科学喫茶と臨時休業

 猫目ねこのめ緋子ひこが店主を務める科学喫茶こと『C3-Lab』には、客の出入りが激しくなる時間帯が一日のうちに二度ある。一度目は開店直後の午前七時からの約一時間、二度目は通常の閉店時間間際まぎわとなる午後六時付近だった。緋子はこれらをそれぞれ、午前ピーク、午後ピークと呼称している。例外的に、科学喫茶にはバーとして営業する時間帯もあり、その時間帯は客足がランダムに増減するのだが、バーの営業日自体もランダムであるため、計算からは除外するものとする。

 開店直後は、出勤前の会社員が数名出入りする。平均的に十名前後が来店し、多い時には二十名近くなることもある。科学喫茶では、カウンターに六席、二人掛けのテーブル席が三つ、六人掛けのボックス席がひとつあり、最大で十八人収容可能だが、それが全て埋まることはまずない。繁忙期と呼べる、全国的な連休以外では、大体半分埋まれば良い方だ。珈琲を頼むと朝食が無料で付くようなモーニングサービスは行っていないが、メニューは朝の時間帯専用のものとなっており、便宜的に『モーニング・メニュー』と呼ばれる。朝のドリンクは、ブレンド、アイスコーヒー、ホットティー、アイスティー、ミルク、オレンジジュースの六種類。トーストや簡単な卵料理の提供があり、ドリンクとワンメニューの組み合わせであれば、およそ五百円で朝食をとることができる。ブレンド、トースト、卵料理、サラダなどの豪華な朝食をとろうとすると、およそ八百円程度。午前七時から午前十時までのモーニング・メニューでは、提供可能な珈琲はブレンドのみだが、その代わり二杯目以降が百円で飲めるため、ドリンクの売上が高くなる。客一人当たりの単価は大体、六百円になる。朝のブレンド珈琲はサイフォンを使わず、大型の布フィルターと鍋を利用して作られるため、回転率も良い。忙しい時間帯ではあるが、仕込みが十分であれば、一人で回すことが出来る。もちろん、朝の時間帯は、オーダーは入店時に行うよう注意書きがある。そうすることで、スムーズな提供が可能となるわけである。

 午前十時を過ぎると、メニューは通常のものに変更され、珈琲の銘柄が選択可能となる。ブレンド、ブラジル、キリマンジャロ、モカ、マンデリン、コロンビアの六種類。稀に、ブルーマウンテンの豆が仕入れられた時にだけ、それが時価で提供される。また、豆の在庫が半端な場合にだけ、常連客用に『スペシャルブレンド』が用意されるが、大抵の場合は緋子が個人的に飲む場合が多い。要するに、残り物だ。午前十時から昼過ぎまでの間は、平均して五名程の客が出入りする。昼食を希望する客もいるため、客単価は千円くらいが平均になる。

 午後一時以降には、雑談や商談利用をする客や、最近では扱う食器が珍しいという理由で、写真を撮りに来店する若者が増える。緋子が実験している様子を動画に撮影する者も、まれに存在する。前者は珈琲一杯で一時間から二時間ねばる層が多いが、後者は見栄えの問題からたくさん注文をして、写真を撮ったら短時間滞在して帰っていく。客単価の平均は千円から二千円でばらつきがあるため、この時間帯の動向は未だに読めない。

 午後三時前後は、二、三名の客が居座る場合と、誰もいなくなる場合がある。この時間に、緋子は昼食をとったり、客がいない場合は買い出しに出かけたりする。珈琲豆や食パン、オレンジジュースなどは業者から仕入れているため、定期的に数日分の使用量を予想して依頼するが、コーヒーフレッシュや、卵、野菜、パスタなどは近所のスーパーで購入することにしている。そうしたメニューは在庫管理の観点から品切れになるケースが多々あるが、毎日の客の出入りを完璧に予測することは不可能であるので、緋子に非はない。

 午後四時過ぎには、七ツ森ななつもり夏乃佳かのかという少女がやってくる。これは固定客と呼べる相手だが、客単価はゼロだ。他にも来店がほぼ決まっている常連客もいるのだが、彼らの単価はよく変動するので、この辺の計算も無意味だ。夏乃佳の場合は、彼女の母親である七ツ森冬子とうこから飲食代を先払いしてもらっているため、月に二十日来店するものとして、一日当たりの単価はおよそ千円くらいになる。もっとも、緋子は彼女に対して、採算度外視で様々な飲食物を与えているため、売上計算としては不純である。

 単純計算で、一日当たりの来客人数は二十名程度。一日の売上は一万円から二万円と大きくバラつく。休日の場合はさらに増えて、四万円程度となる。およそ一週間で十四万円程売り上げて、月に六十四万円の売上。一階が店舗、二階が自宅という形態で建物を借りているため、月の家賃は光熱費を含み三十万円程度となる。仕入に掛かる費用が十八万円として、利益は十六万円程。他に住居があったり、従業員を雇っている場合は苦しい生活だが、それはそのまま緋子のポケットマネーとなるため、生活は安定している。もっとも、備品の追加や、保険料や税金などの支払い、借入金の返済などで飛んでいくことを考えると、緋子が自由に使える小遣いは、五万円程度だ。それでも安定して運営出来ているので、緋子に不満はない。貯金をしようとか、大きく儲けよう、という意識は、緋子にはあまりなかった。

 緋子は自分の計算に満足して、電卓を叩く手を止めた。まだ空は明るいが、午後四時をとっくに過ぎていた。待望しているわけではなかったが、常連客の夏乃佳が珍しく遅いので、計算をして暇を潰していた。通常、夏乃佳は午後四時十分頃には科学喫茶にやってくる。去年までは小学三年生だったため、午後三時十分には店に来ていたのだが、進学して下校時間が遅くなり、一時間入店時刻がずれ込んだのだ。そのため、緋子は時間を持て余す確率が高くなった。

「ごちそうさまぁ」

 伝票を持ったマダム二人組が、レジにやってくる。科学喫茶では最近、レジスターのレンタル契約を終了させ、会計管理はタブレットのアプリで行うようにしていた。硬貨と紙幣は、小さな金庫で取り扱っている。この方が、デジタルデータとしての管理が楽で、経営状況が把握しやすい。

「いつもありがとうございます」

 常連と言うほどではなかったが、月に一回以上は必ずやってくる客だった。専業主婦と思われる二人組で、来るのは決まって月末だった。夫の給料日の後、コーヒーと、小さなケーキを注文するのがスタンダードだ。あまり派手な雰囲気はないので、質素な暮らしをしているのだろう。この店での談笑は彼女たちのささやかな楽しみなのかもしれない、と緋子は想像する。そういう客に対しては、少しだけ、愛想が良くなる現象が起こる。

「お会計は別々でよろしいですか」緋子は決まった文句を口にした。マダムたちは揃って頷く。「八百六十円になります」

 先ほど計算していた一人当たりの単価より三百円くらい下がるが、今日に限ってはこれは問題ではなかった。マダムたちは緋子に対し、「またきまぁす」と言って、笑顔で去っていく。営業スマイルを浮かべながら、「またお願いします」と声を掛け、ドアが閉まるのを見届けた。基本的に、常連客に対しては退店時ににこやかに声を掛けることはないので、客と緋子との親密度と、緋子の愛想は、反比例しているようだ。

 時刻は、午後四時半を過ぎていた。

 緋子は店内を見渡す。残っているのは、常連客の一人である、小説家の男だけだった。午前十時にやってきてから、今までずっと、二人掛けのテーブル席に居座り続けている。歯に衣着せぬ物言いで緋子に求愛する、変わった男である。彼は軽食も注文するため、一人で四千円近い売上が約束される。その上、利益率の高い、ドリンクのオーダーが多い。繁忙期以外では満席になることもないし、一人の客に居座られることはデメリットにはならないため、緋子に熱を上げている部分を除けば、彼は良客と言えた。

 緋子はしばらく店内を観察し、客足は途絶えたかな、と判断した。

 電気ケトルのスイッチを入れ、濾過器ろかきをロートに留めると、フラスコに軽く差してから、粗く引いた珈琲豆を投入した。沸騰ふっとうを待って、ロートを取り除き、フラスコに適量の湯を注ぐ。アルコールランプに火をつけて、再沸騰を待った。湯がロートに逆流し、良い香りが立ち上る。火加減を調節し、竹べらで数回攪拌かくはん。弱火にして、珈琲を抽出する。三十秒後、消火して攪拌しながらフラスコへ珈琲を精製していく。毎日の作業なので、洗練された動作だった。フラスコを固定する金具を持ち、陶器のコーヒーカップへ液体を注ぐ。緋子はそれをアルミバットに置くと、小説家の元に持って行った。

「どう、仕事は」

「……あ、はい、ええ、順調です」

 小説家は耳を塞ぐようにして頭を抱えながら、ノートパソコンを凝視していた。何かを考えているのか、緋子が話しかけても顔を上げなかった。モニタの中には、縦書きの日本語で書かれた文章だけが存在している。まるでプログラムのソースコードみたいだな、と緋子は思った。

「見た感じ、あんまり書けてなさそうだね」緋子はそう言って、コーヒーカップをテーブルに置いた。「はいこれ、スペシャルブレンド」

「……あれ、僕また無意識のうちに追加注文しました?」

「ちょっと店を開けるから、しばらくいてよ」

「ああ、はい。……え? 何ですか? 珈琲は?」

「外に出てくるから。この珈琲は、サービス」

「よくわかんないんすけど」小説家は顔を上げて、緋子を見る。「あ、今日も綺麗ですね……」

「世界が?」

「緋子さんが、です」

「そうなんだ。よかったね」緋子は古い方のカップをのぞき込む。空になっていたので、それを回収した。「それじゃ、留守番よろしく」

「あの、僕、客なんですけど」

「私がいてもいなくても、過ごし方に変化はないよね」

「そりゃあ、そうかもしれませんけど……緋子さんがいてこその、この作業空間なんですよ、僕にとっては。緋子さんがカウンターにいるっていう事実がですね、僕をやる気にさせるんです。視界に入らなくても」

「あそう」緋子は淡々と言う。「つまり、嫌って言ってる?」

「嫌、というほど強い拒絶ではないんですが、常識的に考えて、よろしくないんじゃないかと。何かあっても、僕は責任取れませんし。こんなことは言いたくないですけどね、客に頼むことじゃないですよそれは。臨時休業にするから出て行ってくれ、なら分かりますが」

「すぐ戻るから」

「いやしかしですね……どうかなあ。本当に僕、責任取れませんよ」

「私が可愛くお願いしたら、反応は変化するわけ?」

 小説家は無表情で自分を見下ろす緋子を見つめ、ため息をついた。

「お願いする気ないですよね、緋子さん」

「よくわかってるじゃん」緋子は少しだけ表情を柔らかくした。

「わかりましたよ。はいはい、留守番しますよ。ええ、一人で寂しく小説を書きますよ。珈琲、ごちそう様です」

 緋子は「じゃ、よろしく」と手を挙げて、小説家を置き去りにする。サイフォンとコーヒーカップは、食洗器に入れて放置することにした。正面玄関の掛札をクローズに切り替え、内鍵を閉める。白衣のポケットに、鍵があることを確かめた。

「っていうか、緋子さんちょっと待ってください!」小説家が少し声を張り上げる。「二階、自宅じゃないんですっけ? っていうか、金庫とかもそのままだし! 本当に、このまま、何の用心もせずに外に出るってことですか?」

「なに」緋子は面倒臭そうに顔をしかめる。

「不用心じゃないですか、ってことを言ってるんですけど」

「はあ」緋子は面倒臭そうに、白衣のポケットに両手を突っ込み、小説家に再び近づく。「何か文句があるわけ」

「いや、文句って言うか、そのですね……冷静に考えてくださいよ。ひとり者の女性がですよ、どこの馬の骨とも分からん男をですね、ほとんど自宅に放置するみたいなことじゃないですか。しかもその男は、緋子さんにぞっこんと来てるわけですよ」

「そうなんだ」

「もっとですね、警戒心とか抱かなくていいのかっていうことです。プライベートを放置して出掛けるということに対して」

「もう……」緋子はポケットに手を突っ込んだまま、視線をじっと小説家に合わせる。「君のこと、信頼してるってことなんだけど」

「えっ! マジですか? 僕、そんなに信頼されてたんですか?」

「冗談だよ」緋子は少しだけ口角を上げる。「今日は多分、上に弟がいるから、部屋には入れないと思うよ」

「弟さん? いるんですか? 初耳ですよ?」

「だろうね」

「えっと……それは、冗談ですか? 本当ですか?」

「今いるかは不確定だね。気付いたらいなくなってるから。でも多分、いるんじゃないかな」

「いや、そういう意味じゃなくて……それ、本当に実在するんですか? 架空の弟さんとか、そういうのじゃなくて? 嘘ですよね?」

「本当」

「じゃあ、名前は?」小説家は、試すように尋ねた。

蒼太そうた」緋子は即座に言って、天井を見上げる。「会ってきてもいいよ」

「いや……すみませんでした。反応見る限り、マジっぽいですね」

「それじゃ」緋子はひらひらと手を振って、白衣を翻しながら小説家に背を向ける。「女の子の元気な声が聞こえたら、出てあげて」

「女の子? 元気? ……ああ、迎えに行くんですか。やっと理解しました。はいはいはい、どうぞお気を付けて。珈琲ごちそう様です。二度とごめんですからね、こういうのは」小説家は緋子の背中に向けて早口で言葉を投げつける。「今日も綺麗ですね! 緋子さんが!」ほとんど罵声に近い声色だった。


 ◇


 決まった時間に夏乃佳が店に来ないことに対して、緋子が必要以上に心配しているのは、夏乃佳が小さい女の子だから、という理由だけではない。むしろ、その部分はどうでもよかった。緋子が心配してしまうのは、夏乃佳の特異体質が原因だった。

 普通、小学四年生の女子が多少時間通りに行動しなかったとしても、大した心配はしない。帰宅時間が一時間や二時間遅れれば、何か事件に巻き込まれたのではないか、とか、誘拐されたのではないか、と考えるかもしれない。だが大抵の場合、クラスメートとの会話が弾んだとか、連絡もせずに誰かと遊んでいるとか、道草を食っていたという結末に終わる。しかしながら、夏乃佳の場合、幽体離脱している可能性があった。学校で授業中や移動中に幽体離脱が始まり、そのまま保健室に寝かされることも、日常茶飯事だという。最悪の場合、下校中に幽体離脱ということが考えられる。緋子が心配しているのは、まさにそのケースだった。

 過去にも一度、下校中に幽体離脱したことがあった。閉店時間まで夏乃佳が来ず、緋子は心配はしたものの、そのまま営業を続けていた。店を閉めたあと、夏乃佳の母親の冬子に連絡を入れると、病院に搬送されていたらしいという報告を受けた。救急隊員が到着した時点で幽体離脱は終わっていたため、大事には至らなかったようだが、それなりの大騒動が巻き起こったようだった。

 以来、緋子は夏乃佳の動向に敏感だった。GPS付きの携帯電話でも持たせるべきかとも思ったが、それは緋子が口を出すべきことではないと、一線を引いている。心配し、見守りはするが、よその家の子だ。過ぎた干渉は、どちらにとってもデメリットとなる危険性がある。適度な距離感が必要だった。だから緋子に出来ることは、散歩がてら、通学路に夏乃佳が落ちていないかを確かめることくらいのものだった。

 夏乃佳の通う小学校から店までは、大人の足で五分程度の場所にあった。小学生の足なら、十分程度だろう。緋子は小学校に向かって、通学路を歩いていく。心配はしていたが、最悪のケースは予想していない。そういう不安があれば、きっとマダムたちを追い出してでも夏乃佳を探していただろう。在庫管理の予想はよく外れるが、損得が絡まない場合、緋子の勘は割合に精度が高い。学校に着くまでには見つかるだろう、と、そんな予想をした。

 のんびりと午後の住宅街を歩いていると、案の定、遠くに夏乃佳の姿が見えたので、緋子はひとまず安堵した。歩道部分で、立ち止まっている。目も開いているし、動きも見られる。つまり、幽体離脱しているわけではないようだ。夏乃佳は、車道と歩道を分ける白線の上で、困り顔をしていた。何をしているのかは分からないが、時折ときおり地面を見ては、嫌そうに顔を背けている。

七佳なのか

「あ、ひこせんせー! ……助けてくださーい」

 夏乃佳は一瞬、パッと顔を明るくしたが、すぐに元の表情に戻る。泣き出しそう、とまではいかないまでも、夏乃佳にしては珍しく、弱気な態度だった。困り果てている、という表現が似つかわしい。

「なにしてるの」

 緋子は少し小走りになって、夏乃佳に近づく。幸い、車通りは少なく、また、歩行者の姿もなかった。

「動けないんですよー」夏乃佳はほとんど壁にくっつくようにしていた。「どうしましょう」

「金縛りにでもってるの?」

 緋子はそのまま夏乃佳に近づいていく。

 ――と、突然。

「危ない!」

 夏乃佳は叫ぶように言った。まったく予想していなかった出来事に、緋子の動きが止まる。小さい体のどこからその声が出たのか、不思議なくらいの声量だった。否、夏乃佳の声だとは、最初は気づかなかったくらいだ。

「どうしたの」緋子は立ち止まったまま、尋ねる。

「緋子先生、そこ、落ちちゃいますよー」

 二人の距離は、二メートルほどだった。夏乃佳は、二人の間の車道を指差す。しかし、そこには経年劣化したアスファルトがあるだけだ。地盤沈下が起きているとも思えない。

「落ちちゃうって、何が?」

「そこ、穴が開いてるんです」

「ああ」緋子は夏乃佳の言葉と状況から、何を言われているのか理解した。「今、七佳は、穴に囲まれてるわけ」

「そうなんです」

 夏乃佳はまた再び困ったように、眉根を寄せた。

 緋子はその場に立ち止まり、今一度、周囲を観察する。

 住宅地の道路だった。道路の両側には、それぞれの土地を区分けするように、コンクリート壁が続いている。道幅は、車がぎりぎりすれ違える程度だった。途中途中に電柱が立っている。夏乃佳は、コンクリート壁にはりつくように、身を引いていた。

「こっちは平気?」緋子は、夏乃佳と同じ側のコンクリート壁を指差した。「このまま、車道に立ってるわけにもいかないし」

「そこは大丈夫ですよ」

 緋子は平行移動して、自分も壁に身を寄せる。傍から見れば妙な状況だろう。否、緋子自身ももちろん、自分が置かれた状況を奇妙だとちゃんと認識していた。

「七佳は今、一歩も動けない状態なわけだ」

「そうなんです」嫌そうに、夏乃佳は地面から目を背ける。「ちょっとでも動いたら、落ちちゃいそうです」

「うーん、落ちないと思うけどな。ていうか、穴って何?」

「分からないんですけど、私の周りが真っ黒なんです」

「それ、今までも見えてたの」

「最近たまに見てたんですけど、今までは遠くにあったので、大丈夫だったんです。でも、今日は囲まれちゃいました」

 困りました、と呟いて、夏乃佳は口を結んだ。

 緋子は想像してみる。周囲が奈落で、今自分が立っている場所だけが、唯一の足場となっている状態を。確かに、そんな状況に置かれたら、足を踏み出す気にはなれない。緋子は、そういえば昔、似たような想像をしたな、と思い出していた。小さい頃、眠れない夜に、自分が寝ているベッドだけが奈落に浮いているシーンを思い浮かべたことがあった。そんなことは現実的に考えてあり得ないのだが、そうした想像をしただけで、怖くて目を開けられなくなった記憶がある。ああいう恐怖を、夏乃佳は今、現実として認識している。そうであれば、恐ろしく思うのが当然だ。

「その穴は、結構速く動くんだね」

「はい。逃げようと思ったんですけど、ダメでした」

 うー、とうめき声を上げながら、夏乃佳はまた地面を見て、酸っぱいものでも食べたような顔で、目を逸らした。緋子の目には、謎の動きをする少女しか映らないのだが、夏乃佳の視界には、恐ろしい現実が広がっているのだろう。こうした、見えているものが異なるというやりとりは何度もしているのだが、その度に、緋子の中で現実の定義が曖昧あいまいになる。

「じゃあ、どうしようか」

「どうしましょう」夏乃佳は服の裾を引っ張る。「大変です」

「そうだね。じゃ、七佳は目を閉じてて」

「閉じたら危ないですよー」

「そうかもね」緋子は言って、優しく見えるように微笑んだ。「でも、大丈夫だよ。私がなんとかしてあげる」

「本当ですか?」

「うん」

 夏乃佳はまたしばらく地面を見ていたが、意を決したように、ぎゅっと目を閉じる。緋子は、夏乃佳が「穴が開いている」と言っていた場所に足を踏み出すのを少しだけ躊躇ちゅうちょしたが、大人なんだから、と自分に言い聞かせて、歩み寄った。当たり前のことだが、地面の下に落下していくような現象は起こらなかった。どれだけ飛び跳ねてもびくともしない地面が、そこにはある。

 緋子は夏乃佳の隣に行くと、小さい身体をひょいと抱き上げた。すぐに夏乃佳は「きゃー」と、楽しそうな声を上げる。これから何が行われようとしているのかを想像して、それを期待しているような声だった。助かった、とか、怖かった、とか、そういう感情とは無縁の、純粋な声だった。そのギャップに、緋子はまた、現実感を喪失しそうになる。

 緋子は夏乃佳を抱えなおし、安定させようと試みたが、ランドセルが邪魔だった。仕方なく、正面から夏乃佳を抱き締める。赤ん坊を抱くような体勢になった。すぐに、夏乃佳の言っていた安全地帯まで戻る。

「緋子先生、もう、目を開けてもいいですか?」

「いいよ」

 パッと夏乃佳の大きな目が開かれる。そして、緋子の足元に視線を落とした。まん丸な目は、今度は嫌そうに背けられることはない。

「どう? 穴は追いかけて来てる?」

「うーんとー……」夏乃佳は少し思案してから、「そうですね、すごく危険なので、とてもおりられないですね」と言った。

「その顔は嘘の顔でしょ」

「えへへ、ばれちゃいました」

「七佳は嘘が下手だからね」緋子はもう一度、夏乃佳を抱きなおす。安定性が二割ほど増した。「仕方ない、このまま店まで運んであげる」

「やったー!」

 夏乃佳は嬉しそうに緋子にしがみつく。さらに二人の安定性が増した。緋子は慎重に一歩踏み出したが、やはり地面に吸い込まれるようなことはなかった。先ほどまでの困り顔が嘘のように、夏乃佳はご機嫌な様子だった。足をぶらぶらさせるため、重心が移動して歩きづらかったが、緋子は文句は言わなかった。


 ◇


 夏乃佳を抱き上げたまま、緋子は白衣から鍵を取り出し、正面入り口のドアを開ける。掛札をオープンに戻すのも忘れなかった。

「はい、終わり」

「ありがとうございました」

「そうだね」

 緋子はすぐに、小説家の存在を確認した。つい数十分前と同じ、進捗しんちょくかんばしくない様子で、頭を抱えていた。二秒だけ考えて、夏乃佳より、小説家のフォローを優先することにした。気兼ねなく会話が出来る常連客とは言え、粗末に扱って良い存在というわけではない。緋子の人生への関与度は低いが、この店の存続に、彼の存在は必要だ。

「書けてる?」

「あ、緋子さん……」小説家は振り返り、夏乃佳の存在を確認する。「ああ、お帰りなさい。気付かなかった……何分くらい外に出てました?」

「さあ、測ってない」

 コーヒーカップを覗き込むが、スペシャルブレンドはほとんど減っていなかった。緋子はそれだけ確認すると、カウンターへ舞い戻る。夏乃佳は既にランドセルを椅子に掛け、足をぶらぶらさせながら待っていた。

「ケーキあるよ」紅茶葉の缶を開けながら、緋子が尋ねる。「紅茶でいいよね」

「はーい! お願いします」

 普段通り、夏乃佳はにこにこしながら、緋子の動作を眺めている。つい先ほどまで、あんな状況に追い込まれていたとは思えない普通さだった。

 緋子は少しだけ、夏乃佳の人生を心配した。意味のない考察だったが、そうせずにはいられなかった。緋子が観察する限り、最近の夏乃佳が遭遇する非科学的な現象は、抽象的になりつつある。幽体離脱をしてしまう、あるいは幽霊を見てしまう、という範疇を超えた、漠然としたものになっている。冬子さんに報告すべきかもしれない、と、緋子は考えた。それでどうなるものとも思えないが、なんだか嫌な予感がしたのだ。損得が関わらないから、この勘もきっと当たる。

 上皿天秤に茶葉を乗せ、適量を計測する。電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れた。沸騰を待つ間、切り分けたパウンドケーキを一切れ、シャーレではなく、通常の陶器の皿に乗せ、緋子はカウンターを出る。

「はいこれ」

「……はい。あれ? 僕、また何か頼みました?」

「糖分、大事」小説家のテーブルの上に、ケーキを置く。

「あれ、サービスいいっすね今日……お駄賃ですか、これは。それとも、余り物ですか? いえいえ、全然、嬉しいんですけどね」

「利益率の還元」緋子はつまらなそうに言って、白衣のポケットに手を突っ込む。「じゃ、またよろしく」

「え、嫌ですよ? 人の店にひとりでいるの、最初はすごく不安だったんですから。まあ、五分もしたら、どうでもよくなりましたけど……っていうか弟さんいるなら、店に出せばいいのに!」

「普段は結構店に出てるんだけどね。会ったことないんだっけ、珍しい」

「あ、本当にいるのかまた疑わしくなってきた! ていうかもしかして、ヒモでも飼ってたりするんですか! 許せないですよ緋子さん!」

 緋子は返事をせずに、カウンターへ戻る。接客をしている間、夏乃佳は大人しくしていた。行儀の良い子だ、と思う反面、なんだか危うさを感じる時もある。それはつまり、わきまえ過ぎている、ということだ。自分の存在を、普通ではないと認識している気がする。まさかそんなことを本人には訊けないが、恐らくそうだろう、という予感がある。考えてみると、夏乃佳の礼儀正しさは、ちょっと行き過ぎているかも、と思考する。

 もちろん、意味などない思考だ。

 考え過ぎも干渉のしすぎも良くないな、と、緋子は頭を振った。

「七佳、今日は学校、何かあったの」

「はい! いろいろありました!」

「そうなんだ。すごいね」

 緋子は三角フラスコに茶葉を投入して、その中に適量の湯を注いだ。化学反応を確かめるように、琥珀色の液体を見つめる。夏乃佳も緋子を真似るように、大人しく、フラスコの中で踊る茶葉を見つめていた。

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