ルイス編

 月影が差し込む高い塔の中、今日も美しい妃が籠の中の鳥と戯れている。亜麻色の髪を揺らして、鈴を転がすような可憐な声で笑う彼女を、僕はどこかぼんやりと眺めていた。


 笑うたびに揺れる彼女の繊細な影すらも克明に見えるのに、甘ったるい蜜の中でもがいているような、なんとももどかしい感覚だ。


「ルイス?」


 僕の存在に気が付いたのか、彼女はこちらに振り返って、そして嬉しそうに歩み寄ってきた。決して駆け寄るような真似はしないが、それでも普段よりほんの少しだけ足取りが早くなっていることに気が付いて、心が満たされる。幼いころから変わらない、君が見せてくれる好意の証だ。


「もう、お仕事はよろしいのですか?」


 淡い菫色のドレスを揺らして、彼女はほんの僅かな期待をのぞかせてこちらを見上げてきた。綺麗な亜麻色の瞳だ。いつでも少しだけ物憂げで、泣いていてもどんな宝石よりも美しい目。


「早くお座りになってください。お茶を用意させましょうか?」


 彼女の小さな手に導かれるようにして、並んで革張りのソファーに座る。大きな窓からは、眩しいほどの銀の月明かりが差し込んでいた。二人の影が溶け合うようにして、ソファーにぴたりと張り付いていく。


「今日は、刺繍を進めたのです。少し難しい図案に挑戦しているのですけれど、とても楽しいですわ」

 

 言葉通り頬を緩めた彼女の指先に何気なく視線を落とせば、何か所か赤い点状の傷があった。刺繍針で怪我をしたのだろうか。


 傷跡にそっと触れてみれば、彼女はそれだけで頬を赤らめた。いつまでも反応が初々しい人だ。


 指先から伝わる彼女の温もりが、どうしてかとても貴重なものに思えてならなかった。もう決して触れられない、無くしてしまった何かに似ている。


「お恥ずかしいですわ、怪我をしてしまって……。痛くはないのですけれど」


 傷を隠すように指先を握り込む彼女の手を、半ば強引に掴む。その拍子に縮まった二人の距離が、月影の塔に奇妙な緊張を生んだ。


「あ、あの……殿下……」


 どうしていいかわからないとでも言うように、睫毛を伏せて亜麻色の瞳を泳がせる彼女を見ているのは楽しかった。そのまましばらく観察して、彼女の頬が赤く染まっていく様を眺める。


 耐えられなくなったのか、彼女は僕の手を振り払って距離をとろうとしたようだが、それを機にゆっくりと彼女を腕の中に閉じ込めた。


 反射的に身をこわばらせていた彼女だが、やがておずおずと僕の肩に頭を預けてくる。絹糸のようになめらかな亜麻色の髪が、彼女の細い肩を滑り落ちた。


 そんなささやかな光景にすら、綺麗だ、と心を揺らがされる。その揺らぎが熱を生んで、ますます君に囚われていく。


 僕の日常は、その繰り返しだ。君が与えた揺らぎと熱に、心そのものが溶かされて、だんだん輪郭すら保てなくなっている。

 

 心が焼け落ちていくこの激痛を、もっと君にも味わわせたかった。君はきっと知らなかったのだろう、最期の最後まで。僕がどれだけ君に焦がれていたかなんて。君は何も知らないままに、あの冷たい氷の床の上で事切れたのだろう。


 それに仄暗い満足感を覚える時点で、僕らがまっとうに幸せになれるはずもなかった。君を幸せにできるはずもなかった。それでもそばに置いておきたかった。どれだけ君が僕を恨もうとも、壊れてしまっても、君が君でなくなっても、君だったものがあればよかった。もう、それでよかった。


「レイラ……」


 名を呼べば、夢の中の彼女は腕の中でわずかに顔を上げ、花の綻ぶような笑みを見せる。目が覚めれば忘れてしまうような脆い夢の中で、君は今夜も僕の思い通りに振舞ってくれる。生きていたころの君より、ずっとずっとやさしい。


「そうだよな……君は別にやさしくはなかった。初めて会ったときからずっと」


 安寧とか平穏とか、そういう安らかなものの対極にいる人だった。一度だって僕に安息をくれたことはない。会うたびに、君が、僕の心を焼いていたから。


 そっと彼女の亜麻色の髪を耳にかければ、彼女はくすぐったそうに瞼を閉じた。睫毛が落とした影が細やかで、いつまでだって見ていられる。


 君の姿かたちが好きなのか、君の穏やかな人柄に惹かれたのか、それすらもうよく思い出せない。ただ君は君であるだけで、僕を揺らがせて歪ませるには充分だったから。


 彼女が瞼を閉じているのをいいことに、ふっくらとした赤い唇にそっと自らの唇を重ね合わせる。柔らかくて甘くて、涙と血の味がする。夢の中だというのなら、夢幻を貫いてくれればいいのに、こういうところだけ妙に現実的だ。


 思わず自嘲気味な笑みを浮かべてわずかに唇を離せば、頬を赤らめた夢の中の君と目が合った。


 予定調和の未来が待っていたとして、果たして君はそんな表情で僕を受け入れてくれただろうか。義務でしかない触れ合いを、あの完璧な、「女神様」とまで呼ばれる微笑みで受け流していたのではないだろうか。


 そう思えば、夢の中の方がましなこともあるのかもしれない。もう一度無理やり口付けて、忘れもしない君の血の味に酔いしれた。


「……もっと傷つけておけばよかった。死後の世界でも、君が僕を忘れられないように」


 吐息が触れ合う距離で笑いながら、細い首に手を伸ばし、そのままソファーへ押し倒す。夢の中の君はやっぱり微笑んでいて、涙の一つも見せてくれない。月影を反射してきらめく、あの透明な涙が見たいのに。


「君は僕のものだ」


 夢の中でまで、儚くなった君の幻影を押し倒し笑う僕は、もうどこかおかしいのだろう。


 でも、不思議と心は満ち足りている。君が生きていたときよりずっと。君は僕の平穏を返してはくれなかったようだが、それでも君が二度と僕の目の前に現れないその事実に安心している。もう、あんな熱に心を焦がされるのはこりごりだ。


 細い首に両手を添えて、加減することなく力を込めた。人形のように張り付いた君の歪んだ微笑みが、静かに崩れていく様を、僕はただ眺めていた。

 

「……君は僕のものだ」


 月影が二人を照らし出す。美しく澄み渡る君の声は、僕には最早聞こえない。

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