科学喫茶と先代店主

 科学喫茶と呼ばれる喫茶店は、正式な店名を『C3-Lab』と言った。だが、この店をその名で呼ぶ者はほとんどいない。店主である猫目ねこのめ緋子ひこも呼ばないし、店一番の常連客である七ツ森ななつもり夏乃佳かのかも、その名を呼ぶことはなかった。店の前には真鍮しんちゅう製のプレートがあり、小さな字で『C3-Lab』と書かれているのだが、発音が分からない客が多いせいか、あまり浸透しんとうしていない。食器代わりに使われる実験器具や、ラックに置いてある科学雑誌などのイメージから、『科学喫茶』や『化学喫茶』と呼称されることが多かった。

「ひっこせーんせっ!」

 ドアを破壊せんとする勢いで、その常連客であるところの夏乃佳は科学喫茶に入店した。午後二時半のことだった。

 教師たちの勉強会が開催される都合で、小学四年生の夏乃佳たちのクラスは、五、六時間目が休みになっていた。そのため、普段より早めに、夏乃佳は店にやってくることになった。早くに店に来たことで、緋子が驚くのではないか、という期待が、夏乃佳の中にはあった。

「おお、いらっしゃい七佳なのかちゃん」

 しかし、夏乃佳の予想に反し、迎え入れたのは店主である緋子ではなく、初老の男性だった。彼はカウンターの中にいて、物思いに耽るようなポーズをしていた。カウンターには、飲みかけの珈琲入りのビーカーが置かれている。

「あ、おじいさんだったんですね。こんにちは!」

 店内は閑散としており、他に誰もいなかった。客は当然のこと、店主である緋子の姿もない。夏乃佳の視界に唯一映る人物は、柄物のシャツにベストを組み合わせた服装でカウンターの中に立っている、初老の男性だけだった。

「あれえ、緋子先生はどこですか?」

 夏乃佳は視線を動かしながら、緋子の姿を探した。が、どこにも人の気配は感じられない。

「今ちょっと、買い出しに行ってるみたいだよ。すぐに戻って来ると思うけどね。ほら」と言って、初老の男性は、流しにあるフレッシュの入れ物を指差す。「ミルクが切れていたみたいでね。多分、すぐそこのコンビニか、スーパーに行ったんじゃないかな。さっきまでお客さんがいたんだけど、そこで使い切ったらしい。まったく、在庫管理がなってないんだあいつは」

「そうだったんですかー」

「まあ、きっとすぐ戻ってくるから、ここで待っていればいいよ。七佳ちゃん、何か飲むかい? 牛乳かオレンジジュースなら、冷蔵庫にあったと思うんだけどな……」

 そう言いながら、男性は冷蔵庫に視線を向ける。夏乃佳は一瞬、緋子のいないこの状況をどうするべきか迷うそぶりを見せたが、結局はランドセルを椅子に掛けて、居座ることに決めた。家に帰っても、退屈なことはわかりきっている。

「牛乳とオレンジジュース、どちらも十分に在庫があったよ。しかし卵の賞味期限が近かったね。本当、ちゃんと管理してるのか、あいつは」

「じゃあ、牛乳がいいです。緋子先生みたいに背が大きくなりたいので」

「そうしようか。せっかく誰もいないんだ。七佳ちゃん、中に入ってみるかい?」と、男性はカウンターの内側を指差す。

「でも、緋子先生に怒られませんか?」

「大丈夫だよ、私が無理を言ったと言えば、七佳ちゃんが怒られることはないさ。ほら、おいで」

 男性はにこやかな笑顔を浮かべている。なんだか怪しい雰囲気があるが、この老人が緋子のいない間にこの科学喫茶に入り込んだ犯罪者、というわけではない。夏乃佳の名前を知っていることからも、彼と夏乃佳が顔見知りであることは、確固たる事実だった。

 夏乃佳はまた悩むそぶりを見せたが、結局、カウンターの中に入ることに決めた。緋子に怒られるかもしれない、という不安はあったが、カウンターの中に入りたいという欲求に、素直に従うことにしたのだ。それに、単純に喉も渇いていた。

「いやあ、まるで可愛い店員さんのようだ」男性は満面の笑みを浮かべた。「七佳ちゃん、自分で用意出来るかな」

「はい! 毎日緋子先生のお仕事を見てるので、大丈夫だと思います」

「流石は七佳ちゃんだ。でも、食器棚には手が届かないんじゃないかな。手を貸そうか?」

「大丈夫ですよ」

 夏乃佳は折りたたみ式の踏み台を広げて、食器棚の前に置いた。普段あまり手を伸ばすことがない、常温保存が可能な調味料の在庫や茶葉などを取る時にだけ、緋子が使用している踏み台だった。

「ほら、おじいさん、見てください。身長が高くなりました!」

「私と同じくらいの身長になるんだねえ。これなら安心だ」

 夏乃佳は食器棚からビーカーを取り出すと、それを作業台に一つ置く。踏み台からぴょんと飛び降りると、次に冷蔵庫に向かった。

「冷蔵庫も、緋子先生の許可なく開けて大丈夫ですかね?」

「大丈夫さ。私の責任だから」

 夏乃佳は冷蔵庫を開けて、中から牛乳パックを取り出す。冷蔵庫を開ける時、夏乃佳は律儀にも、「緋子先生、失礼しまーす」と小声で唱えていた。

 夏乃佳は牛乳をビーカーに注ぎ、再び冷蔵庫に牛乳パックをしまう。その一連の動作を、男性は目を細め、愛おしく見守っていた。彼の年齢は、六十歳を超えているように見える。夏乃佳くらいの年齢の孫がいても不思議ではない。夏乃佳を見つめるその表情には、そうした無償の愛情が込められているようにも見えた。

「出来ました!」

「流石は七佳ちゃんだ」男性は親指をぐっと立てると、軽くウインクをして見せた。「完璧っ!」

 夏乃佳は踏み台を折りたたみ、元あった場所にしまうと、牛乳入りのビーカーをカウンターに乗せた。そのままキッチンを出て、客席に戻る。

「それじゃ、乾杯だ」

「乾杯!」

 カウンターには、夏乃佳が来た時から置きっ放しになってある、珈琲入りのビーカーがあった。夏乃佳は牛乳入りのビーカーを両手で持ち、軽く乾杯をした。鈍い音が、閑散とした店内に響く。

「いただきまーす」

「どうぞ、召し上がれ」

 夏乃佳が牛乳を飲む様を、男性はまたも、愛おしそうな目で見つめている。慈愛に満ちた表情だった。

 相変わらず客の姿はなく、緋子もまだ帰宅する気配がない。

 夏乃佳の立てる物音だけが、店内に響いている。

「牛乳、美味しいです」

「それは良かった」男性は満足そうに言って、カウンターに肘を突いた。「七佳ちゃん、最近どうだい? 学校は楽しいかい?」

「はい! 毎日とっても楽しいですよ」

「そうかそうか。七佳ちゃんは元気でいいねえ」

「たまに意識が飛ぶので、意識があるうちは元気を心がけています。元気は出せる時に出すのが一番なんですよ」

「若いのに大したもんだ」男性は深く頷いて、「緋子のやつも、七佳ちゃんくらい愛想が良ければいいのになあ」と愚痴った。

「緋子先生は素敵ですよ?」

「素敵なことと愛想が良いことは、別問題なのさ。まあ、七佳ちゃんに言っても仕方のないことだけどね」

「素敵だと思うけどなぁ……」

「ところで七佳ちゃん、最近、あっちの方はどうだい?」と、男性は頭の両脇で、手を回転させるような仕草をした。「その、幽霊とかは、最近もまだ、しっかり見えるのかな」

「はい。バッチリ見えてますよ!」

「そうかそうか。それは何よりだ」

 夏乃佳は、頻繁に幽体離脱を起こしたり、この世の物ではない何かを見ることが出来る、特異体質であった。男性も、夏乃佳の体質についての知識を持っている。他に知る人間は、科学喫茶店主の緋子と、夏乃佳の親族くらいのものだ。そういう意味では、この男性は、夏乃佳の体質にとって、かなり近しい人物と言えた。

「最近は何か見たのかな?」

「最近はですねー……」

 夏乃佳は少しだけ考える。夏乃佳の見ている世界は、およそ常人に理解出来る景色ではない。日常的に妙な光景を見てはいるが、言語化出来る事象は少ない状態にあった。

「あ、この前、腕だけがふわっと浮いてるのを見ました」

「腕だけ? そりゃまた奇妙な話だねえ」

「多分、腕の持ち主の人は死んでないんだと思うんですけど、腕だけ切り落とされちゃったみたいなんです」

「へえ。なんだか物騒な話だ。殺人事件でもあったのかね」

「うーん、よくわかりません。でも、事故だって言ってましたよ? 機械が、どうとか……」

「ほおう。じゃあ、工事現場か何かのトラブルだったのかね。七佳ちゃんは、そういうものも見えてしまうんだね。私はてっきり、幽霊だけが見えるのかと思ってたよ」

「結構、色々見えますよ? お人形とか、穴とか、意識とか」

「穴?」と、男性は不思議そうに尋ねる。

「はい。たまーに、校庭とかに空いてるんですけど、しばらくすると消えるんです。真っ黒で、大きい穴が」

「それは、誰かが入ってしまったりしないものなのかな。それとも、見えているだけで、本物の穴というわけではないのかな?」

「どうでしょう。幽霊の人とかは、落ちちゃうかもしれません。でも多分、生きてる人は大丈夫です。穴はいつも、私に向かってきてると思うので、私を取り込もうとしてるのかなーと思います」

「そうか……」男性はいつくしむような視線を夏乃佳に向ける。「やっぱり七佳ちゃんは、そういう体質だから、ただ見えるだけじゃなくて、向こう側からも気に入られちゃうのかもしれないねえ。でも少なくとも、この店にいる間は、安心していいよ。私が絶対に、七佳ちゃんを守ってあげるからね」

「ありがとうございます!」夏乃佳は純度の高い笑顔を浮かべた。「おじいさんは優しいですねー」

「歳を取るとねえ、小さい子を守らなきゃいけないっていう、不思議な気持ちになるものなんだ。私にも、孫がいるんだけどね、もうすっかり、大人になってしまったから……七佳ちゃんを見ていると、なんていうか、すごく、優しい気持ちになるんだよねえ」

 男性がそう言った時、店の裏側で物音が聞こえた。ドアに鍵が差し込まれ、解錠しようとする音だった。

「あ、緋子先生だ」

「おっと、帰ってきたか。それじゃ、私は彼女に怒られる前に退散しようかな」男性は言って、夏乃佳に愛想よく手を振ると、裏口へ向かって歩き出した。「牛乳のことを聞かれたら、私が勧めたと、きちんと説明するんだよ」

「はい!」

「え? 誰? 七佳?」姿が見える前に、緋子の声が先行して店内に響いた。「あれえ、クローズにしたと思ったけど……ああ、しまった。正面の鍵、掛け忘れてたのか」と、独り言が続いた。

「緋子せんせー、こんにちは!」

「あーあ」緋子は荷物を抱えた状態で、裏口からカウンターの中にやってきた。「掛札、クローズ、ってなってなかった?」

「あ、見てませんでした……」

「あそう。勝手に牛乳なんか飲んでるし」

「これは……おじいさんが勧めてくれました」夏乃佳は控えめな声で言う。「ごめんなさい……」

「誰が?」

 緋子は荷物を台に起き、そのまま夏乃佳に近づいて来ると、カウンターに置きっ放しになっていた珈琲入りのビーカーを掴み、一口飲んだ。

「おじいさんです。緋子さんの前の、ますたー?」

「ああ、先代店主のこと。あの人、まだ成仏してなかったんだ」緋子は興味なさそうに言って、店内を見渡す。「まだここにいる?」

「いえ、さっき裏口に向かって行きました」

「げえ。じゃあ、私とすれ違ったってことか。嫌な気分だな」

「あのおじいさん、緋子先生のおじいさんなんですか?」

「ううん、知らない人だよ。でも、七佳から聞いた情報をまとめると、前にここで喫茶店をやっていた人みたいだね」緋子はぐっと、残りの珈琲を飲み干した。「ここは居抜きで借りた店舗だから、前も喫茶店だったんだよ。だから、そのおじいさん、この店に未練があるんじゃないかな。地縛霊みたいなものだね」

「優しい人だから、悪いことをする人じゃないと思いますよ」

「でも、牛乳は勝手に勧めたんでしょ」緋子は、夏乃佳のビーカーを指差しながら言った。「そもそも、地縛霊って、物を動かせるんだね」

「いえ、これは私がやりました」

「あそう。じゃあ悪いのは七佳だ」

 緋子はビーカーをシンクに置くと、買い出しをしてきた荷物を、一つずつ、所定の位置に収納していく。

「七佳、おじいさん、何か言ってた?」

「卵の賞味期限が近いって言ってました」

「ふうん。じゃあ、今日はオムレツでも作ろうかな」緋子は言いながら、冷蔵庫を開ける。確認すると、在庫が六個ある卵の賞味期限は、明後日だった。「他には?」

「うーん……あ、そうだ。緋子先生には愛想がないって言ってました」

 緋子は手を止めて、夏乃佳の顔を見る。満面の笑みを浮かべている夏乃佳と比較すると、確かに自分には愛想がないかもしれない。一度も会ったことのない男からの小言だったが、なんだかひどく、気にさわる発言だった。

「今度会ったら、大きなお世話だって言っておいて」

「あ、でも、私はちゃんと、緋子先生は素敵だって言っておきましたよ!」

「そうなんだ。えらいね。じゃあ、オムレツ食べる?」

「はい、食べたいです!」

 緋子は愛想なく頷いて、冷蔵庫から卵を二つ取り出す。ふと、裏口に続くドアのない敷居を見つめた。早く成仏して欲しいとは思うものの、悪霊でないなら、まあ気が済むまでいれば、と、そんなことを思った。

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