365ページのご利益

リン・シンウー(林 星悟)

光陰、らの如し

「や。お待たせ」


 深夜零時を回った頃。少女は何食わぬ顔で神社にやってきた。


「遅いぞー、ひらの。もう明けちゃったじゃんかー」

「ごめんごめん。やっぱり紅白の結果見てから家を出るのは無理あったよ」


 口では謝罪しつつも、「平野ひらの」と呼ばれた少女の顔にはまっとうな反省が今ひとつ見られなかった。


「もー。去年も同じようなこと言ってなかった?」


 待ちぼうけを食らっていた方の少女――「山本やまもと」がわざとらしく尖らせた唇は、寒さのせいか赤みを失っている。寒空の下、何十分も首を長くして待っていたのだろう。


「言ってたかも。ごめんって、甘酒おごるから」

「あれタダで配ってるじゃん……まあいーや、とりあえず」


 背筋を正してから、山本はぺこりとお辞儀をひとつ。


「あけましておめでとうございます」

「昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします」


 平野も格式ばった挨拶を返す。

 共に過ごした昨年の礼、そして新たな一年の健勝と躍進を祈願する。


「……って言っても、残りほんの三ヶ月くらいだけど」


 さらりとした口調ながらも、僅かに感傷を帯びた言葉。

 山本と平野は、同じ高校に通う三年生同士。各々の進路を固め、別れの時――卒業を目前に控えていた。


「二度と会えないってわけでもないんだから、暗くなんなってー! ひらのは寂しんぼだなー」

「そんな豪語するからには、卒業式で泣かない自信でもあるの、山本」

「ふっふーん、まーねー。あたし卒業式で泣いちゃうようなお子様キャラは中学でおさらばしたってゆーかー?」


 卒業式当日の平野の楽しみが、ひとつ増えた瞬間であった。


「……ックシュ!」

「ああほら、こんな寒いとこにずっといるから……」

「誰のせーだ、誰の」


 ズビ、っと鼻をすする山本に、平野は自分のマフラーをぐるりと巻いた。幼馴染とのこんなやり取りも、もう何度目になるか。


「あっちに焚き火あるよ、あたってきたら?」

「ああ、確か庭燎にわびとかいうんだっけ。お焚き上げのヤツ」


 あの毎年恒例の、神社の庭で厳かに燃え盛っているたき火は、どうやらそんな名前らしい。

 平野にとっては耳慣れない単語。山本は、言葉を人よりほんのちょっぴり多く知っている子だ。それには彼女の昔の夢が関係していることを、平野は知っていた。


「お焚き上げの用も無いのに近づくの、どーなのかなーって毎年思っちゃってさ、何だかんだ近寄れないんだよねー」

「別に、子供とかみんなあたってるじゃない。私もよくやるし」

「んー……あ、でも今年は」


 何かに思い当たったような声を上げ、山本はごそごそと懐を探り始めた。

 やがてコートの下、シャツの胸ポケットから、ずるりと取り出しましたるは。


「……いつもそれ持ち歩いてるよね、山本」


 肌身離さず携帯するには、少しばかり厚みのある、一冊の文庫本。

 山本いわく、「365ページのラノベ」だ。


「変なの。日本は銃社会じゃないのに」

「防弾目的で持ち歩いてんじゃないから!」

「知ってるよ、お守りでしょ」


 ちょうど一年前の今日。

 この神社で出会った和装の女の子に薦めてもらったとかなんとか、妙に嘘っぽい逸話と一緒に持ち歩き始めた、山本の「お守り」。


「でも、銃弾以外のどんなものから守ってくれるお守りなの」

「物騒だな……。365ページのライトノベルはね、願掛けなんだ。一年365日、暗い気持ちから守ってくれますようにーって」

「……え? 待って。ライトって、そっちのライトなの?」


 平野の認識では、ライトノベルのライトは「軽い」という意味のはずだった。


「それを言うなら、一年365日、重い病気にかからないように、とかじゃないの」

「……おお! それもいーね、採用!」

「適当だなぁ」

「いーのいーの、ご利益なんて多い方がありがたいんだからー」


 お守りの効能を体現するかのように、軽く明るく笑う山本。

 どうやら、確かなご利益があったようだ、彼女のライトノベルには。


「で、それお焚き上げするの」


 しょうの音色をバックに荘厳に爆ぜる焚き火を見つめ、平野は山本に尋ねた。

 お焚き上げは、一年間自分を厄から守ってくれたお守りや破魔矢、だるまや人形などに、感謝の念を込めて焼いて供養する作法。たとえそれが文庫本であっても、神社にお願いすればきっと承ってくれるだろう。


「……うん。かれこれ一年分、いろんな念込めてきちゃったし。それに……」

「それに?」

「焼いちゃえば、すっきりできるしさ。……ちょうどいい、機会かもだし」


 火の粉の昇っていく先を見つめながら、白い息を吐く。どこかうれいを帯びた山本の横顔に、平野はかける言葉を見つけられないでいた。


 山本の将来の夢は、作家だった。

 人よりほんの少し多くの本を読み、人よりほんの少し多くの言葉を知り、人よりほんの少し多くの物語を紡ぐ。幼い頃のそんな山本の、キラキラした瞳が、平野は好きだった。

 けれど、いつしか、彼女は夢を語ることをやめた。


 山本は、普通に大学を受験して、進学するつもりでいる。

 その先にかつての夢が変わらずあるのか、平野は知らない。

 ……いや、今しがた彼女がこぼした言葉から察するに、その道は、今この場で絶たれようとしているのかもしれない。


 誰もがきっと、そんなものだ。

 子供の頃の壮大な夢を、月並みな理由で心の奥に仕舞いこみ、お子様な自分に別れを告げて、月並みな大人になっていく。

 そうして時が経つうち、お守りを焼いてしまうのと同じように、役目を終えた夢は持ち主の手を離れ……いつしか、忘れられていくのだ。


「じゃ、ちょっくら神社の人にお願いしてくるねー」

「……うん」


 平野は黙り込む。

 止めて、どうなる?

 山本の人生に、平野が口を出す権利はない。


 ああ、それでも、どうしてだろう。

 勝手に口が動いてしまうのは。


「山……っ」


 ――燃やすなんて、もったいない!


「……ほぇ? 今の、ひらの?」


 ――そんなことするくらいなら、私が読みます!


「え、何。これ読みたかったの? ひらの」

「……? 何のこと? 私、まだ何も言ってない……」


 ――あっ、――し遅れま――、私の名――


「いや、だって今」


 ――らのです。


「やっぱひらのじゃん!」

「だ、だから何のこと⁉」


 急にわけのわからないことを言い出した山本には、何やら空耳が聞こえたらしかった。

 深夜。神社。謎の声。

 平野の背筋に、ふいに悪寒が走る。


「……ちょ、ちょっとやめてよ山本。おどかそうったって……」

「シッ。静かに」


 山本の制止で、平野は口を閉じる。

 神楽殿から聞こえる囃子、焚き火の破裂音、参拝客の話し声、ガラガラと鈴の音、二連の柏手かしわで、転がるお賽銭……時刻にそぐわない賑やかな音に混じって、ガサリと茂みを揺らす音が確かに届く。


「野良猫……?」

「……狐かもよ。神社だし」


 ニマリと笑った山本の瞳には、微かに、かつて見た童心の光が灯って見えた。

 音のした方を辿って、神社の裏手へとずんずん進んでいく山本に、仕方なく平野もついていく。


「ほとんど獣道じゃない……」


 導かれるように茂みを掻き分け、道なき道を進む。

 まるで子供みたいだ。こうして秘密の探検を繰り広げて迷子になっては、親にこっぴどく叱られた。

 けれど、あの日汚れた服と擦り減った靴は勲章で、駆け回った記憶は冒険譚だった。


 平野は、山本と過ごしたそんな「物語」が好きだったことを、思い出していた。


「わ……」


 茂みを抜け、辿り着いた先は、先程までの喧騒が嘘のように静かな場所。

 風に揺れる木々、古びた紙にも似た土のにおい。蒼い薄明りに照らされて佇む小さなお社と、それを守るように鎮座する狐の像。その全てが幻想的で、空想的で、まるでこの世から切り離された別の次元にあるのではないかとすら思わせる。


「知らなかった。この神社に、こんな場所あったなんて……山本?」


 おっかなびっくりと周囲を見回している平野とは対照的に、確かな足取りで、山本はお社に歩み寄った。


「……ねえ、もしかしてあたしのこと、呼んだ?」


 お社に向けた山本の問いかけに、当然ながら返事はない。

 代わりに、ざあ、と夜風が吹き抜ける。季節は真冬のはずなのに、五月の風のように爽やかであたたかい。不思議な現象のはずだったが、山本も平野も、もうそんなことは気にならなかった。

 誘われるようにして、二人、空を見上げる。


 蒼い月。底知れない闇に浮かぶ、確かな光。


「ねー、ひらの」

「何?」

「月が綺麗だね」


 思わずぎょっとする。

 どういう意味で口走ったのだろう。文学に疎い平野ではあったが、そのワードが持つ額面以外の意味を知らないではなかった。


「月が綺麗で、風が涼しくて、静けさも心地良くて。きっと秋は鈴虫の声が聞こえて、春は花の香りで眠くなっちゃいそう」

「……う、うん。そう、だね」

「こんなところで本を読んでたら、時間なんてあっという間に過ぎちゃうよね」


 平野に、あるいは誰にともなく告げてから。

 山本は、手にしていた「お守り」を、そっとお社の前に置いた。


「……いいの?」

「ん。ご返納、ってゆーかお供え? 神様も退屈だろうし」


 お守りを手放しても、軽い口調と明るい笑顔のまま、山本はお社に向かって二拝二拍一拝を奉じた。平野も真似してお参りをする。


「……あたし、大学行きながら、ラノベ書いてみよっかな」


 山本の夢が叶いますようにと祈ったのがバレたかのような絶妙なタイミングで、彼女は唐突に口にした。


「いいと思う。時間なんて、あっという間だし。やりたいうちにやるべきだよ」

「っへへ、ありがと、ひらの」


 平野は、山本の語る物語が好きだ。

 きっと世の中にも、彼女の物語が好きな人は沢山いるはず。

 だからもっと沢山の人に山本の言葉が届くよう、応援すると平野は決めた。


「でも、だったらいいの? お守り置いてっちゃって。ご利益あるかもよ、ライトノベルの神様の」

「うーん。そしたら、また次の一冊をオススメしてもらいにくるよ」


 また言ってる、と平野は苦笑した。

 ……ああ、でも、こんな場所があるくらいだから。

 神社で出会った女の子が、ライトノベルをお薦めしてくるなんて出来事も、あながち与太話でもないのかもしれない。


「……そろそろ戻ろっか」

「うん」


 平野たちの時間と、どこかの時間が混ざり合う、不思議な場所。

 何故だろう、二人にはまたいつでもここに来られるという確信があった。だから、名残惜しくはなかった。


「進学したら、毎年確実に会えるのはゴールデンウィークくらいの時期かな。そのくらいになったら、進捗を確認しに行ってあげる」

「ええー、気が早いなー……」

「ふふ。私に、おめでとう、って言わせてみせてよ?」

「ん。がんばる」


 いつかの五月が、二人にとっての記念日になればいい。

 山本の決意と平野の応援を祝福するかのように、また軽やかな風が吹いた。


「一年間、どうもありがとうございました」


 お供えした365ページに向き直り、山本は感謝を告げる。


「そして、これからの365ページも……よろしくお願いします」


 返事は、きっと、光の向こう。

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