上巻発売記念SS 眠るあなたの横顔がこんなにも美しいのは

ルイス編

「失礼いたします」


 15歳の初夏、良く晴れ渡ったある日、婚約者のルイス王太子殿下と共に修道院の見物を終えた私は、王城のある一室の扉をくぐった。このあと、殿下と共にお茶をいただく予定になっているのだ。


 だいたい月に一度の殿下とのデートは、今日も今日とて、とても穏やかなものだった。


 デートの日は、普段は憂鬱な身支度すらも楽しく思える。15歳の誕生日に殿下から頂いた、アネモネの花を模った髪飾りをつけて、普段よりずっと気合を入れてお化粧もした。


 殿下は気づいてくださらなかったかもしれないけれど、それでも、殿下のお隣を歩くだけで、不思議と胸が高鳴るような気がしたものだ。


 もっとも、そう思っているのは私だけで、殿下は表情一つ変えずに、退屈そうになさっていたのだけれども。


 だがそれも、今に始まった話ではない。9歳の時に婚約してから6年間、殿下はずっとこんな調子だからもう慣れてしまった。


 殿下にとってはきっと、私と過ごすこの一日は、月に一度とはいえ煩わしくて仕方がないのだろう。お忙しい殿下だから、微塵も興味のない私と会うくらいならば、ゆっくりお身体を休めたいとお考えになっていても不思議はない。


 それでも、殿下は決して私と会う約束を破ったりはしない。必要な場面では、きちんとエスコートもしてくださる。どれだけ私個人に興味がなかろうが、この婚約は王家とアシュベリー公爵家の間で交わされた契約のようなものなのだから、聡明な殿下は、それを無下にするよう真似は決してなさらないのだ。 


 貴族として当然と言えばそうなのかもしれないが、殿下のその真面目さが、誠実さが、私は好きだった。


 何より、私に無関心とはいえ、理不尽に私を非難したりしない殿下の存在は、私にとって新鮮ですらあった。


 そう、私からしてみれば、両親や妹と過ごすよりも、殿下のお隣の方がずっと居心地が良かったのだ。


 傍から見れば、アルタイル王国のアシュベリー公爵家の長女として生まれた私は、何不自由ない生活を送る幸福な少女に見えているのかもしれない。


 実際、その恩恵を受けて今まで生きてきたのだから、それを完全に否定する気はないが、精神面では少しも幸せではなかった。


 両親は、私よりも私の一つ年下の妹、ローゼを溺愛している。白金の髪に空色の瞳を持つローゼは、王国でも一、二を争うほどの絶世の美少女で、立ち居振る舞いもとても愛らしい。彼女がその場にいるだけで、部屋がぱっと明るくなるような、とても華やかな妹だった。


 対して私は、お父様似の亜麻色の髪と瞳を持つ、地味な令嬢だった。いくら友人や社交界で出会う人々から美しいと褒められようとも、華やかなローゼの足元には到底及ばないことはよく分かっていた。


 お父様とお母様が、ローゼを溺愛するのもある意味自然なことなのかもしれない。ローゼがもう少し真面目にお勉強をする子だったら、きっと王太子殿下の婚約者には、私ではなくローゼを推薦していたのだろう。その方が彼らにとって、望ましい未来であったはずだ。


「レイラ様」


 王城に務める使用人に案内されるままに、殿下との待ち合わせの応接間まで歩みを進めると、お茶を用意していたらしいメイドが駆けつけてくる。何度か顔を合わせたことのある、見知ったメイドだった。


「お茶の準備が整っております。殿下も既にいらっしゃっているのですが……」


 メイドが困ったようにちらりと視線を送った先には、ソファーに座る銀髪の青年の姿があった。後姿だけでも判断するには充分だ。紛れもなく、ルイス王太子殿下だった。


「……何か問題でもありましたか?」


 本当ならば、殿下と共に王城に戻って来たその足でお茶をする予定だったのだが、殿下にちょっとしたご用事が出来たらしく、私は王城の庭を散歩して時間を潰してから、指定されたこの部屋にやって来た次第なのだ。


 もしかすると、そのご用事とやらが大変な急用だったりしたのかもしれない。殿下とお茶が出来ないのでは、と残念に思う気持ちが湧き起こってきたが、私が邪魔になるようであれば長居をする気はなかった。


「いえ……問題というよりは、その、殿下はお休みになってしまったようでして……」


「殿下が?」


 それは、珍しいこともあるものだ。人前では滅多に隙を見せない殿下が、ソファーで眠ってしまうなんて。


「どうなさいますか? もしもお帰りになるようでしたら、私から殿下にはお伝えしておきます」


 メイドの問いかけに、私はもう一度ちらりと殿下の後姿を見やり、僅かに頭を悩ませる。大きな窓から差し込む光は、午後の日差し独特の柔らかさを帯びていて、とても美しかった。


 陽の光に輝く銀髪を見て、思わず頬を緩ませた私は、ようやく答えを口にした。


「そうですね、では――」




 角砂糖を一つだけ入れた紅茶を一口口に含んで、ゆっくりと飲み下す。鼻を抜ける心地よい紅茶の香りに、思わず瞼を閉じて至福のひと時を味わった。


 再びゆっくりと目を開けば、傾き始めた午後の日差しが飛び込んで来る。


 ソファーの右端に腰かけている私だったが、左端には、肘掛けに肘をついたまま、おやすみになられる殿下のお姿があった。私たちの間には二人分くらいの距離が空いていて、婚約者としてはよそよそしいくらいだ。


 私にお茶を運んできてくれたメイドは、部屋の隅で慎ましく控えている。私がティーカップを置く音しか響かない静かなお茶会を、彼女だけが見守ってくれていた。


 私がお茶をいただくと答えるなり、メイドは殿下を起こそうとしたが、そっと止めておいた。普段からご多忙な身の上であることに加えて、今日は私と街へ出掛けたりしたから余計に疲れているのだろう。無理やり起こすのは忍びなかった。


 それならば帰ればいいのだが、一杯の紅茶をいただく時間だけでも、殿下のお隣で過ごしたかった。これは完全に私の我儘だ。


 瞼を閉じたままの殿下にそっと視線を送ってみる。当然ながら、殿下の寝顔など初めて見た。


 冷たささえ感じるほど整った顔立ちのせいか、彼の性格を知っているせいなのか分からないが、殿下は眠っていても隙がないように見える。


 普段は恐れ多くて、直接殿下の目を見つめることは殆どなかったため気づかなかったが、睫毛までもが髪と同じ銀色だ。絶世の美女と名高い王妃様によく似たその顔立ちは、眠っていても溜息が出るほどに美しかった。


 普通ならば、眠る殿下のお隣に座ることなんて許されないだろう。私がこうして殿下の寝顔を拝見できるのは、私が彼の婚約者であるからこその特権なのかもしれない。


 公爵家からの迎えが来る時間になったら帰るつもりでいるが、それまではこうして一方的にでも殿下のお顔を眺めていたかった。早く帰ったところで、ローゼを溺愛するお母様とお父様の姿を見ることになるだけだ。


 冷たくても、私への興味が微塵も無くても、殿下は私にとって特別なお方だ。身を焦がすような恋の熱はなくても、私は殿下を心から好ましく思っていた。


 友人を名乗るのはあまりにもおこがましい上に、婚約者という関係である以上、どこか違和感があると言わざるを得ないけれど、殿下を慕わしく思っている気持ちに嘘はない。


 政略結婚で巡り合った関係で、このような温かい気持ちを知ることが出来たのだから、私は幸福だと言うべきだろう。これ以上を望むのは、きっと我儘だ。


「そうよ、我儘だわ……」


 ティーカップの中で揺らめく紅茶を眺めて、何だか弱々しい笑みを浮かべてしまう。紅茶の残りはもう半分ほどといったところだろうか。


「愛される、とは、一体どれだけ幸せな心地なのかしら……」


 両親の愛はローゼが独占しているし、殿下の心には、そもそも愛なんていう熱のこもった感情があるかどうかすらも分からない。


 私が殿下の一番ではないことは明白で、それはとっくに受け入れているつもりだけれども、全くの空しさがないかと言われれば別だ。見て見ぬ振りをしているけれど、愛されない空しさはいつでも私の心の隅に居座っている。


 ローゼが両親から目に入れても痛くないほど溺愛されている姿を見たり、殿方から熱烈な言葉で口説かれていたりするのを見ると、愛される人間とそうではない人間は生まれつき決まっているかのような錯覚に陥ってしまうことすらある。


 当然ながら私は後者で、恐らくは死ぬまでずっと、この空しさと付き合っていくのだろうと予感していた。


 それを悪いだけのことだとは思わないけれど、時折物思いに耽ってしまう要因になっていることは確かだった。


 小さく息をつき、もう一度、殿下の寝顔を見つめる。


 彼は、この国の未来を担う、特別な人。彼が抱えているものを思えば、私の物思いなんて取るに足らないものだ。


 たとえ、彼の一番になれなくても、彼の愛を得られなくても、私は婚約者として彼を支えて行こう。殿下は私の助けなんて求めていないだろうけれど、私に出来ることは、それくらいしかないのだ。出来ることを精一杯やるしかない。


 眠る殿下の横顔を眺めていると、様々な感情が呼び起こされる。心地よい感情ばかりではないけれど、それでも私は、この方の隣で生きて行く定めなのだ。


「……どんな夢をご覧になっておられますか、殿下」


 囁くような小さな声で、瞼を閉じたままの殿下に語り掛ける。ぴくりとも動かないから、当然ながら私の声は届いていないのだろう。


 彼と、夢の内容を語り合うような気さくな関係になれるとは思っていない。それこそ、夢のまた夢もいいところだ。


 でも、おこがましくも一つだけ願うならば――。


「……どうか、いつか殿下の夢の中に、私が現れますように」


 忘れてしまう夢の中でもいい。それでもいいから、殿下の心の隅に、私の居場所が出来たらどんなにいいだろう。静まり返った水面のような彼の心に、たった一滴の水滴を落とすほどでもいいから、私の存在に、彼が心を揺り動かしてくれたら。


 もしもそれが叶うと言うならば、それだけで、充分な気がした。愛されなくても、私の存在を認めてくれたという、その充足感だけで、公爵令嬢として、王太子妃として、ゆくゆくは王妃としてやっていけるような気がしたのだ。


 初恋と呼ぶには、随分拙い感情だ。だが、芽吹きつつあるこの淡い想いも、時を重ねれば、いつかは愛に変わるだろうか。


 改めて、殿下のお顔を眺めてみる。こんなにまじまじとお顔を拝見できるのは、後にも先にも今くらいなものかもしれない。


 ——眠るあなたの横顔がこんなにも美しいのは、きっと、私があなたに憧れているからだ。


 らしくもない告白めいた言葉を脳裏に浮かべて、すぐに掻き消す。


 冷めてしまった残りのお茶を飲み干して、そっとティーカップを置いた。置時計を確認すれば、もうすぐ迎えが来る時間だった。


 公爵家に帰るこの瞬間はいつだって気が重いが、仕方がない。私はゆっくりとソファーから立ち上がると、眠る殿下にそっと礼をした。


「今日は大変楽しい一日でした。ありがとうございます、殿下」


 届かないと分かっている挨拶を一通り終えて、部屋の隅に控えるメイドに目配せをする。彼女がすぐに私を案内してくれるような素振りを見せた。


 メイドに連れられるがまま部屋を後にしようとした私は、最後にもう一度だけ殿下の後姿を見つめた。


 そう長い時間を過ごしたわけではないが、窓から差し込む光には夕焼けの色が混じり始めている。殿下の銀色の髪が、夕暮れの光の中で輝いて見えた。


 その銀色と深い蒼がいつか、私の愛しさの象徴となりますように。


 芽吹きつつある淡い想いに期待を寄せるように、誰ともなしに祈った私は、今度こそ殿下の御前から姿を消したのだった。

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