下巻発売記念SS 眠る君の横顔がこんなにも美しいのは

ルイス編

「……レイラ?」


 それは、突然のことだった。レイラと婚約してから6年が経とうかというある日、月に一度の顔合わせの後、レイラを公爵家へ送るべく走り出した馬車の中で、隣に座っているレイラが不意に僕の肩にもたれかかってきたのだ。


 いつだって僅かにも姿勢を崩さない完璧な淑女であるレイラが、一体どうしたのだろうか。僅かに早まる脈を悟られまいと、普段以上に表情を引き締めながらそっと隣を見やれば、レイラが僕の肩に寄りかかって眠っていた。


 いつも勉強やらレッスンやらに追われているレイラだから、日ごろの疲れが溜まっているのかもしれない。今日は王都の見物で歩き回ったことだし、体力も消耗しているのだろう。


 すうすう、と小さな寝息を立てて眠るレイラは、普段の完璧な態度からは打って変わって、どこかあどけない姿だった。レイラだってまだ15歳の少女だ。それを思えばむしろこの表情の方が自然と言えるのかもしれない。


 6年もの付き合いがあって初めて見る彼女の気の抜けた表情を前に、思わず、ふ、と笑みが零れる。肩に加わる心地よい重みも温もりも、いずれは僕のものになると思えば、どうしようもなく心が満たされるような気がした。


 そもそも、これほど近い距離でレイラの顔を見るのも初めてのことだった。誰より端整な顔立ちをしていることは言うまでも無いのだが、こうして間近で見ると一層彼女の美しさを実感する。


 瞼を縁どる亜麻色の睫毛は思ったよりも長くて、思わず触れてみたくなった。だが、そんなことをすれば流石に起きてしまうだろう。見るだけに留めることにした。


 抜けるように白い肌に、ほんのりと色づいた頬、小さな唇。本当に、憎々しいほど可憐な人だ。


 折れそうなほど細い首筋を辿り、菫色のドレスから覗いた鎖骨に視線を移したところで、思わず視線を背けた。これ以上はまずい、と本能的に悟ってしまったからだ。


 はあ、と我ながら悩まし気な溜息をついて、もう一度レイラの寝顔に視線を戻す。どうやったって視界に入り込む首筋と鎖骨を意識の外に何とか追いやって、平静を保った。


 レイラの着るドレスは、いつもきまって清楚なものばかりだった。もちろん、露出だって最低限だ。


 だが、夜会では他の貴族子息たちもレイラの首筋と鎖骨くらいは視界に収めることが出来るのだと思うと、どうしようもなく苛立ってくる。彼らの視線に晒されるだけで、レイラが穢されるような気がして非常に不快だ。


 レイラが他の人間と会話をするのも気に食わない。男どもはもちろんだが、近頃はレイラが友人らしき令嬢たちと話している光景でさえ苛立つことがあって、自分自身戸惑っていた。


 いつになったら、レイラは僕に平穏をくれるのだろう。いつになったら、レイラを見る度に騒めくこの心は静まるのだろう。


 何となく、そんな日は、来ない気がしていた。レイラと結婚したところで、彼女は王太子妃という立場がある。この先も、これまで以上にあらゆる人間の目に晒されることは明らかだった。


 ……それこそ、彼女を誰の目にも触れない場所に閉じ込めでもしなければ、僕に平穏は訪れないのだろうな。


 叶わないことだと分かっていても、仄暗い想像を巡らせてしまう。彼女を、誰の目も届かない鳥籠の中に閉じ込める夢を。


 もっとも、そんなことをしてレイラに嫌われるのは御免だ。あくまでも想像に留めた話だと自分に言い聞かせながら、肩に加わる心地の良い重みに集中したのだった。

 





 懐かしい、というにはあまりに眩しすぎる記憶が蘇って、思わず溜息をついてしまう。


 たった三年前のことなのに、遠い昔のような気がしてならない。


 あの頃に感じていた温かな感情も、レイラに嫌われたくないという初々しい思いも、あまりに遠くてもう何も思い出せなかった。


 僕とレイラにも、あんなにも優しく温かな時間があったことが、今となっては信じられないくらいだ。


 そう、自嘲気味な笑みを浮かべながら、月影だけが照らし出す仄暗い部屋の中、僕は眠る少女にそっと手を伸ばす。


 首元と手首には、雪のような肌に浮かび上がる赤黒い痣があり、仄暗い独占欲が満たされる気がした。


 泣きながら眠ったのか、彼女の目元には透明な涙が溜まっており、彼女が息をする拍子にぽろぽろと零れ落ちていく。


 その様が美しくて、いつまでも見ていられる気がした。本当に、レイラは泣いていても美しい。いや、あの眩しすぎる可憐な笑みを向けられるよりは、泣いているほうがずっと、彼女に乱された心が静まるような気がした。


 そっとベッドサイドに腰かけて、レイラとの距離を縮める。波打つように広がった亜麻色の髪を一房手に取って、指先で弄んだ。


 ある意味では、レイラをこの塔に捕らえた現状は、長年の夢が叶ったとでもいうべきかもしれない。彼女はもうどこにも行けず、ただ、僕に囚われて生きていくだけなのだから。


「……君が悪いんだ」


 全てはそう、君が逃げ出したからこんなことになったんだ。


 思わず嘲笑を深めながら、そっとレイラの頬をなぞった。


 あの日、君が公爵家から逃げさえしなければ、僕は君と然るべき距離を保って、君は、君に相応しい場所で幸せになれるはずだったのに。そして、僕はその様子を、王太子として、行く行くは国王として見守ることが出来たはずなのに。


 君には義務があった。僕の目の届くところで幸せになる義務が。


 どうあったって君は僕のものなのだから、たとえ結ばれなかったとしても、君は僕の前で幸せにならなければならないのだ。君がどんな話題で笑い、誰と結ばれて、どのような家庭を築くのか、その様を、隠さず僕に見せなければならなかったのに。


 その義務を放り出して、どこの馬の骨とも知れない男と夢幻の中で幸福になるなんて、許せるはずもない。


 だからこれは、当然の末路だ。この悲劇の引き金を引いたのは、間違いなくレイラ自身なのだから。


 指先でレイラの目元の涙を拭えば、彼女は僅かに身じろぎした。その拍子に露わになった首筋に浮かぶ痣が、僕とレイラを結び付ける証のようで、どんな装飾品よりも美しく彼女を彩っている気がした。


「……どんな夢を見ているんだ? レイラ」


 自分でも驚くほどの愉悦の混じった声で、眠りながらも涙を流すレイラに語り掛ける。


 悪い夢でも見ているのだろうか。だとしたらそれは、僕の夢だろうか。


 ぎし、と僅かにベッドを軋ませて、レイラとの距離を詰める。立ち昇る甘い香りに眩暈がしそうだ。


 どうやらレイラは夢の中でまでも、僕に苦しめられる定めらしい。それが本当に憐れで、惨めで、僕の心を満たすには充分だった。


 もっともっと、苦しんでほしい。苦しんで、泣いて、何もわからなくなるまで傷ついて、そうして壊れてしまえば、彼女はどこにも行くことはない。この場所で、死ぬまでただ息をし続けるだけの人形になってくれる。


 もう、それでよかった。彼女が僕を憎もうが恨もうが、どんな夢幻に縋っていようが、どうでもいい。彼女の心だとか尊厳だとかに構っていられる余裕はないのだ。


 もっとも、僕にその余裕を無くさせたのもまたレイラ自身なのだから、やっぱりこの状況を生み出した張本人は、僕というよりレイラであると言うべきではなかろうか。


「君のせいだ、レイラ。最初から、何もかも全部……」


 この先に君を待ち受ける不幸はすべて、あの日、僕のもとから逃げるという安易な決断をした君のせいだ。呪うべきは自分自身であるということを、君には早く分かってもらわなければならない。


 この感情を何と呼ぶべきなのか、僕にはもうわからなかった。憎悪と執着が入り混じった、自分でも制御しきれない真っ黒な感情だ。もうとっくに、限界を超えている。


 癖のない亜麻色の髪をさらさらと弄びながら、レイラに影を落とすように、真っ直ぐに彼女の顔を見下ろす。


——眠る君の横顔がこんなにも美しいのは、君が、僕のものだからだ。


 指先に絡めた亜麻色の髪に、そっと口付ける。


 銀色の月影だけが綺麗な陰鬱な塔の中、君はきっと明日も僕に傷つけられるのだろう。


 その事実に仄暗い満足感を覚えながら、僕はいつまでも、眠るレイラの横顔を目に焼き付けていたのだった。

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