科学喫茶と日常風景

 科学喫茶と呼ばれる喫茶店『C3-Lab』のカウンター席に、一人の女性客が座っている。パンツスーツに身を包んだ細身の女性で、十人いれば十人が美人だと評価するような容姿をしていた。彼女は科学喫茶の常連客で、主に、平日の午前中、モーニングタイムが終わってから、正午になるまでの時間帯に姿を現す。

 カウンターの中にある厨房スペースには、赤いタートルネックのセーターに白衣を着た女性が立っていた。彼女は科学喫茶の主人である、猫目ねこのめ緋子ひこだ。今は、洗浄の終わった実験器具から、布巾ふきんで水気を奪っていた。

 女性客が珈琲を飲んでいる間、二人とも、しばらく会話も視線も交わしていなかった。だが、お互いをきちんと認識しあっていた。今この瞬間に限っては、二人の関係は、店と客の関係ではなかった。事実、科学喫茶は現在、閉店扱いだった。珍しく、スーツ姿の女性以外の客がいなかったので、緋子は気まぐれにドアに掛かった掛札かけふだを『クローズ』に反転させていた。科学喫茶には定休日がないため、こうした臨時休業は日常茶飯事であった。

「ねえ緋子」

 唐突に、スーツの女性が緋子を呼び捨てにして呼んだ。

「なんですか、冬子とうこさん」

 緋子もそれに応じる。二人の上下関係がすぐに分かりそうな呼び方だった。

「最近、どう? 元気にしてる?」

「私のことじゃないですよね」緋子は苦笑気味に言う。「元気にやってますよ。私にはそう見えます」

「そう。良かった」女性はほほ笑む。「最近忙しくて、あまり会えていないから」

「夜は普通に会ってるじゃないんですか。土日だって、お仕事はお休みですよね」

「そうなんだけど、平日は二時間くらいしか会えないから、気に掛かるのよね」

「もっと時間を作って、会ってあげたらどうですか」

「そうしてあげたいんだけどねえ」

「お仕事、忙しいんですね」

「それなりに」

「大変ですね」

「大変じゃないわ。忙しいの」

「大変なのと忙しいのは別の事象ですか」

「読んで字の如くね」

「唯一休める時間が、平日の、しかもお昼前の時間だけというのが、寂しいですね」緋子は時計を見ながら呟く。「もっと早くに始まる仕事に転職したらどうですか」

「この仕事じゃなきゃダメなのよ、色々あって」

「人間関係は上手く行かないものですね」

「そうかしら」冬子はからかうように言う。

「上手く行ってますか?」

「嫌われていないといいんだけど」

「嫌ってはいないと思いますよ」緋子は微笑んで言った。「むしろ、大好きなんじゃないですか、冬子さんのこと」

「そうかなあ。寂しがってるような、そんなそぶりはない?」

「寂しがってはいると思いますけど……まあそもそも、人を嫌うような子ではないんじゃないですかね」

「そうね。どちらかというと、好きが薄れると、関心を失うタイプかしら。感情的な部分が稀薄なのかもね。誰に似たのかしら」

「母親譲り」緋子は小さく呟く。

「そう見える?」

「体質は、少なくとも」

「そうね。変なことに巻き込まれていないといいんだけれど」

「そんな風には見えませんよ。小さな事件は頻発してますけど」

「いつもごめんね」

「まあ、これも仕事ですから」

 スーツの女性はビーカーを大きく傾けて、中身を飲み干した。数秒して、午前十一時を報せる鐘がなる。

「さて、そろそろ行かなきゃ」

「ご出勤ですね」

「うん。今日も色々あるのよ」

「本業は大変ですね」

「これはこれで楽しいのよ。でも、緋子みたいな生活も楽しそうね」

「これはこれで」

「じゃあこれ、いつもの」

 一万円札を差し出し、冬子はそのまま出口へ向かう。店に来てから冬子が口にしたのは珈琲だけであり、科学喫茶の珈琲代はその十分の一にも満たない。しかし緋子はお釣りを渡すこともなく、それを受け取って、二つに折りたたむと、白衣のポケットにしまった。

「それじゃ、またね。夏乃佳によろしく」

「ありがとうございました」

 緋子は店の前まで出て、冬子を見送ると、掛札を反転させて、オープンに切り替えた。


 ◇


「……緋子さん、もう一杯お願いします」

「お金、いいの」

「ええ、まあ……多分大丈夫です。はい、今月は節制してますので」

 店の隅のテーブル席で、ノートパソコンを前に祈るように手を合わせている男が言った。比較的客数が少なく、店内は静かだったので、カウンターの中にいても会話が出来るほどだった。

 彼は時折科学喫茶にやってきては、作業をしながら五時間ほど、居座り続ける常連客の一人だった。居座ると言っても、飲み放題ではないコーヒーを何度かお代わりするし、たまに昼食も食べていく。糖分を欲してか、ケーキを注文することもあった。平日に満席になることがほとんどない科学喫茶としては、売上に貢献してくれる良客とも言えた。

「今日は行けそうな気がします。だから、このまま、突っ走りたいんです。金に糸目を付けてる場合じゃないんですよ。ここで走らずに、いつ走るかっていう話ですから」

「そう。がんばって」

「ありがとうございます!」

 男は小説家だった。本業ではあるようだが、緋子が想像するような印税生活とは無縁らしく、悠々自適な暮らしというわけではないようだ。それでも、実家暮らしであるというようなことを以前聞いたことがあった。稼ぎは少ないものの、貧困しているほどでもないのかもしれない。

 彼が科学喫茶で執筆に勤しむのは、静かで集中出来るからというのが第一の理由であるが、金を払って小説を書くという過酷な環境に身を置くことで、感性を研ぎ澄ませているという側面もあるらしかった。他にも、一癖ひとくせ二癖ふたくせもある常連客を見ていると、閃きが生まれることがあるらしい。つまり、科学喫茶は人間観察の場として適している……という趣向もあるようだが、彼自身もまたそうした観察の対象であることには、気付いていないようだ。

「お待たせ」

 緋子はコーヒーカップを乗せたアルミバットを持って、小説家のテーブルにやってきた。科学喫茶では実験器具を食器として提供するのが通常であるが、彼は通常のコーヒーカップでの提供を依頼していた。喫茶店のテーブルにコーヒーカップが置かれているのは普通の光景だが、科学喫茶においては、普通の注文をするのは、異質に輪をかけて異質と言える。

「ありがとうございます」小説家は軽く頭を下げてから、緋子を見上げる。「今書いてる作品で賞が取れたら、絶対に緋子さんにプロポーズします。絶対にです」

「あそう」アルミバットを胸の前に抱えながら、気のない返事をする緋子。「小説賞の賞金って、いくらもらえるの?」

「今狙ってる賞は……そうですね、百万円くらいです。源泉徴収でいくらか引かれますけど、まあ額面としてはそんな感じですね」

「ふうん。一年で一作書いて賞を取っても、年収百万円か」

「いえいえ、賞を取れた本が出れば単行本の印税が入りますから……少なくとも最初の一年は人並みの収入になりますよ」小説家は言い訳でもするように、言葉を吐き出す。「えーと……まあ、大体一万冊くらい刷られますから、一冊の印税が六十万円くらいです。もし僕がやるとしたら、一年で四冊くらいは書ける想定ですから、年収だと三百万円から四百万円ってとこですかね」

「ふうん。でもそれじゃ結婚は厳しいなあ」

「いえいえ、昨今の平均年収で考えれば、十分行けますよ! それに、小説家は過去作がいつ爆発するか分かりませんから、長く続ければ続けるだけ、稼ぎになります。それに、緋子さんと二人で頑張れば、余裕で暮らせますよ!」

「私は楽がしたいの」

「さいですか……」

「最低でも、五百万くらいは欲しいかな」

 緋子は捨て台詞のように言い放ってから、カウンターに戻って脚の高いスツールに座り、ぼんやりと小説家の作業を眺めることにした。

 緋子は大学にいる頃から、自分の頭が良い方ではないと思っていた。小さな頃から勉強ばかりしていたくせに、広い世界に出てみると、上には上がいて、自分の理解を超えるような明晰めいせきさを持った人間が何人もいるということを思い知らされた。そういう世界で育ったせいか、人間の価値は頭の良さに重きが置かれていると思っている節がある。もちろん、それだけが全てだとは思わない。でも、外見的な魅力や、経済力よりも、頭の良い人間に惹かれる自覚があった。

 しかし、緋子の目線の先にいる男は、決して頭が良い方ではないだろうと、緋子は思っている。少なくとも、緋子のいた世界では言語が通じないレベルだろう。頭の回転は速そうだが、知識に乏しい印象がある。だから理論的には、緋子の興味対象ではないと言っても良いはずだ。

 それでも緋子は、小説家自身どういう原理で組みあがっていてどうして動くかも分からないであろう機械を利用して、機械だけでは作れないものを作り上げている様を、興味深げに眺めていた。物理的な現象としては、人間が指先を動かしているだけに過ぎない。しかし、彼の脳の中では、何らかの電気信号がうごめいて、物語を作り上げているのだろう。緋子も小さい頃は、たまに小説を読んだ。あれを全部ひとりの人間が書いているのだと思うと、なんとも言えない興味深さがある。

 小説家はたまに頭を抱えたり、また祈るように手を合わせたりする。自分のような女に好意を抱くような人間だから、多分バカなのだろうとは思うが、観察の対象としては非常に優れた性質を持っている。

「……緋子さん、アイスコーヒーもお願いしていいですか」

 まだコーヒーを飲み終えていないのに、追加注文が発生した。熱い珈琲では一気に飲めないから、脳を瞬間的に覚醒させられるアイスコーヒーを注文したのだろう。

 どうせ男は何をどれだけ注文したかを覚えていないはずだ。緋子は追加注文分は伝票に書き加えないことにして、平凡なグラスに平凡な形の氷を詰めて、準備に取り掛かる。ちょっとしたサービスも、固定客を作るには重要は営業努力と言えた。


 ◇


「ミルクティーをテイクアウト」

 入口から一番近いカウンター席に、ノーネクタイでスーツ姿の男が座った。緋子は少しだけ嫌そうな表情を浮かべる。嫌悪というよりは、苦手意識が近い。あるいは、面倒くさい親戚に会った時のような鬱陶しさだろうか。

「まいどどうも」

「経営はどう」

「ぼちぼちです」

「ぼちぼちかあ。不正確な言葉だなあ」ぼんやりとした表情で、男は言う。「まああまり興味もないから、別にいいか、不正確でも」

「じゃあどうして聞くんですか」

 そう言ったあと、なんでそんな質問をしたのかと、緋子は後悔する。この男と会話をすると、いつもこんな風に、誘発されてしまう。

「……いえ、なんでもありません」

「そうか」

 端的な表現をすれば彼は緋子の恩師の一人にあたる。緋子の通っていた大学の教授だった。大学を出てからもう何年も経つのだが、未だに緋子のことを学生扱いし、店に通ってくる。金払いの良い客ではあるのだが、昔からの苦手意識が未だに抜けない。もちろん、受けた恩を思えば、ミルクティーの一杯ぐらいサービスするのが順当かもしれなかったが、いざ彼を目の前にすると、反発心が顔を出すから不思議だった。

 緋子は無駄に時間をかけてミルクティーを作る。基本的に科学喫茶ではテイクアウトは受け付けていないのだが、彼のたっての希望でテイクアウト用の紙カップを用意している。そういう特別扱いを拒めないくらいには、緋子は彼に恩義があった。テイクアウト用に飲み物を作る手間や、紙カップやスリーブの用意など、面倒なことはたくさんあったが、この男に長居されることに比べれば、些末さまつな問題だとも思える。教授に感謝しているのかしていないのか、緋子自身も未だによく分かっていない。

「そう言えば、彼女、最近来る?」

「冬子さんですか?」

「娘も含めて」

「ええ、たまにいらっしゃいますよ。娘さんはほぼ毎日。もう少しすれば」時計を見る。あと三十分ほどで、この店をもっとも頻繁に利用する客が来る時間だ。「お会いになりますか」

「いや、あまり興味はない」

「じゃあどうして聞いたんですか」

 数分前と同じ質問をしてしまってから、緋子は溜息をついた。

「なんでもありません」

「そうだろうね」

 男はテーブルの上にある蒸発皿を引き寄せて、スーツから煙草の箱を取り出した。

「煙草、吸ってもいい?」

「いいですけど……」

 全席禁煙の表示はないので、科学喫茶では吸おうと思えば煙草が吸える。灰皿代わりに、蒸発皿も用意があった。しかし、店の雰囲気などから、自発的に喫煙をしようとする客はほぼ存在しない。

「紅茶、すぐに出来ますよ」

「他にお客さんもいないから、一服しようかと思って」

「いますよ」小説家が一人、隅の席で仕事をしていた。集中しているせいか、視線はモニタに固定されている。「そもそも、時間はいいんですか」

 緋子が尋ねると、男は背後の時計を振り返り、煙草を仕舞った。「ううん、思ったより時間がないんだなあ」と、普通はすぐに分かりそうなことを口にする。

 紙カップにスリーブを通す。持ち手が熱くならないための処置だった。緋子はカウンターにカップを置いて、「千円になります」と冗談を口にするが、男は正確にミルクティーの代金だけをカウンターに置いた。

「それじゃ、また来るよ」

「わざわざお越し頂かなくても良いんですが」

「客だから横柄な口を叩かれなくていいんだよなあ。実に快適だ」

 うはは、と笑いながら、男は紙カップを手にして、踵を返した。

 性格の悪い男だ、と緋子は思った。しかし大切な客の一人ではあるし、自分の人生に関わり合いの深い人間であることも確かだ。深々と頭を下げて、緋子は男を見送った。まさかこんなに長い付き合いになろうとは、というのが、緋子の正直な感想だった。


 ◇


「ひっこせーんせっ」

 勢いよくドアが開かれ、小さな影が店内に飛び込んでくる。

「いらっしゃい」

「あっ!」

 予想通りの時間に、常連客にして皆勤賞の少女がやってきた。七ツ森ななつもり夏乃佳かのかという少女で、平日は毎日、科学喫茶にやってくる。彼女は定位置と化したカウンター前の席に座ると、何が嬉しいのか満面の笑みで顔を左右に揺らし、両足も交互に動かしていた。

「どうしたの」緋子は笑いながら尋ねる。「何かいいことあった?」

「今日、お母さん来ましたか」

 夏乃佳の言葉に、緋子は一瞬、身動きを止めた。毎度のことであるが、夏乃佳の性質には驚かされる。

 一般的に言えば夏乃佳は霊感が強く、それは母親譲りのものだった。霊感がある者同士、お互いの痕跡こんせきを察知出来るのかもしれない。緋子にはにわかには信じられないことだったが、種も仕掛けもない現象である。それに、夏乃佳には嘘をつく理由もないはずだ。

 やっぱり変わっているな、と、緋子は夏乃佳を見ながら思う。

「そうだよ」

「お母さん、何か言ってましたか?」

七佳なのかに嫌われてないか、心配してたよ」

「そんなことないですよー! 私はお母さん大好きですよ!」

 にこにことしながら、夏乃佳はカウンターテーブルにぐでっと体を伸ばした。緋子は準備しておいた珈琲を少しだけ温めて、それをビーカーに移す。自分用の、余りものの珈琲だった。

「七佳、何にする?」

「今日は、コーヒーにチャレンジしてみようかなぁ……と思うんですけど」

「うん、大人になったらね」

 今日は紅茶を作ることにした。緋子が「何か食べる?」と問いかけると、「今日は大丈夫です!」と元気の良い返事がある。

「お腹すかない?」

「お母さんがお店に来る日は、一緒にお夕飯が食べられるかもしれないので!」

「そう、良かったね」

「はい!」

 一緒に食べようと思っていたシフォンケーキがあったので、少し残念だった。しかし緋子はそれをおくびにも出さない。

「おいくらですか」

「今日はいいよ」

 元より、毎日もらわなくても構わないのだ。彼女の母親から、夏乃佳の飲食代は先払いしてもらっている。今日も午前中に多めに支払ってもらったばかりだった。

「今日はですね、学校で楽しいことがありました」

「そう、すごいね」

「お話してもいいですか?」

「いいよ」

 夏乃佳の話を聞きながら、緋子は冷蔵庫の中のシフォンケーキについて考えていた。どうせ今日中に食べなければならないし、夏乃佳がたくさん食べると思って余分に用意してある。夕飯にしても良いが、それにしたって食べきれない。

 緋子は、隅の席で未だに作業を続けている小説家に視線を向ける。家に帰れば夕飯があるのかもしれないが、ケーキの一切れや二切れを恵んでやるくらいは良いだろう。こうした些細なお節介が、自分を面倒事へ巻き込んでいくのだということは理解していた。自分はもっと合理的な人間だと思っているんだけれど、と、緋子は少しだけ自分を省みる。

「だから、明日また調べてみることにしてます」

「そうなんだ」八割聞き流していた、内容が一切分からない話に相槌あいづちを打つ。「がんばって」

「はい!」

「何か成果があったら、また聞かせてね」

 ビーカーを両手で持ちながら、ストレートの紅茶を一生懸命に飲もうとする姿は愛らしかった。

「あ、お母さんで思い出したんですけど、緋子先生とお母さんは、どうしてお友達なんですか?」

「唐突だね」

「同じ学校だってことくらいしか聞いてなかった気がします」

 理由はいくつかあったが、本当に仲良くなった理由は何だろう。年齢が近いから、先輩と後輩だから、同じ勉強をしていたから。様々なものが思い浮かんだが、切っ掛けのようなものは、もっと明確だった気がする。

「――名前がね、似てたの」

「子、ですか?」

「うん。まあ、もちろんそれは切っ掛けに過ぎないけど……それがなければ、こんなに長く付き合わなかったんじゃないかな。まあでも、その程度なものだよ、人と人との繋がりなんて」

「私と先生の繋がりはなんですか?」

「お友達かな」

 緋子の言葉に、夏乃佳はまた一際嬉しそうに笑顔を見せて、困ったように首を傾げた。恐らくそうした反応を見るのが好きで、緋子は喫茶店を続けているのだろう。常連客との関わり合いを熱望することこそが、原動力なのかもしれなかった。

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