第7話

 翌日、温かな日の差し込む閲覧室で、僕はモニカに会っていた。モニカは秘密を打ち明けてからも、以前と変わらず僕と接してくれている。むしろ、僕が自分の生まれに嘆きを見せたせいか、気遣ってくれるような素振りも増えたような気がする。


「そういえば、昨日月影の塔を見たよ。モニカの言う通り、満月に照らされていてとても美しかった」


 月影の塔の中は、とてもじゃないが綺麗な場所ではなかったけれど。モニカは、「アルタイルの秘宝」があの場所に今も囚われていることを知っているのだろうか。


『お気に召したのならよかったです。実は、私も昨夜、月影の塔を眺めていました。図らずも殿下と同じ景色を見ることが出来て、とても嬉しく思います』


 モニカはにこりと笑って手で合図を送ってくれる。モニカはいつだって僕が一番欲しいと思う言葉をくれるから敵わない。


「いつか、モニカと並んで眺めてみたいな」


 月影の塔だけじゃない。もっと美しい景色を、星空を、海を、モニカと一緒に眺めたい。彼女と一緒に巡る旅はきっと、他の何にも代えがたいほどに楽しいだろう。


『月影の塔をご覧になるのでしたら、いつでもお供できます。夜は仕事も少ないのです』


「本当に? じゃあ、次の満月にでも――」


 そう言いかけて、ふと、口を噤んでしまう。月影の塔の鍵を手にした今、彼女と共に月影の塔を前にして、僕はまともでいられるのだろうか。


 正直、父上のように狂うほどの感情は僕の中にはまだない。ただ、どうしてもこの身に流れる血のことを思うと、怖いと思ってしまうのだ。昨夜、月影の塔の中で聞いた父上の声が、今も耳の奥で響いている気がしてならない。


 ――こんな血に生まれて、お前も憐れな奴だな、アレン。


 王家に伝わるという、執着気質の血。そんなもの、信じないと一蹴できればよかったのだが、父上という前例を見ている以上、完全に否定はできない。間違いなく、父上の血が僕の中にも流れているのだから。


 いつか、父上と同じことをしてしまったらどうしよう。気づけば、指先が細かく震えていた。怖い、怖くて仕方がない。僕は、僕のために僕の愛する人を傷つけるような人間になりたくないのに。

 

『殿下? どうなさいましたか? 震えておられます』

 

 僕の異変に気が付いたのか、モニカは心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。向日葵のようなヘーゼルの瞳に見つめられると、今はどうにも落ち着かない。モニカを傷つけそうで怖いと怯えているのに、当のモニカに心配されるなんて。


「……モニカ、僕は、父上と同じにならずに済むだろうか」


 何の脈絡もない僕の質問に、モニカは多少面食らったような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを取り繕ってみせた。


『同じにならずに、とは?』


「父上がレイラ嬢を監禁したような真似を、僕がしないとは言い切れない。挙句の果てに、父上はレイラ嬢をその手にかけたんだろう?」


 軽く詰め寄るようにモニカの肩を揺らせば、彼女は目を見開いて僕を見つめていた。レイラ嬢の最期について断定的な言い方をしたから驚いているのだろう。


「怖いんだ、モニカ。僕も父上と同じことをしてしまいそうで。狂気に飲まれたら、人を殺すことさえも厭わないような人間にはなりたくないんだ」


 縋るような姿も声も、一国の王太子としてはあまりに情けないものだろう。でも、そんなことない、とお世辞でもいいから否定してほしかった。父上に生き写しなのは姿形だけで、父上のような歪みは僕は受け継いでいないのだと、嘘でもいいから慰めてほしかった。


 揺らすように掴んだモニカの肩は想像以上に細くて、少し力を入れれば簡単に折れてしまいそうだ。そんな風に考えてしまうことすら嫌になる。大好きな相手であるはずのモニカの肩を折るだなんて、たとえ話として想像したにしてもあまりに残酷だ。


 モニカの肩に手を置いているせいか、指先の震えが直に彼女に伝わってしまったのだろう。モニカは宥めるように僕の手の上に自らの手を重ねると、軽く撫でるように手を動かしながら微笑んだ。


 手を使っているから、当然のように合図は送れない。それでも、モニカが僕を思いやってくれる気持ちは嫌というほど伝わってきた。


 分かっていた。モニカはとても優しいから、たとえ僕が父上と同じように歪んでいても受け入れてくれるのだと。僕を責めることも貶すこともしない、慈愛の心で僕を包み込んで安心させようとしてくれるのだと。


 それが、所詮は年上の女性が見せる母性的な愛情から来るもので、あくまでもメイドとして年下の王太子を宥めているだけなのだと僕は知っている。知っているのに、彼女の優しさの中に何か特別な、激しい感情があってくれればいいのにと願ってやまない。


 本当は、分かっていた。僕のこの感情が、一体どのようなものなのか。モニカを姉のように慕っている、というのも嘘ではなかったのかもしれないが、それは随分昔のことで、僕がモニカに向ける感情はとっくに変化していたのだ。


 僕は、モニカが好きだ。多分、恋愛の対象として。シェリルという婚約者がいる身の上を考えれば、許されない気持ちだと思うがそれでも消えてはくれなかった。認めるわけにいかなかったのに、僕はもう、見て見ぬ振りをできない。


 いや、このままぐだぐだとモニカに対するこの気持ちを恋情だと認めない方がずっと危険だったかもしれない。


 これは叶わない恋なのだと認めてしまえば無駄な足掻きをせずに済むのだから。


 ――彼女を、月影の塔に捕らえる夢を見ずに済むのだから。


 それなのに、それなのに君は。


『殿下、大丈夫です。殿下は陛下とお顔立ちはよく似ておられますが、殿下のシェリル様への態度は陛下がレイラ様にお向けになっていたものと大きく違います。殿下とシェリル様は、王国中から祝福される、素敵な御夫婦になれますよ』


 モニカが手で送る合図を見て、思わず自嘲気味な微笑みが零れた。モニカに僕の気持ちが届いていないことなんて当然だ。それなのに、この空しさは何だろう。


 気づけば僕は、そっとモニカの手を両手で握りしめていた。それ以上、モニカに僕とシェリルのことを語ってほしくなかったのだ。


「……モニカは、本当に鈍感だよ」


 彼女の肩に軽く頭を預けながらうなだれる。この想いは伝えるわけにいかない、バレてもいけない。この想いが見破られたら、きっとモニカはシェリルに遠慮して僕に会ってくれなくなる。今までのように、無邪気な笑顔を見せてくれなくなる。


 それなのに、心のどこかではモニカに気づいてほしいと思っている我儘な自分が嫌になった。自嘲気味な笑みが収まってくれない。


 ――ねえ、モニカ。次は君が月影の塔の主になってくれないか。


 危うく口をついて出そうになった台詞をすんでのところで飲みこんでは笑う。戸惑うようなモニカの手が、そっと僕の頭を撫でていた。


 ――君に指一本触れないって約束するよ。そうだ、世界中の本を集めてあげる。君のためだけに物語を紡ぐ作家だって用意しよう。


 あの月影の塔に、モニカを捕らえる場面が、嫌に臨場感を伴って目に浮かぶ。あまりに苦しくて、空しくて、何より甘いその光景に、油断をすれば涙が出そうだった。


 ――だから、ね? お願いだよ、モニカ。僕に囚われてくれないか。

 

 言えない、言ってはいけない台詞を必死に飲み来んだ。喉が焼けただれたかのような苦しさだった。駄目だ、ここで流されてはいけないのだ。抗わなければ、僕は父上と同じ悲劇を繰り返してしまう。


 そんなのは御免だ。モニカを、あんな陰鬱で不気味な塔に閉じ込めることなんて出来ない。彼女には、陽だまりの下で伸びやかに笑っていてほしい。


 だから、僕はこの恋心を殺そう。どれだけ痛くて苦しくても、この想いは報われてはいけないのだ。


「ごめん、モニカ。……ちょっとシェリルと話してたら色々考えることがあってさ。モニカの目にも仲睦まじく見えているっていうなら安心したよ」


 顔を上げモニカから手を離していつものように穏やかに笑ってみせた。モニカは困ったような表情をしていたが、その言葉を受けてほっと安心したように頬を緩める。


『どのような仲の良い恋人同士にも、喧嘩やすれ違いはつきものです。シェリル様は誰の目に見ても殿下をお慕いなさっているのは明らかですから、どうか自信をお持ちくださいませ!』


「はは、そこまで言われると何だか気恥ずかしいな」


 表面上は笑いながらも、心の中では泣いていた。初恋を自覚した途端にこのザマか。


 まずい、このままでは本当に涙を流してしまいそうだ。初恋の相手の前で、そんな情けない姿を見せるわけにはいかない。


「でも、何だか安心したよ。ありがとう、モニカ。早速シェリルに会ってくるよ」


『はい! 応援しておりますよ、アレン王太子殿下』


 席を立った僕に合わせるようにモニカも立ち上がって、言葉通りの励ましを送ってくれた。僕はもう一度モニカに微笑みかけて、陽だまりに包まれる彼女に背を向けて歩き出す。


 今日はシェリルと会う約束を取り付けてある。昼食を共にする予定を立てているので、彼女はもう王城についているだろう。


 モニカへの想いを誤魔化すように、僕はシェリルの待つ部屋へがむしゃらに歩いた。この想いは、モニカに向けるべきものじゃないのだ、そう、言い聞かせながら。


 シェリルの待っているであろう部屋の前に辿り着き、ノックもそこそこに扉を開く。使用人たちに咎められたような気がしたが、今は止まっていられなかった。


「アレン? どうしたの、急に」


 どうやら窓際でお茶を楽しんでいたらしいシェリルが立ち上がり、僕を迎えてくれる。ブロンドの髪が陽光を反射してとても綺麗だった。


 今日も今日とて、僕には勿体ないほどの美少女だ。身分も教養も申し分ない、これ以上ない姫君を婚約者に持っているのだ。不満など、何もないはずなのに。


「……シェリル」


 挨拶も儘ならないままに、僕はシェリルを抱きしめていた。思えば彼女をこうして抱きしめるのは初めてのことで、腕の中でシェリルが真っ赤になって固まっているのが分かる。


 その反応を、素直に可愛いと思った。普段あれだけ強気のシェリルが、言葉を失って僕を見つめているその様を、ずっと見ていたいと思えた。


 大丈夫、僕はまだ引き返せる場所にいるはずだ。シェリルを幼馴染としてではなく、恋人として愛していこう。今日からはどんな甘い言葉だって、気障だと思われるくらいに吐いても構わない。正しい道は間違いなく、シェリルと共にあるはずなのだから。


「ど、どうしたのよ、アレン、急にこんなこと……」


「婚約者を抱きしめて何が悪いの?」


「わ、悪いなんて言ってないけど……メイドたちが見ているわ」


「結婚するまで二人きりになんてなれないって君が一番よく分かっているよね? それとも、一日も早く結婚したいっていうおねだりかな?」


 額を合わせるようにして至近距離でシェリルに笑いかければ、彼女はぎゅっと目を瞑ってしまった。恥ずかしさに耐えているようだ。


 何より僕は、自分がこんなにも淡々と甘い言葉を吐けることに驚いていた。心が伴うまでは愛の言葉なんて囁かないでおこうと思っていたけれど、この際、順番が逆でもいい。こうしてシェリルと距離を縮めているうちに、きっと僕はシェリルのことが好きになるはずだ。


 傍から見れば誠実な対応ではないのかもしれないが、王侯貴族の政略結婚なんて初めはこんなものだろう。僕が頑固過ぎたのだ。


 それに、父上とレイラ嬢のような悲劇を繰り返さないためならば、このくらいの不誠実は許容範囲な気がしていた。これでいい、これが正解だ。僕は、シェリルと共に生きて行くのだ。


 淡い初恋に静かに別れを告げたこの日、僕は、この先絶対にシェリルの手を離さないと心に決めたのだった。

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