リーンハルト編
夕暮れが空を焼いて、紫紺色に銀の瞬きが混ざる頃。慣れ親しんだ屋敷の中、外出用のワンピースを纏った彼女が、僕に背を向けたままドアノブへ手を伸ばした。
「……レイラ?」
もうじき夜になろうかというのに、いったいどこへ行くつもりなのだろう。普段ならば食事の準備を二人でしている時刻なのに、何か買い忘れたものでもあったのだろうか。
それならば、今あるものだけで構わないから、外に出る必要なんてない。そう伝えようと思ったのに、彼女は振り返ることもなく言ったのだ。
「リーンハルトさん、私、ここを出ていこうと思うのです」
「……え?」
「もう……もう、うんざりなのです。自由を求めて逃げ出したはずなのに、結局私はあなたに囲われているだけではありませんか」
「レイラ……?」
彼女は長い亜麻色の髪を揺らして、ようやく僕を振り返った。亜麻色の瞳は、忌々しいものを見るようにわずかに細められている。
可憐な顔立ちの彼女がそんな目をしたところで、子猫が威嚇しているような愛らしい振る舞いでしかないのだが、それでも僕には衝撃的だった。彼女はいつだって、溢れんばかりの親しみと愛を、僕に向けてくれていたから。
「もう、嫌なんです。何もかも。一人で、新しい場所を探して生きていきたいのです」
「待ってくれ……どうして急にそんなことを……」
どくどくと、うるさいくらいに心臓が鳴っている。彼女は震える指先をぎゅっと握りしめて、自身を奮い立たせるようにして僕と対峙していた。
「お願いです。私を解放してくださいませんか?」
「解、放……?」
知らないうちに僕は、彼女を捕える鎖のような存在になっていたのだろうか。そんな重荷になっているなんて、少しも気が付かなかった。
でも、こればかりは頷くわけにいかない。僕はすぐさま彼女の前に詰め寄って、細い両肩に手を乗せた。
「レイラ、少し話そう。今、紅茶をいれるから。……頼むよ」
「嫌、今すぐに出ていきたいんです」
彼女は僕と少しも目を合わせたくないとでも言うように、俯き気味に顔を背けて話し合いを拒否した。普段の冷静で穏やかな彼女らしくない。
僕の言葉に少しも耳を貸さない彼女を見ていると、だんだんと焦りが募っていく。このまま、彼女を外に出してしまったら、もう二度と僕の腕の中に戻ってこない気がした。
それだけは、何としてでも避けなければならない。多少強引な手段を使ってでも、まずはここに留まってもらって、そうしてゆっくり話し合わなければ。
幸いにも、手段を選ばなければ彼女をここに繋ぎ留める方法などいくらでもあるのだ。僕は魔術師だし、何なら魔法に頼らなくたって彼女は僕に適わないだろう。彼女の細腕では、女性を押しのけられるかどうかすら怪しい。
そうと決まれば、行動は早かった。僕は半ば無理やり彼女を腕の中に閉じ込め、そのまま横抱きにして抱え込んだ。当然彼女は抵抗したが、ほんの少し魔法を使えば指先すら動かせなくなる。
「嫌! ……離してくださいっ」
「ごめん、ちょっとだけおとなしくしててくれるかな。いい子にしてたら解いてあげるから」
いつものように笑いかけるも、彼女から返ってくるのは怯えたような眼差しだけだ。そんな風に見られると、さすがの僕も少しだけ傷つく。
レイラはひたすらに抗議の声をあげていたが、ひとまず無視することにした。そのまま彼女を階上の二人の寝室に連れ込んで、寝台の上にそっと横たえる。
魔法をかけたせいで身動きが取れないのか、彼女は涙目で睨むように見上げてきた。僕はそれを寝台の縁に腰かけながら受け止める。
「どうして……どうしてこんなひどいことを――」
普段は彼女が紡ぐ言葉ならいつまでも聞いていたいと思うのに、今ばかりは黙っていてほしかった。上半身をかがめて、無理矢理唇で言葉を奪う。
「っ――」
ちょうどいい。ついでに声も奪ってしまおう。今のレイラから紡がれる言葉は何一つとして、聞きたくないから。
「……ごめん、話し合おうって言ったのに、これじゃあどうにもできないね」
唇が触れ合う距離で二人の吐息を溶かし込むように笑いかければ、彼女の潤んだ瞳に明らかな怯えの色が浮かんだ。いつしか部屋の中に差し込んだ銀の月影が、白いシーツに二人の影を映し出す。
その影をなぞるように、彼女の体の傍に手をついて、空いている手でそっと頬を撫でた。彼女が痛がらないように細心の注意を払って涙を拭うも、次から次へと大粒の雫が溢れ出してくる。
彼女は何かを言いたそうに唇を動かしていたが、僕が声を奪ってしまったので当然ながら何の言葉も紡がれない。その健気な振る舞いを愛おしく思いながら、シーツの上に散った彼女の亜麻色の髪を梳いた。
「大丈夫、ちゃんと返してあげるよ。体の自由も声も。……君が、僕の聞きたい言葉を口にしてくれる気になったらね」
ほんのりと色づいた頬を、透明な涙が滑り落ちていく。その様を目に焼き付けながら、僕は彼女に覆いかぶさるようにして、一方的な口付けを繰り返した。
そのたびに、彼女が決してここから出ていけないよう、幾重にも魔法をかけながら。
「――っ」
あまりに衝撃的な光景に、僕は思わず飛び起きるようにして寝台の上で体を起こした。つい先ほどまで眠っていたというのに、息が上がっている。
「っ……僕は、なにを」
皴のよった白いシーツを眺め、何とか息を整える。どうやら先ほどまでの光景が夢だったらしいことを理解するまでに、たっぷり数十秒を要した。
夢にしたって、あまりにひどすぎる。誰より愛しい人に、なぜあんな無体な真似ができたのだろう。
思わず頭を抱え、気分を切り替えるべく水でも飲みに行こうと体を動かしたそのとき、ふと、隣で眠っているはずのレイラがいないことに気が付いた。
寝室の置時計を確認してみるも、まだ早朝と言ってもいい時刻だった。朝食の支度をしてくれる彼女は僕より先に起きることもあるが、それにしたって早すぎる。
「……レイラ?」
彼女がいたであろう場所に手を伸ばすも、すでにシーツは冷え切っていた。まるで最初から、そこに誰もいなかったかのように。
居ても立っても居られず、思わず僕は乱れた着衣のままに寝室を飛び出した。足音を響かせて階下へ降り立ち、彼女の影を探し求める。
「レイラ……?」
キッチンかリビングにいるだろうと思ったのに、彼女の姿はどこにもない。先ほどまで見ていた悪い夢がまるで現実になったかのようだ。
じわじわと絶望に似た黒い感情に心が蝕まれていく。もしも、本当にレイラが出て行ってしまっていたら、僕は――。
「リ、リーンハルトさん!?」
驚いたような声は、浴室につながる廊下から響いてきた。はっとして振り返れば、そこには湯浴みを終えたばかりといった姿のレイラがいた。
「レイラ!」
思わずなりふり構わず彼女に抱き着けば、彼女は驚いた様子を見せつつもそっと抱きしめ返してくれる。状況が把握できていないようだ。
「リーンハルトさん、どうなさいました? そんな恰好で……。もしかして、何か朝から急ぎのご用事でもありましたか?」
「いや……目覚めたら、レイラがいなかったから、つい……」
抱きしめたレイラからは石鹸とハーブのような香りが漂ってきて、だんだんと気分も落ち着いていった。彼女は確かにここにいる。まだ湿っている亜麻色の髪に指を通せば、彼女はくすぐったそうに可憐な笑い声をあげた。
「ふふ、申し訳ありません。実はシャルロッテさんから、お店で新しく出す薬湯を試してみてほしいと頼まれておりまして……なんでも朝に使うと気分がすっきりする、とのことでしたから、少し早めに起きて湯浴みをしていたのです」
「シャルロッテのせいか……」
はあ、と溜息をつきながらレイラの頭に顔を摺り寄せれば、レイラは僕の表情を窺うようにわずかに視線を上げた。
「朝からご心配をおかけしてしまいましたね」
微笑むように告げられた言葉に、僕も頬を緩ませた。僕の過度な心配性を、彼女はよくわかってくれている。
だが、その言葉を告げ終わった後で、レイラはほんの少し拗ねるように唇を尖らせ、不自然に視線をそらした。
「……ですが、昨夜、一応この旨を申し上げようとしたのですよ。でも……リーンハルトさんが甘い言葉ばかり仰って、そのまま私を抱きしめるから……」
それ以上を口にするのは躊躇われたのか、レイラは顔を真っ赤にしてふい、と顔を背けてしまった。その反応が可愛くて、思わず彼女を強く抱きしめる。レイラは腕の中で、頬を染めたままそっと僕に尋ねてきた。
「……リーンハルトさんは、こんな朝早くからどうなさったのですか?」
「悪い夢を見ただけだよ。……君が、この屋敷から出ていこうとする夢。僕に囲われるのはもううんざりだから、自由になりたいって言って」
夢の内容をぽつぽつと口にすれば、レイラはくすくすと小さな笑い声をあげた。
「夢の中の私はおかしなことを言うのですね。この屋敷に帰りたいと願ったのは、他でもない私自身なのに」
よく考えてみればそれもそうだ。今にして思えばあの夢は、粗末な部分が多すぎる。
「……それでも、不安で仕方なかった。夢の中の僕は、君を繋ぎとめるのに必死で結構ひどいこともしたんだよ」
「ひどいこと、ですか?」
レイラが澄み切った瞳でこちらを見上げてくるものだから、ますます罪悪感が膨らんだ。
「……ちょっと君には言えないくらい、ひどいことだよ」
レイラは戸惑うように亜麻色の瞳を揺らして、それでもじっと僕を見ていた。
……ああ、でも。
そっとレイラの頬を撫でて、考えを巡らせてみる。
もしも、レイラの気持ちが変わって、この家から出ていきたいと願うようになったとして、僕はあの夢と同じような酷いことをしないと約束できるだろうか。
思わず自嘲気味な笑みが零れる。指先を彼女の喉元に這わせ、声を奪い、体の自由を奪ったあの背徳的な光景を思い返してみた。
君を泣かせてまで、君を僕の傍に繋ぎとめようとは思わないよ、と言い切れる清廉な人間であれたらよかった。僕はあの王子とまったく違う、君を一切傷つけない、と誓える誠実さがあればよかった。
でも、それはどうやってもできそうにない。僕にも確かに歪みは眠っている。君がそばにいて、この上ない幸福を手にした今でも。
「……いったい何を考えておられるのですか?」
喉元に触れられたのがくすぐったかったのか、レイラはわずかに身をよじって僕の顔を覗き込んできた。その可憐な笑みに、ふっと頬を緩める。
「君はつくづく男運がないと思っていたところだよ」
「シャルロッテさんも似たようなことをおっしゃっていましたが、ひどい言いようです」
「……でも、君だってわかっているんだろう?」
試すように問いかければ、レイラはどことなく悪戯っぽい笑みを見せて、僕の目を射抜いた。その鮮やかさに、今日も心を揺さぶられる。
「ふふ……とにもかくにも、その夢に関してはまったく無用な心配であると言わざるを得ません。もしも出て行くようにと言われても、私は出ていきませんもの」
僕を安心させるように、彼女はそっと抱きしめてくれた。お返しに湿った亜麻色の髪に口づければ、爽やかで甘い香りが立ち上る。どうしようもなく満ち足りた気分だった。
「……新しい薬湯、いいんじゃないかな。とてもいい香りだ」
レイラの髪を指で梳けば、彼女は視線だけをこちらに戻して、やがて小さく笑ってくれた。
「シャルロッテさんにお伝えしておきますね」
ふっと二人の距離が縮まったかと思えば、唇が触れるだけの口付けをして、鼻先がかすめる近さで笑い合う。悪夢の名残は、いつの間にか跡形もなく消えていた。
どちらからともなく腕の力を緩めれば、少し早いですが、朝食にしましょうか、とレイラは長い髪をまとめ始める。まずは僕も着替えなければならない。
温もりが離れても、少しも不安に思わない。いつも通りの、幸福なルウェイン邸の朝が今日もまた、始まろうとしていた。
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