七万五百円」

「よく覚えていらっしゃいましたね」男は笑いながら、以前と同じカウンター席に座る。「コーヒーをひとつ、いただけますか」

 緋子は無言で電気ケトルのスイッチを入れた。中には、十分ほど前に入れて余った水が残っている。水を入れ替えるのが普通だが、この男に対して、何故かそうした徹底をする気になれなかった。嫌いなわけでは、ないと思うのだが。

「どうも、あまり、私の生死に関して、関心がなさそうですね」

「実を言うと、死んでいないという確証がありました」緋子はサイフォンの濾過器ろかきをつまみ上げる。「なので、生きていることには、驚きません」

「では一体、先程は何に驚かれたんですか?」

「午前中に来たお客様から、あなたの名前を聞いていたので。まさか、その日のうちにいらっしゃるとは思っていませんでした。つまり、そのお客様は、あなたに紹介されてこの店に来たようです」

「そうですね」

「そうですね?」

「若い女性でしたか?」

「ええ」

「じゃあきっと、看護師さんだ」鳩川は可笑おかしそうに言って、口元を手で隠した。「すみません、つい、ここを宣伝してしまいました。素敵なお店なものですから、自慢がしたくて。ここで起きたことも、話のネタになるでしょう?」

「いや、まあ。お店としては助かりますけど……」緋子は言い方を考える。「非科学的な宣伝は、ちょっと」

「ああ。ええ、あの小さな女の子に迷惑が掛かるような伝え方になってしまっていたなら、申し訳ない。それは、本当に、お詫びします。そういうお店だ、という表現はしなかったつもりなんですがね。私が偶然、救われた、という言い方をしました。ですが、誤って伝わったかもしれません」

「ですか」

 緋子はサイフォンを操り、珈琲を抽出した。また、二杯分精製する。鳩川の分はビーカーに入れ、自分の分は、今度は三角フラスコに注ぎ、軽く振って熱を冷ました。飲みにくいが、適温になるまでの時間が速い。

「ところで、何を飲んだんですか?」緋子はフラスコの中を覗きながら尋ねる。

「これから珈琲を飲む予定です」

「自殺計画の話です」

「何故ご存知なんですか?」鳩川は驚いたように訊き返す。

「なにがですか」

「私が何かを飲んで自殺をしようとした、ということをです」

「推測です。自動的な自殺と仰っていたので、薬か、液体かと思いました」

「はあ……なるほど。そうですね、お恥ずかしい話ですが、洗剤で自殺をはかりました」鳩川は、どこか懐かしむように言った。「昔の映画で、洗剤をシリアルに混ぜて子どもを殺した、という描写があったんですよ。それを見て以来、私、洗剤ってなんだか、人を殺す道具だと思っている節がありまして。飛び降りや首吊りより、迷惑の度合いを低くして死ねるだろうなという期待もあって、選んだんです。もっとも、苦しみは、それらに比べて、遥かに高かったようですが」

「でも、死ねなかったんですか。甘い実験計画ですね」

「一応、色々調べたんですよ」言い訳をするように、鳩川は言う。「体重あたりの必要量ですとか、どのくらいの時間で体に異変が現れるか、とか。実際あの時、お店にいる間も軽い痛みや、嘔吐おうと感はありました。それで、そろそろこれはまずそうだ、というところで、店を出ました。その後、五分くらいで、激しい痛みを感じてましてね。あまりの痛みに耐えきれず、意識を失いました。私はその時、死んだと思ったんですがね。倒れているのを見た親切な方が病院に通報してくださって、そのまま緊急入院です。一命をとりとめてしまいました」

「そうですか。資産を失わなくて済みました」

 緋子は時計を眺める。二人が鉢合わせすることはなさそうだな、と、推察する。鉢合わせしたところで、大きな問題にはならないだろうが。

「それで、いつ頃退院されたんですか?」

「先週です。二ヶ月程入院していました」

「そうですか。その後、お仕事は?」

「今はまだ。貯金が切れても、しばらくはお金が入る予定ですから、のんびりしています。ただ、何か仕事は探さないといけませんね。生きるために」

「次の自殺の予定は?」緋子は無機質に尋ねる。

「今のところはありません。入院中、例の、腕を落としてしまった同僚が見舞いに来てくれて、和解というか、話し合いましてね。なんだか、私一人が悩んでいたんだなあ、という気持ちになりました。まあ、当時は一種の、鬱状態にあったということなんでしょう。私はこれから、その同僚の力にもならなければなりませんし、それにこの店にある、大きなツケを返さないといけませんから。あるいは借り、ですかね」

「あれは、冗談ですよ」緋子は立ち上がり、冷蔵庫を開ける。冷えたマフィンが四つあった。「冷たいですけど、一個どうぞ」

「ああ、これはこれは、すみません」

 鳩川はマフィンを手に取ったが、口にはせず、そのままカウンターのクロスの上に置いた。

「これは、五十万円くらいですか?」マフィンを見つめたあと、鳩川は緋子を見た。

「二万円くらいで手を打ちましょうか」緋子はマフィンを口にしながら言って、パン、と手を鳴らした。「ツケも帳消し。二万円は、妙な噂を広めた迷惑料ということで。それであなたの負債ふさいはゼロにします」

 本気で鳩川から百万円近い金をもらうつもりはなかった。だが、ただ単に冗談だったと言っても、鳩川は納得してくれないような雰囲気をまとっていた。二万円程度巻き上げておけば、彼の中でも決着がつくのではないかという、緋子なりの優しさだった。

「それ、手切れ金、ということではないですよね」

 鳩川は内ポケットから財布を取り出すと、一万円紙幣を二枚、カウンターに置いた。妙な取引でもしている気分だ、と緋子は思う。紙幣を素早く折りたたむと、白衣のポケットにしまった。この店はどうも、一万円札の飛び交う頻度が高い。

「どうぞ、今後とも御贔屓ごひいきに」

「しばらく通えば、私も常連になれますかね。いつもの、と言えば、今飲んでいる珈琲が出てきますか?」

「そういうやりとりに、憧れがあるタイプなんですか」

「まあ、全人類の夢ですよ、これは多分」

「よろしければ、スペシャルブレンドも用意しますよ」緋子は自分だけが分かる冗談を口にする。

「へえ。裏メニューみたいなものですか?」

「まあ」

 鳩川はようやく、マフィンに手をつけた。マフィンの頭部にかじりつき、満足そうに微笑む。以前来た時にも、パウンドケーキを物欲しそうに見ていた覚えがある。彼は珈琲はブラックで飲むが、甘い食べ物が好きらしい。

「ところで、前から少し気になっていたんですが……そこの棚にある、理科室にあるようなびんには、何が入っているんですか?」と、鳩川が食器棚の上部を見ながら呟く。

試薬瓶しやくびんですか」

「ああ、そういう名前なんですか」

「角砂糖とか、塩とか、小麦粉とか……まあ、粉ものですね。ベーキングパウダー、とか。普通の薬品もありますけど」

「ああ、これらの材料ですか」言って、鳩川はマフィンをもう一口かじった。「隣の、ウイスキーボトルには?」

「当然、ウイスキーが入っています」

「へえ、飲まれるんですか?」

「ええ。お客様用にもいくつか、アルコールの用意があります」

「そうなんですか? ここは、お酒の提供もあるんですか」

「と言っても、夜だけです。喫茶店の閉店後、たまに、バーをやっています。ただし、掛札はクローズになっているので、知っている人しか、入ってきません」

「知る人ぞ知るバーか……」鳩川は頬杖をついて、棚にあるウイスキーボトルを見つめる。「それを話していただけたということはつまり、私もそのパーティに参加しても良い、という意味に受け取っても良いんでしょうか」

「パーティ?」緋子は思わず笑ってしまう。「パーティというのは、らんちき騒ぎ、という意味ですか」

「ああ、表現が悪かったですね。なんて言うんでしょう、ナイトクラブ?」

「ナイトクラブ」緋子はまだ笑っていた。「多分、会員制のバーみたいなものを想像していると思いますが、全然そういうものではないですよ。私がたまに、アルコールを摂取せっしゅしたい気分のときに、喫茶店を閉めてから一人でお酒を飲んでいるだけです。知っているお客さんが来たら、お金をもらって、カクテルを作ったり、ビールやウイスキーを、一緒に飲みます。それだけです」

「それは……なんというか、素敵ですね」

「まあ、開催は気まぐれなので。月に一度も開催しない時もあります。本当に、私の気分次第です」

「合図はあるんですか? というのは、外から見て、バーをやっているかどうか、判断がつくんですか、という質問です」

「午後七時以降に店内に明かりがついていて、鍵が掛かっていなければ、バーですよ」

「へえ、いいことを聞いた。今度、ぜひお邪魔します」

「そうですか」

「いつ頃が狙い目か、という統計はありますか?」

「わかりません。いえ、でも、金曜日かな。土曜日の夜は忙しいので、アルコールを飲もうという気分になるのは、金曜日か、あるいは日曜日の夜です。ですが、日曜日の夜は人が来ないですから、あまり開催しませんね」

「わかりました。金曜日、狙ってみます。実は、私も結構、お酒が好きなので。ふうん、いいですねえ。これは本当に、いいことを聞いた」

「まあ、機会があれば」緋子はそう言って、ふと、全く別の話題を思いついた。「代わりに、私にもいいことを聞かせてほしいんですが」

「なんですか?」

「さっき話していた看護師さん、どんな相談をしようとしてたか、聞いてますか?」


 ◇


 一週間後、時刻は十二時過ぎだった。

 科学喫茶では、ランチ目的での来客はほぼないため、昼時はあまり忙しくはない。ほとんどの喫茶店がそうだと言えるだろう。今日は、常連客の小説家が、朝からテーブル席で作業をしている。他に、ボックス席に、四人組の学生客がいた。全員がアイスコーヒーを注文しており、何らかの打合せをしている様子だった。普段の静けさと比較すると、多少騒がしいが、緋子はあまり気にしていなかった。小説家も、自分の世界に入り込んでいるようで、微動だにしていない。

 正午を過ぎても常連客の小説家がフードを注文しないため、いつ頃お昼を食べようか、と緋子は考えていた。小説家が来ている時は、大体同じタイミングで食べるようにしている。どうせなら、調理は一度で済ませたいだから。最悪、勝手に作って、勝手に提供し、勝手に請求する手も考えたが、まだ決断するほど空腹感は切迫せっぱくしていない。緋子はぼんやりと、食器棚を眺める。食料品の在庫はまだあったため、買い出しの必要性もなかった。

 ドアが開いたのを察知し、緋子は頬杖を解除した。スツールから立ち上がり、「いらっしゃいませ」と対応する。入ってきたのは、見覚えのある客だった。むしろ、彼女を待っていた、と表現しても良いくらいの相手だ。

「こんにちはぁ」

 来客者は、以前心霊現象の相談に来た、女性看護師だった。

「一人なんですけど」

「どうぞ」

 今日はいくらか、女性らしい出で立ちだった。控えめなイヤリングをしているし、左腕の腕時計のバンドが、鮮やかな赤色だった。その装飾は、極めて女性らしい、と緋子は判断する。

 彼女は迷わず、前回と同じカウンター席に座った。緋子が「ブレンドですか?」と尋ねると、「今日は、アイスコーヒーを」と、メニューを見ずに答えた。

「お昼は召し上がりましたか?」営業のつもりで、緋子は尋ねる。

「いえ。えっと、夜勤明けで、起きたばかりです」

「そう言えば、看護師さんなんですよね」

「ええ。……あれ、お話しましたっけ?」

 前に言ってましたよ、と言おうとしたが、「うちのことを患者さんから聞いた、と言っていたので。推測です」と、緋子は当たり障りのない答え方をした。まだ、そこまで乱暴な発言を出来るほどの仲ではないし、自分の勘違いという可能性もあった。そう、もしかしたら、鳩川から聞いたのが最初かもしれない。

「えっと、ここは、ランチメニューとかもあるんですか?」

「ランチというほどの量ではありませんけれど。甘くない、軽食になりそうなものは、フードメニューの裏面にありますよ」

 女性はメニューを見て、すぐに「あ、クラブサンド、美味しそうですね。これもください」と言った。緋子も、今日のランチはクラブサンドにしよう、と決める。昼時、客と同じメニューを口にするのは、日常茶飯事である。

 細長い、アイスコーヒー用のビーカーに、氷を入れる。アイスコーヒーは、作り置きをジャグに入れてあったので、サイフォンの出番はなかった。

「甘い方が良いですか?」

「あ、はい。甘いのが好きです」

 緋子は駒込こまごめピペットでシロップを吸い取り、適量をビーカーに入れると、その上からアイスコーヒーを注いだ。市販のガムシロップより粘度の低い、業務用のシロップだ。それをガラス棒でかき混ぜ、混合させる。味が均一になる頃合いで、ストローを刺してから、提供した。

「どうぞ」

「わあ。なんか、実験みたいですね」

「この方が、正確に測れますから」

 アイスコーヒーを提供してから、緋子はすぐにクラブサンドの作成に取り掛かることにした。クラブサンドは食パン二枚で具材を挟み、それを二分割した状態で提供している。緋子は食パンを切り分け、六枚作る。つまり、三人分だ。

「鳩川文帖さん、ですよね」緋子は調理をするため、背中を向けたまま、女性に話しかける。

「え?」

「この店を宣伝してくださったという、患者さんの名前です」

「あ、そうです」言ったあと、女性はすぐに、「言っちゃいけなかったっけな……」と小さな声で言った。

「患者さんの個人情報は漏らせないんですか」

「一応、そういう規則ですね……うっかり言っちゃいましたけど」

「もう退院されてますし、問題ないのでは。病院のルールは知りませんけれど」

「まあ、そうですかね。元々、店長さんのお知り合いみたいですし、大丈夫ですよね」

「いえ、彼はただのお客様ですよ」

「でも、フルネームでご存知なんですね」

「勝手に向こうが名乗るので」緋子の口調は少しだけ辛辣だった。「ちなみに私は、猫目緋子と言います」

「あ、私は、犬飼いぬかい恵美めぐみと申します。犬猫ですね」

「ですね」緋子は興味なさそうに反応した。

「鳩川さん、退院されてから、お店にいらっしゃったんですか?」

「ええ。犬飼さんが来たその日に。多分、偶然だと思いますが」

「あ、そうだったんですか。へえ……珍しいこともあるんですね」

「思ったより、大変そうで」

「え、予後が悪いんですか?」

「ヨゴ」緋子は繰り返す。「ああ、鳩川さんの話じゃないです」

「私ですか?」

「ええ。ずいぶん、悪霊のいたずらに悩まされているとか」

 トマトをスライスし、レタスを手で割って、あらかじめ用意してあったベーコンを、それぞれマーガリンを塗った食パンに配置していく。調理台の上に三枚の食パンを並べると、スペースに余裕がなくなった。

「ああ……ええと、そうですね。鳩川さんから聞いたんですか」

「軽くですけど」

「そうですか。なんだかあの人、不思議な雰囲気ですよね。最初の印象は、あまり近寄りたくないな、という感じだったんですけど、話しているうちに、なんだか、引き込まれるような……ギャップって言うのかわかりませんけど、最初、変な人だな、と思ったけど、話してみると案外普通の人で、警戒心が緩んじゃうんですよね。入院中、結構、鳩川さんとは無駄話をしてしまいました」

「そうですね。彼はなんて言うか、反応中の薬品、という印象です」

「どういうことですか?」

「話に付き合っていたら、何か面白い結果が得られるかも、という雰囲気があります。危うさというか、不気味さというか……なんだか面白い話をしそうな雰囲気がありますね。結果、大したことはないんですけれど」

「ああ、そんな感じかも」恵美は深く頷いた。

 具材の乗っていない、蓋の役目を担う食パンに、マスタードを薄く塗る。それを被せると、三食分の種が出来た。これをホットサンドメーカーに挟めば、準備は終わりだ。ホットサンドメーカーは二種類あり、標準的な一食用のものと、二つ同時に焼けるものがあった。五徳ごとくの上に配置して、ガスコンロを三つ同時に付け、火力を均一に調整する。

「心霊現象は、まだ続いているんですか?」

「ええ、はい」恵美は不安げな表情を浮かべた。「昨日も、夜勤中、起きました。お話しても良いですか?」

「どうぞ」

「えっと、うちの病院では、夜間の見回りは看護師が持ち回るんですけれど……昨晩、私が見回りをしている時、廊下で何かを踏んだ感じがしたんですよ」

「何か」

「ボールペンでした」

 緋子は、それが何故悪霊の話と結びつくのか分からなかった。そのため、会話のマナーとして、「誰かの落とし物では?」と、簡単な返事をした。多分、恵美は、そうした会話の応酬を望んでいるのだろう、と考えたからだ。

「最初は私も、危ないなあ、って思ったんですよ。患者さんも通る廊下ですから。でも、拾って確かめたら、それ……私が見回りに出る前まで、ナースステーションで使っていたものだったんですよ!」

 普通の話し相手なら、ここで怖がるべきなのかな、と緋子は考える。だからそうした反応をしようかと思ったのだが、それよりも先に、「同じメーカーの、同じ商品だったとか」という言葉が口をついていた。科学的な解決を求めようとするのは、緋子の悪い癖と言ってもよかった。

「ええ。普通は、そう思いますよね。でもですね、ナースステーションに戻ったら、机の上から、そのボールペンはなくなっていたんですよ!」

「ですか」緋子はホットサンドメーカーを反転させる。「いわゆる、ポルターガイスト現象? というやつですかね」

「はい……多分」恵美は少し寂しそうに答えた。

 緋子は、七ツ森ななつもり夏乃佳かのかという少女のことを考えた。話を聞く限り、彼女の領分ではない、という感じがする。それは緋子の考えであって、絶対的な正解ではないが、何かもっと、恵美の話は、科学的に証明できる問題であるような気がした。それに確か、幽霊は物を触れない、という話を聞いた気がする。もちろん、全ての幽霊がそうなのかは知らないが。

「誰かのいたずら、という可能性が考えられますよね」

「それも、もちろん考えました。誰かが私を怖がらせようとして、見回りに行ったタイミングで私物を盗んで、廊下に転がした、とか。でも、夜間であっても患者さんが出歩くことはあり得ますし、看護師がそんなことをするとは到底思えません。私が気付かない可能性もあるのに、あまりにも無駄な気がして。その……誰かが私を恨んでいるのだとしたら、小規模すぎると思うんです。そんなことが、何度も起きてるんですよ」

「そうですね」緋子は無機質な声を出した。「でも、犬飼さんがそれを幽霊の仕業だと考えるのには、何らかの理由があるということですよね」

「え、ああ……そうですね。はい。もちろん病院なので、その手の話はよく上がるんですけど、私個人にも、ちょっと、思い当たる節というか……心当たりはあるんですよね」

 ホットサンドメーカーを開く。良い具合に焦げ目がついていたので、緋子は火を止めた。まな板の上に三つのクラブサンドを置いて、斜めに二分割する。それを、軽食用のアルミバットに乗せた。カウンターの上に、『C3-Lab』というロゴの書かれた紙ナプキンを敷いて、フォークを置く。調味料として、タバスコの瓶を添え、最後にクラブサンドを提供した。

「どうぞ」

「ありがとうございます。すっごく美味しそう!」

「お話中すみません。ちょっとだけ、失礼しますね」

 緋子はフォークとタバスコを右手に持ち、クラブサンドの乗ったアルミバットを左手に乗せてカウンターを出ると、小説家が作業をしているテーブルに向かった。彼は珍しく作業が進んでいるようで、断続的にではあるが、打鍵をしていた。

「はい、五百円」

 緋子は言って、テーブルの上にアルミバットを置き、フォークをその上に直接乗せた。鈍い、金属が触れ合う音が鳴る。

「あれ、僕、またなんか注文しましたっけ……」

「お昼、食べるよね」

「ああ、ええ、はいはい。もちろん頂きます。もしかして用意してくださったんですか? こりゃあ感激ですね。お金ももちろん払います。緋子さんの手料理ならね、僕は何でも喜んで食べますよ。良かったら、たまには一緒に食べますか?」

「遠慮しとく」

「さいですか。まあ僕も本気で誘いに乗ってくれるとは思ってませんけどね。今日はあんまりお話してなかったので、緋子さんへの熱は冷めてませんよ、っていう、僕なりのアプローチのつもりで言っただけです」

「そうなんだ」

「ところでカウンターの方、知り合いですか?」小説家は声を潜めて言った。「見覚えがないですけど。お友達とかですか?」

 意外な質問に、緋子は少しだけ驚く。ずっとモニタばかり凝視していると思っていたが、案外、客の動向を観察しているらしい。もっとも、彼が喫茶店で作業をする目的の一つは、人間観察だと言っていた。見ていないようで、ちゃんと観察しているのだろう。

「先週来て、今日で二度目だね」

「あ、そうなんですか。随分親しそうですね……別に羨ましいとかそういう意味じゃないですよ。ただその、ちょっと訳ありっぽいですよね、彼女。まだ若そうなのに、平日の昼間から喫茶店に来るなんて。普通、この時間帯って、大人は働いてますよね。まともな人なんですか?」

「さあ。小説家なんじゃない?」緋子は言って、ひらひらと手を振る。「じゃ、ごゆっくり」

 緋子はカウンターに戻り、スツールに腰掛けた。恵美はフォークを使わずに、手掴みでクラブサンドを食べている最中だった。タバスコは使われていない。子ども舌なのかもしれない。

 緋子も、まな板の上にあるクラブサンドを直接手掴てづかみして、五分の一ほど口に入れる。味は及第点だった。食材の質は日によって異なるため、クラブサンドについての実験をすると、味はいつも八十五点から九十五点を行ったり来たりする。満足の行く結果は、未だに得られていない。

「美味しいです」恵美が言った。「すっごく、休日を過ごしてるなあって気分ですね、こういう感じ」

「たまにだと、良く感じるんでしょうね」

「猫目さんは、毎日こういうお食事なんですか?」

「緋子、でいいですよ」自分の苗字は発音しづらいという自覚があったため、そう提案する。

「じゃあ私も。私、犬飼恵美って言うので、恵美って呼んでください」

「わかりました」

「緋子さんみたいな生活、私は憧れちゃいますね。こういう素敵な空間で、ゆったりとした時間を過ごすのって、人間らしいと思います。もちろん、お仕事の方は、すごく大変だと思いますけど……」

「まあ、それなりに。でも慣れると、そんなに良いものでもないですけどね、こういう生活は」

「飽きちゃいますか?」

「何をしていても、いつかは飽きます」

「ですねえ」

 来客はなかった。ボックス席の学生たちも、今はスマートフォンを見ながら、控えめな音量で世間話をしている。もう、会議は終わった様子だった。次の予定まで時間があるのか、あるいは、どこかで昼食を食べる計画を話し合っているのか。今、店内で一番騒音に近いのは、緋子と恵美の会話であることだろう。

「詳しく聞いてみてもいいですか」緋子が尋ねる。

「はい。何をですか?」

「心霊現象の心当たりというのを」

「ああ……」

 恵美は半分ほど食べたクラブサンドを皿に置き、口元をぬぐってから、アイスコーヒーを口にする。そして少し思考時間を挟んでから、説明を始めた。

「えっと、私は看護師で、総合病院に勤務してるんですけど……あまり、そことは直接関係がないお話になります。妙なことは、病院内でよく起こるんですけど、それは多分、私が病院にいる時間が長いからでしょうね」恵美は緋子に感化されたのか、論理的な返答をした。「えっと、心当たりって言うのは、とてもプライベートなことで。その、半年前に、付き合っていた彼が、亡くなったんですね」

「ほお」緋子は、珍しい反応をした。彼女にとっては、意外な切り口だった。「一連の不思議な現象は、元彼の仕業、という疑いがあるんですか」

「今彼がいないので、果たして元彼と呼んでいいのかどうかは分かりませんが」

「ああ……失礼しました」

「いえ。まあその、お恥ずかしい話なんですけど……簡単に説明しますと、元彼と言うのが、いわゆる、ヒモだったんですね」

「はい」

「その彼、ミュージシャン志望で、ストリートミュージシャンって言うんですかね。路上ライブとか、そういうことをしたり、ネットに曲をアップロードしたりして、そこそこ知名度はあったんですけど……私が知った時点で、結構人気者で。私も元々ファンで、まあ、応援しているうちに、運良く付き合えたというか。で、付き合う前って、もう、彼が神様みたいに見えていたんですけれど、いざ恋人になると、現実的な部分が見えるわけですよね」

「金銭的な面とか」

「そうですそうです。神様が、人間として生活するための部分を見ることになるわけです。彼も、音楽活動をしながら、アルバイトをして、一人暮らしをしていて、なんとか頑張って生活しているんだな、ってことを知ることになるんですね。そういう厳しい生活の中でも、食費や睡眠時間を削ってでも、音楽に費やしていたみたいでした。でも私、本当に彼の歌や、彼自身が好きだったので……だったら私と同棲して、バイトなんか辞めて、音楽活動に専念したら? みたいなことを、私から提案したんです」

「えっと」緋子は話を遮って尋ねる。「今のは、恵美さんが、恋人がヒモであることに対して消極的な感情を抱いていたわけではなかった、という前提情報の説明ですよね」

「はい、そうです。あ、そうですね。これ、無駄話でした。すみません」

「いえ、続けてください」

「えっと……それで、同棲を始めてしばらくの間は、私たち、普通に楽しく暮らしていたんですね。私の勤務時間が不規則なので、上手くやっていけるか不安だったりもしたんですけど、彼も理解のある人だったので、私がいない間に家事をやってくれたりしていて。ああ、なんか、普通に上手く行ってるじゃんって思ってたんです」

「ええ」

「でも、三ヶ月くらい経った頃から、彼が精神を病んだというか、自分に自信を持てなくなって……喧嘩があったとか、暴力を振るわれたりということはなかったんですけど、いわゆる躁鬱そううつ状態になったんですね。路上ライブを見にきてくれるファンがいたり、ネット上である程度の人気はあったんですけれど、それは職業になるレベルではなくて。で、年齢的にも、プロになるのは厳しいって思い始めたみたいで」

「芸術家らしいですね」緋子はなんとなく、遠くの小説家を眺めた。

「そのうち、音楽活動も上手く行かなくなって、どんどん性格も暗くなっていってしまって。機嫌の良い時は、同棲したての頃みたいに、普通に過ごせるんですけど……一回スイッチが入ると、すごく、落ち込んじゃって。あのう、変なことを聞かせてすみません」

「私から聞いているので、気にしないでください」

「はい……でですね、その、すごく、私を求めてくるというか……体もそうなんですけれど、精神的にも、べったりし始めて。これは依存してるな、と思うようになったんです。でも私は彼が好きだったので、なんとか力になりたいと思っていました。そのうちに、彼は私に、一緒に死んで欲しい、と言うようになって。たまに、『死んで、恵美と一緒に永遠になりたい』というようなことを言うようになりました」

無理心中むりしんじゅうですか」

「無理心中?」言葉の意味が分からないらしく、恵美が尋ねる。

「いえ、続けてください」緋子は首を振った。

「えっと……それでも、鬱が終わると、変なこと言ってごめん、死のうなんて考えてないから安心して、って、元気に言うんです。でもまた、しばらくすると、やっぱり死ぬしかない、恵美と一緒に死にたい! ……みたいなことを言うんです。私は出来る限り、彼を元気付けて、毎回なんとか落ち着かせて、関係を続けていました」

「私なら、一回目で見限りそう」

「自分でも、ちょっと意地になっていた部分があるなと、今は思っています」恵美は困ったような笑顔を浮かべた。「そういう生活を続けていたら、彼が急に持ち直したんですよ。今まで、三日に一度は落ち込んでいたのに、二週間くらい、ずーっと元気なままで……で、その後、自殺しました。三ヶ月前のことです」

 緋子は何も言わなかった。食べかけのクラブサンドをかじり、飲みかけのコーヒーを口にする。三角フラスコの中の液体は、冷え切っていた。

「それ以来、不思議な現象が度々起こるようになったんです。だから、これはもしかすると、彼からのメッセージなんじゃないかな、と、思っていまして……」

「その、彼の想いを聞きたい、というのが、最初にいらした時の望みだったんでしょうか」

「そう……ですね。いえ、よくわかりません。解放されたいのかもしれないですし、彼のことを、ちゃんと理解したいのかもしれないし。私は今も彼のことが好きだから、死んで尚苦しんでいるなら、力になりたいとも思っています。いずれにせよ、もうどうすることも出来ないのは分かっているんです。でも、彼が何かメッセージを伝えようとしているのなら、知りたいな……と思っただけです。それくらい、頻繁ひんぱんに、不思議なことが起きているので。まあ、そういう現象が止まるなら、それに越したことはないんですけど」

 緋子は、少しだけ考える。その程度であれば、夏乃佳に協力を仰いでも良いのではないか、と思った。もし仮に、恋人の霊が彼女に取り憑いているというなら、夏乃佳には視認出来るかもしれないし、声を聞けるかもしれない。鳩川の時がそうだった。彼の場合、彼が不幸に追いやった人物の右腕が、彼に取り憑いていた。本人は生きているはずなのに、遺恨いこんだけが残っていた。だとするなら、本人を見るだけで、それは解決する問題なのかもしれない。夏乃佳が見たことを、聞いたことを口にする程度であれば、夏乃佳に危険が及ぶこともないし、それによって不都合も生まれないはずだ。

 もちろん、それは緋子が判断すべきことではない。本来であれば、夏乃佳か、保護者である母親の冬子とうこが判断すべきことだ。

 だが、夏乃佳と引き合わせるくらいの協力は、しても良いのではないか、と緋子は考えた。少なくともこの恵美という女性は、悪人には見えない。鳩川よりもずっと、まともそうだ。詳細なプロフィールは知らないが、鳩川という第三者を介せば、勤務先もわかるだろう。素性もある程度わかっているし、何かを企てている様子もないように見える。

 夏乃佳に会わせて、何も見えないようであれば、それで終わりにすればいい。

 もちろん、何か見えても、こちらから働きかけることなど出来ないのだろうが。

「失礼ですけど」緋子は時間を置いてから、恵美に尋ねる。「後追い自殺、なんてことは、考えましたか?」

「あー……実は一時期、考えました」恵美は笑っていた。「そもそも彼、実家で死んだんですよ。今思えばそれって躁状態だったと思うんですけど、元気になってから、ちょっと家族に会ってくるって言って、ふらっと地元に帰って……帰ったその日に、自殺したみたいです。私が彼の自殺を知ったのは、彼が死んでから二週間後でした」

「二週間」何故そこまで時間が掛かったのか、理由を思いつくのに少しだけ時間が掛かる。「付き合っていることは、秘密だった?」

「秘密でもないですけど、あまりおおやけにはしていませんでしたね。男性ミュージシャンって、女性ファンが多いですから、なんとなく。それに、彼の両親と会ったこともありませんでしたし。元々、結構頻繁にふらっといなくなってしまう人だったので、無理に連絡は取らないようにしていたというのもあるんですよね。その間は、私も友達と遊んだりして、お互い気楽に過ごすっていうのが、暗黙のルールでした。自由にしてあげる方が、彼も良くなるだろう、なんて考えもありましたね。でも、二週間も連絡がないのは流石に変だな、と思って、彼に電話したら、彼のお姉さんが出て、弟は死にました、と教えてくれました」

 結構壮絶だな、と緋子は思った。恐らくは、通夜つやにも葬式にも出ていないのだろう。好き合っていた者同士の別れとしては、最悪の別れ方だ。その上、心霊現象に悩まされているというのだから、始末が悪い。

「緋子さんが言ったように、私は思い悩んで、後追い自殺をしようかと考えました。彼が死んだのは私のせいだ、やっぱり私も死ぬべきなんだ……なんてことを思ったりもしたんですが、幸いというかなんと言うか、仕事が忙しいというのもあって、逃避するように仕事に没頭しているうちに、そういう悩みは、消えました」

「今はもう、平気?」

「ですね。だから最初は──そうですね、話が戻りますけど、心霊現象だとは思っていなくて、彼の自殺が原因で、私自身に不注意が増えたんだと思っていたんです。持っていたはずの家の鍵が見つからなかったり、逆に、持った記憶がないのに手にコップが握られていたり。それは本当に、ぼーっとしていたせいかもしれませんが……他にも、閉めていたはずの窓が開いていたり、気づいたら蛇口から水が出ていたり。一番危なかったのは、ガス漏れしてたことですね。最初に話した、ボールペンの件みたいな些細なこともあるんですけれど、でもこれはやっぱり変だな、と最近ずっと思っていて。何とかしたいな、と考えていたところなんです」

「なるほど」

「鳩川さんにその話をしたのも、点滴を交換するために部屋まで行ったのに、一緒に変える予定だったカテーテルが、何故か見当たらなくて。それまでも何度かミスがあったので、身の上話というか、言い訳みたいに今お話ししたようなことを鳩川さんに話したら、なんだか心霊現象にすごく興味を持たれて……それから、色々お話しするうちに」

「この店の話になった、と」

「そうです」

 緋子はクラブサンドの最後のひと口を放り込んで、ゆっくりと咀嚼そしゃくを始めた。まあ、会わせるくらいならいいか、という決断を下す。それで解決するようなら、それでいいし、解決できないことであれば、それ以上首を突っ込まないことにしよう。どのみち、夏乃佳には、心霊現象を解決する力があるわけではない。彼女に出来ることは、見ることだけだ。

「あの、恵美さん、今日のご予定は?」

「今日ですか? いえ、特にありませんけれど」

「午後四時過ぎ頃に来ますから、それまでここにいるか、あるいはそのころ、またここに来ていただけますか?」

「いいですけど……えっと、誰が来るんですか?」

「霊能力者です」緋子は冗談のつもりで、そう口にした。


 ◇


「緋子先生!」

「おかえり」

 大きな声を上げながら、夏乃佳がやってくる。午後四時十二分。想定内の時間だった。店内には、テーブル席に老婦人が二人、小説家が一人、カウンターに、恵美がいるだけだった。それぞれ、騒がしい来客に一瞬視線を向けたが、夏乃佳だということを確認すると、それぞれ行動の続きを始めた。恵美以外の全員が、夏乃佳の騒がしさを以前から知っている。

「今日はちょっと熱いから、アイスティーにする?」

「そうします!」夏乃佳はランドセルを椅子の背もたれに掛け、そのまま飛び乗る。「今日はですね、体育でいっぱい汗をかいたんですよ」

「そうなんだ。えらいね」

「えへへー」

 足をぶらぶらとさせながら、夏乃佳はカウンターに両手を乗せ、緋子の動作を眺めている。何か気付くかな、という期待があり、緋子は恵美のことを意識しないようにしていたが、どうも夏乃佳から反応はなかった。

七佳なのか、美味しいケーキがあるけど、欲しい?」

「えっ、欲しいです」

「じゃあ、ちょっとお願いがあるんだけど」

「はい! なんですか?」

 緋子は視線を、恵美に向けた。彼女は昼過ぎに一度家に戻り、つい十分ほど前に、再び店を訪れていた。カウンターには新しく作られたブレンドコーヒーがある。まだ、湯気が立ち上っていた。

 夏乃佳の視線は、緋子につられるようにして、恵美に向けられていた。恵美は表情を柔らかくして、夏乃佳に微笑みかける。

「こんにちは」恵美が言った。

「こんにちは!」元気いっぱいの挨拶が返る。

「七佳、この人を見て、何か見える? ……つまり、一人の人間以外に、何か見えるかな。違和感とか、そういうもの、なんでもいいんだけど」

 単刀直入に、緋子が言う。夏乃佳は、不思議そうな表情をしたあと、じっと恵美を見つめた。夏乃佳から一瞬にして笑顔が消えると、まるで無機質さを表現するために描いた絵画のような、生気のない表情になった。

「うーんと」夏乃佳は視線を向けたまま、恵美を見続ける。「えっとお……」

「見えないなら、見えないでいいよ」

「はい。余計なものは、見えません」

「そう」

「何が見える予定だったんですか?」無邪気に、夏乃佳が尋ねる。「死んだ人とかですか?」

「死んだ人――」

 恵美は、少し不安げに緋子を見た。こんなに小さい子どもが、死について簡単に言いのける様を、不気味に思ったのだろう。

 あなたが望んだことなのよ、と思いながらも、緋子は、「ドライな子なので」と言う。その評価は適切ではなかったが、わかりやすくはある。

 恵美は、見つめられているのが嫌だったのか、「ありがとう。もう大丈夫」と言って、珈琲を口にした。

「あの……お姉さんね、好きだった人が死んじゃったの」

「あ、そうだったんですね」夏乃佳はあまり感情を込めずに言う。

「それ以来、不思議なことがたくさん起こるから、もしかして、その人が私に取り憑いていたりするんじゃないなって思って……緋子さんにお願いして、お嬢ちゃんに会わせてもらったの。あ、ごめんなさい。私、犬飼恵美って言うんだけど」

「私、七ツ森夏乃佳です!」夏乃佳は元気よく自己紹介した。「でも、お姉さんは、なんにも見えませんよ? なんていうか、普通の人だと思います」

「七佳がそう言うなら、恵美さんの問題は、心霊現象ではない、別の原因かもしれませんね」

 緋子は言って、冷蔵庫からケーキを取り出す。自作のものではなく、近所のケーキ屋で買ってきた、完成度の高いものだった。もっとも、チーズケーキとチョコレートケーキは、科学喫茶のメニューに存在するし、それらは冷凍で三日間保存しておけるため、同じ店で一度に半ホールずつ注文している。今回用意されているケーキは、それとは別の、特別なものだった。代金は、恵美が既に支払っている。夏乃佳への報酬だ。

「あ! ショートケーキだ!」

「あちらのお客様から」緋子は冗談を口にした。

「こんなものをいただいていいんでしょうか」

「突然変なことを聞いちゃってごめんね、夏乃佳ちゃん。これは、お詫びのケーキだから、気にせず食べてもらえる?」

「えーっと、私、何もしてませんよ?」

「子どもに何かをさせるっていうのは、それだけで大人として間違ってるからね」緋子は言いながら、デザートフォークを紙ナプキンの上に置いた。「これは、その埋め合わせ」

「本当に、ごめんね。夏乃佳ちゃんに、そういう能力があるって聞いて、何か分かればな、と思ったものだから。変なお願いをしちゃったよね」

「大丈夫です。ありがとうございます!」

 夏乃佳はフォークを掴むと、乱暴にケーキを切り崩して口に運んだ。緋子は抽出し終えた紅茶を、ティーストレーナーを通して、氷の入ったビーカーに注ぐ。そこにストローを差して、カウンターに置いた。

「でも、どうしてそんなこと気にしてたんですか?」ケーキを食べながら、夏乃佳が尋ねる。

「そうね……えっと、不思議なことが起こる原因が知りたかったっていうのもあるし、それにもしかしたら、私が好きだった人が、今も私と一緒にいるのかな、と思って。何かを訴えたくて、悪さをしてたのかな、なんて思ったの。だからもし、彼から私に何か伝えたいことがあるんだったら、聞いてみたいな、って」

「その人と、お話がしたいんですか?」

「うん、そうだね。何を考えているか分からないままお別れしちゃったから、どういう気持ちだったのか、知りたかったの」

「じゃあ、死んだらいいんじゃないですか?」

 夏乃佳の発言に、恵美の瞳が大きく反応する。緋子は、夏乃佳に注意しようかとも考えたが、ここは成り行きを見守ることにした。恵美と自分のケーキを用意しながら、沈黙を守る。普通の人間相手ならまずいかもしれないが、恵美は自分から、夏乃佳に会いたがったのだ。夏乃佳に落ち度はない。

「えっと、死んだら、お話できますよ!」

「そ、そうなんだ……死んだ人同士って、お話出来るの?」

「みんながそうだというわけではないみたいですけど、大体は! たまに、死んだ人同士でお話してるの、帰り道に見かけたりしますから」

 恵美はまた、助けを求めるように緋子を見た。だが、緋子は無言で首を振った。私には理解出来ない世界の話です、という意味を込めたつもりだったが、恵美に伝わったかは分からない。

「そうなんだね。でも、お姉さんは、まだ、生きていたいかな。うん、好きだった人と、お話はしてみたいけど……それはえっと、いつか寿命が来てから、考えることにするね」

「そうですか」夏乃佳は納得したように頷いた。

 これ以上の会話は、お互いにとっての利益を生むことがなさそうだ、と判断し、緋子は話題を変えることにした。恵美と自分にケーキを用意する。三人分の用意が出来たところで、「今日は、体育は何したの?」と、夏乃佳に尋ねた。

「校庭でダンスをしました!」

「そうなんだ。すごいね」

「はい!」

 三人でケーキを食べながら、非科学的な現象とは無関係の談笑をすることにした。恵美は看護師という職業柄か、小学生としての夏乃佳とは相性が良いようだ、と観察された。

 途中、二人組の老婦人が会計を済ませるために、カウンターにやってくる。老婦人たちは慈愛に満ちた笑顔を浮かべながら、夏乃佳と二、三、会話をして、去っていった。夏乃佳はうちの看板娘か、あるいはマスコットのような扱いだな、という感想を、緋子は抱いた。

「……あ、私、そろそろ」

 午後五時になる頃、恵美は店の時計を見ながら言った。バッグから財布を取り出そうとしたが、緋子が「お代は結構ですよ」と手で制する。

「いえ、そういうわけには……」

「ケーキ、ごちそうさまでした、ということで」

「ごちそうさまでした」夏乃佳が深々と頭を下げた。

「……こちらこそ、美味しい珈琲をごちそうさまでした。本当に、あの、ありがとうございました。ご迷惑をお掛けしてしまって」

「そんなことはありません」

「あの、また来ても良いですか」

「ええ、お待ちしてます」

 恵美は立ち上がり、何度か会釈をしてから、「また来ます」と言って、ドアを開けた。「夏乃佳ちゃん、ありがとうね」

「はーい、おやすみなさーい」夏乃佳が手を振りながら言った。

 ドアが閉まり、ドアベルの余韻よいんが空間を満たす。金曜日の夜は、夕方の来客が少ない傾向にあった。きっと、みんな飲み会などを予定していて、喫茶店に入るという可能性を考えていないのだろう。店内には、見知った顔ばかりになる。いつも通りの空気が流れ始めた感覚があった。

「七佳、今日はお夕飯は?」

「今日は、多分、お母さんは遅い日です」

「そう。じゃあ、美味しいものでも食べに行こうか」

「いいんですか!」

「変なことさせたお詫び」

「もう、ケーキもらいましたよ?」

「あれはお姉さんから。お夕飯は、私。お母さんには内緒ね」

 んふー、と嬉しそうな声を出して、夏乃佳はビーカーの水を口にした。

 夏乃佳の表情は笑顔で、動作もいつも通りだが、視線が、恵美が先ほどまで座っていた場所を眺めているのが気になった。毎日夏乃佳を見ているからこそ気付ける、これは、ほんの些細な違和感だっただろう。幽霊らしきものは見えない、という割には、いつもと様子が違った。

「七佳、どうかしたの」

「あ、なんでもないですよ。何か見えてたりはしないです」

「なのに、何もないところ見てるわけ」

「んー……えっとー……」

「気にしないで、言ってごらん」

「あの、失礼かなと思ったので言わなかったんですけど」

「うん」

「あのお姉さん、男の人みたいでしたよね?」

 そんなことを言いよどんでいたのか、と思い、緋子は少しだけ笑みをこぼした。確かに彼女は中性的だから、夏乃佳にはそう見えたのかもしれない。

 死生観については何の躊躇ためらいもないくせに、パーソナリティに関することには丁寧な反応をするのだな、と、緋子は夏乃佳の不思議さを、改めて認識した。


 ◇


 週が明けて、火曜日になっていた。午後四時になろうという時間帯だったが、緋子は珍しく、忙しく働いていた。大学生とおぼしき八人の男女がやってきて、一度に六人掛けのボックスと、二人掛けのテーブルが埋まるという、異常事態になっていた。幸い、珈琲についての知識をひけらかそうとする輩は存在しなかったため、銘柄を指定した珈琲の注文はなかった。ドリンクの注文はブレンドが三つ、ブラックのアイスコーヒーが二つ、オレンジジュースが一つ、アイスティーが二つだったが、片方はノンシュガーだった。フードは、シュガートーストが二つ、クラブサンドが二つ、チーズケーキが四つ注文された。注文を書き込んだだけで、目が回りそうだった。半冷凍されているチーズケーキを取り出し、自然解凍させる。大体五分ほど放置すれば、提供可能な状態となるように準備してある。さて、何から取り掛かるべきか。まずはドリンクか。緋子の脳がすさまじい速度で段取りを固めていく。別に制限時間があるわけではないのだが、提供が遅いと思われたくはない。

「緋子さん」

 カウンター内でドリンクを用意していると、常連客の一人である小説家が、わざわざカウンターまでやってきて声を掛けてきた。

「今は無理」緋子は顔を上げずに言う。「あと十五分待って」

「いや、あの、手伝いましょうか……と提案をしに来ました」

「なに?」

配膳はいぜんくらい手伝いましょうか、という発言をしました。今、丁度、キリが良いところまで書いたんで。えっと、今って異常事態ですよね? これ。結構前に、六人客が来た時、緋子さんが死にそうだったのを見ていたので……手伝おうかな、という、そういう発言をですね、今、しています」

「そうなんだ」

 緋子は顔を上げる。願ってもない申し出だったし、猫の手も借りたい状況だったのだが、落ち着いて対応すれば一人でなんとか出来るだろう、という予感もあった。だが、ここにさらに来客があった場合、そちらの対処は難しいと言える。つまり、ギリギリの状態だ。表面張力でなんとか保っている。この会話の時間さえ、惜しいくらいだ。

「ありがたいけど――」

「ええと、僕、それなりに動けますよ、多分。昔、ファミレスのホールでバイトしてたんで、ある程度の基礎はありますから、遠慮なくどうぞ。接客も、基本的な対応は理解してますし。そもそも、毎日緋子さんの動きを見ていますしね。ああ、大丈夫です。気持ち悪いのは分かってます。客なのに何言ってんだって感じだと思いますけど、異常事態のホールの辛さは知っているので、これは自然な気持ちです。下心は、これに関しては、あんまりないです」

「んー」緋子は三秒だけ思考する。そして、「じゃあ、頼もうかな」と言った。

 緋子はアルミバッドの上に、ビーカーに入れられたオレンジジュースと、アイスティーを二つ乗せる。

「まずこれ。真ん中がノンシュガー」

「わかりました」

 小説家の接客態度を観察する暇はなかった。普段はあまり使わない、五人分まで一度に作れるサイフォンを準備する。既に粗方あらかたの作業は終わっていて、今はお湯を再沸騰させているところだった。もう少し放っておいても良さそうだと判断して、空のビーカーに氷を入れた。アイスコーヒーは全部シロップ入りだ。忙しいが、調整を誤るわけにはいかないため、一杯分のシロップを駒込ピペットで測る必要があった。

「シュガートーストやりましょうか」伝票を見ながら、いつの間にか戻ってきていた小説家が言う。「大体、やり方分かりますから」

「だめ。調理は私がやる」

「じゃあ、それ、代わりますよ」と、小説家は緋子の手元を示す。

「七ミリリットルってわかる?」

「それ、一メモリ一ミリリットルですか?」

「よし、任せた」緋子は駒込ピペットを小説家に手渡す。「カウンター、入っていいよ」

「え、いいんですか!」

「邪魔しないでね」

「手伝いに来たつもりなんですけどね……」

 小説家がカウンターに入り、緋子がサイフォンの担当を始めると、ドアベルが鳴り、来客があった。ああ、こんな時に、と緋子は思ったが、入ってきた客の顔を見て、一旦、落ち着きを取り戻す。

「こんにちは」

「鳩川文帖さん、こんにちは」緋子は先んじてフルネームを口にして、カウンターに目配めくばせする。「すみません。しばらくお待ちください」

「ああ……今日は大盛況なんですね」

 鳩川はカウンター席に座り、忙しそうにしている緋子と小説家を尻目に、メニューを眺め始める。会話をしたことがある客なら、混雑時にある程度操作が可能であるため、緋子は改めて、客商売をする上での人付き合いの大切さを実感した。

「ミルクはどこですか?」小説家が尋ねる。

「冷蔵庫。フレッシュは三つ持って行って。ブレンド用も一緒に」

「わかりました」小説家は冷蔵庫を開けて、コーヒーフレッシュの入ったビーカーを見つけ、取り出す。全てにラップがついていたので、はがして、冷蔵庫に置き去りにする。

「後ろ通りますよ」

「はい」

 アイスコーヒーの注文が二杯分消込けしこみされた。あとはブレンドが三つ。緋子は使用するサイフォンや、一度に淹れる量で、抽出時間を変えている。逆流が始まったタイミングで、二分計れる砂時計をひっくり返す。これだと、抽出の時間が、大体五十秒になる計算だった。

 小説家は戻ってきてすぐ、何も言わずに、革の布が巻かれたビーカーを三つ取り出した。それを、アルミバッドの上に並べ、カウンターの上に置いた。緋子が注げばすぐに配膳が出来る状態になる。

「あの。あなたは、店員さんですか」鳩川が、小説家に尋ねる。

「いえ、ただの緋子さんのファンです」

 緋子は何も言わない。アルコールランプを消火し、優しく二回攪拌して、フラスコが満たされるまでのわずかな時間で、食パンを六枚切り分けた。すぐに振り返り、珈琲をビーカーに注ぐ。ドリンクのオーダーはこれで片付いた。

「はい、よろしく」

 カウンターを出て行く手間がなくなるだけでも、十分にありがたかった。先に、二枚の食パンに切れ込みを入れた。四枚にマーガリンを塗り、切れ込みの入った方にだけ甘さを加え、オーブントースターに入れる。あとは放置するだけだ。

「ひっこせーんせ!」

 元気よく、夏乃佳がやってくる。もう来たのか、と時計を見たが、時間通りだった。緋子は振り返り、「おかえり」とだけ言って、また作業に戻る。クラブサンドの準備が終われば、平和が訪れるはずだ。

「今日は賑やかですね!」夏乃佳はいつもの席に腰掛けた。「あ、こんにちは」そして鳩川に気付き、声を上げる。

「こんにちは、お嬢さん。久しぶりだね」

「まだ生きてたんですね」

「そう、死ねなかったみたいだ。おかげで、またこのお店に来られたんだけどね。お嬢さんにも会えたし」

「よかったですねー」

 緋子は具材を挟み、ホットサンドメーカーを用意する。コンロに火をつけ、火力を調節した。

「次、チーズケーキですか?」小説家はカウンター越しに緋子に尋ねる。「食べ物系、時間かかりそうなら、先に、全員分フォークだけでも出しておきましょうか」

「ああ、それ採用。あとタバスコね」

「わかりました」

 小説家は、必要数の紙ナプキンと、注文に合ったフォークを用意し、それからタバスコを二本、アルミバッドに乗せる。一見すると、これから手術でもするのかという内容だった。彼は何も言わずに、ボックス席へと向かっていく。これからちゃんとフードが到着するのだ、と予感させる食器の先出しは、客のストレスを軽減させる効果がある。

「お嬢さんは、今日は何を飲む予定なのかな」

「私ですか? うーん……もしかしたら、アイスコーヒーが飲めるかもしれません。今日は調子が良いので」

「そうなんだね。私もアイスコーヒーにしようかな。今日は少し、暑いしね」

 トースターの無機質な音が鳴る。クラブサンドの焼き具合を確かめ、まだ余裕があることを認識すると、緋子は必要な量の食器を用意し、いつの間にかカウンターに置いてあったアルミバッドに、シュガートーストの乗った皿を二枚並べる。ケーキ用のシャーレは次発じはつと判断し、ケーキを並べてカウンターに直接置いた。クラブサンドの様子を確認し、十分に焼かれていると判断する。まな板の上に並べ、二分割した。皿に乗せて振り返ると、既にケーキはいなくなっていた。おお、優秀だ、と、緋子は心の中でだけ感想を述べた。

「これで最後ですね」確認の意味を込めて、小説家は言う。アルミバットは使わず、シャツの胸ポケットに伝票を差し込んでから、クラブサンドの皿を二つ持った。「緋子さん、お疲れ様です」

 緋子はどっかりと、スツールに腰掛けた。一瞬に感じられたが、多分、十分ほど掛かったはずだ。一人で対応していたら、十五分から二十分は掛かっていたかもしれない。喫茶店の提供時間としては、失格である。

 朝の時間帯はある程度の予想がつくし、入店の時間帯がバラバラであるため、対応がスムーズだ。しかし、団体客が来ると、一気に計画が崩れる。三角フラスコに残っていた珈琲をひと口飲んで、「ああどうも、いらっしゃいませ」と鳩川に向けて言った。

「ここ、バイト募集してませんか?」鳩川が冗談を口にする。

「今はしてません」

「緋子先生、大変そうですねー」

「もう終わったよ」緋子は疲労を隠したのか、無表情で言った。「鳩川さんはアイスコーヒーで、七佳は?」

「私も、アイスコーヒーを……試してみようかと」

「アイスティーね」

「注文全部出ました」小説家が戻ってくる。伝票はちゃんと置いてきたようだ。「いやあ、一段落しましたね。バイトしてた頃を思い出しましたよ。昼ピーの時なんか、もう、戦場でしたから。あ、昼ピーって、ランチタイムのピークの意味です。僕のバイト先、ショッピングモールの中にあるファミレスだったんですけどね、そりゃもう阿鼻叫喚あびきょうかんって感じで……ああ、どうでもいい話しちゃった。すみませんでした。片付けの時忙しかったら、また呼んでくださいね」

「あー……どうも、ありがとう」緋子は素直に言って、軽く頭を下げた。「助かったよ」

「お、おお……緋子さんにお礼を言われるとは思ってませんでした。いや、ちょっと、押しつけがましいかなとは思ったんですけど、勇気を出して良かったですよ。いやほんと、緋子さんに売上以外で感謝されるとは思いませんでしたね」

「何が欲しい? お礼に何かご馳走するよ」

「え、キスとかでもいいですか?」小説家は真面目な顔で尋ねる。

「ばかじゃないの」緋子は低い声で言った。「仕事に戻りな」

「そうさせていただきます」

 小説家が席に戻ってから、緋子は重い腰を上げて、先にアイスコーヒーを作った。夏に向けて、アイスコーヒーの量を調整しなければならない、と考える。ノンシュガーのアイスコーヒーで、鳩川はミルクを必要としないことが分かっていたため、準備はすぐに終わった。

「忙しいところお邪魔して、すみませんね」

「忙しい方がありがたいですよ」

「あのー」夏乃佳が手を挙げる。

「はい、ちょっと待ってて。今作るから」

「あのあの、お会計? ですよね」

 緋子は反射的に、出入り口付近に視線を向ける。つまり、夏乃佳の方向だ。忙殺されていて、客の動向に気を配っていなかったのか、と自分を責めた。しかし、そこに誰かが立っている様子はない。緋子は思わず、鳩川を見た。私が疲れているわけではないよね、という確認だった。

「あ、違うんですね。違ったみたいです!」夏乃佳は元気よく、何もない空間から、緋子に視線を戻した。

「誰がいるの?」

「えっとー、初めてお会いしました」夏乃佳はハキハキと言って、また虚空こくうを見上げる。「私、七ツ森夏乃佳です! お姉さんは、なんてお名前ですか?」

「誰かいるんですかね、そこに」鳩川がぼそりと呟く。「ああ、なんか、こういうお嬢さんを見てると、ゾクッとしますね。前は自殺のことばかり考えていて、そんな余裕はなかったですが。へえ、不思議な現象だ……」

「気持ちはわかります」

「?」夏乃佳は不思議そうに首を傾げ、「あ、はい、わかりました。さようならー」と言った。夏乃佳の視線が、虚空を移動していく。その視線はドアに向かい、しばらくそこで固定された。緋子も鳩川も、その現象に魅入っていた。今そこに、何かがいる。非科学的なことなど信じていないが、それでも、なんとなく、動きを止めてしまう。つまりそれは、信じているのと同じだった。

 店の奥にいる学生たちから、小さな笑いが起こる。緋子はその声で、なんとか現実感を取り戻した。

「今の人、なんだって?」

「犬飼恵美さん、って言ってました」

「え」緋子の口から感情が漏れる。

「緋子先生と鳩川さんに、無事に解決しました、よろしくお伝えください、って言ってました」夏乃佳はまだ不思議そうな顔をしていた。「あれ、でも、犬飼恵美さんって、男の人じゃありませんでしたっけ?」

 緋子はその名前を聞いて、一瞬、思考が止まった。多分、鳩川にも同じ現象が起こったことだろう。生霊いきりょうではないか? という予想もしたが、生きているなら、よろしく伝える必要はないだろう。一体何が起きたんだろうか。私の知らない場所で。

「ああ、あの看護師さんのことですか……もしかして、亡くなられたんですかね」

 鳩川の視線を受けて、緋子は少しの間、目をつむった。なんと答えれば良いか分からなかった。そう、分からない。確定していないことが多すぎるからだ。そもそも、答えがあるのかすら分からない。幽霊なんてものが、本当に存在するのかさえ。あるいは、夏乃佳の言葉が百パーセント事実であるという保証も、どこにもなかった。

「どうでしょう。確証はありません」緋子はなんとか、それだけ口にすることが出来た。

 少しだけ、沈黙が流れた。追悼ついとうの意味合いではなく、それぞれが解釈をするために必要な思考時間だった。何が起きたのか。恵美が何故、ここにいたのか。本当にここにいたのか。夏乃佳はなぜ、初めて会ったと言ったのか。

 あまりに唐突だった。いや、そうでもないのか。時間は確実に流れている。初めて恵美と会ってから、それなりに、時間は進んでいる。夏乃佳と彼女が会ってからも、また、時間は経過している。唐突だと感じるのは、そんなことにはならないだろうという予感があったから。どうしてそんな予感をしたのだろう? 恵美は死なないものだと、勝手に思っていたのだろうか。夏乃佳が恵美に、何も感じなかったから? 幽霊とは無縁だと思っていたから? あるいは、彼女が後追い自殺をしないと言ったことを、信頼していたから? 注文をさばくのとはまた種類の違う思考が、高速で働いていた。自分と、鳩川と、夏乃佳がいる時間帯を狙って現れたのだとしたら、確かに、このタイミングが最初だろう。いつ死んだかは定かではないが、タイミングとしては、これが最初。わざわざ会いに来たのか。お礼を言うために?

 ああ、違う。

 そうか、お別れを言いに来たのか。

 自分が言葉を交わす間もなく、恋人と別れたから。だから挨拶しにきたのか。

 そして緋子は、一つの仮説を思いついた。それはあくまでも仮説であり、また、全く非科学的なものであったが、共有したい気持ちが芽生えた。

「恵美さんは、覆われていたんですかね、全体的に」

 緋子がポツリと言うと、沈黙の空気が破られ、鳩川が視線を上げた。

「なんですか?」鳩川が尋ねる。

「先週くらいに、恵美さんと七佳を会わせたんです。取り憑かれているかもしれないから、一度見て欲しい、と彼女が言っていたので」

「ああ、やっぱりお受けしたんですね、依頼を」

「ええ。その時、七佳には、恵美さんが特に変な様子には見えなかった。でも、恵美さんが帰ったあと、男の人に見えたって言ったんです。そうだよね」

「はい!」

「確かに、中性的な方でしたからね」

 鳩川は虚空を見る。彼女を思い出しているようだった。だが、緋子が口にした意味合いは、そういうものではなかった。

「ねえ七佳、前に会った恵美さんって、どんな男の人だった?」

「えっとー……髪が長くて、背が高かったです!」

 やっぱり、と、緋子は心の中で呟く。それは、恵美の外見的特徴とは一致しない。背は高い方だが、ショートカットだ。そういう見え方もあるんだな、と想像する。なんとなく、緋子の中で、幽霊は半透明なイメージがあった。だが、夏乃佳の目には、恵美そのものが、男性によって上書きされていたのかもしれない。

「その男の人っていうのは、誰のことですかね?」

「確かめようがないですけど、恵美さんの、亡くなった、恋人なんじゃないかと」

「はあ……ああ、そういうことか。なるほど」

「張り付いていたんじゃないですか、全体的に。憑依ひょういというか」

「死者に魅入られたってことですか」鳩川は顎に手を当てた。「あの看護師さんの恋人が、恵美さんを道連れにした……ってことか。ううん、生前から魅入られていたみたいですしね、やっぱり、連れて行かれちゃったのかな。恋人も、心を病んでいたと言うし。私も、気持ちは分かりますよ。辛い時に、誰かに一緒に死んで欲しいという気持ちは、とても。看護師さんみたいに元気の良い人だと、特にそういう傾向は強いですね。我がものにしたい、というか」

「私には分かりませんが」緋子は首を振る。「でも、そうですね。今思うと、恵美さん、少し記憶が曖昧というか、妙なところがあった気がします。様々なことを無意識で行っている……というか、記憶していないというか。あるいは別の誰かに、行動させられていた、と考えられますね。だからやはり、憑依という表現が、一番しっくり来ます」

「そんなことがあり得るんでしょうかね」

「わかりません」緋子はまた首を振る。

「まあ、看護師さんが亡くなったかどうかさえ、私たちには分からないことですからね。実は全然、平気で生きているかもしれないし」

「その通りだと思います」

 緋子はしかし、多分死んでいるんだろうな、と考えていた。幽霊は信じていないが、夏乃佳の所作から感じられる情報は、なんとなく信頼してしまう。

「彼女の身の回りで起きていた不思議な現象というのも、自作自演と言うと少し違いますが、個人の問題で片付く小規模なものだったようですし。体を乗っ取られて、命を落としたのかも。ずっと憑依されていて、命を狙われていたのかもしれませんね。これはただの想像ですし、あるいは空想です。科学的な根拠のない、おとぎ話のようなものです」

 緋子は夏乃佳のためにアイスティーを用意した。夏乃佳はそれを受け取ると、全てを忘れたように、笑顔に戻る。いや、そもそも夏乃佳は、落ち込んでなどいなかったはずだ。当たり前に犬飼恵美の姿を見て、会話をし、それを見届けただけに過ぎない。

「本当のところは分かりませんけど。幽霊がこの世に存在するとは、やっぱり考えられませんし」

 というか、証明出来ない。

「いますよー」夏乃佳が抗議の声を上げる。「今日も帰り道に挨拶しましたよ」

「そうなんだ」

「まあ、実際、これだけ存在がささやかれているんですから、やっぱりいるんじゃないですか、幽霊って。私はもちろん、見たこともないし、感じたこともないですけど、信じてはいますよ。私の場合は幽霊とは違ったかもしれないですが、そのおかげで、救われた部分がありますからね。普通にいるんじゃないですかね、幽霊って」

「証明出来ないのであれば、いないのと同じです」

「でも、火のないところに煙は立たないとも言いますし」

 鳩川が言ってすぐ、大人たちは揃って夏乃佳を見た。

火種ひだね」緋子が言う。

「火種ですねえ」鳩川は愉快そうに頷いた。「そう言えば、お嬢さん。私の肩には、もう腕は乗ってないのかな」

「はい! もう何も見えませんよ」

「それは良かった。あれは、私が自殺なんかしようとしていたから、止めようとしてくれていたんでしょう。そういう良い霊もいれば、悪い霊もいるってことなんでしょうね。元々ね、気にするな、お前のせいじゃない、って彼は言ってくれていたんですけど、私がそれを信じられなかったんです。言葉なんて、いくらでも偽れますから。でも不思議と、お嬢さんに腕の話をされて、本当なのかもなあって、確証もなく信じる気になったもんです。いいんじゃないですか、信じたい人は、信じれば。その方が生きやすい場合もあります」

 鳩川が笑いながら言うと、夏乃佳がよく分からないなりに笑顔になり、緋子も少しだけ口角を上げた。

 恵美は本当に死んだのだろうか、と緋子は考えてみた。だが、どちらでもいい、という結論がすぐに下される。また来ますと言って店を出て、二度と来なかった客はたくさんいる。社交辞令だったのか、それとも事情があって引っ越しをしたのか、それとも死んでしまったのか。一生再会しないことと、死別してしまうことの、何が違うのだろう。自発的に行動しない緋子のような人間にとって、その差異は限りなくゼロに近い。会いたいと思っているわけでもないし、思っても会いに行くことはない。それならば、人が死のうがどうしようが、構わない。

 死んだかどうかを、確かめようとも思わない。

 これから一生、交わらない場所にいるなら、生者も死者も、同じである。

 恵美が死んだというのなら、それは別に、それでいい。

 ただ、恋人と会えたのか、

 そして悲惨ではない死に方だったのか、ということだけが、気になった。

「あのう」

 突然小説家がやってきて、緋子に声を掛けた。

「なに」

「さっきのお礼、生きてます? 珈琲、おかわりしたいな、と思ったんですけど。もし生きてれば、一杯ご馳走になれればなあと……」

「ああ、もう死んだよ」

 小説家は、「ああ、さっきいらんこと言ったぁ」と頭を抱えたあと、正式に珈琲を注文した。緋子は当然、それは伝票に書き加えるつもりはなかった。生きていても死んでいても、別にどっちでもいいと思ったからだ。

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