コミカライズ開始記念SS
アネモネの花言葉
16歳のある夏の日のこと、私は、殿下と共に王都の見物にやってきていた。
つい先ほどまで、王都で有名な修道院を散策し、その延長で人々で賑わう街に足を運んでいる形だった。
もちろん、私たちのすぐ傍には護衛騎士もいるし、離れたところでも見守っている護衛がいるので二人きりというわけではないのだが、やはり、殿下とお出かけが出来るというだけで胸が弾んでしまう。
隣に並び立った殿下をちらりと見上げれば、今日も今日とて冷たい横顔をしていた。銀の髪から覗く深い蒼の瞳も、相変わらず揺らぐことはない。
形だけはエスコートするように手が触れ合っているけれども、殿下はこの触れ合いすらも煩わしく思っているのかもしれない。それでも、私にとっては、絹の手袋越しのこの手の温もりが嬉しいことに変わりはなかった。
傍にいる護衛騎士が、時折道案内を兼ねて道に並ぶお店の解説をしてくれる。どの店も生き生きとした活気があって、この国は今日も平和なのだということを実感した。
「あちらの店が、王都では有名な書店になります。質の良い読み物を売ることで評判なのです」
護衛騎士の案内のままに視線を送れば、落ち着いた外装の書店があった。身なりの良い平民らしき人々が出入りしている。護衛騎士の案内通り、流行っている書店のようだった。
時間に余裕があることもあり、私たちは書店を覗いてみることになった。護衛を伴って店内に入るのは少々仰々しいかと思われたが、幸い店内にいるのは使用人を連れた裕福な平民たちばかりだったので、それほど目立った様子はない。せいぜい貴族のお忍び視察くらいに思われているだろう。
屋敷の書斎とはまた違う、新しい本の匂いに思わず頬を緩めた。好きな本を読むような時間はあまりないのだが、本自体は好きだ。
私は並べられた革張りの分厚い本を手に取って、ぱらぱらとめくってみた。どうやらこの国の主な宗教である、ルウェイン教の聖典のようだった。敬虔な信者というわけでもないが、聖歌の文句くらいならば、私も暗記している。
ルウェイン一族の家紋とされる複雑な紋章をそっと指先でなぞって、頬を緩めた。幻の王都に住まうという彼らは、所詮はお伽噺の存在だと分かっているけれど、不思議なことについて想像を巡らせるのは楽しい。
殿下は、やっぱり表情一つ変えずに本の山を眺めていた。優秀な殿下のことだから、それはもうたくさんの本をお読みになっているのだろうけれど、彼はどんな本が好きなのだろう。
そもそも殿下に何かを好むという感情があるのかどうかすら疑わしいのだが、折角二人で出かけているのだ、ここは一つ勇気を出して聞いてみようか。
だが、殿下、と呼びかけようとして、思わず口を噤んだ。屋外ではともかくとして、屋内で殿下とお呼びするのは少々目立ってしまうかもしれない。王太子殿下が街にいらしていると知られれば、ちょっとした騒ぎになりかねないだけに、慌てて言葉を取り繕った。
「……ルイス様は、どのような本をお読みになるのですか?」
笑いかけるように殿下に問いかければ、彼は、僅かに目を見開いて私を見た。彼にしては珍しい反応だ。
ひょっとすると、私がお名前でお呼びしたことに驚かれたのかもしれない。余計な混乱を避けるため、と考えてのことだったけれど、殿下がご不快に思われていたらどうしよう。
「あの……申し訳ありません。普段のようにお呼びすると、周りの方々にご身分が知られてしまうかと思いまして……」
言い訳じみた言葉を呟きながら思わず俯けば、数秒経って、淡々とした返答が降ってくる。
「……謝る必要はない」
冷たい響きさえあるその声音に、そっと顔を上げて彼の表情を窺えば、珍しく二人の視線が絡んだ。滅多にこんなことは無いだけに、何だか緊張してしまう。
だが、それもほんの一時のことで、彼はすぐに私から視線を逸らしてしまった。いつも通りの殿下の横顔をそっと眺めながら、曖昧な笑みを取り繕う。
何とも気まずい間が生まれてしまった。話題を探すように、私は聖典を置いて、並べられていた本の中からある一冊の本を手に取る。
ページごとにいくつもの花が描かれたその本は、作者が花についての独自の解釈や物語を展開させている書物のようだった。繊細に描かれた花々と、美しい言葉選びに、何だか惹かれてしまう。
その中で、アネモネの花について書かれている章があり、思わず目を留めてしまった。一番好きな花なだけに、非常に興味深い。
「ルイス様、見てください。この作者はお花に意味を持たせているようですわ。アネモネの持つ言葉は……」
殿下にも見えるように本を傾けたところで、私も初めてアネモネの花言葉を認識したのだが、失敗だったかという思いが募る。
「……『儚い恋』、『見捨てられた』か」
仮にも婚約者である殿下にこんな意味を持つ花を紹介してしまったのは、やはり失敗だったかもしれない。気まずさを誤魔化すために本を開いたはずなのに、余計に空気を悪くしてしまった気がする。
「……ふふ、アネモネは大好きなのですけれど、この作家はアネモネに随分と切ない意味を持たせたのですね」
ぎこちなく微笑みながら誤魔化せば、店の扉が開閉した拍子に風に煽られてページが一枚捲れてしまう。どうやら花の色によっても言葉が違うらしく、そこには紫色のアネモネについての記述があった。アネモネの中でも紫が一番好きな私としては、やっぱり注意を引かれてしまう。
「……『あなたを信じて待つ』、ね」
殿下には届かないような囁き声でページに記された言葉を呟けば、何だがふっと笑みが零れてしまった。
私は一生、この国で、あの城で、王太子妃として行く行くは王妃として、生きていく定めだと随分前から決まっている。それなのに、今更誰を待つというのだろう。
きっちりと決まりきった未来を思うと、僅かに、本当にほんの少しだけ、閉塞感のようなものを覚えるのは確かだった。殿下のお隣に立てることは嬉しいけれど、それに伴う責務に少しも不安を感じないと言えば、きっと嘘になる。
なんて、殿下には口が裂けても言えそうにない想いを飲み込みながら、私は本を閉じて元の場所に戻した。興味深い本だから買うつもりでいたけれど、アネモネの持つ言葉を知ってしまった今、どことなく目を逸らしたいような気がしてしまったのだ。
「ふふ、ルイス様にお聞かせするには少々拙いお話でしたね。どうか忘れてください。所詮は、お伽噺と同じ、幻想に変わりない言葉ですもの」
殿下は、何も言わずに私を見ていた。その蒼色の視線に隠された感情がどのようなものなのか、やっぱり今日も私は知ることが出来ない。きっとこの先も、私は彼の心に触れることすら許されないままに、時ばかりを重ねていくのだろう。
でも、それでも私は恵まれている。政略で結ばれた縁とはいえ、こうして慕わしく思える相手の隣に立つことが出来るのだから。
間もなくして、私たちは書店を後にした。半時間ほど居座っていただけだと思うのだが、気まずさのせいか随分長いこと滞在していたような気がしてしまう。
そうして私は、月に一度限りの殿下との顔合わせを淡々と終えたのだった。
◇ ◇ ◇
「兄さん! この書店に寄っていきましょうよ! グレーテに読み聞かせてあげられるような物語を探したいのよ」
久しぶりに王国の王都に降りて、魔法具の材料などをそろえていた僕とシャルロッテだったが、大体の目的を果たした後で、シャルロッテがそんな我儘を口にしだした。
「……好きにするといいよ。僕は先に帰っているから」
「こんな街中に、レディを一人置いていくっていうの?」
「レディ……?」
思わず、僕と同じ紫紺色の瞳で睨み上げてくるシャルロッテをまじまじと見つめてしまう。見た目は確かに淑女なのかもしれないが、彼女の黒歴史を思うと、とてもじゃないがレディだなんて言えない気がしていた。
「何か文句でもある?」
ずい、と詰め寄ってくるシャルロッテに、これは従う他なさそうだ、と心の中で溜息をついた。妹を相手に強く出られない自分もなかなか情けないが、反抗する気も起きないのだ。
「分かった分かった、どうぞごゆっくり、レディ・シャルロッテ」
多少投げやりに告げたのを合図に、そのままシャルロッテに引きずられるようにして書店の中に足を踏み入れる。
上質な書物を揃えることで有名なこの書店は、夕方になっても随分と賑わっている。シャルロッテが子供向けの物語を探している間、僕も僕で適当に店内を見て回った。
本自体は特別嫌いなわけではない。いい暇つぶしになるし、僕らにとっては心強い味方のようなものだ。
この機会に何冊か見繕っていくのもいいかもしれない、とぱらぱらと目についた本を捲った。分厚い革表紙のルウェイン教の聖典は、普段はなかなか目にしないだけに興味深かった。少しの間、聖歌の文句や教えに目を通してしまう。王国の人間は、随分と面白いことを考えているらしい。
やがてその隣に置いてあった、いくつもの花が描かれた本が目に入った。細やかに描かれた花と、それに付随した解釈が記されたその本を、何気なく手に取ってみる。
一通りの花の名前は知っているが、白百合を除いて特に執着のある花はない。だが、そんな中でも、たまたま開いたページに描かれていたアネモネの花が目に飛び込んできた。
小さくて可憐な花だ。指先でそっとアネモネの絵をなぞり、その横に記された注釈に目を通す。
「……『あなたを信じて待つ』か」
僕はもうどれくらいの間、「彼女」を待っているだろう。
ひょっとすると、「彼女」も僕を待っていてくれているだろうか。
そこまで考えて、思わず自嘲気味な笑みが零れてしまった。
「あなたを信じて待つ」だなんて、随分簡単に言ってくれたものだ。「運命」が動き出す日を夢見て、切望して、希って、ただただじっと待ち続けるのが、どれだけ辛いことか。
「あら、兄さん、その本何だか素敵ね。買うの?」
ぼんやりと物思いに耽っていると、何冊か本を手にしたシャルロッテが手元を覗き込んできた。
「ああ……うん、そうしようかな」
どんなに拙い内容でも、暇つぶしくらいにはなるかもしれない。
繊細な装丁をそっと撫でれば、不思議と温かいような気がしてしまう。この本に残る誰かの気配が、そう思わせるのだろうか。
僕の手から何冊かの本を回収したかと思うと、シャルロッテはさっさと会計を済ませに行ってしまった。普段からグレーテを抱き上げているせいか、分厚い書物を数冊抱えたところで何ともないらしい。
いつの間にか強くなった妹の後姿を眺めながら、小さく溜息をついた。すっかり橙色に染まった光が、少し開いた扉の隙間から差し込んでいる。
くるりと体の向きを変えて、夕暮れの光をぼんやりと眺めてみる。
橙色の光の中には、恋人同士と思わしき男女や、幸せそうに笑う家族連れが行き交っていた。どうしてか、その平穏な光景が眩しくて仕方がないような気がしてしまう。
思わず視線を伏せて、どことなく感傷的な気分に浸っていると、紙袋を抱えたシャルロッテが戻って来た。何気なく彼女から紙袋を受け取れば、シャルロッテは顔を覗き込むような調子でずい、と距離を詰めてくる。
「何でそんな寂しそうな顔してるのよ」
そのままシャルロッテの指が僕の頬をつねる。結構な力の強さだ。加減というものを知らないらしい。
「そんな顔してた?」
「してたわよ! ……今夜は一緒にご飯食べましょ! ラルフも兄さんのこと気にしてたもの。ちゃんと食べてるのかって」
「別に多少食べなくたって……」
「兄さんは一人にしておくと、すぐそういうこと言うんだから!」
そういうお前だって一時期は殆ど食事を口にしていなかったくせに、という反論を飲み込みながら、苦い顔でシャルロッテを見下ろす。
彼女ははあ、と大袈裟な溜息をついたかと思うと、橙色の光を見つめて、ぽつりと呟いた。
「……早く、兄さんと一緒にご飯を食べてくれるような、素敵な『運命の人』が見つかるといいわね」
それは、遠回しなシャルロッテなりの励ましだったのかもしれない。
こういうところで視線を逸らすのは、認めたくないが僕とそっくりだ。何だか気の抜けた笑みが浮かんでしまう。
「……生憎、今夜はもう見つかりそうにもないから、離れの方へお邪魔しようかな。ラルフ君も一日中グレーテの世話をして、疲れているだろうし、僕に出来ることがあれば手伝うよ」
「ええ! 是非そうしてちょうだい! あ、もちろん、料理には手を出さないでね? 兄さんの料理センスが壊滅的なことは、みんな知ってることなんだから!」
ぱっと表情を明るくしたシャルロッテは、僕の手を引くようにして書店から飛び出す。散々な言われようだが、やっぱり今日も憎み切れない。
橙色に染まった空の端では、夕日が沈みかけている頃だった。幸せそうに笑う人々の、長く伸びた影を眺めながら、誰ともなしにふっと微笑む。
その二年後、ある陰鬱な雨の日に、運命が動き出すことになるなんて、この時の僕はまだ知らなかったのだった。
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