絶望
人類は、赤色矮星となる太陽、すなわち地球の母星に飲み込まれようとしていた。
水も大地も沸騰し、人以外の生物は死に果てていた。そんななか、一部の、ほんの一握りのブルジョワだけが、膨大な量の電気を冷却装置に使って、炭素分子を主体とする肉体を維持したまま”生命”として生き永らえていた。
――有り金を叩いて自身の身体を電子チップ化したのは貧民だった。少しでも気温の低い場所は買い占められ、貧民は生命の永続的な維持がおよそ不可能な地域に追いやられた。そんな貧民からさらに金を絞ろうと、一人の科学者が開発したのが人体情報の完全電子化技術なのであった。
”生き永らえる”ため、多くの貧民が炭素分子を主体とする肉体を捨てた。しかし、それはブルジョワの思うつぼだった。
「お前たちは歴史に名を遺した大富豪だ、だからいち早く身体を電子化し難を逃れえた、フフ。いいシナリオを思いついたものだ」
ブルジョワたちが笑った。彼らは広大な土地を得、口うるさい敵勢力を廃しえたのである。電子チップ化され小さな親コンピュータに閉じ込められた人間たちの記憶は操作された。万が一にも”思い出さぬ”よう、ご丁寧に一定時間がたつと電子データはリフレッシュされる機能まで彼らは実装していた。言わずもがなそれが転生であった。
彼らは広大な土地に、大きな原子炉を建てた。
どうせ元々ヒトの生きられぬ地、仮に発電が失敗し放射能があふれ出ても彼らは困らなかった。土地は捨てるほどある。また新しい建屋を建てればいい。それほど、多くの人間がヒトとして生きていた土地を奪われた。
あの婦人は、ただ食料を口に運んでいた。彼女はブルジョワのなかでは比較的資産が少なく、建屋に近い土地しか買えなかったのだ。そして皮肉にも、婦人の夫は歴史学者で、百万年前に起きた事故をよく知っていた。より決定権の強いブルジョワに原子炉計画は止めるべきだと請願したのも彼だった。
ただ、生きていた。そんな日に、あの三月十一日が再現される。
「メルト……ダウン」
婦人の夫が青ざめていた。白い衣服を手に取った。あの、身体を完全に覆う、ズボンと透明な窓が顔についた服だった。
「防護服を着てお前は逃げろ!」
それは人体に放射能を寄りつけない服らしかった。
「そんな、あなた……ああッ!」
すぐそこにまで迫った赤色矮星により温められ活発化した火山が、巨大地震を巻き起こした。旧時代を模した家具は散乱し、婦人は悲鳴をあげて座り込み、男が庇うのが一足遅く、倒れてきた家具に後頭部をうち意識を失った。
「そんな……マリア、マリア…………!」
「避難せよ、総員避難せよ」
アナウンスがこだまする。男は血を流した婦人を肩に載せ、脱出船の入口まで来ていた。
「死体を船に持ち込むつもりか!」
「これは死体じゃない! 私の妻だ」
「屁理屈はいい、離陸するぞ。〝それ〟を早く捨てろ」
男は激高した。目の前の監視員を殴り殺し、持っていた旧時代の兵器の手榴弾を取り出し、投げた。僻地に住む者は多くない。首都へと向かう小さな船に乗っていた十数人は、この時代としては珍しい”爆死”という方法で死んだ。
男は家に帰還した。激高のあまり船まで吹き飛ばしてしまったことを彼は深く悔んだ。
男は首都へと向かった。忠告を聞かず悲劇を繰り返し、妻を〝それ〟と言い放った、自分以外のすべての生身の人類への復讐を企て、何日も歩き時には略奪し首都についた。それはさながら狂気であった。彼は一ヶ月もの間なにも食さなかったのである。
婦人はやがて死に、遺体は被爆地域で野生化した狼にに咬みつかれた。古き風習を覚えていたのだろうか、生身の肉など何世紀も食べたことのないだろうブルジョワが昔を懐かしむための玩具として生き固形餌を食べていたそれは、迷うことなく婦人の首元を咬み、強く左右にふって神経を遮断した。――ただそれは、死肉とそうではない肉の違いをわからず、それ以降はなにもせずに去った。固形餌に慣れた舌が灼熱の気候のなか腐りいく死体を受け付けなかったのだろう。
この物語の主人公は、もう後を見ないでも男の結末を知っていた。彼は首都の人間を旧時代の兵器で脅し、独学のプログラミング技術で自分のクローンを電子化してはコンピュータ内のコミュニティに入れ、自分本体は小型コンピュータをロケットに積み、太陽の重力圏から逃れえる速度で宇宙に打ち上げた。そして自分は、自身が最後まで嫌い、最後まで翻弄された原子力という禁忌を兵器に利用した、旧時代の殺戮魔「原子爆弾」によって人類を巻き込み自決した。
主人公はこの男の三千二百九十六代目の生まれ変わりであった。
時が、来た。彼はかつての自分が計算した通りの軌道をコンピュータが辿っているのを感じることができた。彼は言った。
「私が新時代の祖となろう」
コンピュータは惑星に着陸した。彼は再現しておいたミジンコほどの炭素生命がよく保存されていることを確認し、そのなかに旧時代の言葉で言う”魂”として入り込んだ。
ミジンコほどの生命が、プラズマに曝され続け疲弊したコンピュータのハードディスクから這い出し新たな惑星に降り立った。
進化が、この惑星で始まった。
因果なものだな、と男は呟いた。
貧民からヒトらしく生きることを奪った事実を隠すためにブルジョワが作った゛転生゛というデータリフレッシュ機能が、男の特異性を今まで露見させなかった。
電子データコミュニティの住民はほとんどが排他的で、攻撃的だった。今、二千二百九十六個の゛我が人生゛を振り返れる立場の彼は思う。異なるプログラミング言語で書かれた自分が異端分子として目をつけられていたら、目的は果たせなかったろう。
男はミジンコの肉体に電子データである自分が最適化されていくのを感じた。
男は、原始の生命として、言葉と思考を失った。
閉ざされた島 春瀬由衣 @haruse_tanuki
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