リーンハルト編
それは、レイラが幻の王都へやってきて、二か月ほどが経とうかというある夜のことだった。
いつからか示し合わせなくとも、眠る前のひと時は二人で過ごすようになっていて、その夜も僕はレイラと他愛もない話をするべく、暖炉の前のソファーへ足を運んだ。
レイラはこの時間に刺繍に取り組むことも多い。もしも作業をしているのなら一休みしてもらおうと思って紅茶を淹れて来たのだが、ソファーの前に回り込んだところで、はっとして足を止めた。
レイラが、ソファーの背もたれに寄りかかるようにして眠っていたのだ。
そのどこかあどけない姿に、自然と頬が緩む。ティーセットをテーブルに置いてから、そっと床に膝をつくようにして、レイラの傍にしゃがみ込んだ。
すうすう、と小さな寝息を立てる度に上下する胸を見て、どうにも安らかな気分になった。
「君」が生きてここにいるということが、どれだけ素晴らしいことか。どんな言葉でも表せない気がしている。
跪いたまま、そっとレイラの手を取ってみれば、白く細い指先にはところどころに細かな傷があった。シャルロッテの指導の下で、一生懸命に料理や家事に挑戦しているためなのだろう。
レイラが痛い思いをしたのかと思うと、それだけで胸が重苦しくなるのは確かだが、それでも、この傷はレイラがこの街に馴染もうとしている証なのかと思えば、不思議と愛おしく思えた。
包丁で切ったような新しい傷だけはどうにも痛々しくて、勝手とは思いつつも、そっと口付けて治癒魔法をかける。
触れた瞬間に痛みを感じたのか、レイラはぴくりと肩を揺らしたが、どうやら目覚めるほどではなかったようだ。
そっとレイラの隣に移動して、洗い晒した亜麻色の髪をさらさらと撫でてみる。ふわりと甘い香りに包まれて、優しい幸福感に浸った。
そういえば、レイラは髪を編んでいることもあったな、と何気なくそのまま長い亜麻色の髪の束を手に取った。
以前、何気ない会話の中でレイラは三つ編みの構造を教えてくれた。僕がじっと彼女を見つめていたからわざわざ解説してくれたのだ。
もっとも、どちらかと言えば三つ編みを見ていたというよりも、ただレイラの横顔に見惚れていただけだったのだが。
レイラが解説してくれた内容を思い浮かべながら、そっと亜麻色の髪を編んでみる。艶のある髪は、少し力を抜けばすぐにするすると解けてしまってなかなか編みづらい。
……公爵令嬢として王国の王都で暮らしていたときには、この長い髪を結い上げて、王太子や貴族たちに可憐な笑みを振りまいていたのだろうか。
きっとレイラは、どんな会場の中にいたって人の目を引いただろう。王太子の婚約者だったのだから、言い寄られるようなことはなかっただろうが、多くの人の心を揺り動かして止まなかったに違いない。
菫色のドレスを着て、軽やかな足取りでくるくると踊るレイラを想像すると、どうにも眩しくてならないような気がした。僕の知らない、レイラの世界だ。
今まで別々に生きてきたのだから、知らないことがあるのは当たり前だと言うのに、どうにも惜しく思ってしまう。レイラのことならば何でも知りたい。
「……ん」
不意に、レイラが軽く身じろぎしたかと思うと、長い亜麻色の睫毛の隙間から一粒涙が零れ出した。先ほどまでとは打って変わって、あまり安らかな表情ではない。
悪い夢でも見ているのだろうか。編みかけていた三つ編みを手放して、そっとレイラの頬に触れてみる。真珠のような一粒の涙は、僕の指先に触れた途端に跡形もなく壊れた。
「レイラ……」
レイラが見る悪夢にはいくらでも心当たりがある。幼少期からずっと続いていたという過酷な教育、冷淡な両親、王太子と妹の婚約、そのどれもが今も彼女を苦しめているはずだ。
この幻の王都は彼女に悪夢を見せる要因にはなっていないと信じたいが、ひょっとすると僕の存在自体は悪夢になり得るのかもしれないな、と一人自嘲気味な笑みを零した。
レイラが悪夢を見ているのならば、今すぐに消し去ってあげたいが、僕の魔法では何もかも忘れさせかねないだけに躊躇われた。
眠るレイラの肩をそっと抱いて、宥めるように頭を撫でてみる。甘い香りが一層傍に感じられて、幸福感とレイラへの想いに酔いそうだった。
こんなに可憐で愛らしいレイラを冷遇できた彼女の両親の気が知れない。王太子も然りだ。幼いレイラが泣いている姿を想像すれば、どうしようもない怒りが込み上げてきた。
レイラにはもう二度と、傷ついて泣いてほしくない。ここに来るまでにもう充分苦しんで生きて来ただろう。レイラの笑顔を守るためならば、本当に、何だってできてしまいそうな気がした。
亜麻色の髪を指に絡めるように梳いて、レイラが腕の中にいるという安心感に思わず息をついた。たまらずそのままレイラの頭に頬をすり寄せる。
この小さな頭の中にあれだけの知識が詰め込まれていて、レイラの命を維持するあらゆる機能が揃っているのかと思うと、不思議で、尊くて、愛おしくてならない。とくとくと伝わる軽やかな脈も、規則正しく繰り返される呼吸も、レイラが生きている証なのだと思うと、いつまでもこうしていられる気がした。
ただ眠っている姿を見るだけでもこんなに満ち足りた気持ちになるのだ。起きて、笑って、あの可憐な声で語り掛けてくれるとき、僕がどれだけ心を搔き乱されているかなんて、きっと君は知らないんだろう。
レイラの髪を指に絡めたまま軽く持ち上げて、そっと瞼を閉じながら、祈るようにその毛先に口付けを落とす。
——眠る君の横顔がこんなにも美しいのは、僕が、君に——。
「……リーンハルトさん?」
はっと目を開ければ、腕の中でレイラが何度か瞬きをしてこちらを見上げていた。どうやら起きてしまったらしい。
「レイラ……ごめん。起こしちゃったかな」
心当たりばかり思いつくだけに苦笑いを零せば、レイラは僕に抱きしめられている状況に驚いているのか、亜麻色の瞳を揺らがせたのちに、ほんのりと頬を染めた。
「あの……申し訳ありません。ソファーで眠ってしまって……」
「疲れていたんだね。可愛い寝顔が見られて得をした気分だよ」
「も、もう……またそんなことを仰って……」
ますます頬を赤く染めるレイラを宥めるようにそっと髪を梳けば、不意に、レイラの小さな手が僕の腕に添えられ、シャツの生地を握りしめるように力が込められた。
「……レイラ?」
そう言えば、涙を流していた。悪夢の名残に今も苦しめられているのだろうか。
「……悪い夢でも見た?」
レイラを落ち着かせるようにそっと語り掛ければ、亜麻色の瞳がこちらに向けられ、再び彷徨うように揺らいだ。そのちょっとした視線の動きにも見惚れていると、レイラはぽつぽつと夢の内容を語り始めた。
「ええ……とても悪い夢でした。久しぶりに怖かったです」
レイラは視線を伏せたまま、僅かに表情を翳らせる。これは相当悪い夢だったようだ。公爵家のことだろうか。それとも、王太子と妹のことだろうか。
何気なくレイラの髪を梳きながら言葉の続きを待っていると、彼女は予想外の言葉を告げた。
「リーンハルトさんが……どこかへ行ってしまう夢でした。とても寂しくて、怖かった……」
心の底から怯えるような素振りを見せるレイラに、息をするのも忘れて見入っていた。僅かに脈が早まるのを感じる。
「だから、目が覚めて一番初めに見たのがリーンハルトさんで、とっても安心いたしました。……夢で良かったです」
レイラはぱっと可憐な笑みを見せたかと思うと、そのまま瞼を閉じてそっと体重を預けてきた。レイラがこんな行動をするのは珍しい。それだけ夢の名残が後を引いている証なのかもしれない。
……僕がいなくなることを恐れて、涙を流してくれていたなんて。
それはちょっと、嬉しすぎる。レイラが泣いているのは喜ばしくないはずなのに、口元がにやけそうになるのを抑えるので必死だった。
「……僕がレイラを置いてどこかへ行くなんて、絶対に無いよ」
そっとレイラを抱きしめながら告げれば、レイラは腕の中でいくらか柔らかな笑みを見せた。彼女が見せるその安堵すらも愛おしくて、ゆっくりと亜麻色の髪を梳く。
そのままどのくらいそうしていただろう。不意にレイラが、テーブルの上のティーセットに目を留めた後、僅かに慌てた様子でこちらを見上げてきた。
「リーンハルトさん、もしかして、お茶を淹れてくださっていたのですか? 申し訳ありません、私が眠っていたばかりに……きっと冷めてしまいましたわよね」
「気にしないで。飲みたかったら、もう一度淹れ直すよ」
長い時間が経ったわけではないが、かなり温くなってしまっただろう。名残惜しさを感じつつもレイラから手を離して立ち上がれば、彼女もすぐに後ろについてきた。
「私も参ります」
レイラがその気なら断る理由もない。何だって二人でやるほうが楽しいに決まっているのだから。
「……ついでだから、シャルロッテが置いていったクッキーでも出そうか」
「そうですわね……夜ですから、少しだけ」
照れたように笑うレイラに、自然とこちらも頬が緩む。
「たくさん食べて元気でいてくれないと」
「ふふ、これでも公爵家にいたときよりずっと食べられておりますのよ」
他愛もない会話をしながら、二人で並んで歩き出す。
この幸福が永遠に続けばいい。終わりのない時間を呪っていたはずの自分の願いとは思えぬ言葉に、一人苦笑を零してしまうのだった。
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