貴方の幸せを下さい

するめいか

第1話「曰く付きの物件」

 人間は何のために生きているのだろう。


 ありふれた哲学であるが、俺は改めてこの問いと向き合わざるを得なくなった。


 先日、齢三十を数えるめでたい誕生日を、タスクだらけの残業中に独りで迎えたのがきっかけだ。


 無論、生死といった曖昧な概念の全てに、人が求めるような都合よい理由があるとは思っていない。


 そもそも、この問題に正しい解答があって良いはずがないのだ。


 何故か。答えは問いの中にある。


何のために生きているのだろう』


 それは『ヒトと他の動物は明確に違う』という宣言に等しかった。


 人間はどうしても、己を別の浅ましい動物達と一緒のカテゴリーに入れたくないのだ。

 生物というものはすべからく、せみから象からくじらに至るまで、繁殖や生存のためにあるというのに。


 生きるために生きる。それだけでは飽き足らず、自分達にはもっと重大な使命や、隠された特権があると信じて疑わない。


 何とも強欲で傲慢で、無邪気な話である。他者を最も多く食い物にしてきた支配者らしい考え方だ。


 だが、彼らの利己的な思考を突き詰めていけば、先の問題文にも多少は議論の余地が生まれるかもしれない。


『私は何のために生きているのだろう』


 こうだ。『人間』という主語はあまりにも大きすぎる。


 例えば、ムカつく後輩の生きる意味など、一生考えても分からない。


 憧れの美人な先輩が何を求めて毎日を過ごしているかだなんて、到底想像が及ばない世界である。


 しかも、たかだか四半世紀程度の時間を漠然と過ごしてきた奴が、道端ですれ違った老人の人生に価値をつけて良いはずがないのだ。


 しかしながら。仮定の話として。


 もし俺が、香坂こうさかかけるがそこに答えを出すとすれば。


 模範解答のない、或いは全てが正解となり得る問いに、回答を強いられてたなら。


 俺はきっと『幸せになるためだ』と答えるだろう。







 世の中には『曰く付き』と前書きのくっつく物件がある。


 多くの人物は、聞いたことこそあれ、実際に住んだ経験は無いのではないだろうか。


 以前に暮らしていた者が自害して亡くなっただとか、建てられる前は墓地であっただとか、不可解な現象が次々に起こるだとか。


 ホラージャンルの映画や小説でもしばしば題材にされてきたし、近所に存在すれば物好きがよく取り沙汰ざたしていたものだ。


 さて。どうして俺が雪吹き荒ぶ帰り道に、猫背がちな早足でこんな事を考えているかというと、だ。答えは現在歩いている、この閑散とした道の先にある。


 一ヶ月前に辺鄙へんぴな町へと転勤、引っ越す羽目になった、俺こと香坂翔。独身三十歳男性。


 良くも悪くも平々凡々な人生を送ってきた俺は、そこで初めて曰く付きの物件とやらに住むことと相成った。


 理由は単純で明快。家賃のわりにあらゆる条件が非常に優遇されていたのだ。


 俺みたいに寡欲な貧乏人にとっては、この上なく望ましい物件であった。怪奇現象が起きるという点に目を瞑れば、の話だが。


「うぅ……寒い、寒い、寒い……」


 両手に重たいビニール袋を持っているせいで、身を縮こまらせもできない。鼻の奥が冷気のせいで痛くなってきた。


 せめて駅がもっと近くにあれば、通勤退勤が楽になるだろうに。或いは、帰りを待っててくれる可愛い猫でも可。


 ふと、道を折れ曲がり、塀の間を通り過ぎる。


 すると向かって左手側に、経年劣化の進んだ賃貸マンションが顔を覗かせた。


 それを見上げた時だけは情けない猫背が無意識のうちに伸びてしまう。代わりに、まぶたを細く絞ったことで、目付きの悪さと隈の深さが際立った。


 俺の部屋は301号室だ。当然ながら、独り暮らしである。


 けれど、三階の端にある自室へ目を向けると、カーテンは既に閉められており、窓の隙間からは光が漏れ出ていた。


「ユキの奴、今日もいるのか……」


 誰に言うでもなくそう呟く。


 一人でいる時間が多くなってから、無駄な独り言や自己完結的な思考が増えてしまった。白い吐息がマフラーから溢れ、眼鏡のレンズを曇らせる。


 改めて振り返ると、なるほどというような、すすけた中年男性じゃないか。


「……はぁ」


 慣れ親しんだ己への嫌悪感も程々に、俺は再び自宅に向けて、足をキリキリ動かし始めた。


 階段の上り下りも年々辛くなってくる。


 悲鳴をあげる太腿ふとももと、そよぐ風の温度に頬を叩かれながら、なんとか自宅の前までやってきた。毎日同じ作業を繰り返しているとは思えない達成感だ。


 財布の中から取り出した鍵を扉へ差し込み、ノブをしっかりと握りしめる。


 手袋のおかげで滑りやすくなっているそれを力ずくで捻り回し、ドアを引いて、とうとう俺は帰宅を遂げた。


 瞬間、中から漏れ出た暖気が体を包み込んでくる。


 そこで確信した。やはり誰かがいる。


 そして、こちらの予想に違わず、玄関では既に俺の帰りを待ち受けている人物がいた。


「おかえりなさい、翔」


 少女だ。年端もいかない一人の少女。


 日本人にしては色素の薄い、肩くらいの黒髪。パーカーに似た暖色のルームウェア。足には、いつの間にかネットで勝手に購入された、モコモコのスリッパがある。


 何より特徴的なのは、感情の薄そうな無表情と、蚊の鳴くような声量だった。


「…………」


 俺と彼女は親戚なんかじゃない。正真正銘、紛れもなく、赤の他人である。


 血の繋がりもなければ、過去の因縁を持っているわけでもない。たった数日前に、この部屋で初めて出会ったばかりの、一人のヒトと一体の怪異だ。


 では、本題に戻ろう。どういった訳で、三十歳の男の部屋に中学生くらいの女の子が姿を見せているのか、だ。


 初めに断っておくが、犯罪ではない。問題であることに違いはないけれど。


「ただいま、ユキ」


 彼女と出会ってから三日目の夜。


 俺は自分でも恐ろしくなるほど自然に、普通に、少女への挨拶を返せるようになってしまっていた。


 紹介しよう。


 現在借りているこの部屋が『曰く付き』と呼ばれている所以。


 築五十年にもなるマンションの一室で、ここ数年間ずっと起こっていたという『奇っ怪な現象』。


 好き勝手にあれこれ噂されているけれど、俺が遭遇した怪異の正体は、クールで小さく現代的な、一体の『座敷わらし』であった。

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