第35話

「おい!」


「今日は少し遅くてもいいんだ」


「……良いご身分だな?」


「送って行くか?」


「いやいい」


水樹はそう言うと、早々に部屋を出た。

昨日の事を思うと、まともに克樹の顔を見る事ができない。

だから、時間がずれて何時もの様に送ってもらえなくて、内心ホッとしているところがある。

水樹が慌しく出て行ったのを、布団の中で見送った克樹は、昨日接待の帰りに父に言われた事を思い出していた。

接待の後父から、行き着けの店に飲みに誘われた。

その店はこじんまりとした、昔ながらの〝飲み屋〟といった感じの店で、その店の奥の席で父公輔は酒を注ぎ入れながら言った。


「この間、久々に母さんを怒鳴ったみたいだな?」


「熱海の伯母さんにこっちの事は、口出ししないように、父さんからも言ってくれ。特に母さんに言うのはやめてもらいたい、言うんだったら俺に直に言えばいいんだ」


「そうしたら克樹は、どうするつもりだ?」


「………?」


「お前の言いたい事は解ってる……熱海は何もしてくれなかったからな、俺と母さんが頭を下げて頼み込んだ時もだ……。母さんこそお前の言葉を、そのまま吐きたいだろうと思う。俺だってお前や母さんに恥ずかしくてならない。うちがもって高城さんの親切で仕事が増え、奥田さんや平林さんから大きな仕事が入ってくる様になると、それまで連絡一つ取ろうともして来なかったのに、うちの子会社みたいなのを作って参入して来た」


克樹の知らなかった事まで言われ、克樹が口を開ける事ができなくなった。


「お前がトップになったら、あそこは切ってしまっていい。一応あそこの取締役に母さんの名を置いてあるから、お前の好きにしなさい」


「…………」


「母さんは一度も熱海の愚痴を言った事がない」


「……それをいい事に言って来るんだろ?」


「そうだ。そうだが……愚痴など我々が言っては、水樹に申し訳ないと思っているんだろう。おばあさんは元より、水樹の母親にも父親にも申し訳ない事をしてしまった。だから、身内の事は申し立てをしないと決めている様に、お前のいろいろな事も、熱海の事も何も言わない……そんなひとなんだ。だから水樹がこれ以上、寂しい思いをする事を願っている筈がない。一度ゆっくりと、母さんの言う事を聞いてやりなさい。お前はあの時から、私達の話しを聞こうとはしなくなった。私達と揉めない様にしてるだけで、決して聞いてはいない」


「???」


「水樹を高城さんの養子に出してからだ。感情のまま母さんに当たり散らし、俺を無視し続け、立ち直ってからは俺達の言う事に耳を塞ぎ、表面だけ理解を示した様に見せて、本当のところは俺達を避けて生きて来たろう?仕事は確かに面白かっただろうが、大事な根本的なところはそうだろう?……俺はいいと思って来たが、母さんは昔のお前が懐かしいのさ、何故だか解るか?水樹がずっと変わらないからだ。水樹はずっと俺達を変わらずに、あの時の様に慕ってくれている。表面だけの事じゃないのは、見てれば解る。あの子は全く変わらない。会う機会が増えようが減ろうが、あの子の真心は変わらない、そうだろう?」


克樹は父の言葉に言葉を失った。

何かが克樹の中で崩れていくのが解った。


「昨日何してた?」


遅く帰宅した克樹は、リビングでテレビを見ていた水樹に言った。


「なんで?」


「いや……水穂ちゃんの所に行ったかな?って……」


「やっ……水穂の所には、前も言ったけど行く気失せたっていうか……」


水樹は克樹の目を見る事ができずに誤魔化した。


「あっ、そっ……」


克樹は黙って、テレビに見入る水樹を見つめた。


水樹が水穂と水葉の為に、いろんな物を買い集めているのを知っている。

無論克樹も付き合わされたし、インターネットを使って注文した物もある。

それを水樹の部屋に、大きな紙袋に入れて置いてあるのを知っている。

それが無くなっているのを、朝出掛け際に水樹の部屋を覗いた時に気がついた。

自分が毎日の様に水樹の部屋に置いてある、大きな紙袋を確認していた事が忌わしい。

狭量にも未だに、水樹が高城に会いに行く事が厭で堪らない。

嫉妬が渦を巻く。

水樹が今平気で嘘をついた事が、激しく克樹を傷つけた。

隠す事は、水樹の高城への気持ちを当てつけられた様で、克樹を苛立たせた。

そんな克樹の気持ちとは別に、水樹は克樹に知られたくない事柄ができてしまった。

思いもかけていなかったのに、高城とあんな事をしてしまった、後悔と罪悪感が水樹を苦しめている。

そして何よりも克樹には、絶対に知られたくない。

こんな感情は初めてだ。

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