『科学喫茶』

福岡辰弥

科学喫茶と時刻珈琲

 七ツ森ななつもり夏乃佳かのかにとって、自分の身体が自分の身体として機能している日ほど、優れた一日はない。

 目が覚めてから、学校に行き、全授業を終え、放課後になるまで、夏乃佳の身体は夏乃佳のものだった。そして今、行きつけの店への道を歩いている最中でさえ、夏乃佳の身体は、夏乃佳のものだった。

 幽体離脱体質、とでも呼べば良いのか。夏乃佳は頻繁に精神が肉体を抜け出して、自分の身体を無意識に俯瞰ふかんしてしまうような体質だった。だからこそ、そうした乖離かいりさいなまれることなく、精神と肉体が常に同居していられる日は、夏乃佳にとって、優れた一日と言えた。

 夏乃佳の目的地は喫茶店だった。あるいは、その店をバーと呼ぶ者もいる。『C3-Lab』というのがその喫茶店の正式名称だが、実際のところ、その名で呼ぶ者はほとんどいない。単に喫茶店と呼ぶか、あるいは『科学喫茶』と、そう呼んでいる。

 店内は、喫茶店というよりも、理科室とか、実験室と呼ぶべき内装をしていた。出てくる飲み物や軽食は一般的な喫茶店と大差ないのだが、この店が科学喫茶と呼ばれる所以として、飲みものは基本的にはビーカーで提供される。清潔であるし、殺菌もされているが、どうしても生理的に受け付けないという者もいる。一方で、趣味が合致してしまえば、簡単に常連客となり得る魅力を持っていた。単純に、見た目がオシャレだから、という理由で利用している者もいる。だから科学喫茶は、特殊なポリシーを持ちながらも、潰れることなく、今日も平常通り、営業している。

緋子ひこせんせー」

 科学喫茶のドアを開けながら、夏乃佳は元気良く、挨拶をした。

 小学四年生、身長百三十センチ。

 甘ったるい声に、溌剌とした口調。

 そのアンバランスさは、特定の人種に需要があるものと言える。

「おかえり」

 その夏乃佳の挨拶を気怠げに受け止めたのは、『C3-Lab』の店主、猫目ねこのめ緋子だった。緋子は今、カウンターの中でフラスコを眺めていた。満たされているのは、黒い液体。つまり、サイフォンでコーヒーを淹れているところのようだった。

「おひとつくーださーいな」

「学校は? もう終わり?」

「家庭訪問の時期なので」

「あそう。七佳なのかの家は?」

 緋子は、夏乃佳のことを七佳と呼ぶ。七ツ森夏乃佳、という名前を極端に省略した呼び名だ。かのか、という言葉が発音しにくいというのもある。だったら呼びやすい名称にしてしまえばいい。なのか、も、かのか、も、音として大差はないだろう、というのが緋子の考え方だった。

「わたしは来週です」

「そう。よかったね」

「はい!」

 何も良くはない。しかしこれが二人のスタンダードな会話だった。

 コーヒーの精製の過程は半分以上終了していた。攪拌かくはんも終わり、今は液体がフラスコに流れていくところだった。粗く挽かれたコーヒー豆と混ざり合った熱湯が流れ、コーヒーとなって底に溜まる。緋子はフラスコを手に取る。フラスコは非常に温度が高いため、今は薄手の手袋を着用していた。

「七佳、何にする?」

「緋子先生はそれをわたしにはくれないんですね」

「これは私が飲むからね」フラスコを揺らして、温度を下げる。「それに多分、七佳には苦いよ。苦みが強い豆だから」

「同じのがいいなぁ……」

「大人になったらね」

 フラスコから直接コーヒーを飲んで、緋子は満足したように頷いた。

 店内には、現在、緋子と夏乃佳しかいない。まだ昼を少し過ぎた頃で、喫茶店が賑わう時間とは言い難かった。もちろん、ここは一般的な喫茶店とは違うので、コーヒー一杯で時間を潰したり、休み時間を利用して読書をしにくる客は少ない。客の平均滞在時間は、一時間未満がほとんどだ。もちろん、何事にも例外は存在する。夏乃佳もそんな例外の一人だった。

 ビーカーとフラスコを温めながら、緋子は紅茶の準備を始める。夏乃佳のためのものだった。冷蔵庫に、かぼちゃのパウンドケーキがあったことも思い出す。生クリームでも絞れば、それなりの軽食になるはずだ。

「お腹は?」

「すいてます!」

「そうなんだ。すごいね」

 何もすごくはない。けれど二人とも特に気にした様子はない。夏乃佳はテーブルに設置された試験管立てから、一本の試験管を抜き取る。コルクで蓋がしてあり、中には砂糖が入っていた。スティックシュガーなどというものは、この店には存在していない。

「おいくらですか?」

「紅茶代だけでいいよ」その紅茶代にしても、メニュー表の値段の一割程度しか請求しないつもりだった。「小学生から儲けようとは思わないから」

「早く高校生になって緋子先生のところで働きたいです」

「続いてたらね」

 十分に蒸らされた紅茶がビーカーに注がれる。そこに直接ガラス棒が添えてあった。もう一つ、サイズの一回り小さいビーカーには、ミルクが入っている。ピッチャーの役割を担っていた。パウンドケーキはシャーレに載せられて提供されるのがこの店のスタンダードだった。食欲を衰退させる視覚効果しかないが、夏乃佳は気にしていない様子だ。

「いただきます」

「うん」緋子は少し冷めたコーヒーを、フラスコからビーカーに注ぐ。こちらはもう、直接触っても熱くはなくなっていた。「ああ、美味しい」

「ひこふぇんふぇーもたべまふか」

「いらない。お昼に食べたから」

「ふぉうでふか」

 口の中にものを入れながら喋る、という行為に対して、緋子は何かを指摘をしたりはしない。そういう生き方もある、と、のんびりと思うだけだ。それに、こうした指摘は、他人がすることではない。七ツ森家の躾がそうなら、それでいい。

「砂糖、いただきますね」

「蔗糖」緋子はしかし、名前についての指摘は怠らない。「虫歯になるよ」

「毎日磨いてますよ」

 いー、と、白い歯を見せつけるように、夏乃佳は口を開く。虫歯の心配が一切ないような、綺麗な歯並びの、綺麗な歯だった。

「真面目だね」

「浮いてる間暇なので、よく自分を観察するんです」

「?」緋子は二秒だけ考える。「ああ、幽体離脱か」

「はい。自分で自分を見るともうちょっと見た目に気をつかおうかなとか思うので、歯磨きしたり、髪を綺麗にしたり、お肌に気をつかったりしているのです」

「七佳、いくつだっけ」

「十歳です」

「あそう」質問したことを後悔する。「その頃から気をつかってれば、いずれ美人になるかもね」

「緋子先生みたいにですか?」

「この話は、やめよう」

 緋子が話を切り上げるとほぼ同時に、一人の客が、来店した。シルエットを見る限り、男性だった。

「いらっしゃいませ」

 最低限の礼節を保った口調で、緋子が言った。夏乃佳も反射的に振り返る。彼女の座っているカウンター席は、出入り口の丁度目の前にあった。

「はじめまして」

 男は、出入り口で立ち止まり、緋子を見ながら、何故かそんな風に挨拶をした。初見である。緋子の記憶の中にはない顔だ。もちろん、夏乃佳も知らない。だからこその、はじめまして。だから、それは間違った行為ではなかったのだが、しかし、喫茶店に来て、挨拶をするというのは、珍しい。

 男は言う。

鳩川はとかわ文帖ぶんちょうです」

 聞いたことのない名前だった。もちろん、夏乃佳も聞いたことがない。

 だからこそ、不気味だった。

 だからこそ、不自然だった。

 緋子と夏乃佳は、その男を見ながら、少しだけ、不穏と、期待を、内に秘めた。

「お好きな席へどうぞ」

 鳩川と名乗る男は、夏乃佳同様に、カウンター席に座った。科学喫茶のカウンター席は、L字形になっている。出入り口のすぐ近くである短辺に夏乃佳が座っているとして、長辺の中心の席に、鳩川は座った。

 風貌は、普通。特徴のない姿だ。顔立ちも、優れているとも言えないし、劣っている箇所も見当たらない。中肉中背。髪型は、ただ散髪のみに特化した店で行われたような簡素なもの。服装も、チノパンに、シャツに、カーディガン。ただそれだけ。荷物はなさそうだった。席につくなり、鳩川は腕時計と、店内の時計を見比べた。

「どうぞ」

 緋子はメニューを差し出した。少しだけ、警戒の色が見える。夏乃佳はぼんやりとした視線を送りながら、ビーカーに蔗糖を山のように注いで、ガラス棒でかき混ぜていた。

「ビーカーで出るんですか」鳩川が訊ねる。「あ、美味しそうなもの食べてるんだ……あれは、売り物ですか?」

「違います」緋子は否定する。

「そうですか。じゃあ……コーヒーと……ああ、とりあえずコーヒーだけで」

 不穏さ極まりない存在だった。しかし、一応は客である。緋子はすぐにコーヒーの準備に取りかかる。こういう不穏な客からは、遠慮なく代金をもらえるという利点はあったのだが、しかしそれにしても、積極性のある不穏さとは、出来れば関わり合いになりたくない。

「話をしても良いですか」

 鳩川が切り出す。

 出来れば無視したい、と緋子は思った。

 けれどすぐに、夏乃佳が「いいですよー」と、暢気な発言をする。緋子は止めたかったが、刺激したくもないな、と思い直す。自分より、夏乃佳の方が危険な位置にいるのだ。

「君、小学生?」椅子の背もたれにかかったランドセルを指さして、鳩川は言う。「今、二時だよね」鳩川はまた腕時計と壁掛け時計を見比べる。

「午後二時前です」

「学校は?」

「家庭訪問です」

「ああ、全てを理解したよ」鳩川は満足そうに頷いた。「君は、常連さん? それとも、店長さんの妹さんかな」

 娘、と言われなかったことに、緋子は少しだけ、鳩川への警戒心を緩めた。非合理的な判断ではあったが、この場合、自分に対して友好的であるかどうかというのが、緋子にとっては重要なことだった。

「お友達です。ね、緋子せんせ」

「そうだったんだ」緋子が言った。「今度誰かに自慢するね」

「わーい」

「店長さんとお客さんの関係みたいですね」

 少し時間を置いてみると、鳩川の対応は、紳士的だったかもしれない。緋子はさらに少し、警戒心を緩める。少しは真面目にコーヒーを作ろう、と思った。

「わたしは四年来の常連客です」

「四年? 今、いくつかな」

「十歳です」

「六歳から常連客なんだ。すごいね」

「えへへ」

 夏乃佳は全く警戒心を抱いていないようだ。ここで、自分だけ過剰に反応するのも良くないだろう。緋子はセッティングを終えて、沸騰が始まるまで、会話に参加することにした。

「どなたかの紹介ですか?」

 気になって、緋子は尋ねる。

「ああ、いや、たまたま通りがかって……正確には、たまたまじゃなく、故意に通りかかった道に、たまたまこの店があった。というか、実を言えば、以前からここに喫茶店があることは知っていた。それで、今日、それを思い出して、入ってみようかと」

「ありがとうございます」

「ただ、諸事情あって、常連客にはなれそうにない……入った瞬間、これはちょっと良い店だなと思って、つい、誰かと話したくなって、自己紹介なんてしてしまって……だから、ちょっと、不審に思ったかもしれませんけれど、ただコーヒーをいただいて、帰るだけですから。最後に、美味しいコーヒーでもと思って、立ち寄ったんです。インスタントとか、コーヒーメーカーだと、味気ないし」

「どうぞ、ゆっくりしていってください」

 緋子は特に考えなしに、そう言った。コーヒー一杯で粘られても、別に構わない。回転率は悪いわけではないし、空席はまだたくさんあった。

「そう、ですね。でもまあ、居心地が良くなって、帰りにくくなるのも、困りものですから」

「お仕事ですか?」

「ああいえ、仕事は辞めたんです」

「失礼しました」

「いえいえ。まあ、仕事を辞めたもんですから、その、なんていうかな……うん、僕はね、今日、今夜、日付が変わる前に、死ぬ予定なので」

「はあ」

 冗談かな、と思った。しかし、鳩川の雰囲気は、冗談を言っている風ではない。

「明日ね、僕の誕生日なんですけれど……その前に、死のうかなと。今年で三十歳になるんですけれど、どうも最近、将来が見えなくなってきた。だから、この辺で人生を終わらせるのも、まあ悪くはないかなと思って、死ぬことに」

 緋子の後ろで、甲高い音がする。フラスコ内の湯が、沸騰をはじめた音だ。

「決まってるってことは、自殺ですか?」あどけない口調で、夏乃佳が訊ねる。「大変ですね」

 この、大変ですね、という言い方は、夏乃佳特有のものだった。しかし、緋子はそれを訂正しようとか、説明しようという意識になれない。なんだか面倒な客を引き込んだみたいだと、考えを改めていたのだ。

「そう、大変なんだ」

「でも、きっと良いことありますよ」夏乃佳は笑顔で言う。「緋子せんせー、おかわりください」

「ああ……ちょっと待ってね」

 もしかしたら自分は今、このグループの中では常識人かもしれない、と緋子は思う。その意識を自分の中に根付かせるのに、少し、時間が必要だった。

 同時進行で、紅茶の用意をした。シャーレの上のパウンドケーキはもうなくなっていた。まだ在庫はあったが、鳩川がいる手前、出し辛かった。

「君は、あんまり、こういう話をしても驚かないんだねえ」鳩川は夏乃佳に話しかけているようだった。「どうして?」

「えっとー……」

 夏乃佳はちらりと緋子を見た。

 夏乃佳の、この死に対する独自の考え方は、彼女の幽体離脱体質が如実に影響している。人が死ぬということと、精神が肉体から浮遊するということは、彼女の中では、あまり違いがない。だからこそ、死んだとしても、還るべき肉体を失うというだけで、根本的には、変化はないと考えている。もちろん、現世の人間と肉体を通じて会話することは出来なくなるが、夏乃佳の弁では、精神だけになった人間というものは、世界に多く存在していて、彼ら同士で独自の世界を作り上げているということだった。

 だからこそ、この目の前にいる鳩川という男が死んだとしても、それは終わりを意味するのではない。

 それが、夏乃佳の考え方。

 しかし、緋子は違う。緋子はあくまでも、科学的な人間だった。死と終わりは等号だ。どちらの言葉でも、どちらかを意味出来る。そう思っている。

 だから、緋子は夏乃佳の考え方を否定する。

 だから、夏乃佳のその死生観や、幽体離脱が頻繁に起きること、霊体が普通の人間と同じように見えてしまうことを、口に出さない方が良いと、推奨していた。

 それによって、夏乃佳は、緋子の反応をうかがったのだ。

「ドライなんですよ」

 代わりに、緋子は鳩川に返事をした。最近の子だから、という、何の論理性もない言葉だ。しかしながら鳩川は、そういうものかと納得した様子だった。夏乃佳だけが、少し不満そうに、唇を尖らせる。

「うーん、こういうところで話していると、少しだけ、早まったかな、と後悔しますね……」鳩川はうっすらと笑いながら言う。「まあ、もうどうにもならないんですが」

「どうにもならない、ですか」

「そういうものなんですよ」鳩川は笑う。「計画というのは、どうにもならない」

「計画」

 沸騰の音に気付いて、緋子は背後を振り返る。フラスコにはもうほとんど熱湯が残っていなかった。砂時計をひっくり返し、木べらでコーヒー豆と攪拌させ、ぴったりの時間で火を消した。

「本格的だ」

「緋子先生のコーヒーは美味しいんですよ」

「そうなんだ。楽しみだな。僕も、コーヒーは好きだから」

 七佳は飲んだことないよね、と緋子は心の中で思ったが、口には出さなかった。

 鳩川と夏乃佳に、コーヒーと紅茶を差し出す。緋子も、ビーカーに残ったコーヒーを飲んだ。もう冷めていたが、美味しいことには変わりがない。

「計画ってなんですか」緋子は話を戻す。

「ああ。まあ単純に、自殺計画です」

「機械的ですか?」

「自動的です」鳩川は頷く。「ああ……美味しいな。えっと、この、革の布は?」

「熱いから、ビーカーに巻いて持てるようにと」

「うーん、なるほど。すごいなあ、こだわりを感じます。取っ手に甘えないところが素敵だ」

「どうして死んじゃうんですか?」

 夏乃佳が唐突に、無邪気に訊ねた。その唐突さと、質問の残酷さに、鳩川は気力のない笑顔を見せた。

「仕事をクビになって、奥さんとも別れたんだ」

「寂しいですね」

「そうだね」鳩川は深く頷く。「一人で過ごす誕生日というのも辛いし、再就職も辛そうだし、そこまでして働く気力もないし、目的もないし」

「死んだあと、どうするんですか?」

 夏乃佳の質問は、恐らくこの世界に生きるほとんどの人間にとって、意味不明なものだっただろう。緋子はビーカーを傾けながら、その会話を見守る。雰囲気などという、非科学的な要素を鑑みてみると、二人の間に、何か特別な化学反応が起きそうな気配がした。

「死んだあと……いや、何もないよ。どうして?」

「緋子せんせー……」夏乃佳は困ったように、緋子を向いた。「だめですか?」

「いいよ。今回だけね」

 鳩川は、何がなんだか分からない様子だったが、夏乃佳が椅子から飛び降りて――夏乃佳の身長では足は当然届いていない――ゆっくりと移動し、鳩川の隣に腰掛けるのを、大人しく見ていた。緋子はカウンターの内側から、夏乃佳のビーカーを移動させてやる。

「どうしたの?」

「ここに」夏乃佳は鳩川の右肩に触れる。「何か乗ってますよ」

 それは幽霊が見えるとか、霊媒師としての才能があるとか、そういうのとは違う、もっと根本的で、もっと自然な、七ツ森夏乃佳の特性が招いた観察による発言だった。

 だから夏乃佳にとって、現世と幽世の区別は付きづらい。見えているのだから、仕方がない。当然、生まれてからしばらく、夏乃佳は自分が見ている世界をごくごく当たり前の世界だと思っていたのだが──それがおかしな能力なのだと気付いたのは、緋子のおかげだった。

 夏乃佳に見える世界をそのまま口にすれば、普通の人間を相手に取ると、おかしなことを言っていると思われるか、嘘をついて気を引こうとしているのだと思うか、あるいは本気で頭がおかしいと思われるかだ。そんな夏乃佳を、緋子は真摯に受け止めた。何がおかしくて、何が普通なのかを、夏乃佳に教え込んだ。だから夏乃佳は、外ではその手の話題を口にしないようにしている。緋子との約束だ。けれど日常的に、夏乃佳はそれを目にしている。現実と縁遠い場所にいる、しかし座標としてはすぐ近くに在る、非現実的な存在を。

「乗ってるって……何が?」

「何か、腕? みたいな、です」

「腕……」

 鳩川は自分の右肩をさすって、そして、俯いた。大仰な溜息。後悔を形にしたように、鳩川は項垂れる。

「……お嬢さんは、そういう人なのかな」

「確証はありませんけど」代わりに緋子が答えた。「非現実的なものが見える体質みたいです。私は信じていませんけど」

「信じてるよって言ってくれたじゃないですかー」

「その場限りの嘘だよ」緋子は素っ気なく言う。「でも、信憑性はありますよ。何しろ、私もこの子も、あなたのことは知りませんから。でも、その反応を見るに、あなたは腕に覚えがありそう」

「そうだね……腕、か。どんな風に見えるか、詳しく教えてもらっても良いかな」

「えっと、青い服を着てて、ひじ? から先だけあります。なんだか、優しく肩を叩いているみたいですよ。あと、撫でたりもしてました、さっき」

「怒ってる風じゃないのかな」

「そんなこと全然ないですよー。怒ってたら、すぐに分かります」

「どうして?」と、緋子が尋ねる。

「怒ってると、大体、首とかに手が回りますから」

「絞め殺そうとするんだ」

「はい!」

「そうなんだ、すごいね」緋子はフラスコを振る。残量が少なくなっている。「あなたは、その腕に覚えはあるんですか?」

「多分……同僚の腕かな。僕のミスで、一人、仕事が出来ない身体になってしまって。まあ、僕がクビになったというのもその辺がね、影響しているんですけれど……いや、クビになったなんて言い方は、やっぱりずるいな。自主退社したんです。責任を取ろうと思って」

「腕だけですか」

「切り落としちゃったんですよね、機械操作で」

 緋子はもう少し突っ込んだ話をするべきか迷ったが、何も言わないことにした。代わりに、冷蔵庫を開けて、中からパウンドケーキを三切れ取り出す。新しいシャーレの上に載せて、「どうぞ」と言い、自分でも一つ取った。

「ありがとうございます」鳩川はすぐに口をつける。「いくらですか?」

「百万円です」

 緋子はすぐに言った。

「え」既に飲み込んでしまったあとで、鳩川は声を出した。

「七佳はいいよ、食べて」

「いただきます」

「なんですか? 百万円?」

「パウンドケーキ、百万円です。コーヒーは五百円」緋子は伝票にその値段を書き入れる。「どうせ死ぬのですから、その前に全財産を頂こうかと」

「ああ」鳩川は笑う。「そうですね、遺産を残す相手も、もういないし……しかし、百万円は今はないかな。貯金もないし……すみませんけど、パウンドケーキの代金は、ツケでもいいですか」

「まあ、特例で」

「それじゃあ、また来ないといけないな……ああ、でも、美味しいですね。手作りですか」

「まあ」

「素敵な店だな。本当、死ぬのが惜しい」

 店内を見回しながら、鳩川は呟く。しかし、壁掛け時計を見て、自分の腕時計を見て、慌てたように、パウンドケーキの残りを口に入れる。そして、鳩川はコーヒーを飲み干して、満足そうに頷いた。

「ああ……ごちそうさまでした」

「いえ」

「そろそろ、帰らないと」鳩川は焦ったように立ち上がる。「今はいくら持っていたかな……じゃあ、これだけ」

 財布の中から一万円札を三枚抜き取って、カウンターに置いた。隣で、夏乃佳が瞳を大きく開いている。

「残りはまたいずれ」

「お待ちしています」

 鳩川はふらふらとした足取りで、出口に向かい、今度は何も言わずに、ドアを開け、出て行った。カウンターに残された紙幣を白衣のポケットにしまい、緋子は溜息をつく。

「行っちゃいましたね」

「そうだね」

「死んじゃうんですか?」

「そういうことかな」

 緋子はカウンター内部にある棚から、試験管を一本取り出した。そして鳩川が使っていたビーカーに向けて、液体をスポイトで垂らす。毒々しい、紫色の液体だ。

「何してるんですか?」

「化学実験」

 ビーカーの中で、液体が変色する。九十五パーセント以上が赤くなり、鳩川が口をつけていた付近だけ、強い緑色に変色した。

「わあ、綺麗ですね」

「強アルカリ性」緋子はゴム手袋を嵌めて、シンクでビーカーを綺麗に濯ぐ。「言動から見て、時限性の自殺なのかも。でも、どうかな。もしかしたら死なないかもしれない。わかめスープでも飲んだのかもしれないし」

「わたし、化学って、よく分からないです」

「うん、私も」

 一度洗ったビーカーに、アルコールを吹きかけ、また念入りに磨いて行く。喫茶業務の大半は洗い物にあると、緋子は感じている。

「これ、飲んだら死にますか?」

 カウンターの上にある試験管立てに差し込まれた、先ほどの紫色の液体の入った試験管を指で突きながら、夏乃佳が問う。

「ううん、紫キャベツの絞り汁だよ」

「毒じゃないんですね」

「死にたくないもの」

 緋子はそう言って、ビーカーを食器棚に戻す。

「七佳、今日、お母さんは?」

「今日はいません」

「お夕飯、一人?」

「はい!」

「じゃあ、私と何か食べに行こう」白衣のポケットを叩きながら、緋子は言う。「今日は料理はしたくない」

「ごちそうしてくれるんですか!」

「いつもそうだよね」

「えへへ」夏乃佳は嬉しそうに破顔する。「じゃあ、もう紅茶はごちそうさましますね」

「そうだね」

 また、店内は静かになってしまった。

 緋子は五十ミリリットルもなさそうな、フラスコに残ったコーヒーを、捨ててしまうことにした。温め直すのも、作り直すのも、億劫だった。

「何が食べたい?」

「ハンバーグがいいです」

「そう。すごいね」

 けれど緋子も、それが良いと思った。


 ◇


 後日、再び夏乃佳は科学喫茶を訪れた。家庭訪問期間は終わり、通常通りの下校時間だった。

「ひっこせーんせっ」

「おかえり」

 今日は二組の客がいた。背伸びしたがりに見える男女と、緋子目当ての常連客の男だ。今まで、その男に興味の沸かない話を聞かされていた。ようやく解放される、と思った緋子は、すぐに夏乃佳に近づいた。

「今日もいませんね」夏乃佳は店内を見回しながら言う。「良かったです」

「何が?」

「この前死のうとしてた人です」

「そう」

 少なくとも、鳩川を幽霊としては見ていませんよ、という意味の発言のようだった。

 もちろん、死んだからと言って、浮遊霊になることが確定するわけでも、この店を徘徊するというわけでもない。けれど、それはどちらをも証明できない要素だ。不確定に過ぎない。ならば、夏乃佳が彼を見ないうちは、彼は生きているものだとして捉えても、良いかもしれない。

「何にする?」

「緋子先生と同じのが」

「……今日は飲んでみる?」

「え! いいんですか!」

 緋子の飲みかけのビーカーを受け取って、笑顔のまま、夏乃佳はそれを飲み込んだ。

 数秒後、顔をしかめる。

「にがい!」

「そうだね」

 期待通りの結果が得られ、緋子は満足した。そして、夏乃佳のための紅茶を淹れる準備を始める。淡々とした毎日に、たまに訪れる刺激のようなもの。それは頻繁には起こらない。けれど、頻繁ではないからこそ、数日が経過しても、まだ日々の中に根付く。緋子はそういうところを、すぐに排除出来ない。自分よりも、夏乃佳の方が、もっと淡泊で、もっと冷酷な人間なのだろう。先の発言にしてみても、鳩川の心配をするというよりは、緋子のために働いているというだけのように思える。

「お腹は?」

「すいてます」

「へえ」

 そんな、感情の欠落とも言える無関心さを持つ夏乃佳が自分に懐いている理由とか、彼女の特性とか、そういうものを簡単に見捨てられないからこそ、緋子は今日も彼女を待っていたし、彼女の居場所が作れるように、努力してしまう。

 楽しいことだし。

 嬉しいことだし。

 優しいことだとも、思えるし。

「ナポリタン作るから、半分食べて」

「わかりました!」

 そう言って、しかしすぐに、夏乃佳はカウンターにおでこをぶつけた。糸が切れたように、停止する。それはいつものことだった。突発的な幽体離脱だ。緋子は特に気にする風でもなく、作業を続ける。

 死んでいるとか。

 生きているとか。

 そういう、生きる上で、あるいは死を覚悟する上で、生物として一番に必要なことが、彼女と一緒にいると、分からなくなる。

 分からないことは、知ってみたい。

 だから緋子は彼女と一緒にいるし、この喫茶店を続けて行く。

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