番外編7 忌み子と黒猫

全編

 俺は、生まれて来てはいけなかった。


 ただ一つ確かなことがあるとすれば、それに尽きると大人たちは笑ったのだ。





 

 遠い昔、病床に伏した母さんは、やせ細った指で錆びたロケットの肖像画を指してこう言った。


 「この方が、お前の本当のお母様なのよ」と。


 母さんが指さしたロケットの中には、白金の髪に空色の瞳を持つ、それは美しい姫君が描かれていた。茶髪に鳶色の瞳を持つ俺からすれば、とてもじゃないが信じられるような話ではなかったが、母さんは俺の頭を撫でて笑った。


「キース、お前の目鼻立ちは、この方に似ていてとても綺麗だわ。詳しいことは何も言えないのだけれど、どうか本当のお母様を忘れずにね」


 それだけを言い残して、母さんは永遠の眠りについた。隣国の王城でメイドとして勤めていたという華々しい経歴を持つ母さんだったが、最期は森の奥の小屋で静かに息を引き取るという何とも寂しいものだった。


 ろくな装飾品も身に着けていなかった母さんの形見は、その錆びたロケットしかなかったので、仕方なく俺はそれを形見として貰い受けることにした。俺にとっての母親と呼ぶべき人は、たとえ血が繋がってなかったとしても母さんだけなのだから、こんなロケットの中のお姫様になんて興味は無いのだが、それでも母さんの形見として大切に持ち続けていた。

 

 それから間もなくして、母さんの兄だと名乗る大柄な男が小屋を引き取りに来た。男は、大した金目のものもない小屋の中を荒らして、あっという間に母さんの私物をすっかり売り払って酒に変えてしまった。錆びたロケットも、その際に目をつけられて男に没収されてしまい、母さんの形見と呼べるものは結局何も残らなかった。


「どういう事情を抱えているのか知らないが、こんなつまらん子どもを押し付けられて妹も不憫だったなあ」


 酒に酔った男は俺を殴りながら、下品な声でけたけたと笑っていた。母さんの本当の子どもではない俺は、男にとっては愛情を注ぐ対象ではなかったらしい。毎日ゴミのように扱われ、終いには母さんを不幸にした忌み子だと罵られ、些細なことで殴られ、蹴り飛ばされた。もちろん、治療なんて受けられるはずもないから、気づけば折れていたらしい左手の小指は、妙な方向に曲がったままくっついてしまった。


 目元がいつも腫れているせいか、霞んだ視界は妙に狭くて、俺の世界は薄暗かった。いつになったらこのつまらない人生は終わるのだろう、と終末に焦がれる気持ちすら次第に薄れ、感情なんてものは最早正常に機能していなかったように思う。


 食事は三日に一度与えられれば良い方で、川の水で喉の渇きを潤した。身に着けるものはいつもぼろ布ばかりで、靴なんて物は履いたことも無い。そんな毎日が8歳になるまで続いた。


 そんな地獄のような日々ががらりと変わったのは、金に困った男が俺を売るために街へ下りた時のことだった。「お前は見目だけはいいから高く売れるはずだ」と酒臭い息でにやりと笑われたときには、ああ、ろくなことにならないのだろうな、と予感したが、結果的に男のこの行動が、俺の人生を大きく変えることになる。


 俺は、王国アルタイルから来たという身なりの良い老夫婦に買われた。各国の本の翻訳を生業にしているというその夫婦は、こうして恵まれない異国の子どもを引き取っては教育を受けさせ、成長した暁には本の翻訳者という仕事まで斡旋してくれる、慈善事業もいいところの活動をしているらしい。


 泥水をすすっていた俺が、異国の文字に触れ、まともな服を着て、三食欠かさず食べられるような環境で過ごすことが出来るなんて。夢にも思わなかったことだ。俺の人生は一気に充実したものになったのだ。


 元居た隣国の言葉と、王国アルタイルの言葉の両方を使いこなせるようになった俺は、翻訳者として重宝された。残念ながらあまり高貴な言葉に触れていなかったので、翻訳するのは専ら庶民向けの大衆小説ばかりだったが、それでも言葉の選び方が自然だ、となかなか高評価を受けているように思う。老夫婦は俺の頭を撫でながら褒めてくれた。まるで本当の孫か何かのように扱ってくれる老夫婦の優しさに、涙が零れそうになったことは内緒だ。




「キース、悪いけどこの本を届けた帰りに朝食用の果物を買ってきてくれないかい。お前の好きなものを選んでいいからね」


「わかりました」


 養い親代わりの老婦人から本と果物代を受け取り、俺は書店を飛び出した。足の悪い老夫婦の代わりに買い物に行くのはよくあることだ。週に二、三度、書店の掃除や家事を行うために使用人がやってくるが、いないときは俺の仕事なのだ。


 意味もなく殴られていた日々に比べれば、こんなちょっとした仕事でも嬉しく感じてしまう。あの男の下で暮らし続けていたら、この年になるまで生きていられなかっただろう。


 お得意先の小さな家に本を届ければ、焼き立てだというクッキーを一包み貰ってしまった。15歳になった俺だが、幼少期の栄養状態が悪かったせいか、同年代の少年たちより幼く見られることが多く、こうして菓子を貰い受けることも珍しくない。まあ、ある意味得していると前向きに考えて焼き立てのクッキーを頬張った。


 季節は冬、ちらちらと白い雪が舞っていた。老夫婦が仕立ててくれた暖かな外套のポケットに手を突っ込みながら、言われた通りに朝食用の果物を買いそろえる。書店には、俺の他にも翻訳を生業にする先輩方が住んでいるから、老夫婦だけでなく彼らの好みも計算して購入しなければならない。だが、季節が悪いのか、どの果物も高騰していて、つい旬の林檎ばかり買ってしまった。


 安いが、この時期のリンゴは美味い。帰ったら早速剥いて食べよう。林檎なんて、かつての俺にとってはごちそうだった。それを丸ごと1つ食べても叱られないのだから、恵まれた暮らしだ。俺は改めて自身の置かれた環境に感謝しながら、軽い足取りで書店に向かって歩き始めた。


 雪がちらついているせいか、いつもの道を往く人々は少しだけ足早だ。この辺りは王都の中心ということもあって、すれ違う人々は皆上等な外套を羽織っているのだが、それでも寒いものは寒い。俺からすれば天国のような温かさでも、生まれたときから温もりを知っている彼らには冬の空気は冷たすぎるのだろう。


「……こんなに綺麗なのにな」


 ふわふわと舞う雪を見上げ、小さく白い息を吐く。雪は降っているものの、所々青空の見える気持ちのいい日だった。


「いたたっ」


 ふと、目の前でどさりと物音がして俺は空から足元へ視線を移した。気づけば目の前では、上質な紫色の外套に身を包んだ10歳くらいの少女が派手に転んで地面に突っ伏している。


「おい、大丈夫、か――」


 雪道に情けなく倒れ込んだ少女の腕を掴んで引き上げたとき、不覚にも、俺は少女の持つ色彩の美しさに目を奪われた。


 癖一つない艶やかな黒い髪、夕暮れの終わりを写し取ったかのような紫紺の瞳。すっきりと整った目鼻立ちと陶器のような白い肌は、まるでよくできた人形を見ているような心地だった。


 もうずいぶん長くこの王都にいるが、黒髪に紫紺の瞳なんて、見たことがない。身に着けている物の上等さからしても、まず、平民ではないだろう。


「えへへ、転んじゃった! エル、雪道で転んだの初めて!」


 少女はきゃっきゃとはしゃぐようにして俺を見上げていた。コートについた汚れを払うこともせずに、きらきらとした紫紺の瞳で俺を見つめている。


「そりゃお嬢様はこんな道端で転んだりしないだろうな。ほら、早く親の所へ戻れ」


 少女の代わりに少女のコートについた汚れを払いながら、辺りを見回し少女の親らしき人間を捜す。だが、道行く人はこちらに無関心で、誰一人としてこちらを見ていない。


 嫌な予感がする。俺は目の前の少女を改めて見下ろした。


「うーん、エル、雪を捕まえようとしてたんだけど、いつのまにか父様と母様とはぐれちゃったみたい!」


 少女はえへへ、と再び笑って首を傾げた。可愛らしいが、絶対にこいつは自分の魅力を自覚しているだろうな、というあざとさが見え隠れする。


「お兄様、エルと一緒に父様と母様を捜してくれる?」

 

 あざとさたっぷりの圧倒的な愛らしい笑顔で、少女はさらりと面倒ごとを押し付けてくる。気づけば、少女は俺の手を引いて歩き出していた。


「ちょっと、おい、待てって……」


 後ろ姿に呼び掛けても少女は嬉々として俺の手を引いたまま歩き続けている。あまりの強引さに思わず白い溜息が零れたが、自分より年少の少女を放っておくというのも忍びない。反論の余地もないままに、俺は少女と共に少女の親探しをすることになったのだった。

  

 




 雪が止んだのをいいことに、俺と少女は王都の中心の広場にやってきていた。先ほどよりもさらに青空が広がり、人通りが増したような気がする。


 少女は、エルナと名乗った。溺愛されて育っているのか、なかなかあざとい女の子だ。だが、有無を言わせないだけの可愛さが実際にあるのだから文句のつけようがない。俺はエルナと共にベンチに並んで、道行く人を眺めていた。


「ほら、ちゃんとよく見ろ。お前の両親の特徴は?」


「この林檎美味しいね、キース兄様!」


 俺も俺で名前を教えたところ、妙な呼び方で懐かれてしまった。俺は必死に道行く人に注目しているというのに、当の本人は赤く熟れた林檎を両手に持って、嬉しそうに齧りついている。


「……能天気な奴だな。日暮れまでに見つからなくても知らないぞ」


「うーん、まあ、父様は絶対エルのこと見つけてくれるから、実はあんまり心配してないの。ほら、このイヤリングがあるから魔法を使えばすぐに見つけられるはずなんだよ」


 エルナは右耳につけた星空色の石のイヤリングを自慢げに見せて笑った。俺のような庶民では見たことも無い石だ。きっと、家が一つ建つくらいの高級品なのだろう。


「そんなおまじないで人を見つけられるなら、俺は探偵にでも転職するよ。ほら、いいから特徴を教えろよ」


「おまじないじゃなくて、魔法なのになあ」


 エルナは少しだけ不貞腐れたようにそう言うと、俺を見上げてにこりと微笑んだ。


「キース兄様がそんなに言うなら特徴を教えてあげるね。えっとね、父様はエルナと同じ黒髪に紫紺の瞳を持っているの。とっても背が高くてかっこいいんだよ。幻の王都で師団長をしてるの!」


 幻の王都なんて言う御伽噺の存在が出てくるあたり、エルナは見た目より幼いのかもしれない。そんなあからさまな嘘をつく父親も父親だが。


 それにしても、エルナの父親も彼女と同じように黒髪に紫紺の瞳を持っているとは珍しい。異国の血が混じった貴族だったりするのだろうか。


「母様はね、綺麗な亜麻色の髪に亜麻色の瞳の美女よ! 優しくて、お勉強が出来て、幻の王都で先生をしているの。……でも、父様にいっつも纏わりつかれててちょっと可哀想。父様は母様に、愛してる、って毎朝毎朝囁いているのよ! エル、最近見ていて恥ずかしくなるの」


 相思相愛の美男美女夫婦とは、随分出来た話だ。どうやら奥方は旦那に随分と溺愛されているらしい。こんなところで夫婦の事情を暴露されていることなんて、エルナの両親は想像もしていないだろう。


「あと、弟のエルヴィスがいるわ。今年で8歳になるの。残念ながらエルヴィスも黒髪に紫紺の瞳なの。母様から生まれたのだから、エルかエルヴィスのどちらかは、母様の綺麗な亜麻色の髪を持っていてもいいのにね! 二人とも父様似じゃつまらないわ」


 自らの黒髪を摘まみながらどこか不満げに声を上げるエルナは、幸せそのものを体現しているかのような少女だった。正直、俺には眩しくて直視できない類の人間だ。


 黒猫のようなあざとさと奔放さで、エルナは誰からも愛されているのだろう。痛い思いも苦しい思いも、一度だってしたことが無いに違いない。貴族のお嬢様なんてそんなものか、と思いながら、俺は道行く人々に視線を移した。


 黒髪の紳士に亜麻色の髪の婦人という並びであれば、それなりに目立ちそうだ。向こうも向こうでエルナのことを必死に探しているだろう。案外、この面倒ごとは早く終わるかもしれないと考えながら俺は目を凝らし続けた。


「キース兄様の父様と母様は?」


「いないよ、そんなもの」


「いないなんてことあるの?」


「生まれたからには父親と母親と呼ぶべき人間はいるんだろうが、名前も知らないな」


 母さんが残してくれたロケットの中の姫君の顔だって、もう遠い記憶の中でぼんやりと溶けてしまっている。捜そうなんて考えたことも無いのだから、それはそれで構わないのだが、エルナの質問は妙に俺を感傷的な気分にさせた。


「ふうん、寂しくはない?」


 エルナは、両手に持っていた林檎を平らげて、俺の顔を覗き込んでくる。エルナの口元についた林檎の欠片を軽く拭ってやれば、彼女は嬉しそうに目を細めた。エルナの持つ色彩も相まって、本当に黒猫のような少女だと思ってしまう。


「そんなこと、考えたことも無いな。昔に比べりゃ今は天国みたいな毎日だから、これ以上を望む気持ちもない」


「エル、知ってるよ。そういうのを向上心がないって言うって!」

 

 随分と歯に衣着せぬ物言いをする少女だ。別に全く向上心がないわけではない。もっとたくさんの言葉に触れて、よりよい翻訳ができるようになりたいし、俺の翻訳した本で楽しんでくれる客が一人でも増えたらいいと思っている。そのためには努力を惜しまないつもりだ。


 だが、仕事以外では確かに消極的な部分はあるのかもしれない。母さんや母さんの兄が言ったように、俺はどうやら肖像画の中の姫君によく似た顔立ちをしているらしく、一般的に言えば見目が良い部類に入るそうで、15歳にもなれば近所の同年代の少女たちに言い寄られることも増えてきた。それでも今のところ彼女たちの告白を受けたことは一度も無い。


 好きも嫌いもない少女たちに愛を告げられたところで、何の感慨も湧かないという部分が大きいが、それ以上に、虐げられて育った自分がまともに誰かを愛せるのかという不安も大きかった。麻痺していた感情は、親切な老夫婦のお陰でかなりまともなものに戻ったとはいえ、恋愛なんて俺にはきっと難易度が高すぎる。むやみに人を傷つけるくらいなら、このまま一人でいた方が気が楽だった。


「そうだ! ねえ、エルが、キース兄様のおよめさん、になってあげようか!」


 あまりに突拍子もないことを言い出すエルナに、呆れてものも言えない。随分とませた少女だ。ここは年上の俺が大人な対応をするべきなのかもしれないが、白い溜息ばかりが零れて行く。


「あのなあ、自分の年齢をよく考えて――」


「エルナ、今のは一体……」


 突然頭上から降ってきた男性の声に、俺ははっと顔を上げる。いつの間にか、目の前には漆黒の外套に身を包んだ黒髪の紳士と、菫色の帽子を目深に被った婦人が立っていた。その二人の間で手を繋がれている黒髪の少年が、面白いものを見たとでも言わんばかりにこちらをにやにやと見つめている。


「父様! やっぱり来てくれたのね!」


「駄目じゃないか、エルナ。勝手に離れたら……。エルナは可愛いから、すぐに悪い人に攫われてしまうよ」


 黒髪の紳士はエルナと同じ紫紺の瞳で慈しむようにエルナを見つめ、軽々と彼女を抱き上げて頬にキスをした。エルナはすぐに紳士の首に腕を回して甘えるように頭を預けている。


「えへへ、ごめんなさい、父様。エル、次から気を付けるから怒らないでね?」


 軽く首を傾げてにこりと笑うその笑顔は、確かに言葉を失うほどの愛らしさだ。現に、エルナの父親らしき紳士は「エルナが可愛すぎる」と言いながらエルナに頬ずりをしている。端整な顔立ちが台無しな腑抜け顔だ。正に、娘に良いように踊らされている父親の姿と言った様子だった。


「リーンハルトさんはエルナに甘すぎますわ。何かあってからでは遅いのですよ」


「大丈夫だよ、母様! エル、ちゃんと父様から貰ったイヤリング着けてるもん!」


「そうだよ、レイラ。エルナはいい子だから、あまり叱ると可哀想だ」


 黒髪の紳士はエルナの頭を撫でながら、彼女の小さな体をぎゅっと抱きしめていた。この短時間でも、エルナがどれだけ溺愛されているかがよく分かる。

 

「困った人たちですね……」


 帽子を目深に被った夫人が小さく息をつくと、夫人と手を繋いでいた黒髪の少年がふっと笑った。


「母様が甘やかした結果だと思うよ」


「まあ、エルヴィス、随分大人びたことを言うんですね?」


 夫人はエルヴィスと呼ばれた少年の頭を撫でてくすくすと笑った。よくよく見て見れば、エルナとよく似た顔立ちをしている黒髪と紫紺の瞳を持つ少年だった。彼がエルナの弟なのだろう。


 絵に描いたような幸せな家族の姿は、俺にはやっぱり眩しかった。適当な挨拶を済ませて、さっさとここを去ろう。家に帰って、旬の林檎を楽しむのだ。


「あなたは、エルナに付き添ってくださったのですか?」


 ふと、夫人がベンチに座る俺の前に歩み寄り、視線を合わせるように軽く屈みこんだ。そこでようやく俺は帽子の下の彼女の顔を見ることになる。


 目が合った瞬間、胸を満たした感情は懐かしい、という訳の分からないものだった。美しい亜麻色の髪にも、澄み切った亜麻色の瞳にも馴染みなんてあるはずもないのに、ふと、肖像画の中の姫君を思い出してしまった。俺の本当の母親だと言う、あの人の姿を。はっきりとした顔立ちも覚えていないはずなのに、不思議な感覚だ。


 これだけ髪の色も瞳の色も違うのだから、当然同じ人間ではないことは分かっている。でも、あの肖像画の中の姫君を思わせる何かが、目の前の女性には確かにあったのだ。


「っ……あなたは……」


 夫人も夫人で、俺の顔を見るなり何かを言いかけていたが、やがて口を噤んでしまう。軽く逸らされた視線に混じる動揺は、一体どんな思いから来るものなのだろう。


「……いえ、私の考えすぎですわね。失礼いたしました。私はエルナの母親です。エルナがお世話になったようで、何とお礼を申し上げればよいか……」


「そんな、大したことはしていませんから。それじゃあ、俺はこれで――」


 夫人に軽く礼をして、ベンチから立ち上がった瞬間、俺の前に黒い影が立ちはだかる。


「まあまあ、そう急ぐことないじゃないか。ちょっとだけ話をしないかい」


 エルナを抱きかかえた紳士が、にこりと笑って俺を見下ろしている。思わず見惚れるほど端整な笑みだが、雪よりも冷たく鋭い視線が居心地悪くて仕方がない。恐らく、あのエルナの妙な告白をしっかり聞き届けていたのだろう。


 なぜ俺が責められるのか、という理不尽な想いを抱くが、これだけ娘を溺愛している父親を前に言い訳の一つもせずに逃してもらえるはずもなかった。


「まず、エルナに親切にしてくれてありがとう。とても感謝しているよ。エルナはこの通り絶世の美少女だからね、君のような優しい人間に保護されていなかったら今頃どうなっていたことか……」


「はあ……お役に立てたなら何よりです」


 気のない返事を返せば、目の前の紳士は凍り付くような紫紺の瞳で俺を見下ろした。


「それはそうと、エルナのあの告白は何かな? 僕の聞き間違いでなければ、エルナが君の花嫁になるとかならないとか言っていたような……」


「確かに、言っていましたね」


「まったく、エルナもエルナだよ。出会ったばかりの人に求婚するなんて、どういう了見だい?」


 紳士はエルナの顔をまじまじと見つめ、咎めるように言った。口をすぼめたエルナは言い訳を探しているようだったが、沈黙を破ったのはくすくすと笑った夫人の笑い声だった。


「ふふ、リーンハルトさんがそれを仰るのですか? 出会って開口一番に私に求婚なさった魔術師様は、一体どこのどなたでしたかしら……?」


「それは……その、間違いなく僕だけども……」


「こういうのを血は争えない、って言うの? 母様」


「エルヴィス、難しい言葉をよく知っていますね。偉いですよ」


 夫人はエルナの弟の頭を愛おし気に撫でた。どうやらこの一家の主導権はこの夫人が握っていそうだな、などと呑気なことを考えていたところ、紳士の視線が再び俺に向けられた。


「いや、待つんだ。先に彼がエルナを口説いた可能性だってある。そこのところはどうなんだい、少年。エルナは将来、レイラによく似た美人になることは間違いないから先見の明があるのは結構だけど――」


「やめて、父様! キース兄様はエルの『運命の人』なのよ!」


 その一言は、まるでこの場を凍らせる魔法のようだった。まるで御伽噺を夢見るエルナのような発言をしてしまったが、本当に時が止まったかのような静寂が訪れたのだ。目の前の紳士はおろか、夫人や、エルナの弟まで言葉を失っている。あまりに突拍子もないエルナの発言に、皆呆れているのだろうか。 


「エルナ、今なんて……」


 ようやく言葉を取り戻したらしい紳士は、震える声で愛娘に問いかけていた。一方のエルナは、家族の動揺など気にも留めないとでもいう風ににこにこと笑って俺を見下ろす。


「キース兄様がエルの『運命の人』よ! えへへ、こんなに早く見つかるなんて、エル、とっても運がいいわね!」


「ちょっと待って、エルナ、よく見た? もう一度よく見てごらん?」


 父親に促されるままに、エルナは父親の腕の中から俺を見下ろす。たっぷり数十秒は見つめていたが、やがて照れたようにくすくすと笑い出した。


「えへへ、あんまり見ていると恥ずかしくなっちゃうわ! キース兄様を見ていると、好きって気持ちが溢れてくるの。間違いないわ、父様!」


「そんな……エルナが……? 『運命の人』に出会うなんて……」


 紳士はエルナを抱きかかえたまま地面に崩れ落ちると、大袈裟なくらいに顔を歪ませた。俺抜きでどんどん話が飛躍している気がするが、上質な衣服が汚れることも厭わずに、地面に膝をついて絶望する紳士を見ていると何も言えなくなってしまう。


「リーンハルトさん……どうかお立ち下さい。風邪を引いてしまいます」


 エルナの弟の手を引きながら慌てて駆け寄ってきた夫人は、何とか紳士を立ち上がらせようと腕に手を添える。だが、紳士はまるで聞く耳を持っていなかった。


「どうしてそんなに冷静でいられるんだ、レイラ……。エルナがお嫁に行くなんて……」


「喜ばしいことではありませんか。エルナが数百年の孤独に苦しまずに済むのなら、こんなに素敵なことはありません」


「それは、そうだけど……」


「父様、服が汚れちゃうよ」


 エルナの弟が紳士の肩を軽く叩いた。


「エルヴィス……何とか止めなければ。このままじゃ、エルナはすぐにお嫁に行ってしまうんだよ……?」


 自分の息子に縋るような目を向ける父親の姿というのも、何とも情けない。当の弟君と言えば、ぽんぽん、と宥めるように父親の肩を撫でていた。


「父様、僕は良かったな、って思うよ。姉様が、呪いに苦しまずに済んで。それに、父様はルウェインの一族で初めて孫の顔を見られるかもしれないよ」


「孫の、顔……」


 とうとうとんでもない方向に話が飛躍し始めた。どうして俺がエルナと結婚すること前提で話が進んでいるのだ。冷静そうな夫人かエルナの弟が止めてくれればいいものを、みんなして話を大きくしているから収集がつかなくなっている。


「あの、申し訳ありませんが、ついさっき出会ったばかりの少女を恋人にするような真似はしませんし……そもそもあなたがたと俺じゃ身分が釣り合わないでしょう。俺はもう帰らせていただきます」

 

 これ以上、付き合っていられない。溜息交じりに踵を返そうとした瞬間、不意に外套を掴まれ、行く手を遮られる。


「エル、諦めないよ!」


 振り返れば、エルナが小さな手で俺の外套にしがみ付くようにして天真爛漫な笑みを見せたていた。


「絶対に、キース兄様にエルナが好きって言わせてみせるからね!」


「大した自信だな……」


 エルナの手から外套を引きはがそうとすれば、エルナは潤んだ紫紺の瞳でじっとこちらを見上げてきた。気まぐれな黒猫が甘えるようなその仕草に、不覚にも目を奪われてしまう。


「エル、来週の今日もここでキース兄様のこと待ってるね? 林檎のお礼に、美味しいアップルパイを持ってくるからね!」


「……そんな手間をかけて、俺が約束を破るとは思わないのか?」


 一方的に取り付けられた約束に応える義理はない。何も、律儀に足を運ばなくたっていいのだ。これ以上面倒ごとに巻き込まれないためにも、むしろそうするのが最善策だとすら思えた。


「キース兄様はそんなことしないよ。さっきも、転んだエルのこと、わざわざ助けてくれたでしょ?」


 意味ありげにふっと笑うエルナを前に、まさか、と生意気な紫紺の瞳をじっと見下ろす。


「……お前、転んだのわざとなのか?」


 俺がどのような人間か見定めるために、わざと俺の前で転んで見せたのだろうか。だとすれば、無邪気を装ったとんでもない計算高さを持ち合わせた少女だ。


 それでも、不思議と不快感を覚えないのは、エルナの圧倒的な愛らしさと、黒猫のように行動を読めない面白さがあるからだろうか。


「えへへ、これからよろしくね! キース兄様!」


 俺の質問に答えることなく、エルナは一度だけ俺の手に頬ずりをすると、家族のもとへ舞い戻っていった。


 本当に黒猫を思わせる行動ばかりする少女だ。振り回されていると分かっているのに、もう一度こちらを振り向かないだろうか、何て期待した自分に嫌気が差した。正にエルナの思うつぼだ。


 ……何だか、とんでもないことに巻き込まれた気がするな。


 俺に手を振るエルナの一家に軽く礼をしながら、苦笑を零す。瞬間、雪の混じった突風が吹き荒れ、思わず目を瞑った。先ほどまであんなに穏やかな気候だったというのに、冬の風は読みづらい。


 こんなにも強い風では、夫人の帽子が飛ばされていないだろうか、などと俺らしくない心配をして顔を上げたとき、彼らの姿は既にそこには無かった。


 どくん、と心臓が大きく脈打つのが分かる。


 雪のせいではない寒気が、すっと背筋を抜けていった。それと同時に、彼らが口にしていた妙な言葉を不意に思い返す。


――おまじないじゃなくて、魔法なのになあ。


――父様は、幻の王都で師団長をしてるの!


――出会って開口一番に私に求婚なさった魔術師様は、一体どこのどなたでしたかしら……?


 魔法、幻の王都、魔術師。全部全部、御伽噺の中のお話だ。それらをまるで日常の中に溶け込んだ物事のように扱う、怪しいほどに美しい色彩を持つ彼らは――。


「――幻の王都の住人」


 ぽつりと呟いて、あまりの馬鹿馬鹿しさにふっと笑ってしまった。このところ翻訳の作業ばかりしていたから、随分と本の世界に蝕まれているらしい。


 でも、エルナも彼女の家族も、幻の王都の住人と言われても納得するだけの美しさだったな。


「まさか、な」


 夢でも見たのだろう、そう自分に言い聞かせながらも、俺は結局この一週間後、エルナと過ごしたこの広場に足を運ぶことになる。




 それが、御伽噺のように奇妙で甘い、忌み子と黒猫の小さな恋の始まりになるなんて、このときの俺には知る由もなかった。

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