第5話

「殿下、どちらへ」


「少し、散歩にね」


 この城の禁忌に触れてから数日、よく晴れた満月の夜に、僕は外に出てみることにした。モニカの言う月影の塔の美しさが気になっていたからだ。出来れば、次にモニカに会うまでにその光景を目に焼きつけておいて、彼女と美しい記憶を共有したい。


 本当はモニカと並んで見られればいいのだが、彼女も仕事がある。それに、僕の身の回りを世話しているわけでもないモニカを呼び出す口実もなかった。


「お供いたします」


 私室の扉の前に立っていた護衛騎士の二人が、僕の数歩後ろを黙ってついてくる。


 そうだ、仮にモニカを呼び出せたとしても二人で見られるわけでもない。むしろモニカと二人で話せる図書室という空間こそが僕にとっては特別なのだ。


 庭に出れば大きな丸い月が城を照らしていて、なかなか風情のある光景だった。夜に庭に出ることなど滅多にないが、見慣れた風景が銀色に染まるというのもまた一興だ。


 だが、少し夜風が冷たいだろうか。念のため外套を羽織ってきてよかったと思いながら、芝生を踏みしめて月影の塔へ向かう。


「殿下、そちらにはあまり近付かれない方がよろしいかと」

 

 僕の行動に滅多に口を出さない護衛騎士が、僕が月影の塔に向かっていることを悟るなり窘めるように言った。別に今は誰がいるというわけでもないのだろうが、囚人が幽閉される場所という印象が強いせいか、あまり僕を近づけさせたくないのかもしれない。


「少し、景色を見るだけだよ。月に照らされた塔が美しいと、ある人から聞いたんだ」


「……承知いたしました」


 さくさく、と三人分の足音が響く。門の周りには衛兵たちがいるのだろう。風に乗って微かな話し声が聞こえてきた。今日も王城は穏やかな場所だ。モニカの話を聞いてからというもの、父上が愛した令嬢のことを思えば時折息苦しくもなるが、こうして外に出てみれば清々しい気分だ。


 しばらくして、俺は目的の光景をようやく目の当たりにする。王城の敷地の隅にそびえたつその塔は、月の光を受けて神秘的な雰囲気を醸し出していた。実際に中に入ったことがないので正確な階数は分からないのだが、少なくとも飛び降りて助かるような高さではないことは確かだ。

 

 父上に囚われていたというレイラ嬢は、一体どんな手段を使ってこの塔から逃げ出したのだろう。まず、一人では無理だろうから協力者がいたのだろうが、そもそも囚われている人間が外部と連絡を取る手段はないのだ。外から助けが来たのだとしても、王城の厳重な警備を破れる者などまずいないはずだ。


 ざあ、と風が吹き抜けていく。肩に羽織った黒い外套が揺らめいた。ここまで来ると衛兵たちの話し声も聞こえなくなり、静かな夜にそびえたつ月影の塔は確かに美しかった。月影の塔の使用目的を知らなければ、もっと心から称賛できたかもしれない。


 モニカも、この景色を見て美しいと思ったのか。彼女の少し癖のある赤毛と陽だまりのような笑顔を思い出しながら、ふ、と頬を緩める。モニカには、月光よりも陽の光の方がずっとよく似合うが、不意に、彼女が月影の塔にいたらどうだろうかとぼんやりと考えてしまった。


 モニカが月影の塔の主となって、ずっとあの塔にいてくれたら。そうしたら、週に一度とは言わずに毎日でも会いに行けるのに。彼女と一緒に本を読んで、時間を忘れて語り合う夜はきっと想像もできないほど楽しいに違いない。


 そこまで考えて、ふと我に返った。どくん、と心臓が跳ねるのが分かる。


 あれ、僕は今、一体何を考えた?


 ばくばくと、心臓が暴れていた。自分の考えが怖いと思ったのは、これが生まれて初めてのことだった。


「あれ、この歌は……」


 ふと、背後の護衛騎士が珍しく呟いた言葉に救われる。何でもいい、早まる脈を誤魔化す話題が欲しかった。


「歌?」


 騎士の方を振り返って訪ねてみれば、騎士ははっとして恐縮したように頭を下げた。


「申し訳ありません。つい、気が緩みました」


「いいんだよ。それより、歌がどうしたんだい?」


 無理やりいつもの微笑みを取り繕って会話を繋げる。もっとも、騎士と会話を続けようとしている時点で普段の僕らしくない行動と言えばそうなのだが。


 騎士もそれを意外に思ったようで多少面食らったような顔をしていたが、月影の塔の方を見てぽつりぽつりと話し始めた。


「実は、使用人たちの間で流れている噂があるんです。時折、月影の塔からか細い歌声が聞こえる、と。幽霊だ、なんて噂されていて……今、その歌声が聞こえたような気がしたので……」


「随分不気味な怪談だね」


 騎士に倣って、僕もそっと耳を澄ませてみた。しばらくは風の音しか聞こえなかったが、時折、か細い歌声のようなものが聴こえる気がする。風の音だと言われればそれまでの音だったが、怪談話の種になるには充分なのかもしれない。


「本当だ、僕にも聞こえたよ。もう少し近寄ってみようか」


「殿下、あのような場所にあまり近付いてはなりません。罪人たちが囚われていた塔です」


「……罪人じゃない人だって囚われていた」


 父上の一方的な執着で囚われていたレイラ嬢のように。ぽつりと零したその言葉は護衛騎士たちには届いていなかったのか、それ以上追及されることは無かった。


 冷たい夜風の中、月影の塔へ近づいてみれば、僅かに歌声のようなものが大きくなっているような気がする。それでもやはり、気のせいだと言われたら納得できる程度の本当に微かな声だった。


 間近で見る月影の塔は、先ほどとまた違う一面を覗かせていた。神秘的な雰囲気とは打って変わって、陰鬱で不気味な空気感を感じ取る。レイラ嬢は、こんな場所に罪もなく囚われていたのというのか。父上の所業には目に余るものがある。

 

「殿下」


 ふと、背後の護衛騎士に話しかけられ半身振り返る。月影の塔に近づき過ぎたことを咎められるのかと思ったが、騎士の視線は月影の塔と王城の間に注がれているようだった。彼の視線を辿るように僕も目を凝らせば、月の光の中でぼんやりと浮かび上がったその影に思わず息を飲む。


「あれは……陛下か?」


「恐らくは、そうかと思われます」


 こんな夜更けに父上が外に出ているなんて。公務と食事のとき以外は滅多に人前に姿を現さない人なのに、珍しいこともあるものだ。父上も僕と同様に護衛騎士を二人ほど連れて、月影の塔に向かって歩いているようだった。


「こんな時間に、一体何の御用だろうな……」


 月影の塔と父上。モニカの話を聞いてしまった今となっては、何とも不穏な組み合わせでしかない。父上が目的もなく散歩をするような人ではないと知っているだけに、この外出にも何らかの意味があるのだろう。


 持ち前の好奇心が疼く。レイラ嬢もいない今の月影の塔に、何が残されているというのだろう。父上の足を運ばせるだけの何かが、あの場所にはあるのだろうか。

 

「ちょうどいい、行ってみようか。怪談噺の真相も分かるかもしれないよ」


「殿下……お約束もなく陛下にお会いになるのは如何かと……」


「約束? そんなもの、取り付けようとしても却下されるばかりだ。君たちは月影の塔の入口で待っていてくれ」


 少々我儘な振舞だが、彼らが僕に言い返せるはずもない。父上の後を追うように歩き出した僕を放っておくことなど出来るはずもなく、結局は無言の了承として僕の後をついてきた。




「ここが、月影の塔か……」


 月影の塔の入口にいた騎士たちには、「陛下と約束がある」と適当な嘘をついて通してもらった。石畳の廊下は、陰鬱な雰囲気を醸し出していて、とても貴人を捉えておく塔には思えない。

 

 おそらく、豪奢な作りをしているのは塔の一番上の部屋だけで、それ以外はまるで牢獄のように冷たい場所なのだろう。モニカが異様に怖がっていた理由も納得できる。


 塔の上へと続く石造りの階段と、地下へと続く薄暗い階段。その間に足を運んだ僕は、さて、と二つの階段を見比べた。


 父上はどちらに行かれたのだろう。どちらかを選べと言われれば、薄暗い地下への階段よりは、月の光が注ぐ塔の上へ続く階段を選びたいところだが、遊びに来たわけではない。父上の後を追わなければ。


 ひとまずは塔の上を捜してみようかと石造りの階段に足を踏み入れた時、ふと、先ほど聞こえたか細い歌声が地下から響いてきた。今度はきちんと、歌声と認識できるほどはっきりとした声だ。


 これは、子守唄だろうか。酷く懐かしいその音階に、一瞬感傷的な気分になる。王妃らしからぬ母上は、よく僕の傍でこの子守唄を歌っていてくれた気がする。


 か細いばかりだと思っていた歌声は、よく聴けば、とても可憐な美しい声だった。今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気には、強烈に惹かれる何かがある。


 気づけば、僕はその歌声に導かれるように地下へと続く階段を降り始めていた。一段降りるごとに大きくなるその声に、少しずつ脈が早まっていくのが分かる。


 階段を下りた先は、地下牢のようだった。僅かに流れる空気に混じるかびたような臭いに顔を顰めながら、ゆっくりと足を進めた。歌声の他にも、ぽたり、と水音が零れ落ちる音が響いている。


 月影の塔の上にあるだろう貴人を捉える部屋とは真逆の、最低な環境の地下牢だった。鉄格子付きの小さな窓から差し込む月明かりだけが唯一の光源で、雨でも降っていたら暗闇に包まれるであろうことは容易に想像がついた。


 こんな場所、1週間でもいたら気が触れそうだ。軽く握りしめた手を鼻と口元に当てながら、冷たい石畳の上を歩き続ける。


 歌声は、次第に近くなっている気がした。流れてくる歌はこの国で最も有名な子守歌だけなのだけれども、いつまでも聞いていられるような美しい声だった。


 やがて、僕は歌姫の姿を目にすることになる。その瞬間目に焼きついた光景は、まるで一枚の絵画のように美しかった。

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