蜜柑と旅する男の夜 第二夜

「ここにかけてもよろしいですか。」

 かすかすとした、少し寂しそうな声が、彼のうしろで聞こえました。

 それは古くさい型の洋服をきっちりと着た、背の高い、まっ白な頭の老人でした。となりには、紅い鹿のかのこしぼりの着物の女の人が立っていて、老人の片ほうの腕をひいていました。

「ええ、いいですとも。」

 二人は彼の前の席に腰かけました。

「あなたは、どこへ行かれるのですか。」

 女の人が訊きました。近くでじぃっと見てみると、そのおしろいを塗った顔は、どこか大人になった彼の姉さんを思い出させました。

「分からないのです。」

 彼は正直に云いました。

「わたしたちも、この列車に乗るのははじめてなのですよ。」

 いちめんに金剛石をしきつめたような川原が、横を通り過ぎていきました。それをながめながら、女の人はやさしいうごきで首をかしげました。べっこう細工でできた髪飾りが、電燈の明かりをはね返してきらりと光りました。

「あなたたちは、どこへ行くのですか。」

「わたしたちは、この人の弟をさがしにいくのです。」

 女の人は、さっきからずっとだまりこくったまま座っている老人の肩をそっとさわりました。

「この人は、わたしといっしょにいるために、弟とはなればなれになってしまったのです。ですから、その償いをするために、こうしてわたしも共に旅をしているのです。」

「弟さんは、どこにいるのですか。」

「それが分からないのです。もしかしたらこの先の天上にいらっしゃるのかもしれません。」

 女の人が話しているあいだにも、老人はずっとだまりこくったまま、窓の外で黄土色にてらてらとかがやく大きな惑星を見つめていました。そこでは、まるで可否コーヒーの上に流した牛乳のような模様が、そろそろと形を変え続けているのでした。

「あら、あれは木星だわ。あんなに近く見える。」

 女の人が声をあげました。

「ああわたしたちを守護するユピテルよ。この人が、また弟に会えますように。」

 女の人は、静かに両手をにぎり合わせ、祈りをささげました。

「もうじき、会えるさ。」

 だしぬけに、老人がひょうひょうと息のまじった声で云いました。

「弟は、もう、あの天のめっぽう高いところにいるんだ。」

「まあ、そうですの。」

 女の人は、はじめてきいた風に驚いてみせました。

「そうさ。あいつは、わたしたちをさがして、ついにあんなところにまで行ってしまった。会うためには、わたしたちがあそこに出向いていくしかないのだよ」

 それきり、また老人は話さなくなってしまいました。

 列車の中はまたしんと静まりかえって、ごとごとと車輪の回る音だけが聞こえていました。

「蜜柑を。いかがですか。」

 彼はそう云うと、持っていた蜜柑の房をいくつか分けて、女の人に渡しました。

「あら素敵。あざやかできれいな蜜柑ですわ。」

「ぼくは、蜜柑を見ると姉さんを思い出すのです。」

「そうなのですか。あなたもご姉弟がいらっしゃるのですね。」

二人はそのあとも長い間、いろいろなことを話し続けていました。

 そうしている間にも、列車はどんどんと、光りかがやく天上へと近づいていくのでした。



 

 「これは、『銀河鉄道』と呼ばれる作品です。」

 画廊の主は壁にかけられた一枚の絵をさし示して、云いました。

 藍色の布に、銀糸で天の川を縫いとりしたものを背景にして、古びた機関車が何両かの客車を牽いきながら走るさまが、美しく描かれていました。

「ずいぶんと、変わった絵ですね。」

 その絵は、ちりめんの布をつかった押絵細工でできていたのです。

「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』はたくさんの人が絵の題材にしていますが、このように押絵でつくられたものは珍しいのですよ。」

「押絵は、独特な雰囲気を持っていますね。平らな絵より、本物っぽく思えます。」

 実際、その絵はすぐに動き出してもおかしくないほど、本物らしく見えたのです。

「お買い上げになられますか。」

 画廊の主は、油の浮いた顔に、人の良さそうな笑顔をはりつけたまま云いました。

「もう少し、他の絵も見て回りたいですね。」

「さようでございますか。それでは次に参りましょう。」

 主はそう云うと、次の絵に向かって、おもたいからだを揺らしながら、のたりのたりと歩いて行きました。

 わたしもそのあとに続こうとしましたが、ふと絵に目をやると、その客車の窓のところに、誰かの影が動いたような気がしました。

 しかしまばたきをすると、それもすぐに見えなくなってしまいました。

「なんだろう、気のせいかしら。」

 わたしは呟くと、先にいってしまった主のあとを追いかけていきました。

 


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蜜柑と旅する男の夜 Black river @Black_river

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