後編
それから一月ほどが経って、ルイスとレイラ嬢の婚約は解消された。レイラ嬢が目覚めない今、遅かれ早かれこうなっていただろう。次代の国王となるルイスの婚約者は、眠り姫には務まらないのだ。
代わりにルイスの新たな婚約者となったのは、レイラ嬢の妹のローゼ嬢だった。社交界一の美少女と名高いローゼ嬢だったが、残念ながら彼女にまつわる良い噂はあまり聞かない。当然、ルイスの心の傷を癒せるような令嬢ではなかった。
いや、ルイスを救えるのはきっとレイラ嬢しかいないのだろう。それを確信するくらいに、ルイスはゆっくりと壊れ始めていた。
いつからかルイスの書斎にはレイラ嬢の大きな肖像画が運び込まれ、レイラ嬢との面会を禁じられたルイスは暇さえあれば書斎にこもり、絵の中のレイラ嬢を眺めているようだった。
あのまま書斎にいたら、ルイスは本当におかしくなってしまう。友人の心が壊れて行く音を聞きながら、俺は何とかルイスの正気を保とうと必死だった。何かと理由をつけてルイスを書斎から連れ出そうとするのだが、なかなか彼は応じない。
「ルイス、たまには外の空気でも吸いに行かないか。王城の裏庭の葉が色づいていて綺麗だぞ」
その日も、俺はそんな他愛もない理由をつけてルイスを散歩に誘いにいった。三日ぶりに訪れた書斎の中は甘ったるい花の香りで満ちていて、花でも飾ってあるのかと辺りを見渡したが、ルイスの姿を視界に収めるなり絶句してしまった。
ルイスは、レイラ嬢の肖像画と向かい合うようにして椅子に座りながら、見事な菫色のアネモネの花を握りつぶして項垂れていたのだ。ルイスの周りには変色したアネモネの花弁が数えきれないほど零れ落ちていて、彼が千切ったのだということは容易に想像がつく。
「ルイス……お前……」
アネモネの花は、レイラ嬢の好きな花だ。ルイスはレイラ嬢と婚約して、レイラ嬢がアネモネを好んでいると知るなり、王城の温室に、国で一番見事な品種のアネモネを植えさせたのだ。温室の管理になんて一切口を出さないルイスが、アネモネだけは絶対に枯らさないように、と庭師に特別に気にかけるよう命令していたことも知っている。レイラ嬢の見舞にも持っていった、大切にしている花のはずだった。
「こんなに摘んだら、温室のアネモネは無くなってしまうんじゃないのか……」
「……レイラが目覚めないなら、もう何の意味もない花だ。むしろ、レイラを思い起こさせる分、質が悪い」
そう呟いて、ルイスは握りしめていたアネモネの花を千切って捨てた。花を慈しんでいるレイラ嬢が見たら、眉を顰めそうな光景だ。
「やめろ、花に当たったって仕方ないだろ……」
俺なんかの言葉が、今のルイスに届かないことは分かっている。だからと言って、彼の正気を保つことを諦めていい理由にはならない。
ルイスは、ぱらぱらと手のひらから零れ落ちて行くアネモネの花弁を虚ろな目で眺めていたが、やがてレイラ嬢の肖像画を見上げて小さく笑った。決して心地の良い笑みではない。狂気に囚われて足掻く、見ていて苦しくなるような笑みだった。
「……君が悪いんだ、レイラ」
明らかな憎しみのこもった声で、ルイスはぽつりと呟いた。何なら殺意さえ窺わせるような声だ。思わず、今も眠っているレイラ嬢の身を案じてしまう。
もしかするとレイラ嬢は、このまま眠っていた方が幸せなのではないだろうか。ついさっきまで、一刻も早くレイラ嬢が目覚めることを望んでいたというのに、ルイスのこの様子を見ていると不安に駆られて仕方がない。
ルイスのあの狂気は、アネモネの花を散らすことに留まらず、いつかレイラ嬢を傷つけるのではないか。ただの悪い予感であってくれと願いながら、俺はただ、目の前の友人の行く末を憂いだのだった。
そして、レイラ嬢が眠りについてから2年ほどたったある日のこと、その知らせは突然にやってきた。
レイラ嬢が、目覚めたのだ。約2年の眠りを経て、ようやく、ようやく目覚めてくれた。
レイラ嬢とは直接のかかわりは少ない俺だったが、ルイスの友人としてそれはもう喜んだものだ。正直、初恋の相手が目覚めたという感動よりも、これでルイスが救われるという気持ちの方が大きかった。
そのころにはローゼ嬢が身ごもっていたので、ルイスとレイラ嬢が婚約を結び直せないことは明白だったが、レイラ嬢が生きて笑ってくれているだけでも、ルイスは随分救われるはずだ。実際、レイラ嬢が目覚めたという知らせを受けたルイスは約2年ぶりに穏やかな表情を見せ、俺もひどく安心したのをよく覚えている。
だが、その喜びは束の間のことで、一月と少しが経とうかという頃、レイラ嬢は公爵家から姿を消してしまった。これを悲劇の引き金というにはあまりにレイラ嬢が不憫だが、ルイスの心を再起不能なまでに壊したのはレイラ嬢のこの行動だったと言ってもいいだろう。
「レイラが僕から逃げきれるはずがない。見つかるのは時間の問題だろう」
レイラ嬢の肖像画にそっと触れながら、ルイスは笑った。この2年間見せていた消え入りそうな笑みとは違って、よく言えば意欲的にも捉えられる表情だった。
「……レイラ嬢を見つけてどうするんだ? 公爵家に帰すのか?」
「まさか」
ルイスは笑みを浮かべたまま、書斎の窓から覗く王城の傍の塔に視線を向けた。あれは、確か高貴な身分の罪人などを捕らえておく場所だと聞いたことがあるが、あまり詳しいことは知らされていない不気味な塔だった。
お前は、レイラ嬢をあの場所に閉じ込めるつもりなのか。ろくに存在も知られていない、月影が美しいだけのあの寂しい塔に。
そう尋ねてみたところで、ルイスは答えをはぐらかすだけだろう。何より、これは口に出してはいけない質問のような気がして、どうしても声が出て来なかった。
彼の親友を名乗る立場であるならば、ここで「やめろ」というべきだったのかもしれない。だが、レイラ嬢を手元に置くことでルイスが安定するならば、という打算的な考えを抱いてしまったことも事実だ。それは一人の臣下としての考えであると同時に、この2年苦しみ続けたルイスが報われてもいいのではないか、という憐れみから来る想いでもあったかもしれない。
「アーロン、お前は賢いな。余計なことは口にするなよ」
ルイスは、俺にどこか冷えた一瞥をくれてふっと笑うと、再び窓の外の塔に視線を送った。ルイスは、口に出さないだけでこちらの考えをよく読んでいる。あまり敵に回したくない相手だ。
「……楽しみだな、レイラはどんな顔をするだろうか」
ルイスは窓ガラスに軽く寄りかかるようにして姿勢を崩すと、どこか恍惚に似た、歪んだ熱を帯びた瞳で微笑んだ。
あの可憐な少女は、ルイスのこの歪みを受け止め切れるのだろうか。
ふと、そんな不安に襲われる。両方とも壊れる終焉だけは見たくないな、と俺が願ってみたところで、既にこの悲劇は止めようがないのだろう。
この際、俺はもうレイラ嬢の心情はどうでもよかった。レイラ嬢は初恋の相手ではあるが、それ以前に俺はルイスの友人なのだ。
レイラ嬢、可哀想だが、一日も早くルイスの手に堕ちてくれ。神様とやらに祈るとすれば、ただその一点に尽きた。ルイスに愛された時点で、レイラ嬢が自由の身になどなれるはずもなかったのだ。
不意に、かつて軽々しく考えた「国王に溺愛される王妃様」なんていうルイスとレイラ嬢が迎えるはずだった未来の姿が思い浮かんで、どうしてか泣きたくなった。
俺はそんな二人を見て、傍でからかってやろうと目論んでいたのにな。「相変わらずルイスは素直じゃないな」と言えばルイスは冷ややかな視線をよこすのだろうし、レイラ嬢の美しさを褒め称えれば彼女は可憐な笑みを見せてくれるのだろう。
そんな未来があるはずだった。それなのに、予定調和の幸せは、あの事故の日に跡形もなく散ってしまった。
「……レイラ嬢、早く見つかるといいな」
そう呟いた俺の声は震えていた。悲しいのか悔しいのか、自分でもよくわからない。このやり場のない空しさを、どこに向けたら良いのだろう。あまりに苦い思いを噛みしめながら、俺はルイスの書斎を後にしたのだった。
それから、ルイスとレイラ嬢の間に何があったのかは、実のところよく知らない。俺が公爵家の仕事に追われていたからというのは、多分言い訳に過ぎないのだが、ルイスと顔を合わせる機会があまり無かったのだ。それに、万が一、レイラ嬢を捕らえたなんて告げられたら、どんな表情をするべきなのか分からないから避けていたというのも事実だ。
でも俺は、結局のところ、この悲劇を見届けるように神様とやらに定められていたのかもしれない。ルイスを避けていたにもかかわらず、あの決定的な夜に彼と遭遇してしまったのだから。
その日、俺は調べ物と話し合いが長引いて、珍しく日付が変わるまで王城にいた。月の綺麗な夜で、静まり返った王城の廊下を使用人と共に歩いていた時のことだった。
俺は、真夜中の廊下で、ルイスと出くわしたのだ。彼は直属の騎士二名を連れて、書斎に向かっているようだった。
騎士と使用人の目もあるので、ここはきちんと公爵家の人間としてルイスに敬意を示す。深く腰を折りながら、ありきたりな文言を口にした。
「こんばんは、王太子殿下。月の美しい夜ですね」
「ああ、いい夜だな」
礼をしたままなのでルイスの表情は窺い知れなかったが、妙に上機嫌な声だった。このところルイスに会っていなかったとはいえ、不安定な面ばかり見せていた頃との差が激しいその声には違和感を覚える。
「お前たちは下がれ。今夜はもういい」
顔を上げた先で、ルイスは傍にいた騎士たちに指示を下しているようだった。忠誠心の厚い騎士らしく、短い返事を返すとすぐにこの場から去って行く。
「……先に戻っていてくれ、少し話をしてから行く」
「かしこまりました」
ルイスが人払いをするのは、私的な話やレイラ嬢絡みの話をするときだと決まっている。俺も空気を読んで、使用人を下がらせたところでルイスとの距離を詰めた。
「……いい夜だ、本当に」
ルイスは廊下の窓から月の光を見上げて、どこか満足そうに笑みを深めた。その表情は、レイラ嬢の事故が起こる前に見せていたものとよく似ている。何か心境の変化があったのだろうか。久しぶりに見た安定した友人の表情に、安堵を覚える。
「清々しい表情をしているじゃないか。何かいいことでも――」
そう尋ねようとしたとき、ふと、ルイスの纏う空気に血の香りが混じっていることに気が付いた。「王太子殿下と公爵子息」の距離では気づけなかったくらいだから、本当に微かなものなのだが、確かに血の臭いがする。王太子が血の気配を纏って歩いているなんて不穏にもほどがある。
「いいこと? ああ、あったよ。もしかすると今日が人生で最良の日かもしれないな」
ルイスが珍しく饒舌なのも、余計に俺の不安を煽った。思わず彼の姿を凝視してしまう。公務に出かける時ほど堅苦しくないが、王太子としては相応しい質の良い衣服で特に違和感は覚えない。
ただ、刺繍の施されたコートの下から僅かに見えたシャツの袖口部分に、不自然な赤黒い染みがあることを除いては。
血の臭いと袖口についた赤黒い染み。それも、本来血なまぐさいこととは無縁であるはずの王太子である彼が、それを纏っているなんて。
嫌な、予感がする。何が、とは言えないが、もしかすると俺が長年見守り続けた物語は、最悪な形で終わりを迎えたんじゃないだろうか。
自然と、指先が震えだす。ああ、今、レイラ嬢はどこにいる?
「……ルイス、お前……」
いや、いくらルイスに歪んだ部分があるとはいえ考えすぎだろう。早く、早くこの俺の愚かな考えを否定してくれ。
思わず縋るような目でルイスの蒼色の瞳を見据える。普段、これだけ真っ直ぐに彼と向き合ったことは無い。ああ、こいつはこんなにも、冷たく、翳のある表情をしていたんだな。
「……今夜以上に満たされる夜は、永遠に来ないだろうな」
そう笑ったルイスの頬には、乾いた涙の後があった。ルイスとは十数年来の友人だが、彼が涙を流す場面なんて一度も見たことが無い。それほどに彼の心を動かす「何か」が今宵、彼の身に起こったということだ。
満たされたと言う割には、その笑みに計り知れない空虚が含まれているように見えるのは、きっと俺の気のせいではないだろう。
「――今夜、レイラは、僕だけのものになったのだから」
身震いするほどに端整な笑みで、目の前の友人は確かにそう言い放った。「レイラは僕のものだ」と言う台詞はもう何千回と聞いてきたが、この言い回しは初めてのことで、それが、俺の不安が的中していることを何よりも物語っている気がしてならない。
ルイスはその台詞を最後に、狂気を思わせる微笑みを湛えたまま、俺とすれ違うようにして去って行った。後に残ったのは不気味なほどに美しい月影と、彼が微かに纏わせていた血の気配だけ。
ああ、そうか、この血は、きっと――。
――あなたの物なんだな、レイラ嬢。
「……なるほどな、それで、『僕だけのものになった』、か」
何も可笑しくなんてないのに、不思議と乾いた笑い声をあげてしまった。嘲笑にも近いその笑みは、こんな結末しか選べなかった友人を笑っているのか、初恋の人があいつの狂気に飲まれて壊されることを止められなかった自分を責めているのか、俺にはもうわからない。
この血さえも、甘ったるいアネモネの香りを纏っているように思えるのは、初恋の相手に夢を見すぎな証だろうか。
「あーあ……可哀想になあ、レイラ嬢」
あいつにさえ愛されなければ、きっと幸せに生きていけたのに。
不意に零れ落ちた一粒の涙が、銀色の光を反射させて床に吸い込まれていく。
俺は、誰も救えなかった。初恋の人も、友人も。俺は最後まで、この悲劇の傍観者でしかなかったのだ。
レイラ嬢が修道院で亡くなったという知らせを受けたのは、酷く空の美しい、明くる日の夕暮れのことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます