17話 戦域4-4/スルガコウヤ

 ―――いつからだろうか。


 散っては降り注ぐ血。破片。皮膚。血。牙。血。尾。血。命。血。血。血。血……。

 その真っ赤な空間、光景に、白い結晶が混じっている。


 ―――いつから、雪が降っていた?


「あああああああああああああああああああああ!」


 枯れ果てた咆哮、喉が裂けんばかりの悲鳴を上げ、黒い――赤く染まった鎧は暴れ続ける。

 力任せに振り回し続けた野太刀はいつの間にか半ばでへし折れている。だが、それでも尚その刃は閃き、振り下ろされるごとに赤が舞う。

 竜の血。スルガコウヤの血。鎧は動くごとに周囲を赤く染め、その雫は空中で雪とぶつかり、溶かし混じり、地に落ちる。


 ―――ああ。そうか。さっきから異様に寒いのは、きっと、そのせいだ。

 朦朧と、スルガコウヤはそんな事を想う。


 全ての感覚が、もう、遠い。時間の感覚など何処にあるのかわからない。反射のレスペンスも錆が廻り始めてがたがたと軋みながらかろうじて駆動しているだけだ。


 目の前に竜がいる。その尾が迫ってくる。その尾が身体を貫く。その、あるはずの痛みがない。もしかしたら“夜汰鴉”の装甲が阻んだのだろうか。安心と信頼のドワーフ性で、耐久値が上がっているらしいじゃないか。きっとそう言う事だろう。


 引き抜かれる尾――そこに纏わり付く血を眺めながら、俺は何も面白くないその冗談ジョークに嗤い――


「ああああああああああああああああああ!」


 ――スルガコウヤは暴れ続ける。

 消耗の結果もはや満足に回避も出来ず、一撃くらいながら折れた野太刀を振り回し、その身体に傷を増やしながら手近に落ちていた杭で目の前の気色悪い単眼を単眼を単眼を叩き潰す。


 ―――喉が渇いた。妙に、寒くて、干からびそうだ。


 そんな事を思いながら、そんな渇きに苛まれながら、雪と血の降り注ぐやけに綺麗な色彩の地獄の中で、スルガコウヤは足掻き続ける。半ば意識が飛んだような、もはや周囲も自分もわからないような状況に陥りながら。


 俺は、疑問に思う。

 スルガコウヤは、なぜまだ動いているのかと、他人事のように。

 竜が第3基地の、家族の仇だから?

 倒れたアイリスの為?

 俺が拾った仲間達の為?

 死ぬのはなしだよ、とそう言われたから?

 優しい子が耐えているはずだから、そこに戻らなければいけないから?


 その全てが理由だ。けれど、そのどれ一つをも、スルガコウヤはもう、考えていない。


 激情だけが残っている。理性と完全に切り離された激情が、その炎で竜を焼き―――スルガコウヤ自身を地獄へと誘い続けている。


 スルガコウヤはそういう存在なのだ。酷く暴力的で、かつ根底で深い怨嗟が嘆き続けている――。



 *



 原風景。思い起こせる限り、最初の記憶。


 スルガコウヤのは、地獄と血と悲鳴と怨嗟だ。


 故郷、自体の記憶はない。家族の事、それこそ血の繋がった家族の事も、思い出せない。顔さえも、だ。


 竜に蹂躙される町。雪が降っていたその日。血みどろの世界。周りで悲鳴が聞こえ、その中を誰かに手を引かれ走り―――けれど手を引く誰かの顔は、もう思い出せない。


 思い出そうとすると、赤い景色に全てが変わる。

 スルガコウヤを引く手が、外れる。温もりは遠ざかり、目の前で、撒き散らされ。

 ―――単眼の竜が目の前に。


 目の前に異形異形欠けた人悲鳴コーラス血染めの廃墟街鉄臭いステージ

 そこに一人取り残された少年。


 それが原風景。

 その瞬間から、喪失から、スルガコウヤひとりぼっちは始まった。


 *


「あああああああああああああッ――」


 夢うつつの境界が酷く朧な郷愁は、衝撃によって打ち切られる。

 鈍い鎧夜汰鴉に牙が突き立てられる。爪が突き立てられる。尾が突き立てられる。

 致死量の傷だろう――今更だ。元より、十分死ねるくらいの傷は負っている。けれど、身体はまだ動く。“夜汰鴉”はまさ動く。スルガコウヤはまだ動く。


「――ああああああああああああああ!」


 激情、怨嗟が本質。この死にたがりピエロはそれしか知らず、……それしか覚えていない。

 

 だから、亡我のままに、トカゲを殺し続ける―――。

 死ぬまでだ。

 死ぬまで、殺す。

 半狂乱、いや、明らかに狂いながら暴れまわる――。



 *



 スルガコウヤ。字は知らない。出身地の地名も知らない。どうやってその原風景無残な故郷を生き延びたのかも覚えていない。


 気付いたらスルガコウヤは、どこかの汚い町の孤児院の中に居た。

 駿河鋼也。当て字だ。苗字はまだしも名前の方は、多分、職員がふざけて字を当てたんだろう。


 行き場のない子供を寄付と補助金目当ての大人が飼う、そんな場所だ。

 あるいは、スルガコウヤ以外の子供に対しては、あの施設の大人は優しかったのかもしれない。


 閉鎖的な激情家。体格の割りに腕力が強く、けんかっ早い。一度些細な事でキレて同じ境遇の子供を半殺しにするまで殴った事がある。


 ようは、クソガキだ。振り返るとただ寂しかったって、それだけの話だったのかもしれない。そんな事を他人に理解しろと言う方が無理だろう。


 その孤児院に、居場所はなかった。


 孤児院の人間から初めて笑顔を向けられたのは、軍へと引き取られる事が決まったその時だけだ。俺を軍に送り出してドナドナ、特別に補助金でも出たんだろう。


 去って初めて祝福される。それが、原風景の次にスルガコウヤが積み上げた自身と現実への認識だった。



 *



 左手の杭―――当然もう玩具ランチャーはなくただ拾って握って振り回すだけのそれを、ただ力任せに目の前のトカゲへと突き立てる――同時に右手側から迫る尾へと折れた野太刀を振るう。


 雪空に竜の血が舞う。両断された尾が舞う。鎧の切れ間から流れる血が、舞う。


 その雪が、血が地面に落ちるよりも次の竜が迫る方が早い――。


 背中に衝撃を受ける。爪か、尾か………おそらく突き刺さったのだろうがどうせもう痛覚はない。


 振向いた先に単眼があった。血染めの甲冑が映りこむ単眼――そこへと、スルガコウヤは無造作に左手を伸ばす。

 竜の顔面を、単眼を握りつぶす――と同時にその竜の死骸を振り回す。

 回された竜――力なく振り回される竜の尾が鋭利な刃。


 2匹叩き潰した時点で尾が割れたからその竜を投げ捨ててその間に接近してきた一匹の単眼へと折れた刃を突き立てる――。


 その間にまた次の竜が、永遠と………。



 *



 訓練校は孤児院よりマシだった。

 攻撃性と凶暴性と狂気が評価される場所だ。

 同じ穴の狢ばかりで、揉め事も大抵、殴れば解決する――シンプルな奴が多かったからかもしれない。


 訓練期間は短かった。振り返ると、正規ではなく一時の間に合わせの歩兵を育成するだけの場所だったのかもしれない。


 そのまま、戦場へと送られた。訓練校の同期全員。最低限の銃の撃ち方だけ習ったような状態で、実戦の場竜の前に投げ出された。


 ………生き残ったのは俺だけだった。

 ドックタグが酷く合理的だと言う事を、俺は、寒くて鉄臭い戦場の残り香の中で、目の前にあるナニカの首らしき部分に掛かる名前を見て、昨日笑った奴だと知って、学んだ。


 どこまで行っても、俺は結局一人に戻るのだろうと、そんな事も。



 戦場をてんてんとするようになる。だから、一々激戦区に投げ込まれて、戦闘のたびに部隊が壊滅状態になって、すぐ別の部隊に配属される、という事だ。

 竜の動きが今より活発だった頃だ。人手が足りなかったのだろう。捨て駒が使い回された――。


 生き延びて階級が上がる。功績を挙げて階級が上がる。仲間の死体ばかり見る。

 16、7のクソガキは、死神とか、呼ばれ始めた。

 その通りだと俺は思った。


 なぜ、俺だけ生き残るのかが、俺には酷く疑問だった。

 なぜ、自分が生きているのか。なぜ死ねないのか。


 パンが生肉のように。

 水は鉄臭い匂いがして。

 食べるモノが全部血の味――そんな気分だった。



 *



 ふらつくように横に――跳ねようとして失敗してそれでも最低限の回避だけはして――そんな即頭部を、後ろから奔った尾が掠める。


 その尾を掴み振り回し別の竜に叩きつけて潰して放してその間にまた次――。



 が―――。


 なぜ、俺はまだ死んでいないのだろうか?

 理由は付く。

 悪運が。

 経験則を生み。

 そこに合理性を教わり、反射まで叩き込まれた結果だ。


 レーダーマップを間接視野で注視、脅威度の高い敵の選定、位置から来るその竜の行動の予測―――。


 だから、錆が廻ってもまだ俺は――



 *



 迎え入れられた場所があった。

 死神を頼もしいと笑う奴らがいた場所。

 クソガキを、まともにクソガキと扱った場所があった。


 事あるごとにパシらされた。初手で下らないいたずらを食らった。ふざけた奴らだと思った。

 どうせすぐに死んでしまうだろうと、そう思っていた。


 ――実戦。

 同じ部隊の仲間が一人も減らなかったのは、軍に入って初めてだった。

 ……似たように経験を積んだ末に、人徳のあるふざけたおっさんに拾われた奴ら。そんな部隊だった。


 上には上が居た。死神はふざけたおっさんに模擬戦でへし折られた。負けた理由を座学で教わり、直後出来る様になるまで叩き込まれた。戦術、動き方、部隊としての役割。

 相変わらずパシらされる。俺を勝手に弟分にした馬鹿だ。焼きソバパン買って来いよ~、と言われたから殴りかかったら返り討ちに合った。上には上が居た。反抗しながら格闘術を叩きこまれた。

 

 ――実戦。

 仲間の動きを見た。他人を見る余裕がある部隊だった。全員、格上だった。少なくとも俺はそう思った。勝てないわけだ、と。


 真面目に座学を受ける。

 頭を下げて格闘術を習う。

 経験に合理性が付与されていく。


 同時に、ふざけた悪戯を食らう。

 戦術的行動の理解と実施の試験、と40近いおっさんに言われてまさか覗きをさせられるとは誰も思わないだろう。馬鹿な兄貴分がニヤニヤしながら付いてきてた時点で気付くべきだった。しかも、あいつ最後に逃げやがった。俺だけ吊るし上げを食らった。そしてそのまま一晩説教された。………説教の原因は俺が貧相とか言ったせいだったかもしれないが。


 教育係が増えた。眼つきが悪く背が低く愛想が悪く貧相な、クソ真面目な女だ。小姑みたいに、言葉遣いから食べ物の好き嫌いから何から、およそ軍と関係なさそうな教育をされた。クソガキは、叱られて、しつけられた。


 ………食べるものから血の味がしなくなっていると気付いたのは、その頃だ。


 ――実戦。

 部隊に欠員が出た。

 翌日、部隊の誰もが、普段と変わらない行動を取っていた。務めて、だ。

 仕方のない事だと理解していたのだろう。いずれ順番が廻ってくる話だと。


 ふざけたおっさんは、講義の最中に、感傷の滲む兵士の心得を語った。

 馬鹿な兄貴分は、いつもより口数少なく、ただ俺の訓練に付き合った。

 小姑は小言が少なく、冗談が多く、太るとか言いながら二人分の食事を一人でしていた。


 悼む、だ。誰もそれを口にしない。ただ、そういう雰囲気があった。


 ただただふざけていた訳ではない。いつ消えるとも知れないから過度に、あえてふざける。

 他人から見れば、平和な世界から見れば、頭がおかしいと思われるだろう。


 ああ。俺は狂っている。

 ―――この部隊で死にたいと、仲間が死んで思ったのが、そんな事なのだから。


 楽しかったのだろう。楽しいから、楽しい世界が壊れる前に、楽しい世界の余韻がある間に死にたかったのだ。

 あるいは、悼まれたかったのかもしれない。


 だから、俺は、俺に興味を持って、その上で俺より長く生きそうな人たちに会ったのが、生まれて初めてだったのだろう。


 真面目に訓練をした。真面目に講義を受けた。真面目に教わった。

 そうして培った技術を使って、前線で誰よりも前に出た。

 仲間より先に死にたかったのだ。

 仲間に、悼んでくれる誰かにいて欲しかったのだ。

 ………あるいは、ただ、もう、居場所を失うのが嫌だったって、ひとりぼっちは嫌だって、ただそれだけだったのかもしれない。


 だから、勲章なんてどうでも良かった。

 振り返った先に仲間がいたのが嬉しかった。


 嬉しかったから―――。

 家族だなんて思ったから。


 なんで名前を思い出せないんだろう?

 思い出すと辛くなるからだろうか?それだけ俺は楽しくて、幸せだったのかもしれない。


 ――ああ。だから原風景があれなんだ。その前を捨ててしまったんだ。

 きっと、最初は、俺も、幸福な世界に、望まれて―――



 *



 ――雪。血。竜。レーダーマップ。牙。折れた野太刀。暴力。尾。背後。食らう。背中。刺さる。尾。引き抜く。振り回す。潰れる。潰す。捨てる。横。杭。竜。投げる。牙。単眼。踏む。潰す。雪。返り血。暖かく冷たい。最中へ手を伸ばす。剣を突き立てる。杭。背後。レーダー。数。数えられる数。もう、10もない。合理性。最後。死力。


「――――――――――ッ!」


 咆哮。蹴りつける。踏みつける。顔の横爪。砕けたがまだ。まだ動く。何をしている?戦っている。思い出す間に尾を握って潰す。踏みつける。杭を拾う。殴りつける。放り投げる。


 血。雪。空。銃声。牙。尾。目。竜。血。


 死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死――。



 *



 マストオーダー。嫌だ。居場所が。どうして。ふざけた話だ。命令が全て。従ったのはそう教わりしつけられたから。皆そう死んできたから。俺だけ抜けるわけには行かない。俺を教育した全員の顔に泥を塗ってしまう。無価値だとは思いたくない。無意味にしたくない。


 確かに教わった。死神クソガキは人にしてもらった。居場所。逆らえない。わかっていても。なぜ居場所があると思った?なぜ俺はまだ生きている?なぜ俺だけまた生き残る?なぜ死ねない?なんで置いていかれてしまう?なんで、どうして、俺は……………。


 だから恨んだ。

 けれど恨みきれなかった。

 死神クソガキは人にしてもらったから。

 まともな情を、ふざけた調子で、叩き込まれたから。

 ………楽しい思いをしたせいで、生きていたいと思わされたから。

 それで、だから…………あの子は、何て名前だった?



 *



 目の前。折れた剣。単眼。突き立てる。ぴしゃ。動かない。急に。静か。しない。音が。周り。見回す。


 雪。雪。雪。積る。死骸が。死骸に。雪。赤く染まり。けれどその上。白く。包む様に。


 竜。動いていない。何処を見ても。潰れたり。突き立てられたり。引き裂かれたり。叩ききられたり。全部全部死骸。そんな静かな。地獄に。俺は。


 寒い。眠い。頭が働かない。どこかふわり。ゆるり。


 もう、倒れても良い。そんな気がする。目をつぶれば。ほら。ふざけたおっさんが。兄貴分が。小姑が。顔も思い出せない両親が。いなくなった皆が。幸福な幻想に。眠る様に……。


『駿河鋼也少尉、だね?』


 声。通信。マップ。友軍反応。……FPA?北西30メートル。すぐ近く。見る。“夜汰鴉”の群れ。見慣れたFPA。けれど違いがある。何処に?


 ………肩。部隊章。国旗。あるはずの場所。肩。一様に。白。ペイント。塗りつぶした?声。その内の一人。


『私は帝国軍………いや。革命軍第1大隊大隊長―――』


 革命、軍?………革命?意味。市民。現政権。現政治形態の暴力的な変容。

 …………革命?皇族。マストオーダー。“月読”。銃痕。継承権争いじゃない。違った。根底が。それより更に。最悪。


 革命軍。目の前。この戦場。なぜ?交渉?カード?目的は?

 ………あの子だ。


 あの子のせいで俺は死にそびれた。

 あの子のおかげでまだ生きようとしている。


 だから………。


『――凄まじいな。噂では聞いていたが、一人で何匹やったんだ?……まあ良い。君の境遇は知っている。我々に共感できるはずだ。ぜひ、一度話を……おい。聞いているのか?』


 背を向ける。革命軍。敵対。この状況。不可能。負ける。死ぬ。命令。遂行できない。

 ふらつく。倒れる。駄目だ。戻る。戻らないと。連れ去られる。嫌だ。駄目だ。意味が。生きている。死なれては。


 歩く。歩く。歩く。まだ動くまだ動くまだ動く。


『………わかった。後で時間を取ってもらえると、嬉しい。戦況の報告を――』


 通信ノイズ。どうでも良い。雪。足跡。赤い。元から?今?どうでも良い。


 戻ろう。

 つれて逃げよう。

 すぐ近く。居て良い。このための。合理性が。それで。だから。あの子の。わがままを。


「おい……お前。大丈夫か?」


 目の前。オニ。見覚え。ああ。最初に。拾った。生きてたか。精鋭。オニが他にたくさん。生き残り。頭が。ぼんやり。なぜ俺は。どこへ?そう、だから、あの子を。


 歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。

 オニ。ドワーフ。オニ。オニ。オニ。オニ。エルフ。……名前は。リチャード?


「……まだ動けるのか?化け物だな。いや、英雄か。正直、敵にしたいと思えない。………なんだ。無視か?」


 なんだ?何を言っている?わからない。どうでも良い。戻る。歩く。雪道。動く。

 何処へ。すぐ忘れる。そう、だから、帰る場所だ。


 居場所。

 嬉しかった。

 おかえりなさい。

 それだけで。それだけで。それだけが……。


 歩く。歩く。歩く。

 静か。一歩が重い。重い一歩を積み重ねていく。

 寒い。寂しい。帰路。てんてんと。足跡。足跡。足跡。


 雪。雪。雪。オニ。雪。オニ。雪。オニ。オニ。オニ。ドワーフ。雪。

 声を掛けてくる。

 よく聞き取れない。


 寒い。遠い。

 また忘れる。なぜ?歩く。だから。そうだ。帰りたいから。


 何処へ?あの子のところへ。名前。皇女。2等兵。付けた。俺が。雑に。どうでも良くて。大して考えもせず。恨んで。恨もうとして。恨みきれず。帰って。迎えられて。帰って良い場所で。居場所で。



 乾パンのクズ。空いた缶詰。窓の外の雪。隙間風。

 部屋の中心のストーブ。囲んで。向かい合って。

 覗う様に。上目遣いで。割りに遠慮のない言葉で。所作に育ちが見えて。よく笑っていて。



 雪。建物。どのくらい歩いた?建物。本陣。仮設。まだ歩く。もう少し。もうちょっとで。


「ん?ああ……はあ。なんだよ、クソガキ。ずいぶん派手な化粧だな?」


 オニ。女。派手。言われたくない。オニの女。ふざけた調子。その顔。安堵が浮かんでいる。こいつは?

 だから、そうだ。近かったんだろう。仲間に。家族に。……諦めて笑うような、それで居て諦めきていないような、そんな雰囲気が。


 扇奈に。いつか問われた。あの子のこと。俺は。何て答えた?


「………未練だ」

「はあ?何言って…………待て。お前それ、返り血じゃねえのか………」


 未練。

 わざと。難しく言った。

 多分。気恥ずかしかった。

 別に。嘘じゃない。


 居るからつなぎとめられている。居るから生きている。生きようと思っている。未練以外の何者でもない。居なければもう消えているだろう。

 他に何もない。

 ………他に何もいらない。


 居てくれれば良い。居させてくれれば良い。迎えてくれればそれで良い。


 雪。


 小屋の横。

 蹲るあの子。その顔が上がる。驚きに、大きな目が見開かれる。目元が赤い。泣いていた。そうか。酷い光景を。支えないと。慰めないと。

 ………少しは、俺も、恩返しを。あの子に。


 名前は、だから、………頭は廻らなくて。


「桜」


 口は覚えていた。続く言葉は、なんだったか。そもそも声は出ているのか。

 手を伸ばす。

 視線の先。あの子が――桜が立ち上がる。駆け寄ってくる。心配そうだ。


 ……心配されて嬉しいのは、やはり、俺が壊れているからかもしれない。


 急に暗くなっていく。全部全部が。急に。流れ落ちて、崩れ落ちるように。

 ………失血だ。全てがもう遠い。


 名前を呼ばれた。駿河さん。……鋼也。鋼也って呼んだか、二等兵?

 それでもう、俺の意識は遠くなっていく。


 女々しい奴だ。最後に名前を呼ばれたかっただけか?居場所。惚れたから。お帰りなさいだけで。単純だ。ひねてるんだよ。全てに別の理由をつけないと。怖いんだろう。失くすモノが。多すぎて。ひねないと。堪えられない。


 狭まる視界。音がしない。雪の中。最後に見えたのは。桜の、泣いた顔。


 ………笑顔が良かったと、そんな事を思う。

 笑顔を見るまでは、とも。可能か不可能かは置いて、そんな事を、強く。

 

 だからほら、言っただろう?

 これは、まぎれも無い。


 ………未練だ。

























→6章序 17.5話 扇奈/天秤に全てが乗り

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890150957/episodes/1177354054890816758

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