蜜柑と旅する男の夜

Black river

蜜柑と旅する男の夜 第一夜

 気がつくと彼は、小さな列車の車室に座っているのでした。

 窓の外は四すみにびろうどの布を張り巡らした、という風にどこまでもまっ黒で、そこにお菓子屋さんがうっかりひっくりかえしてしまったブリキ缶からこぼれた金平糖のように、星たちが散らばっているのでした。

「ここは、どこだろうか。」

 彼は自分がどうしてこの軽便鉄道に乗っているのかが分かりませんでした。

「あんなに星たちが近くに見える。ぼくは死んでしまったのかしら。」

 窓の向こうを、ちょうどお祭りの日の花火のようなしっぽをつけた、大きなながれ星がスゥと通り過ぎていきました。

「ぼくは、死んでしまったのかしら。」

 同じことをもごもごとつぶやくと、なぜか彼はもう、悲しくてたまらなくなりました。

 だって彼は、その日のお昼まで、いつものように帳簿をつけて働いていたのですから。

 ふと見ると、彼の膝の上にはひとつの蜜柑みかんがのっていました。蜜柑は、橙色の列車の灯りに照らされて、お日様のもとで見るよりいっそうあざやかに見えるのでした。

「これはどうしたことだろう。」

 彼は首をひねりながら、それを手に取りました。

「ぼくはもう長いこと、蜜柑なんか食べてはいないのに。」

 親指を果実のへこんだ部分にあてがい、思い切ってずぶりと押し込むと、その途端鼻の奥をくすぐるようなすっぱい匂が立ち上りました。

「ああこの匂。」

 すると俄に、彼の頭に、幻燈に写したような淡い思い出がゆんわりとうかび上がりました。


 それはつきぬけるように晴れた日のことでした。

「それでは行ってきますからね。みんな、お母様の云うことをよく聞いて、いい子にしているんですよ。」

 彼の姉さんは、銀杏いちょう返しにゆった頭をかたむけて、あの吸い込まれそうな黒い目で、自分の弟たちを見つめました。

「姉さんはいつ帰ってくるの。」

「いつか、でもきっと、帰ってきますよ。」

 姉さんはそう云うとかわいた土くれのような手で、彼らの頬をなでました。

「さあ、じきに列車が来てしまう。早くしないと今日中に東京に着けません。」

 色の薄くなった萌葱色もえぎいろの襟巻きを大事そうに首にまいて、姉さんは家を出ました。

「もう姉さんには会えないの。」

 一番小さい、まだよく訳のわかっていない弟がぽつりと云いました。

「そんなことはありませんよ。姉さんはかならず帰ってきます。」

 彼女はいっそう強く、弟の頭をなでました。

「約束してくれるの。」

「ええ、約束しますよ。」

「そんなの、ほんとか分からないやい。」

 だしぬけに二番目の、頭をくりくりぼうずにした弟が云いました。

「だって、ケンちゃんの兄さんも、東京に行ってたきり、帰ってこないんだもの。」

 姉さんは困ってしまいました。だって、本当に帰ってこられるかどうか、姉さんにも分からなかったのですから。

「わかりました。」

 あんまり弟が云うものですから、姉さんもすっかりむきになって、おこったようになりました。

「それなら、こうしましょう。」

 姉さんは云いました。

「みんなで村はずれの踏み切りまでいらっしゃい。そこを、じきに姉さんの乗った列車が通るでしょう。そこで姉さんの顔が見えたら、姉さんはまた、あなたたちのところへ帰ってこられます。」

 姉さんはすっぱりと云うと、すたすたと駅の方に歩いていってしまいました。

「姉さんが云ったことは、本当だろうか。」

 二番目の弟はつぶやきました。

「ぼく、踏み切りまで行ってみるよ。」

「おいらも行く。姉さんにまた会いたいもの」

 一番年上の彼を先頭にして、三人は踏み切りへ向かいました。

「ぼくらもいつか、列車に乗って遠くへ行くのだろうか。姉さんはたった一人で大丈夫なのかしら」

 姉さんの向かった東京というのは知らない人がたくさんいるようで、なんだかとても怖いところのように子どもたちには思えるのでした。

 踏み切りにつくと、列車はどこにも見当たりませんでした。

「もう行ってしまったのだろうか。」

「そんなことあるもんか。もう少し待っていればきっとくるさ。」

 めいめい勝手なことを云いながら、三人は線路脇にぼうぼうに生えている草むらにしゃがんでいました。

 その時、向こうからぽっぽという、汽笛の音が聞こえてきました。

「そら、来たよ。きっと姉さんだ。」

 まっ黒な体をどっどっどと揺らしながら、小山のように大きな蒸気機関車がやってきました。

「姉さんは見えるだろうか」

 線路の外にまでひろがって目をちくちくと刺す煙に負けないよう、目を見開きながら、ながれていく列車の窓を見つめていました。

「いたよ。姉さんだ。」

 二番目の弟がそう云って、一つの窓を指さしました。

 ほかの二人もあわてて線路脇の柵によりかかり、そちらを見あげました。

 列車の窓から春の野の若草のような、明るい緑色がはたはたとはためいているのが、みえました。

「ああほんとだ。姉さんがいる。」

 その時でした。姉さんのいる窓から、明るい色のなにかがばらばらと飛びだしてきたではありませんか。三人はあたふたと駆けまわりながら、それを拾い上げました。

 そうしている間に姉さんは乗せた列車は、またどっどっどっと行き過ぎてしまいました。

「ああ、姉さんが。」

 そちらを向くと、遠のいていく窓から姉さんが思い切り体を乗りだし、めいっぱい手を振っているのが小さく見えました。

「姉さんはぼくたちが見えただろうか。」

「きっと見えたよ。」

「間違いないよ。じゃあ姉さんは、きっと帰ってくるね。」

 彼らは口々にそう言いながら、拾ったものを見つめました。

「この蜜柑、姉さんが列車で食べるように、お母さんからもらったものだよ。」

「ぼくたちがもらってしまって、いいんだろうか。」

 そうは云っても、もう列車はとおく向こうに見えなくなってしまいました。

「きっと姉さんは、はじめからすっかりそのつもりだったんだよ」

 彼は弟たちに云いました。

「だから、蜜柑を見るごとに、姉さんのことを思い出すことにしよう」 


 彼は座席に腰掛けたまま、蜜柑を一袋だけ、そっと口に入れました。あまい味とすっぱい味が口のおくのほうにまで、じんわりと広がっていきました。

「ああぼくは長いこと、姉さんに会っていないなあ。」

 姉さんが村に帰ってきたのは、それからずいぶん経って、兄弟たちがみんなすっかり大きくなったあとでした。

 姉さんは、立派な身なりの男の人と一緒に帰ってきました。紅やらおしろいやらできれいに化粧をして、まるで別の人みたいになっていました。

「姉さんはね、大人になったんだよ。」 

 つんとすましきった顔のまま、姉さんは云いました。

 彼は、その吸い込まれそうになるくらいまっ黒な目を見て、なぜか胸の奥がどくどくとなるのを感じたのでした。

「姉さんは、まだあの男の人のところにいるのだろうか。」

 窓の外に目をやると、たくさんの星たちが、まるで白砂を黒い紙の上にばらまいて、それをとびきり立派な拡大鏡でのぞいたように見えるのでした。

 





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