第3話

「あのメイドなら、いつも城の北の棟へ向かっているようですよ」


 図書室の管理人は、例に漏れずどこか僕に怯えたような顔をしながらも、モニカの行方を教えてくれた。北の棟と言えば、父上の書斎や私室がある私的な場所だ。用事が無い限り使用人も好き好んで近付く場所ではないだけに、モニカがそちらへ向かったのは意外だった。


 北の棟なんて、僕でさえもあまり行くことが無い。父上の私的な空間なだけに父上と顔を合わせる確率も高いから、自然と避けていた。別に顔を合わせたところであからさまに避けられるわけではないのだが、父上の蒼色の瞳に浮かんだ嫌悪は、確かに僕を拒絶していた。


 思えば、あまり感情を表に出さない父上が僕にはあのようなはっきりとした嫌悪を向けるというのも不思議な話だ。人に無関心なことが多い父上だが、ある意味では僕のことを気に留めているということなのだろうか。


 そんなことを考えて、一人自嘲気味な笑みを零した。


 やめよう。これでは父の愛を得られずに苦しんでいる子供のようじゃないか。僕はもう15歳なのだし、父上に嫌われていたところで僕のことを愛してくれる人は他に沢山いる。これ以上何を望むというのだ。


 使用人の姿が視界に入ったので、慌てていつも通りのにこやかな笑みを繕った。一人自嘲気味な笑みを浮かべているところを見られては、余計に怯えられてしまうに違いない。その配慮からの笑みだったが、相変わらず使用人は終始怯えたように体を固くさせている様子だった。


「王太子殿下、こちらに何か御用でしょうか」


 北の棟に差し掛かったころ、かなり年配の父上の従者に不意に声をかけられた。父上が子供のころから父上に仕えている、熟練の執事だ。


「少し、人を捜しているだけだよ」


「……御用がある者がいるのでしたら、お申し付けくだされば私が連れて参りますが」


 それも一つの手かもしれない。このまま父上の私的な空間をうろつくよりは彼の申し出を素直に受け取ったほうがいいだろう。だが、そう考えた瞬間、ふと廊下の角をメイド服姿の赤毛の女性が通りすぎて行く姿が目に入った。間違いない、あれはモニカだ。


「ちょうど見つかったから、その必要はないよ。悪いね」


 年配の執事にそれだけ告げると、僕はモニカの姿を追って足早にその場を後にした。早くしないと、この広い城の中では彼女の姿を見失ってしまう。走りたい気持ちもあったが、そんなことをすれば使用人たちを驚かせてしまうだろうからぐっと我慢する。


 モニカの後姿を追っているうちに、僕はどんどんと北の棟の奥へ導かれていた。この先は、僕も数えるほどしか立ち寄ったことが無い。何せ、父上の書斎がある場所なのだから。


 父上の書斎は、ごく限られた人間しか入れないことで有名だ。そもそも滅多に人を入れることは無いのだが、入室が許可されているのはシェリルの御父上であるエイムズ公爵と先ほど僕に声をかけてきた執事くらいなものだ。母上でさえも、書斎に入ったことが無いという。


 公務に関わる大切な書類などがあるためだろうと予測しているが、僕はともかく母上にも入室を許可しないというのには驚いた。誰にだって自分だけの空間は必要だと思うが、本当に冷え切った関係の夫婦だと思う。僕が生まれたのは奇跡だったと言ってもいい。


 もうすぐ、モニカに声をかけられる距離に辿り着く。そう思った矢先、モニカはある部屋の前で立ち止まった。


 これは好都合だ。仕事が一段落しているようだったら、この手帳に挟まれていた菫色のリボンのことを尋ねてみよう。そう思い、僕は彼女との距離を詰めた。


 だが、モニカが立ち止まっている部屋の正体に気が付いたとき、思わず足を止めてしまう。


 そこは、父上の書斎だった。そう、エイムズ公爵と年配の執事しか立ち入ることが許されない、この城で最も秘められた部屋の前に、彼女は立っていたのだ。


 モニカは簡単な掃除用具などを手にしているようで、ドアをノックしたかと思えばそのまま父上の書斎の中へと入っていった。今、確かに自分の目で見届けたその光景に、思わず息を飲む。


 モニカは、あの部屋への入室を許されるような立場にあると言うのか。城内でモニカの姿を見ることが少なかったのは、彼女が父上付きのメイドだからなのだろうか。その推察に、自然と脈が早まっているのを感じる。


 書斎の中に消えていったモニカを、そのまま追うことは出来なかった。ただ、代わりに書斎の扉の傍まで近づいて、どうするべきかと逡巡する。父上は、今は公務で謁見の間にいるはずだ。モニカは、主不在の書斎へ入室することが許可されているメイドということになる。


 掃除という名目であれば、それは別に珍しいことでもないのだが、やはりこの書斎だけは別だ。もっとも、父上が使用人の真似事などするはずもないのだから、誰かがこの秘められた部屋の環境を維持しているのは当然なのだけれども、その「誰か」がモニカだったなんて思わなかった。


 だから、モニカはあまり仕事のことを口にしなかったのだろうか。ごく普通のメイドだと思っていたモニカに意外な職務が課せられていることに、やはり心の中はなかなか落ち着かなかった。


 菫色のリボン、アネモネの栞、父上の書斎に入ることが出来るモニカ。今日はどうにもこの城の秘密に触れ続けているような気がして気分が落ち着かない。


 だが、このままここで待っているというのもあまりに情けない。モニカは忙しそうだから、話をすることは諦めるにしても、せめてこの手帳だけは返さなければ。


 意を決して、飾りのついた重厚な扉をノックする。防音性に優れているのか、室内にいるであろうモニカの足音一つ聞こえず、妙に早まった心臓の音だけが意識させられた。


 返事もなく、ゆっくりと開かれる扉に、思わず唾を飲み込んだ。その扉の先でヘーゼルの瞳を丸くしてこちらを見つめるモニカの姿を見て、未だ信じられないような気持ちを抱いてしまう。


 書斎の中には、鮮やかな夕日が差し込んでいた。重要な書類などが散乱してることだろうと思ったが、仕事をするにはあまりにも質素な室内で、棚に並べられている本も公務のためというよりは小説などの私的なものが多い。


 だが、何より僕の目を奪っていたのはある一枚の絵だった。


 夕日に照らされた一枚の肖像画。そこに描かれている人物を見て、「どうして」という思いでますます頭が混乱する。


 そう、その絵にはこの城の禁忌の全てを身に纏った、とても美しい少女が描かれていたのだ。品のよい亜麻色の髪を結いあげて、菫色の上質なドレスを纏い、アネモネの花束を手にした可憐な令嬢の肖像画だった。


 あまりの衝撃のせいか、随分長い間その絵を見つめていたように思ったが、実際にはほんの一瞬のことだったのだろう。モニカは僕の姿を認めると、青ざめた顔で詰めより、そのまま後ろ手に慌てて書斎の扉を閉めてしまう。いつも穏やかな彼女が、取り乱しているのだと分かった。


「あ……ごめん、モニカ。これを、届けたくて……」


 口では謝罪していたが、頭の中は一瞬だけ目に入った肖像画のことで一杯だった。あらゆる疑問がぐるぐると巡って、妙に現実味が湧かない。


 モニカは差し出した手帳に触れることも無く、僕を睨むようにして手を動かした。


『ご覧になりましたか?』


「……何を?」


『……書斎の中の絵を、です』


 いつになく気を張りつめたようなモニカが、素早く手を動かし合図を送りながら僕に問うてくる。


 きっと、あれは見てはいけないものだったのだろう。それを察するくらいに、確かにあの肖像画は衝撃的だった。


「……ごめん、見たよ。綺麗な、ご令嬢の絵を」


 モニカは、書斎の扉を後ろ手に閉めたまま、軽く俯いていた。その姿を見て、もっと真剣に謝罪するべきだと悟ったのに、口をついて出たのは好奇心から来る質問だった。


「あれは……一体誰? 父上とどういう関わりがあるご令嬢なんだい?」


 少なくとも、社交界で似たような女性を見かけたことが無い。昔の肖像画なのかもしれないが、あのような美しい亜麻色の髪を持つご婦人ならば、この城の禁忌のことも相まって確かに記憶しているはずなのに。


『殿下には、関係の無いお話です』


 それは、モニカにしては珍しい拒絶の姿勢だった。だが、あれだけ禁忌を体現した女性なのだ。何かしらの深い因縁があるのだろうと推察されるだけに、僕もそのまま引き下がるわけにはいかなかった。


「誰にも言わないよ。僕にだけ、教えてくれないか、モニカ」


 何となく、この城で僕が15年間感じていた疎外感のようなものの原因が、あの絵に描かれた少女にあるのではないかという気がしてならないのだ。それだけに僕も必死だった。


「……仲間外れはもう嫌なんだ、モニカ。頼むよ……」


 そっとモニカの手を握って、懇願する。狡い方法だと自分でもよく分かっている。声の出せない彼女の両手の自由を制限することは、言葉を奪うことに等しい。


 モニカの手は、とても温かくて柔らかかった。微かに震えているような彼女の指先を、落ち着かせるようにそっと包み込む。


 いつの間にか、僕の手の方がモニカの手よりも大きくなっていたらしい。時の流れを痛感しながらも、モニカのヘーゼルの瞳を覗き込むようにして、彼女の答えを待った。


 夕暮れの中、人に見られたら誤解を招きそうな体勢のまま時間が過ぎて行く。二人分の影が僅かに傾いたころ、モニカはようやく、弱々しく首を縦に振った。そのまま僕の手の中から逃れるようにして手を動かすと、どこか頼りなさげな様子で合図を送ってくれる。


『長くなりますので、図書室へ参りましょう』


「……いいのかい、モニカ」


 モニカはまるで少女のように弱々しく微笑むと、ゆっくりと合図を送ってきた。


『……はい。私も、本当は殿下にお話ししたかったのかもしれません。あの可憐な姫君と陛下の悲劇を』


 その表情に、どくん、と心臓が跳ねた気がした。こんな状況だというのに、秘密を僕と共有しようとしてくれていることに甘い感情を覚える自分がいる。


 一方で、悲劇、というモニカの言葉選びに緊張感は高まっていた。僕はこれから、この城の禁忌の秘密を知るのだろう。モニカが教えてくれる気にならなければ、一生知り得なかったことかもしれない。そう思うと、多少強引な形になったとはいえ、秘密を教えてくれるモニカに感謝の念が耐えない。


「……ありがとう、モニカ」


 モニカの曖昧な微笑みを見つめながら、思った通りの礼の言葉を口にする。モニカは僕を見つめて、やっぱり弱々しく微笑んだだけだった。


 そのまま僕は彼女と二人、夕暮れの光の中を並んで歩きながら、人気のない図書室へと向かったのだった。 

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