第36話

水樹は静かな朝に目が覚めた。

カーテンの隙間から朝の陽射しが差し込んで、克樹が出かけたのを悟った。


……そうかー。今日はもう出掛けたのか……。


何時もの朝なら克樹が、水樹を抱えて寝ているから、今朝の様な朝は久しぶりだ。

そういえば昨夜、朝早く出掛けると言っていたが、水樹は判然と覚えていない。

あの高城と間違いを犯してから、水樹は全てにおいて上の空となっている。

水樹の中で高城の行動は思いもよらない物だったし、有るはずのない物だったから、不意を突かれたと言い訳はできたとしても、一瞬たりと答えた自分が許せなく、そんな自分に衝撃を受けている。

もはや大人の水樹は、自分が誰を愛しているか理解している。

それは長い年月を掛けて確かめた本心だ。決して間違う筈は無い。

無論高城には会いたくない。

だがそれよりも何よりも、決して克樹に知られたくは無い。

その恐怖心が、水樹をおかしくしている。

仕事にも身が入らないし、克樹とは少しぎこちなくなっている。

自分でも解っているが、どうする術も解らない。

水樹は仰向けになって、目を掌で覆った。

自責の念と後悔が自分を苦しめる。


「水樹」


「はい」


事務所に着くと、所長と言うべき松長に呼ばれた。

松長の事務所は所長と言うべき松長と水樹、それと事務的な事をしてくれている、アルバイト女子大生だけの小さな事務所だ。

最近は仕事も増えたのでアルバイトを雇ったが、そんなに忙しいという程ではなかった頃は、雑用は水樹がこなしていた。


「今朝は早いんですね?」


「ああ、岡山のからいろいろとね……」


「ああ……奥田君動き始めたんだ?」


「ああ……そうじゃなくて、君と水穂ちゃんに山を送る件と、岡山駅近くのマンション建設に伴う会社の設立とか、いろいろと伯父さんの財産を見直して、整理して纏めようという事になってね……」


「へぇ?僕には何にも連絡ないなぁ……」


「まっ、僕が勧めた事だからね、旬さんの結婚式の時……それに伯父さんが、それは元気になられた事だしね……いろいろと纏めておいた方がいいだろう?」


「ああ……そうですね」


水樹が明るく答えた。

山の件は葵から以前に幾度となく聞いているし、葵としてみたら水樹と水穂にプレゼントという形を取りたい様だ。

なんとも大きなプレゼントだろう。


「旬さんといえば……」


松長は少し表情を変えて言った。


「……倒れたらしいんだ」


「えっ?」


「心配はいらない、過労だ。あの人は仕事が好きだからね、昨日見舞いに行ったけど元気だったよ」


「知らなかった……」


「大した事無いから、旬さんが口止めしたんだろ?俺もおじさんからの情報だ……」


「でも……帰りに寄ってみます」


「うんそうだね。俺が行けば水樹も来るって、きっと期待してる」


「まさか……」


「まさかじゃなく、旬さんは君が一番だからな」


水樹は無表情で俯いた。


「水樹は旬さんの気持ちが負担?」


「……………」


「僕は随分持ったな……って思ってる。前にも言った事があるが、旬さんの愛情は異常だ。妹の水穂ちゃんを懐に入れて、君を決して自分から離れられなくし、尚且つ克樹君に君を譲っても、尚も君に枷を付けたままにしたがっている。君から判然としなくちゃ駄目だよ。以前の様に君は子供じゃないんだからね……旬さんが覚悟を決めている今こそ、本当に断ち切らないと、君も克樹君も水穂ちゃんもそして旬さんも、全員が不幸になり誰一人として幸せになれないよ」


「……………」


「いいかい?君が引導を渡すんだ。これが最後のチャンスだ。この先にチャンスは二度と無い……君が克樹君を好きならね……」


水樹は驚く様な松長の台詞に、戸惑いを見せた。

松長だけが高城との事を、判然と知っていた。

隠す事をしない高城であるから、たぶん親戚は薄々と気づいていたとしても、それはただ薄々という次元の事で、水穂との結婚でそれらの疑惑は、払拭された形となっている。

だから、本当のところを知っているのは松長だけだ。

そして松長は、克樹への水樹の気持ちを知っていた。岡目八目で当人達の、克樹と水樹よりも先に知っていた。

たぶん、克樹が水樹を訪ねて来て、松長に一夜マンションを借りた、あの時から知っていた。

そして高城の事を誰よりも知っているのも松長で、高城は松長の憧れの従兄弟であり目標であり、形が違えば一番愛し合えた唯一の人間だ。

ただ余りにも近すぎ高城を知り尽くしていた為、その相手にはならなかった。

そうー。もしも高城が克樹に告白しなければ、克樹と水樹が同じ形の関係を築いていた。

水樹にとっての克樹の様に、高城にとっての松長だ。

そんな松長が言うのだから、それはきっと本当だろう。

水樹は俯いたまま、アルバイトの飛鳥ちゃんが来て挨拶したので、笑顔で挨拶を返した。


「水樹さん元気なく無いですか?」


「ちょっとね……」


松長は可愛いが今時の女子の、訳の解らなくなる言葉使いに閉口した。

元気無く無い……なら、元気なのか?っておじさんは突っ込みを入れたくなる。

飛鳥ちゃんは大学三年生だから、水穂ちゃんと同じくらいだ。

そんな松長にとって圏外の若者の水穂ちゃんと、自分より年上の高城が、よく家庭を持ったものだと感心してしまう訳で、そこに高城のおぞましい悪癖を想像してしまう。

高城の愛情は厄介だ。水樹が従順で純朴であったので、何事もなく来たが、大人になって何事も解る様になってしまっては、もはや続ける事などできる筈がない。

高城は水穂の事で、確かに全ての事を清算し諦める覚悟を決めたはずだ。

あとは高城自身に、それを実行させねばならない。

一瞬の隙を与え、高城に再び機会を与えてはならない。

もう無いのだと……。自分が懐に入れた水穂とその子供しかいない事を、思い知らせなければならない。

そうしなければ高城は暗い淵に留まって、歪な愛を抱いたまま一生を過ごしてしまう。

それを恐れているのは高城自身だ。だから水穂を選び、克樹にチャンスを与えた。

そして、最後の足掻きをしているのも高城だ。

水穂を選ぶ事により、水樹を一生縛り付けていく機会を狙っている。

それは暗い淵に、自分から落ちて行く事を承知の上だ。

それが解る松長ゆえに、早く高城を楽にしてやりたい。

明るい高みに居る幸せを感じて欲しい。

高城には自分から落ちて行かなくとも、有り余る幸せがあるのだから……。

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