第4話

 夕暮れが差し込む閲覧室に、テーブルを挟んでモニカと向かい合うように座る。本日3度目の僕の来訪に図書室の管理人は多少驚いているようだったが、僕とモニカがよく一緒に読書をしていることを知っているからなのか、深く追求してくることは無かった。


「仕事を中断させてしまったようだったけど、大丈夫?」


『ええ、陛下は今日はあの書斎に戻られないようですし、明日の朝までに片付ければよいと仰せつかっておりますので』

 

 それは、父上からの直接の指示なのだろうか。そうなのだとしたら、モニカはかなり父上に近いメイドということになる。父上が名前を認識している使用人なんて、先ほどすれ違ったあの執事くらいだろうと思い込んでいた。


 モニカと父上の不思議な関係性について考えていたのが顔に出ていたのか、モニカはいつものように柔らかく微笑んで、僕が尋ねるより先に答えてくれた。


『私の母が、陛下の乳母を務めていたのです。私には、陛下と同い年の年の離れた姉がおりましたので……。母が亡くなった後も、こうして陛下のお傍にお仕えさせていただいているのです』


 それは意外な繋がりだった。幼馴染というには身分差がありすぎるが、父上の幼い頃から傍にいたというのなら、下手すると父上と過ごした時間は僕や母上なんかよりも、モニカの方がずっと長いかもしれない。あの閉ざされた父上の書斎の管理を任されるほどの信頼を得ているのも頷ける。


「だから、モニカは僕を見てもあまり怯えないんだね」


 父上の傍で生きてきたモニカならば、父上の生き写しだと言われる僕の顔なんてもう見慣れているのだろう。モニカはどこか懐かしむように微笑むと、滑らかに手を動かした。


『殿下は、お姿こそ陛下にそっくりですが、とてもお優しい方だと分かっておりますので、怖くありません』


 それは暗に父上のことは優しくないと言っているようなものだが、モニカにそう言われたことは純粋に嬉しかった。姿だけでなく、きちんと僕の中身を見て判断してくれるのは限られた人しかいないのだ。


『いえ、言葉が過ぎました。陛下も……初めからあのように冷たいお方であったわけではないのですから』


 モニカはふっと瞳を伏せると、辛い過去でも思い出したかのように軽く唇を噛みしめた。その物憂げな表情を見て、話が本題に移る気配を察する。


「冷たくない父上なんて想像もできないけど……父上を変える要因になったのが、さっきの肖像画の令嬢だったりするのかい?」


 アネモネ、菫色、亜麻色の髪。それはすべてあの肖像画の令嬢が持っている物だった。禁忌を作り出すほどなのだから、余程あの令嬢のことが嫌いなのかと思ったが、だとするとわざわざ私的な書斎に肖像画を飾っておく理由がわからない。そもそもあの令嬢は何者なのだろう。質問をするにしたって、知っている情報が少なすぎる。


 モニカはそれを察したのか、軽く姿勢を整え、ゆっくりと僕の瞳を見据えた。夕焼けを横顔に受ける彼女のヘーゼルの瞳は、緊張感が漂うこんな状況の中でもやはり美しかった。


『……陛下には、現在の王妃様をお迎えになる以前に、別のお妃様がいらっしゃったことはご存知ですか?』


「ああ、知ってる。誰からも愛される絶世の美女だったって聞いたよ」


『誰からも愛される……確かに捉えようによってはそれも間違いとは言い切れませんが……』


 モニカはどこか苦い顔をして誤魔化すと、そのまま合図を続けた。


『先ほどの絵のご令嬢は、そのお妃様の実の姉君です。……私に、文字を教えてくださったのはあの方でした』


 「アルタイルの秘宝」とまで呼ばれたお妃様の姉君と言われれば、あれほど美しいご令嬢だということにも納得がいく。何より、モニカのあの綺麗な字を教えた張本人であると聞いて勝手に親近感が湧いてきた。


『そして、陛下の長年の婚約者だった方でもあります。……あの方は、幼い頃から将来の王妃になるべくして育てられた、公爵家の姫君なのです』


 モニカのその言葉を理解するのに、一呼吸置く必要があった。


 まさか、この城の禁忌の象徴であるあのご令嬢が、父上の元婚約者だったなんて。


「……父上は、婚約者の妹君と結婚したということか」


 それだけ聞くと、何とも不愉快な話だ。思わず父上を軽蔑しそうになったが、王族と公爵家の婚姻だから、何か事情があったのだろう。そう考えて何とか思い留まる。


『陛下は、婚約者の妹君にお心を移すような、そんな不誠実な方ではありません。それだけは、断言できます。……もっとも、陛下があの方に向ける感情は、もうとっくに愛という形を失っているように思えてなりませんが』


 どこか怯えたような、それでいて怒りも含まれたようなモニカの強い眼差しに心を動かされる。穏やかなモニカに、ここまで激しい感情を抱かせるほどの何かがこの話には隠されているのだ。


「……父上が誠実だと言うのなら、なぜ婚約者の妹君を妃に迎えたんだい? あの令嬢に不幸でもあったとか?」


『そうですね、大まかに言ってしまえばそのようなものです。あの方は……レイラ様は陛下とのご婚約中に不幸な事故に遭われ、長い間眠りについていたのです。その間に、レイラ様と陛下の婚約は解消され、代わりにレイラ様の妹君のローゼ様が婚約者となられました』


「それは……大変な不幸だったね」


 長年連れ添った婚約者と別れた悲しみで、書斎にあのような肖像画を飾って感傷にふけっていたというのなら、父上にも随分人間らしい部分があったものだ。それが素直な感想だった。何なら、父上に同情さえ覚える話だ。


『はい、悲劇は、そこから始まったと言ってもいいでしょう。……事故から約2年が経った頃、幸いにもレイラ様はお目覚めになられました。ですが、そのときには既に陛下の婚約者はローゼ様に代わっており、レイラ様は失意のあまり公爵家から出ていかれてしまったのです』


 それは随分行動的なご令嬢だ。それほどまでに、父上のことが好きだったのだろうか。傍から見れば歌劇の題材にでもなりそうなほどの悲恋だ。


「……それで父上は行方知れずの元婚約者のことが忘れられなくて、この城にあんな妙な禁忌を作り出したのかい?」


 アネモネの花を、菫色を、亜麻色の髪を見る度にいなくなってしまった元婚約者の姿を思い出してしまうから、それが苦しくてあんな禁忌を作り出したのだとすれば何とも悲しい話だ。もっとも、ここまで話を聞いたところで、父上がそこまで誰かを愛するなんてことは、上手く想像できないままなのだが。


『いっそ、そんな美しい話だったのなら、どれだけ良かったか分かりませんね』


 モニカはどこか苦々し気な表情で合図を送ると、どこか躊躇いを見せながらも話を続けた。


『……陛下は、レイラ様が逃げ出したことをお許しにはなりませんでした。王国中に捜索の手を広げ、そして新たな地でようやく安寧の日々を手にしていたレイラ様を見つけ出し、連れ去ったのです』


 それは相当な執着だ。レイラ嬢という令嬢は、余程父上を惹き付けてやまなかったらしい。しかし、逃げ出していたとはいえ、一国の公爵家の令嬢を連れ去るなんて父上もなかなか横暴なことをなさる。


『そして陛下は、レイラ様を月影の塔に幽閉しました。私はそこでレイラ様のお世話係を務めさせていただいていたのですが……あの2週間以上の地獄を私は知りません』


「……父上は、一体何を……」


 まさか、ここであの月影の塔が出てくるとは思いもしなかった。それも父上が、かつての婚約者を監禁するために使っていたなんて。


『陛下が具体的に何をなさったのかをお伝えするのは憚られますが、陛下はとにかくレイラ様を精神的に追い詰めるのがお上手でした。逃げ場などないのだと、陛下の所有物として一生をあの塔の中で過ごす他に無いのだと……嫌でも思い知らされるような息苦しさが、いつも付きまとっていたように思います。それでも、レイラ様は必死に抵抗なさっていました』


 話を聞いていると、誰の立場に寄り添うべきなのか分からなくなる。初めこそ父上に同情したが、元婚約者を監禁したなんて話を聞いたらそうもいかない。


「それで、そのご令嬢は一体どうなったんだい。まさか……」


 思わず、最悪の結末を想像してしまう。温室育ちの公爵家の令嬢が、監禁生活なんていう過酷な環境に耐えられるとは考えにくい。高潔に散ることを選んで、自死を試みていてもおかしくない。


『……詳しい事情は伏せますが、レイラ様は月影の塔から脱出なさり、王都にある修道院に入られました。修道院であれば、いくら陛下でも無理やり連れだすことは叶いませんので』


 モニカはさらりと言ってのけたが、月影の塔から逃げ出すなんて至難の業だ。外部の者の手引きがあったにせよ、そう簡単に逃げ出せるような環境ではないのだ。だが、そんな無理をしてまでも令嬢は父上から逃げ出したかったのだろう。


「その後、令嬢は逃げおおせて幸せに暮らした、何ていう優しい話じゃないんだろう?」


 今までの話を聞いている限りだと、あっさりと手を引くような父上ではないはずだ。権力の及ばぬ修道院に閉じこもった元婚約者を相手に、今度は何をしたのだろうか。


『……そうですね。レイラ様の二度目の逃亡生活はそう長くは続きませんでした。修道院に入って一週間と経たないうちに、レイラ様はお亡くなりになってしまったのですから』


「亡くなった……? それは、病か何かで?」


 精神的にも身体的にも追い詰められ、衰弱して亡くなってしまったのだろうか。だが、それにしたって、修道院に入って一週間もたたないうちに命を落とすという事態には違和感を覚える。


『……表向きには、事故の傷がたたって亡くなったとされています』


 そう言ったわりに、モニカの表情にはそれを信じているとは思えぬほどの怒りが滲み出ていた。話を聞いていた僕が違和感を覚えるくらいだ。当時、事件を目の当たりにしたモニカが何も思わないはずがない。


「……モニカは、令嬢の本当の死因は何だと思っているんだい?」


『私は……』

 

 モニカは、躊躇うように手を動かしたが、すぐに動きを止めてしまった。やがてそのまま首を横に振って、どこか弱々しい笑みを見せる。その笑みに、妙な不安と動悸を覚えた。


『いえ、やめておきましょう。流石にこんなことは言ってしまっては、不敬罪で首をはねられてもおかしくありませんから』


 それは、暗に父上がその令嬢を手にかけたということを示唆しているのだろうか。先ほどから、早まった脈が落ち着かないまま加速し続けている気がする。


 まさか、そんな。父上が?


 思わず、嘲笑に近い震えるような笑みが零れる。証拠も何もない。一国の王を疑うなんていくら僕でも不敬にも程がある。


 ありえない。流石にそれはいくら何でもないだろう。頭の中に浮かんだ物騒な考えを拭うように、無理やり普段の微笑みを取り繕った。


『……この菫色のリボンは、レイラ様が監禁生活の間に身に着けていらしたものなのです。月影の塔から逃げ出す際に、忘れ形見に、と私に下さいました』


 モニカは、菫色のリボンを取り出すと大切そうにその滑らかな生地を撫でた。公爵家の令嬢が身に着けるにしては少々地味だが、品の良い可憐な代物だ。


『このアネモネは……レイラ様の大切な方から頂きました。どちらもこの城では禁忌とされている物ですが、どうしても肌身離さず持っておきたくて……』


 その言葉通り、くすんだアネモネの押し花を見つめるモニカの瞳は穏やかだった。令嬢とは、よほど心地の良い時間を過ごしたのだろう。文字を教えてもらったことがよほど嬉しかったのかもしれない。


「……父上は、その令嬢のことを思い出したくないから、この城に妙な禁忌を生み出したのだろうか」


 悲しくて歪んだ恋を、二度と思い出さないために。令嬢を思い起こさせる全てをこの城から奪ったのだろうか。


『……そのようにも考えられますが、幼い頃から陛下のお傍に仕えた者の一意見といたしましては……』


 モニカは、ヘーゼルの瞳で真っ直ぐに僕を見据えて告げた。


『恐らく、レイラ様を完全にご自分のものになさるためかと。レイラ様にまつわる色や花にすら、誰にも触れさせたくないのだと……そう考えておられるのではないかと、私は思います』


 アネモネの花も菫色も、亜麻色の髪も瞳も、存在するのは書斎の中だけでいい。アネモネが陽の光を受けることも、菫色が揺らめくことも、レイラ嬢以外の亜麻色の髪と瞳が城内にあることも、何もかも許せないくらいに今も令嬢に執着しているというのなら、その想いは大したものだ。ある意味病気と言ってもいいくらいの激情だ。


「……僕が生まれたのは本当に奇跡だな。王族の義務を果たしただけ上等なのかもしれない」


 吐き捨てるように笑えば、モニカは困ったように眉を下げる。普段はこんな嘆きを人前で口にすることなんてないのに、つい感情的になってしまった。


『たとえ政略的な思惑の下にお生まれになったのだとしても、私は殿下とお会いできたこと、とても光栄に思います』


 モニカは困ったような微笑みのまま、一生懸命手を動かしてそんな優しい言葉をかけてくれた。


『殿下と王妃様を見ていると、とても温かな気持ちになります。……本当は、陛下もお二人に目をお向けになればよろしいのにとも思いますが……』


「まあ、無理な話だろうね。それだけレイラ嬢に執着しているんだ。僕らに向ける感情なんて、もう残されていないだろう」


 この城の禁忌の秘密を知れば、15年間感じ続けた疎外感から解放されるかもしれないと思っていたのに、何だか余計に空しくなったような気がする。途端に、この城の空気が重苦しく思えてならない。


『……その分の想いを、殿下の周りの方々が補ってくだされば、と祈ることしか出来ません』


 モニカは慈しむように僕を見ていた。僕に様々な感情を教えてくれたのは、恐らくモニカ張本人であるというのに、彼女にはその自覚がないらしい。


「ありがとう、モニカ。……秘密を話してくれたことにも感謝しているよ。そのリボンのことも栞のことも、もちろん誰にも言わない」


『ありがとうございます、殿下』


 モニカはリボンと栞を挟み込んだ手帳を大切そうに胸に抱えて笑った。今は亡き令嬢が、モニカを今もこんな風に幸せそうな笑顔にできることを、少しだけ羨ましく思う。


 父上を狂わせ、モニカを笑顔にする令嬢か。


 会ってみたかった。どれだけ魅力的な人物なのか、あの肖像画だけでは想像が及ばない。


『すっかり日が暮れてしまいましたね』

 

 モニカは窓の外を見据えて、手で合図を送ってきた。確かに夕日はほとんど姿を消しており、空は紫紺色に染まっていた。もうすぐ食事を摂らねばならない時間だろう。


「そろそろ行かないとな……。今日はありがとう、モニカ」


『いいえ。滅相もございません』

 

 席を立ち、モニカは丁寧にお辞儀をする。十歳以上年上の女性だが、やはりモニカはちょっとした仕草が可愛い。モニカを見ていると、先ほどまで感じていた息苦しさが薄れて行く気がした。


「……モニカは、いつも父上の書斎の管理をしているのかい? それとも他にも受け持ちが?」


『陛下がいらっしゃるときは、お茶をお淹れしたりもします。あとは……月影の塔の掃除などの環境維持でしょうか』


「それは結構忙しいね」


『そうでもありません。月影の塔には他の使用人もおりますから』


 モニカはにこりと笑って合図を送った。その使用人たちと、手の合図を使って意思疎通を図っているのだろうか。父上の書斎に他の使用人が立ち入ることが出来るとも思えないし、恐らくそうなのだろう。


 やはり、何となく面白くない。今朝抱いた複雑な感情が、また少し胸の奥で膨らむのを感じながら、それを誤魔化すように窓の外を眺めた。


「それにしても、月影の塔か……」


 ここからは塔は見えない。位置的には、ちょうど父上の書斎からよく見えるのだろう。父上はレイラ嬢を月影の塔に監禁しているときも、あの書斎から眺めていたりしたのだろうか。


 だとしたら、悪趣味だな、とふっと小さな笑みが零れる。幸いモニカには見られていなかったようで、彼女は穏やかな表情で合図を送ってきた。


『使用用途はともかくとして、月影の塔の周りはとても美しいのですよ。名前の通り、月の綺麗な夜なんかは特に神秘的です。……あまり近付き過ぎると嫌な記憶ばかり蘇ってしまいますが、遠巻きに眺める分にはとても美しい塔です』


 本当に月影の塔の景色が好きなのだろう。モニカの嬉しそうな顔を見ていると、何だかこちらも気が抜けてしまう。


「そんなに綺麗なら、今度見てみようかな」


『はい。……しかし、夜分ですので、きちんと護衛をお付けくださいね?』


「ああ、分かったよ。心配性だな、モニカは」


 モニカは王太子としての僕を案じてくれているに過ぎないのだろうが、彼女に心配されるのは悪い気分ではない。出来れば、アレンとしての僕を心配してくれるようになればいいのに、とは思うが。


 ああ、いけない。また、見て見ぬ振りをしている感情の芽が育ちそうだ。思わず胸に手を当てて、誤魔化すように笑った。


 そのまま図書室の出口に向かって足を勧めながらモニカと話しているうちに、先ほどまで感じていた空しさも息苦しさも、不思議と忘れることが出来た。やはり、モニカはすごいな、と心の中でまた一つ彼女に好感を抱きながら、それを悟られぬように今日もこの感情に蓋をするのだった。

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