リーンハルト編
公爵家を出て、幻の王都のリーンハルトさんのお屋敷に身を寄せてから2か月が経とうかというある夜、入浴を終えた私は、リーンハルトさんと共によく過ごす、暖炉のある部屋に足を踏み入れていた。
このところの私たちは、特に示し合わせずとも、眠る前のひと時をこの部屋で過ごすことが多かった。私は刺繍をして、リーンハルトさんはお店に出す魔法具の最終調整をする、という具合に各々の作業をすることもあるが、二人で一冊の本を読んだり、ハーブティーをいただきながら他愛もない会話に花を咲かせたりすることの方が多かった。
今夜は新しい香油が手に入ったので、その香りを確認したり、髪に馴染ませて手触りを確認したりしていたせいで、いつもより少し遅れてしまった。
そのせいか、いつだって私が来るのを分かっていたかのように待っていてくださるリーンハルトさんが、今夜に限ってソファーにもたれかかったまま動かなかった。
もしや、と思い回り込んでお顔を確認してみれば、とても穏やかな表情で眠っておられる。
リーンハルトさんも入浴をお済ませになったのだろう。艶のある黒髪は少し乱れていて、薄手の白いシャツをまとったそのお姿は、色気のある装いと形容せざるを得ない。
だが、安心しきったような寝顔はどう見たって可愛らしくて、惚れ惚れするほど整ったそのお顔を見ているだけで、愛しさが募るような気がした。思わず、感嘆の溜息が零れる。
いつものようにリーンハルトさんのすぐ隣に腰を下ろして、より近くで彼の寝顔を観察してみる。夕暮れの終わりを思わせる紫紺の瞳が見えないのは寂しいような気がしたが、普段は気づけない彼の繊細な美しさを目の当たりにした。
まず、思わず嫉妬するほどに睫毛が長い。左目の下の黒子にはいつも目を引かれるものだが、眠っていても、彼独特のどこか可愛らしい雰囲気を引き立てていた。
男性に、それも年上の殿方に「可愛い」なんて失礼だと分かっている。でも、そう思わずにはいられないくらい、リーンハルトさんは可愛らしいのだ。その癖、時には壮絶な色気も醸し出すから、ずるい、と思わざるを得ない。
思わず彼の頬に指先で触れてみる。温かい。その温もりすら愛おしく思ってしまう恋の熱は、私には怖いくらいだった。
出会ったときは、私が彼にこんな気持ちを抱くようになるなんて思ってもみなかった。思えば、あの出会いは衝撃と呼ぶにふさわしく、今も思い出す度、恥ずかしいような、困ってしまうような気持ちになるのだが、日に日にその戸惑いに幸せの色が帯びていくのを感じていた。
リーンハルトさんは、とても優しくて誠実なお方だ。彼の話はどれも新鮮で、私の知らない世界ばかり見せてくださる。
彼と一緒にいるのは、ただただ楽しかった。常に笑顔の絶えない日々だ。
その想いに、彼に恋をする気持ちが混ざり始めたのはいつからだろう。
私を慈しむように見つめる紫紺の瞳に、心地よい声に、優しい香りに、いつからか私は果てのない安心感と甘いときめきを覚えるようになっていた。それに気づいてしまえば、おのずとこの恋心も輪郭を得るというものだ。
「リーンハルトさん」
そっと、彼の名前を呼んでみる。当然ながら返事はない。
彼の頬に触れた指先を、シャツの襟から覗く首元に滑らせた。私とは全然違う、男性の首だ。
あの心地の良い声で、私の名前を呼んでほしいような気がしたが、起こすのは忍びない。それに、リーンハルトさんの寝顔を見られる機会というのも貴重であるような気がして、この穏やかなひと時を終わらせるのを躊躇ってしまう。
そのまましばらくリーンハルトさんの寝顔を堪能していると、不意に彼は軽く身じろぎをし、一粒の涙を零した。
「……っ……置いて、行かないでくれ……」
目覚めた様子ではない。どうやら寝言のようだったが、ひどく切なげなその声に、自然と私の胸も痛んだ。
だが、その痛みは、彼の苦しみに共感する気持ちだけに由来するものではないのだと、私は分かっていた。彼が夢の中で求めるその人は、私か、それとも――。
彼が零した一粒の涙をそっと指先で拭いながら、突如として胸に湧き起こった仄暗い疑念と嫉妬の感情に軽く視線を伏せる。彼はあんなにも私に優しくしてくれるのに、この現状に満足できない自分がひどく醜く思えてならなかった。
私とリーンハルトさんの関係もまた、ただ慈しみ合うだけのものではない。彼には、私に明かしていない大切な秘密がある。その秘密の分だけ、未だに彼との間に壁を感じてしまうのは、ある意味自然なことだろう。
この壁を越えたいと願うならば、私から踏み出すべきだと思うのに、なかなか決心がつかない。臆病な自分が嫌になるが、自分でも制御できないほどの恋の熱を前に、心は言うことを聞いてくれないのだ。
言い訳めいたことを考えて、もう一度リーンハルトさんの寝顔を見つめる。未だ悪夢を見ているのか、先ほどのように安らかなお顔ではなかった。
彼が苦しんだり痛い思いをするのは耐えられないが、今ばかりは、その悪夢の主が私であればいいのに、と願ってしまった。
恋の熱は、多かれ少なかれ仄暗い感情を呼び起こすものらしい。こんな思考が私の中に眠っていたことも、リーンハルトさんに出会って初めて知った。
「……私は、ここにおりますわ、リーンハルトさん」
囁くような声で、そっと彼に語り掛ける。この言葉が、彼にとって救いになってくれたのかは分からないが、いくらか穏やかな表情になった。
長い睫毛の間から零れ落ちた涙の名残をもう一度指先で拭って、改めてリーンハルトさんを見つめた。
——眠るあなたの横顔がこんなにも美しいのは、きっと、私があなたに恋をしているからだ。
どう頑張ったって彼には言えそうにない言葉を胸の奥に仕舞い込んで、ふっと微笑みを零した。
朝まで彼をソファーで眠らせるわけにもいかない。もう少しだけ待って、それでも目を覚まさなかったら、こちらから揺り起こそう。
そう決意した私は、リーンハルトさんを起こすまでのわずかな時間、再び彼の寝顔に見入っていたのだった。
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