コミックス2巻発売記念SS(※原作既読の方向け)

侍女モニカ・グレイの恋文

 アルタイル王国の王城の一室、王の書斎の中、私は今日も黙々と筆を走らせていた。すぐそばで、陛下が私の書いたものを眺めておられる。


 星の輝きを閉じ込めたような銀の髪と、深い蒼の瞳。青年だった頃よりもずいぶんと威厳が増して、瞳は氷のように冷たくなった。レイラさまを亡くしてから、陛下はずっとこんな目をなさっている。


 政略結婚をしてお妃さまを迎え、王子さまにも恵まれたけれど、陛下の心の中にいらっしゃるのは今もレイラさまだけだ。陛下が微笑まれるのは、絵の中のレイラさまのお姿にだけ。心なんて、多分とっくに壊れていた。


 誰にも興味をお示しにならない陛下がこうして私をおそばに置いてくださっているわけは、私の書く字にあった。声が出せないので筆談で陛下と意思疎通を図ろうとした際に、陛下は私の筆跡に目を留められたのだ。


 ――お前は、美しい字を書くな。まるで、レイラのような……。


 そう呟いてから、陛下は納得したとでもいうように口もとを歪めた。あの陰鬱な二週間のことを思い出したのだろう。


 ――それもそうか。お前はレイラから直接文字を習っていたのだったな。


 これを指摘されたとき、私は処刑されるのかもしれない、と密かに覚悟を決めた。レイラさまを失って以来、陛下は亜麻色の髪の侍女を追放し、アネモネと菫色を一切城の中から消してしまったのだから。レイラさまを思わせるものを見て、心を乱されたくないらしい。


 だから、レイラさまを思わせる私の文字も、陛下にとっては消してしまわれたいものの一つだと思ったのだ。だが、続いてかけられた言葉は予想外のものだった。


 ――これから時々書斎に来い。レイラの代わりに何か書いてみせろ。


 消してしまうのをためらうくらいには、私の字はレイラさまの文字に似ていたのだろう。それ以来、私は陛下の書斎に足を運んで、レイラさまの代わりに他愛もない文章を書き綴る日々を送っていた。もちろん、書斎の掃除をしたり、陛下にお茶を淹れたりすることもあるが、私の一番の仕事はこれだと言っても過言ではない。


 この役目を賜ってからというもの、私は少しでも教養を身につけるべく、あらゆる分野の本を読んだり、仕事の合間に城の中の図書館に足を運んだりしていた。


 そこで陛下の御子息であるアレン王太子殿下と親しくなれたのは、思いも寄らない嬉しい出来事だった。


 アレン殿下は陛下にそっくりなお顔だちのせいで城の者からは恐れられているようだけれど、私にとっては可愛い弟のような、かけがえのない友人のような存在だった。声を出せない私のために、手を使って意思疎通を図る方法を考えてくれるほど、心優しい王子さまなのだ。


 ……あの方には、お幸せになっていただきたい。ルイス陛下のような、あんな思いはなさってほしくない。


 幸い、アレン殿下はご婚約者のシェリル嬢と仲睦まじいと聞いているから、何も心配はいらないだろう。どうかこのままシェリル嬢と何事もなく、無事にお二人が結ばれるようにと祈っていた。


「手が止まっている」


 すぐ隣から冷たい声が降ってきて、慌ててペンを持つ手を動かした。今は、詩の一節を書き写している。レイラさまがよくお手紙に引用していたという、有名な美しい詩だ。


 陛下が私に求めるものはさまざまだ。他愛のないもので言えば、アネモネの美しさを綴ったものや、王城の周りの風景を描写したものなど、語彙にさえ気をつければどうにかなるものだった。


 難しいのは、「レイラの代わりに手紙を書いてみせろ」と言われるときだ。


 私がレイラさまにお仕えしていたのは、あの方が月影の塔に囚われていた陰鬱な二週間だけ。社交界ではいつでも完璧な笑みを讃える「女神様」のような御令嬢だったと聞くが、陛下に傷つけられ、追い詰められていたレイラさまは、理不尽な執着に怯える哀れな少女だった。本来のレイラさまのお姿を見ていたとは言い難い。


 それでも、陛下のご命令に逆らうわけにはいかなかった。レイラさまのお優しい心を思い出して、必死に偽りの手紙を書き綴った。


 もっとも、そうして生み出した手紙が、陛下のお気に召したことはほとんどないのだけれども。あまりにも下手なものを書けば、インク壺を投げつけられて追い出されることもある。たまに褒められるとすれば、それはレイラさまの実際のお手紙に書かれている言葉とほとんど同じような文だけだった。


 陛下が求めているものは、絶対に私には生み出せない。それはきっと、私だけでなく陛下もよくわかっているはずだった。


 それでも、陛下は私に偽りの手紙を書くように命じた。失望するとわかっていても、何度でも私に書かせた。それくらい、陛下はレイラさまを求めておられるのだ。


 そして私もいつしか、そんな陛下のことを放っておけなくなってしまった。日々着実に、彼に毒されている。レイラさまを理不尽に傷つけていた彼に反発心を抱いていた少女の頃とは違って、陛下はああすることでしか、レイラさまのお心を繋ぎ止めておけなかったのだろう、と憐れむようになっていた。


 どんな理由があったって、暴力は許されるべきではないのだろうが、今では陛下を非難する気持ちはない。自分で殺めたレイラさまの幻影にすがって壊れていく陛下を見ていると、とても責めるような気持ちにはなれないのだ。


 無意味な偽りの手紙を書き続けているのは、陛下の心が一瞬でも救われたらいいと思っているからだ。ほんの瞬きの間だけでもいい。陛下が、レイラさまがいらっしゃった頃のように笑ってくださったのなら、それだけで私も救われる。


「その一文はいいな、レイラらしい季節の挨拶だ」


 不意に、隣に立っていた陛下が背後から覗き込むようにして身をかがめた。それだけで、どくん、と心臓が跳ねる。微かに陛下の温もりが伝わってきて、まるで抱きしめられているような心地だった。


 どくどくと、耳の奥で心臓がうるさいくらいに高鳴っていた。気まぐれに距離を詰める陛下に、私はいつでも心を掻き乱されている。その理由はもう、とっくにわかっていた。


 想いが、あふれそうになる。気づけば震える指先が、勝手に文字を書き記していた。


 ――お慕い申し上げております。


 それを見た途端、背後で陛下が薄く笑うのが分かった。


「……慰めはいらない。レイラが僕を好きだったのは、もう遠い昔のことだ」


 背後から伸びた手が、ぐしゃりと紙を握りつぶす。微かに伝わっていた温もりがあっけなく遠ざかっていった。


「今日はもう下がれ。それから……二度とこのようなことは書くな」


 無理矢理笑みを浮かべて、膝を折って退室の礼をした。わかっていたことだが、今にも泣いてしまいそうな気分だ。


 迷わず書斎の扉へ向かえば、背後から「レイラ」と縋るような陛下の声が聞こえてくる。こうなったらしばらく駄目だ。人に会えるような状態ではなくなる。それとなく私が部屋の前で、来客がないように見張っていなければならない。


 廊下に出るなり後ろ手に扉を閉めて、そのままもたれかかるように背中を預けた。俯くと、涙が溢れそうになる。叶うはずのない想いだと、誰より私がわかっているのに。


 ……私が、レイラさまだったらよかったのに。


 そうしたら、いくらでも陛下を抱きしめて、名前を呼んで差し上げることができるのに。


 ――お慕い申し上げております。


 あれは、レイラさまの代わりに綴った偽りの言葉ではない。私の、本当の気持ちだった。もちろんそれが、陛下に伝わるはずもないけれど。


 目頭が熱い。必死に口角を上げて、何気ない笑みを浮かべるように努めた。このままさりげなく廊下でも掃除して、陛下のもとにお客様が訪れないよう気を配らなければならないのに。


「……モニカ?」


 聞き慣れた少年の声がして、はっと顔を上げる。そこには、銀の髪と蒼色の瞳を持つ、美しい王子さまの姿があった。傍には、陛下の側近であるエイムズ公爵の姿もある。殿下のご婚約者であるシェリル嬢はエイムズ公爵の御令嬢だから、お二人が一緒にいるのはそう珍しいことでもない。


「モニカ、どうしたの? ……まさか、父上に何かされたの?」


 陛下とそっくりなお顔に憂いを滲ませて、アレン殿下が私の前に駆け寄ってくる。本当に、お優しい方だ。私のような者にもこうして気を遣ってくださるなんて。


 殿下と決めた手の合図で「なんでもありません」と答えながら、無理矢理笑みを取り繕った。だが、アレン殿下の表情は晴れない。


「なんでもないって……それじゃあどうしてそんなに泣きそうなの? 父上に何かひどいことを言われた? ちょうどいい、直接話を――」


 扉に手を伸ばそうとした殿下の前に慌てて立ちはだかり、首を横に振った。今は、アレン殿下を中にお通しするわけにはいかない。陛下の精神状態は最悪なのだから。


 こんなときでも、唯一会うことを許されているのは、エイムズ公爵だけだ。助けを求めるように公爵を見上げれば、彼は心得たように頷いた。


「殿下、私がそれとなく尋ねておきましょう」


 どうやら、この部屋に用があったのは公爵の方らしい。途中で殿下の姿を見かけて、話しながらここまで一緒に来たのかもしれない。


 殿下も、この部屋に入れるのは公爵だけだと言うことはわかっているようだった。渋々といった様子ではあったが、私の腕を引き寄せながら一応の納得を見せる。


「わかりました。必ず訊いてくださいね。もしも父上がモニカを手ひどく扱っているようなら、配置換えも考えなければなりませんから」


「……承知いたしました」


 公爵はどこか苦々しい笑みを浮かべると、すっと私の瞳を射抜き、耳打ちするように距離を縮めた。


「――君は、この城から出て行った方がいいかもしれないな。私の娘のためにもね。その気があればすぐにでも手を貸そう。……このままじゃ、第二のレイラ嬢になりそうで見てられない」


 囁くようなその言葉に、何度か瞬きを繰り返す。第二のレイラ嬢、なんてずいぶん意味深な言葉だが、よく意味がわからなかった。少なくとも陛下にとってのレイラさまは、陛下が殺め、今や絵の中にしかいらっしゃらないあの方だけなのに。


「公爵」


 アレン殿下は、掴んでいた私の腕を一層引き寄せて、私を公爵から引き剥がした。いつも通りの優しそうな微笑みを浮かべているが、蒼色の瞳にルイス陛下そっくりの翳りを見た気がして思わず息を呑む。


 笑っているようで睨むような殿下の視線を向けられた公爵は、儀礼的な笑みを浮かべたが、わずかに浮かんでいた懸念の色をますます濃くした。


「失礼いたします、アレン王太子殿下」


 公爵はにこりと微笑んでから、憂うような眼差しで私を一瞥し、今度こそ書斎の中へと消えていった。


 廊下には、私とアレン殿下だけが取り残された。公爵に意味深なことを囁かれたせいか、いつの間にか涙は引いていた。


 書斎には公爵がいらっしゃるから、もうここを離れても問題ないだろう。気分を切り替えて、他の仕事に取り組まなければ。


 アレン殿下には余計な心配をおかけしてしまった。腕はまだ掴まれたままで、私を守ろうとするような殿下の優しさにふっと頬が緩む。こうして使用人のことも気遣えるお心をお持ちなのだから、将来はきっと民を慈しむ素晴らしい王になるだろう。


『殿下、ご心配をおかけいたしました。ですが、私は本当に大丈夫です。私はこのまま持ち場に戻ろうと思います』


 二人で決めた手の合図で意思疎通を図れば、殿下は静かに微笑んで私を見つめてきた。


「モニカ……公爵が言っていたこと、真に受けちゃ駄目だよ。君はこの城で働くべきだ」


 公爵のあの囁きが、殿下にも聞こえていたらしい。何やら意味ありげな言葉だったものの、よく意味がわからない以上、このままこの城で働くつもりでいた。


 それに、ここにはルイス陛下がいらっしゃるのだ。一生叶わない想いでも、それでもおそばでお仕えしたい。


 これからもここでお世話になるつもりです、と手の合図を送ろうとしたところで、アレン殿下に両手を握りしめられてしまう。これでは、合図が送れない。


「言葉が話せないのに、他の職場を探すのは大変だと思うよ。何より城の外は君にとって危なすぎる。理不尽な目にあっても、君は叫び声をあげることもできないのに……。駄目だよ、ここにいなくちゃ」


 焦ったような殿下の声に、再び頬を緩めた。殿下には、意外と心配性な面があるようだ。言葉を話せない私の不自由さを思いやって、こんなふうに言ってくださるなんて。私のような者には、身に余る光栄だった。


 だが、殿下の蒼色の瞳が深く翳っていることに気づいて、はっと息を呑む。


 先ほども同じ翳りを覗かせていたが、その目は嫌でも昔の陛下を思い出させた。陛下はよく、そんな目でレイラさまのことを見ていたものだ。


 殿下は私の手を離すと、懐から金色に光る鍵を取り出した。細やかな装飾が施されていて綺麗だ。


「綺麗でしょう? ……もし君がこの城から出て行ったら、僕は迷わずこの鍵を使うからね」


 甘い夢に酔いしれるような殿下の笑みに、どうしてか皮膚が粟立った。


 やっぱり、この方は陛下の御子息だ。翳りのある笑い方は、まるで陛下の生き写しそのものだった。


 正直、若い頃の陛下にまつわる記憶に関しては、恐怖の方がまさっている。そのせいか、今の殿下の顔もまっすぐに見られなかった。


 殿下の手が、再びするりと私の手に絡んできた。優しく握り込むようで、決して私からは離せないように掴まれている。


 小さく可愛らしかった殿下の手は、いつの間にこんなに大きくなっていたのだろう。今ではもう、陛下の手と大差ないくらいだ。


「僕を優しい王にできるかは、君次第だ、モニカ。レイラ嬢の末路を憐れに思っているのなら……君も、よく考えて行動しなきゃ駄目だよ。わかった?」


 優しく言い含めるような声だったが、これは脅迫なのかもしれないと思った。殿下に握られた手の指先がわずかに震える。


「……わかった?」


 わずかに語気が強められたのを感じ、反射的に大きく頷く。もしかして、怒っているのだろうか?


 恐る恐る顔を上げてみれば、殿下は微笑んでおられた。だが、うまく感情を読み取れない、張り付いたような笑みだ。


「よかった。……ねえ、ちょっとだけ一緒に本を読もうよ。モニカの好きそうな本を見つけたんだ」


 殿下は私の手をとったまま歩き出した。繋いだままの手では、私の意思は伝えられない。


 戸惑いをあらわに微笑めば、彼は蒼色の瞳をすっと細め、やっぱり翳りを滲ませて笑った。

 

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