コミックス1巻発売記念SS アネモネの檻の中で(※原作既読の方向け)
ローゼ編
「お姉様!」
アシュベリー公爵家の広い庭の中、私は亜麻色の髪を優雅に結い上げたお姉様の後姿に呼びかけた。
お姉様は、ゆったりとした仕草でこちらを振り返る。今日もお姉様が好んで身に着けるのは、上品な菫色のドレスだ。落ち着いた雰囲気のお姉様にとてもよく似合っている。
「ローゼ」
お姉様は、はっとするほど可憐な笑みを浮かべると、お姉様のもとへ駆け寄った私をそっと抱きしめてくれた。甘い香りがする。花壇の近くにいらっしゃるせいだろうけれど、まるでお姉様自身から発せられるように錯覚してしまった。
「またアネモネを見ていたの? 摘んでお部屋に飾ればよろしいのに」
「ふふ、それもいいけれど、こうして一生懸命咲いているのだから、摘んでしまうのも可哀想だわ」
鈴の音のような可憐な声で、お姉様はごく小さな命までも憐れんだ。本当に慈愛に満ちた素晴らしい人だ。ご令嬢たちがお姉様を「女神様」とお呼びすることにも頷ける。
美しく、可憐なだけでなく、マナーも教養も完璧なお姉様は、私だけでなく多くの御令嬢の憧れの的だ。お姉様以上に、王太子妃に相応しい人がいるだろうか。
王太子殿下も素直ではないけれど、お姉様のことをそれはもう愛しておられるようだ。神に祝福されて生まれてきたようなお姉様が、私にとっては自慢だった。
「本当にアネモネが好きなんですね。お姉様の結婚式には、王国中のアネモネを飾らなくちゃ」
「私の好みばかりで飾り付けていたら、殿下に悪いわ」
「いいのですわ、殿下はお姉様に夢中なんだから! お姉様がおねだりすればアネモネどころか、領地でも鉱山でも何でもくれると思います!」
「まあ、それでは私は悪名高い王太子妃になってしまうわ」
冗談めかして笑うお姉様と一緒に、私もお姉様と腕を組みながら一緒に肩を震わせた。姉妹水入らずの幸せな時間だ。
「お姉様、王太子妃になっても時々こうして私と会ってくださいね」
「もちろんよ。あなたが訪ねてきたら、いつでも歓迎するわ。いつか、私と殿下と、あなたとあなたの婚約者の四人で、お茶なんてしてみたいわね」
それは、想像するだけでも素敵な光景だった。殿下はきっと、お姉様と二人きりの時間を邪魔されたと初めは無愛想な顔をされるのだろうけれど、お姉様が楽しそうにお茶をしている姿を見ているうちに、次第に頬を緩めるようになるはずだ。
幸せそうな姉夫婦の姿を思い描けば、自然と私の頬も緩む。お二人の御子は、間違いなく可愛らしいはずだ。どちらに似たって美形には違いないのだから。
「そうだわ! お姉様の子どもと、私の子どもをいつか結婚させましょうね!」
不意に思いついたことを、そのまま口に出してみる。ここが公の場だったらお母様に叱られてしまうところだけれど、お姉様と二人きりの時は何も問題はない。
お姉様は驚いたように亜麻色の瞳を丸くしたが、小さく噴き出すようにふっと笑ってみせた。
「まあ、ずいぶん気が早いのね、ローゼ」
「でも、そうなったらきっと楽しいわ! お姉様!」
身分の面でも何の問題もない。ただの思い付きにしては、悪くない案ではないだろうか。
「ふふ、そうね、もしもそれが叶えばきっと楽しいでしょうね」
聡明なお姉様は権力のバランスだとか、政治的なしがらみだとかを考えているのか、はっきりとした答えは返さなかったが、それでも、私が描いた未来に微笑んでくださった。
「私も、早く素敵な殿方を見つけて頑張らなくちゃ!」
「無理することは無いのよ、ローゼ。この先も、あなたが私の妹であることに何ら変わりはないのだから」
「ありがとう、お姉様」
アネモネの花を囲んで、再び二人でくすくすと笑い合う。こんなささやかな幸せが、この先も続くことをただただ祈った。
そんな中、不意に、晴れ渡っていた空に暗雲が立ち込め始める。そのままぼんやりと空を眺めていると、隣にいたはずのお姉様がいつの間にか少し離れたところに移動していた。
隙なく着こなしていた菫色のドレスは、所々ほつれたり、破れたりしていて、綺麗に結い上げていたはずの亜麻色の髪も乱れている。
「……お姉様?」
ぽつぽつ、と冷たい雨粒が落ちてくる。意味もなくどくどくと動きを早める鼓動の音を聞きながら、私はゆらりとお姉様に近付こうとした。
「……こんな未来もあったはずなのにね、ローゼ」
「え?」
「あなたが、壊したのよ。あなたが、身勝手な嫉妬と欲望のために、私をあんな目に遭わせるから……」
「お姉、様?」
尋常ではない様子のお姉様を前に、私は何か大切なことを忘れているような気がしてならなかった。冷や汗が背筋を伝っていく。
「これで、何もかもあなたの望み通りね、ローゼ」
お姉様は、ゆっくりと顔を上げる。白い額からは、どくどくと鮮やかな血が流れだしていた。
「私の命の代わりに得た、幸福の味は如何だった?」
怖いくらいに端整な微笑みを浮かべるお姉様を前に、私は、死んでしまいそうなほどの息苦しさを感じてその場に崩れ落ちた。
「――っ」
気づけば、私はかびた匂いのする薄暗い部屋の中で目を開けていた。
ここがどこなのかは、実のところよくわからないのだけれども、先ほどまでの光景が夢だったことはぼんやりと理解できる。目の前に広がるこの暗がりよりずっと、生々しくて、鮮やかで、どうしてか胸の奥が痛む夢だった。
ああ、でも、こともあろうに、お姉様の――それも、お姉様と仲睦まじくする夢を見るなんて。
これでは、私がお姉様とあんな風に仲良くしたいと望んでいたみたいじゃない。……冗談じゃないわ。
「……本当、馬鹿みたいね」
そう呟いた私の声は、どこか泣いているようで、自らの声につられて一瞬だけ目頭が熱くなった。
お姉様なんて、大嫌いだ。それに嘘はない。あの善人面を滅茶苦茶に歪ませてやりたいと常に願っていた。
でも、私の態度次第では、あの夢の中のような関係もあり得ないわけではなかったのだ。いや、むしろ、私が幼かったころのお姉様は、あんな風に仲の良い姉妹になるために、我儘な私にもずっと優しくしてくれていた。
でもどうやったってもう、やり直しようがない。私はもう、取り返しのつかないことをしてしまったから。みんなが愛していたあの人は、結果的に私が、死なせてしまったようなものだから。
……死んでほしいわけじゃなかった。それだけは、本当なの、お姉様。
お姉様は既に、この世の人ではない。はっきりしたことを聞いたわけではないけれども、何かが吹っ切れたようなあの王子様の様子を見ていればわかる。
……お姉様は、みんなの心を道連れに眠ってしまわれたのね。
殿下のお心も、お父様とお母様の想いも、私の拗れた親愛も、何もかもを引き連れていなくなってしまった。
「お姉様ったら……なんてひどい意地悪をするのかしら」
笑いながら呟けば、夢の名残を追うように、涙が一粒零れ落ちた。
私は、良い娘にも、良い妹にも、良い妻にも、そして良い母にもなれなかった。いっときは王太子妃なんていう大層な身分を与えられはしたけれど、何者にもなれなかった。それだけは、確信できる。
ああ、苦しい、苦しいわ。この空しさは、もう、どうやったって埋められない。
自業自得だということは分かっている。私にはきっと、泣くことすら許されないのだということも。
「……お姉様は、あの天使様と幸せに暮らしているの?」
鉄格子付きの小さな窓から、星空を見上げる。きっと夢に違いないけれど、お姉様はとっても美しい天使様と一度、この薄汚い地下牢にやってきたのだ。
……あの綺麗な天使様と、この世ではないところで、ようやく笑って暮らせているのかしら。
何気なく、自らの腹部に手を当てる。いつかここに、確かに宿っていたあの小さな命も、お姉様と同じ温かで清らかな場所にいるのだろうか。
そうだといいな、と願うことすらきっと私にはおこがましいのだろう。私に許されることはもう、一度だってあの子に聞かせられなかった子守唄を繰り返すことだけだ。
この歌を歌っているときだけは、ほんの少しだけ心が穏やかになる。死ぬまで逃れようのないこの薄闇の中で、私はただただ歌い続けるのだ。
今夜も、自らの手で殺めた想い人の声を求めてやってくる、あの悲しい王子様のために。
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