第6話
月の光の中で、陰鬱な地下牢に向かって無表情で佇む父上。その視線の先で、鉄格子のなかで微笑みながら子守唄を歌い続ける女性がいた。
薄汚れた白金の髪、虚ろな空色の瞳。直視するのが躊躇われるほどにやせ細った手足。身に纏っているのは、ぼろぼろの粗末なワンピースだけ。それでも、月の光を浴びて歌を歌い続けるその人の姿は美しかった。
たっぷり数十秒間は、僕はその人に目を奪われていただろう。こんな惨めな環境に囚われながらも、それでも尚、色褪せない美しさというものもあるのだな、とぼんやりと考え込んでしまう。
「アレンか」
ぽつり、と地下牢に響き渡った父上の声に、はっと我に返った。そうだ。僕は勝手に父上の後を追ってきてしまったのだ。まずはこの無礼を詫びねばならない。
「……申し訳ありません、散歩中に陛下の御姿を拝見しましたもので、つい……」
「お前が私にそれほどの興味を見せるとは意外だな」
人に興味がないのは、どちらかと言えば父上の方だろう。月明かりに照らされた銀髪と蒼色の瞳を見上げながら、内心そんな皮肉を零した。
「……この女性は、一体」
「大罪人だ」
父上は吐き捨てるようにそう告げると、そっと鉄格子に触れた。牢の中の女性は、父上の存在にも気づけないのか、小さな窓に向かって延々と子守歌を歌い続けている。
「美しい罪人もいたものですね」
「美しい? こいつが、か」
父上は面白い話でも聞いたと言わんばかりに嘲笑に似た笑みを見せた。その表情に滲み出る憎悪の深さに、思わず身震いする。
そもそも父上とこうして非公式の場で会話をすること自体、嫌な汗をかくほどの緊張感を伴うというのに、父上の機嫌を損ねたりなんてしたら一大事だ。慌てて取り繕うように軽く頭を下げる。
「っ……何か失礼なことを言ってしまったのなら、謝ります」
「いいや、別に構わない。世間一般では、美しいと評判の女だったからな」
父上はすっと僕に蒼色の視線を向けた。自分で言うのもなんだが、皆が僕を父上の生き写しだと評するのが納得できるほど、僕と父上は似ていた。成長した暁には、僕は間違いなく父上のような姿になるのだろう。
「お前はどこまで知っているんだ、アレン」
「……どこまで、と仰いますと?」
父上の冷たい視線にさらされて、脈拍は休む間もないほどに早まっていた。耳の奥で、心臓の音が煩いほどに鳴り響いている。
「何も知らずに月影の塔に足を運ぼうとは思わないだろう。遅かれ早かれ辿り着く真実だ。咎めるつもりはない」
表情一つ変えない父上は、やはり少し怖いというのが本音だった。何があってもモニカの名前だけは口にするものか、と決意しながら、僕はそっと口を開く。
「……この城の禁忌にまつわる美しい令嬢の物語ならば、聞いたことがあります」
月影の塔にまつわる話題と言えば、そのくらいしか知らない。レイラ嬢という名前を出さなかったのは、彼女の話題のどこからが父上の怒りを買うのか見極め切れなかったからだ。
「それならば話は早い。……この女は、レイラの妹だ」
「っ……父上の最初のお妃様ということですか?」
御子もろとも亡くなったはずではなかったのか。改めて牢の中の彼女をまじまじと見つめてしまう。みすぼらしい姿をしていても、「アルタイルの秘宝」と呼ばれるだけの美しさだと妙に納得してしまう。
父上がレイラ嬢に執着している以上、母上が仰っていた「陛下は前のお妃様を心から愛していた」という話は信じていなかったが、まさか牢の中に囚われているだなんて思いもよらなかった。一度は王太子妃になったほどの身分の女性だ。それこそ、レイラ嬢が囚われていたであろう月影の塔の一番上に囚われるべき人ではないのだろうか。
「……この者は、一体何を?」
「レイラを王太子妃候補の座から引きずり下ろし、彼女を殺しかけた、とでも言っておこうか。ついでに、王家の簒奪未遂の罪もある」
一般的に考えれば、父上の仰った「ついで」の内容の方が罪が重そうなものなのに、父上の中ではレイラ嬢に手を出したことの方が重罪らしい。この方は、今もレイラ嬢に囚われたままなのだと痛感せざるを得なかった。
「それならば、一思いに処刑なさった方が気も晴れましょう。なぜ、このような場所で生かしておくのですか?」
父上からしてみれば、憎しみしか残らない相手のはずだ。顔も見たくないほど嫌っていてもおかしくないのに、こうして足を運んでいるのも不思議でならない。
父上は、どこか自嘲気味な笑みを浮かべながら、牢の中の「アルタイルの秘宝」を見つめていた。それは初めて見る父上の感傷的な横顔だった。
「……人は、声から忘れて行く、という話を聞いたことがあるか」
「声、からですか」
残念ながら僕はあまり聞いたことがない。誰かを失った経験もないから、余計に分からなかった。
「レイラは、私のものになった。もう永遠に、誰にも触れられない、私だけのものだ」
譫言のように呟きながら、父上ががしゃん、と鉄格子を揺らした。突然の大きな音に、思わず肩を震わせてしまう。ついこの間まで、感情など持ち合わせていないと思っていた父上が取り乱す姿を見るのは、やはり妙な心地だった。
「……でも、それでも薄れて行くんだ。どれだけ記憶の中に閉じ込めても、少しずつ消えて行ってしまう……」
項垂れるように鉄格子を握りしめながら、父上は笑っていた。その表情とは裏腹の苦し気な声に、我が父上ながら憐みのような情が湧いてしまう。
「この女は……声だけは、似ているんだ。レイラには遠く及ばなくても、それでも、似てる」
「……だから、この罪人を生かしているのですか」
父上は項垂れたまま、「アルタイルの秘宝」が歌い続ける子守唄に耳を澄ませているようだった。恐らく、それが無言の肯定の証なのだろう。
そうか、この大罪人の声は、それほどまでにレイラ嬢の声に似ているのか。実際にレイラ嬢の声を聞いたことがないから、どの程度そっくりなのかは僕には分からないが、父上が殺すのを躊躇うほどには似ていることは確かなのだろう。
「父上を幸せにできるのは、レイラ嬢だけだったんですね」
長年の確執に、ようやく終着点を見出した気がする。父上に愛されない、お飾りの妃である母上を憐れに思ったこともあったが、父上がこのご様子では、父上の寵愛など端から望めるはずもなかったのだ。
やはり自分が生まれたことを空しく思ってしまうが、嘆いたところで仕方がない。王家に生まれ落ちてしまった以上、前を向いて歩くしかないのだ。
「……お前に、これをやろう」
父上は羽織っていた外套のポケットから金色に光る鍵を取り出した。僕は数歩父上に歩み寄り、軽く礼をしたのちにそれを受け取る。
「……これは、一体どこの鍵ですか?」
普通の鍵よりも重量感のあるそれは、痛いくらいに冷たかった。凝った装飾がついているから、それなりに重要な部屋の鍵なのだろう。
「月影の塔の最上階にある部屋の鍵だ」
「っ……そんなものを、どうして僕に」
ようやく静まりかけていた心臓が、再び暴れだすのが分かる。レイラ嬢を監禁した部屋の鍵ということだ。途端に重さが増したように思えてきて手に汗が滲んだ。
「王家や王家に近い家の人間には、依存体質の者が多い、という噂話を聞いたことがあるか? あれはどうやら本当の事のようだ。身をもって体感した」
言葉の真意を図りかねて、僕は父上の顔を見上げた。数年ぶりに、親子と呼ぶにふさわしい距離で目が合った気がする。
「お前も、いつか苦しむときがくる。絶対にだ。……そのときに、これが役に立つだろう。私にはもう必要のないものだ」
鍵を受け取った指先が震えていた。確かに、僕は紛れもなく父上の子どもだ。その噂話が本当なら、僕は。
「……こんな血に生まれて、お前も憐れな奴だな、アレン」
呪いのような言葉と共に、憎悪にも似た鋭い蒼色の視線に捉えられる。
ああ、と自嘲気味な笑みを零したい気分だった。
長年、僕は父上に嫌われている物だとばかり思っていたが、それもどうやら違ったようだ。
恐らく、父上のその憎しみは僕に向けられている物じゃないのだろう。僕らに流れるこの歪んだ血を、父上は厭うておられるのだ。
やがて父上の手が軽く僕の肩を叩き、そのまま父上は僕とすれ違うようにして地下牢を後にした。僕は、振り返って挨拶をすることもできないほどの戸惑いの中で、ただ震えることしか出来なかった。
執着気質の血? 冗談じゃない。
僕が、この鍵を使って誰かを傷つけることなんてありえない。父上は、父上がレイラ嬢を捕らえたように、僕もいつか惹かれてやまない誰かをこの陰鬱な塔に閉じ込めると信じているのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
自嘲気味に笑いながらも、不意に脳裏に過るのはモニカの横顔だった。訳も分からぬまま思い浮かんだ彼女の顔を、慌てて掻き消す。
僕は違う、父上とは違う。この血に歪みが流れているのだとしても、僕は狂ったりなんかしない、絶対に、絶対にだ。
そう言い聞かせる度に、モニカの笑みが鮮やかに蘇る。まるで呪いのようだった。ふらついて体を支えるように鉄格子を握りしめ、軽く寄りかかるような姿勢を取る。
そもそもどうしてこんなときに思い出すのが、シェリルのことではなくモニカのことなのだ。自分でもその理由が分からなくて、ますますモニカのことが頭から離れなくなる。
まるで呪いだ。人知を超えた何かの力が働いていると言ってくれた方がずっと納得がいく。
こんな鍵、今すぐ投げ捨ててしまいたかった。それなのに、一瞬だけ夢見た、彼女と本を読んで笑い合う、そんな夜への憧憬が僕を躊躇わせる。
「……っどうして」
どうして、父上はこんなものを僕に渡したんだ。暗に寵妃を囲うことを容認すると言っているようなものじゃないか。
違う、違う。僕はこの不気味な塔に誰も捕えたりなんかしない。
そうだ、何も使い道は寵妃を囲うことだけではない。犯罪を犯した貴人を捕らえたり、人目を避けて考えごとをしたいときなんかにもうってつけの場所だろう。
僕は金色の鍵を外套にしまいながら、自分にそう言い聞かせるので精一杯だった。こうでもしなければ、僕はこの鍵を受け取ることなんてできなかっただろう。
その瞬間、ふっと子守唄が止む。突然の変化にそっと顔を上げて「アルタイルの秘宝」を見やれば、彼女はただまっすぐにこちらを見ていた。
相変わらず虚ろな空色の瞳だったが、それでも確かに僕を捉えていた。彼女は僕と目が合ったことを認識できたのか、息を飲むほどの美しい笑みを浮かべる。
「ルイス、来てくれたのね。私、ずっと待っていたのよ」
鈴を転がすような可憐な声で、彼女は笑った。正気を失っている様子だったから、僕を父上と見間違えるのも無理はないのかもしれない。
彼女は、恐らくは母上と同年代の女性だと思われるのに、年齢に釣り合わない幼さを纏った女性だった。美しい見目だけを見ていれば、とてもじゃないが実の姉を殺しかけ、王家を簒奪しようとした大罪人だなんて思えない。
「ねえ、ルイス。私が産んだ子、どこに行ったか知らない? あなた、とっても喜んでくれたじゃない。私のお腹に手を当てて、楽しみだねって笑ってくれたじゃない」
「アルタイルの秘宝」は、鉄格子に歩み寄りながら夢を見るように笑った。先ほどの父上の話から考えると、まず、父上がこの女性にそんな甘い言葉を囁いたとは思えない。
ということは、これも全部妄想なのだろう。鎖に繋がれ、レイラ嬢の声を忘れないためだけに父上に生かされている毎日なのだ。気が触れていて当然だ。
「あーあ、どこへいっちゃったのかしら。私、ずっと、こうして歌っているのに……」
そう呟いて再び子守唄を歌いだす彼女のことは、もう見ていられなかった。父上も去ったことだし、これ以上ここに長居する必要はない。もう二度と来ることは無いだろうな、と思いながら踵を返そうとしたそのときだった。
「ねえ、ルイス。私、知っているのよ。お姉様が本当は、どうなったのかってこと」
彼女の言うことは、所詮すべて妄想だ。分かっているのに、その言葉に足を止めてしまう自分がいた。
「……レイラ嬢が、どうなったか?」
「あの日、格別に月の美しいあの夜、あなた、私のもとへ来てくれたわね。生々しい血の臭いと、むせ返るようなアネモネの花の香りを纏って」
思わず、僕は「アルタイルの秘宝」の方を振り返っていた。彼女の言葉など信じるに値しないと分かっているのに脈が早まっていく。
「ルイス、お姉様を殺したのはあなたでしょう?」
それは、モニカが敢えて口に出さなかった推測と同じだ。僕が疑った最悪の結末だった。
この人の言葉を妄想だと決めつけておきながら、この言葉だけを信じるというのも馬鹿げた話だが、疑うよりも、ああ、やはりそうなのか、と納得する気持ちの方が大きかった。
「酷いわ、ルイス。お姉様を殺すなんて! 誰からも慕われるアネモネの花を散らしてしまうなんて!」
あはははは、と笑いながら彼女は僕を見つめていた。虚ろな空色の瞳に一瞬だけ、意思のようなものが宿っているように感じてしまう。
「あなたも私と同じよ、ルイス。ねえ、私、地獄であなたを待っているわ。あなたは死んだところで、お姉様と同じ場所になんて行けるはずもないのよ。ふふ、素敵でしょう。今度こそ私たち、二人で上手くやっていけるわね?」
再び声を上げて笑い出す彼女に、僕は今度こそ背を向けた。これ以上、こんな場所にいたら、僕まで病んでしまいそうだ。
「待っているわよ、ルイス。一緒に業火に焼かれましょうね?」
背後から響き渡ったその声に、ああ、それにだけは賛成だな、と僕は皮肉気な笑みを零した。
父上は多分、「アルタイルの秘宝」とともに業火に焼かれるべきだ。彼女の可憐な叫び声ならば、父上も満足なされるだろう。父上に同情を覚える部分がないと言えば嘘になるが、それでも人を殺しておきながら、罪の意識一つ抱かない父上もどこか狂っていることに違いはないのだ。
僕は、ああはなりたくないな、と思いながら外套の中の鍵にそっと触れる。僕は、僕の中に流れる歪みに抗えるだろうか。
油断すれば脳裏を過るモニカの笑顔を振り払いながら、僕は月影の中へと足を踏み出したのだった。
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