番外編6 王太子アレン・アルタイルの考証

第1話

 完璧な人だと思っていた。


 あの日、月影の中で笑うあの人の姿を見るまでは。



 


 神に愛され、御伽噺の魔術師たちが作り上げた王国アルタイルの第一王子として、僕、アレン・アルタイルは生まれた。アルタイル王家の象徴である銀色の髪と蒼色の瞳という形質を色濃く表した厳格な父、国王ルイス・アルタイルと、海が美しい異国から嫁いできた母、正妃カトリーヌ・アルタイルのもとに誕生した僕の生まれには一点の汚点もなかった。


 そして「王家の直系子孫は必ず銀髪蒼瞳を持つ」という迷信じみた、それでいて一度の例外も無い法則から外れることなく、僕もまた銀髪で蒼色の目を持っていた。


 そう、傍目には「国王陛下の生き写しだ」と言われるくらいに、僕はアルタイル王家の特徴をよく表しているのだ。


 父上の生き写しだ、と言われることに大きな不満はない。身内の目で見ても父上は整った顔立ちをしているし、社交界ではご婦人方が父を見つめては見惚れているような素振りを見せることも多々ある。そんな父に生き写しだと言われるのは、間接的な誉め言葉だと受け取ってもいいだろう。


 だが、父上はどうにも厳格過ぎて冷たい印象を受けるから、実は少し苦手なのだ。日々堅実に公務をこなしている父上を尊敬してはいるのだが、あの、冷たい蒼色の瞳がどうにも苦手で仕方がない。


 せめて、瞳くらいは母の美しい琥珀色を受け継ぎたかった、などと子供じみた不満を飲み込んで僕は鏡から視線を離した。僕を呼びに来たメイドの姿が、鏡越しに目に入ったからだ。


「アレン王太子殿下、ご朝食の準備が整っております」


 慎ましく、余計なことを一切口にせずに礼をするメイドの姿をじっと見つめる。彼女は、深い茶色の髪を余すところなく一つに結い上げていた。この城でよく見かける、堅実なメイドといった雰囲気がよく出ている。


「分かった、今行くよ」


 軽く微笑みかければ、メイドは一瞬怯えたような顔をして慌てて礼をする。これももう慣れたことだ。何も使用人たちに冷遇されているというわけではないのだが、「厳格な国王」に生き写しの僕は、彼らにとっては畏怖の対象らしいのだ。


 確かに父上は厳しい人だ。裏切者には容赦のない罰を下すと聞いたことがある。でも、真面目に働いている彼女のような者たちは手ひどく扱ったりしないはずなのに、使用人たちにここまで畏れられる理由はよく分からなかった。


 父上に言わせれば、余計な勘繰りだろうな、とどこか自嘲気味に笑いながら朝食の会場へと向かう。今日も、いつもと同じような朝が幕を開けた。





「この魚! ミストラルの海で見たことがあるわ、懐かしい……」


 長いテーブルの端で華やいだ声を上げて、母上は朝食についていた色鮮やかな魚を褒め称えていた。確かに、色合いからしてこの国で摂れる魚ではない。王妃を喜ばせたい料理長が、わざわざ母上の母国の魚を取り寄せたのかもしれない。


「母上は、よく海に行かれていたのですか?」


 鮮やかな赤い髪を揺らしてはしゃぐ母上に微笑みかけながら、取り留めもない話をする。母上の向かいの父上の席は、今朝も空いたままだ。


「そうね、遊ぶといったらまず海だったわね! いつかアレンにも見せてあげたいわ」


 母上は、まるで少女のような無邪気さで満面の笑みを僕に返してくれる。正直に言って、王妃として際立った何かがあるわけではない母上だが、僕の母親としてはとても優しい人だった。母上は、遠い母上の母国の話をよく聞かせてくれる。滅多に城から出ない僕にとっては、母上のどんな些細な話もとても新鮮で面白かった。


「母上は王女様だったのに、お転婆だったのですね」


 なんとなく、母上の少女時代は想像がつく。無邪気にのびのびと、毎日を楽しく過ごしていたのだろう。


「お転婆というなら、シェリル嬢もそうだわ。今日あたり、またあなたに会いに来るんじゃないかしら?」


 母上は小魚の最後の一口を口に運んで、どこか茶目っ気のある笑みを見せた。


「そうですね……。この間会ったのが三日前ですから、確かにそろそろ来てもおかしくありません」


 シェリル嬢は僕の幼馴染であり、五年前、僕が十歳のときに婚約者となった令嬢だ。父上の親友であるエイムズ公爵家の当主の息女で、気の強い快活な少女だった。今は将来の王妃となるための教育を、何だかんだ文句を言いながら立派にこなしている。


 正直に言って、恋愛感情があるかと言われれば微妙な線だが、シェリルとは間違いなく上手くやっていけるだろう。嬉しいことに、シェリルは僕をとても慕ってくれているようだから、これからさらに婚約者としての時を重ねて行けば、いつしか恋情だって芽生えるはずだ。


「仲良しなのはいいことよ! シェリル嬢が婚約者で、本当に良かったわね」


 母上は、何の他意もない笑みを見せて僕の幸福を喜んでくれる。やはり、王妃としては少々能天気な人ではあるが、僕にはそれが嬉しかった。


 それと同時に、今朝も空席のままの父上の席を見つめてしまう。もう何年も、父上と一緒に朝食を摂っていない。


 父上と母上の関係は、まさに政略結婚といった雰囲気を醸し出す、どこか冷え冷えとしたものだった。恋愛感情が無いのはお互い様のようで、父上が滅多に顔を出さないことを、心優しい母上が気に病む素振りが無いのだけは幸いかもしれない。


 こんなにもお優しいお心をお持ちの母上を、どうして父上は愛されないのだろうと疑問に思ったこともある。王侯貴族の結婚は、殆どが政略の下に行われるのは仕方のないことなのだから、せめて伴侶となった相手を慈しむ努力をなさればいいのに、とどこか他人行儀に考えていたこともあった。


 幼い頃、僕は不躾にもそんな考えを母上にぶつけたことがある。今思えば無神経にも程がある言動だと思うが、それを簡単に許してしまうのが幼さに付随する残酷さだ。母上は幼い僕の頭を一度だけ撫でると、小さく微笑んで「内緒よ」と言いながら僕に父上の抱える秘密を教えてくれた。


 母上の内緒話によると、父上には、母上を妃に迎える以前に、それは美しいお妃様がいらっしゃったらしい。王国アルタイル有数の公爵家から嫁いだその妃は、白金の髪に宝石のような青い瞳を持つ、「アルタイルの秘宝」とまで謳われた絶世の美女だったそうだ。


 だが、父上とその美しいお妃様の幸せな時間は長くは続かなかった。お妃様は、お世継ぎをお産みになる際に、その御子もろとも命を落とされたのだ。


 美しいお妃様がお亡くなりになった知らせは、王国中を悲嘆の一色に染め上げた。お妃さまのご両親である公爵夫妻に至っては、失意のあまり心と体を病み、お妃さまの後を追うように帰らぬ人になってしまったほどだ。それくらい、誰からも愛されるお妃様だったのだ。


「きっと、陛下はそのお妃様を心から愛しておられたのでしょうね。最愛の姫君と御子を同時に失った悲しみが、陛下の御心を閉ざしてしまわれたのだと思うの」


 だから、私はいいのよ、と母上は小さく笑った。何がいいのか幼い僕には分からなかったが、父上に必要以上に接触しないのも母上なりの優しさなのかもしれない。母上は父上に恋をしていないことは確かだろうが、それでも愛情のようなものは確かに抱いているのだとそのときに知ったものだ。


 もっとも、冷めた夫婦関係とは言っても、父上は公の場で母上をきちんとエスコートするし、母上の望みは常識の範囲内なら何でも叶えている。だから傍目にはそこそこ円満な夫婦に見えているかもしれない。僕という王子を産み、求められるだけのことはしているのだから、実情を知っている周囲も特に何も言わなかった。


 多分、父上は母上や僕と関わるのが苦しいのだろう。失った愛するお妃様のことを、父上が声を聴くことも無く命を落とされた御子のことを、どうしたって思い出してしまうのだろうから。そしてその傾向は、亡きお妃様と真逆の鮮やかな赤毛を持つ母上よりも、僕に対してとても顕著に表れていた。


 ごく稀にではあるけれども、父上は母上の明るさにつられてふっと笑ったりすることもある。だが、父上が僕に笑いかけてくださったことは一度も無いのだ。


 最愛のお妃様との間に誕生した御子はお亡くなりになってしまったのに、政略結婚で結ばれた母上との間に生まれた僕がすくすくと育っている様を見れば、複雑な想いを抱くこともあるだろう。しかも僕は父上の生き写しとまで言われるほどに父上にそっくりだから、僕の存在をどこか図々しくも思っているのかもしれない。とにかく、生まれにしても姿にしても、僕は父上に好かれるような素因が無いのだ。


 だが、それを不幸とは思わない。むしろ僕の環境は、一国の王子としてはとても恵まれたものだと思っている。優しい母、僕を慕ってくれる可愛らしい婚約者、忠実に仕事をこなす使用人たち。不満を抱くのは贅沢なくらいだ。


 それに、僕にはもう一人、とても大切な人がいるのだ。今日も「彼女」に会えるかと思うと、自然と心が浮足立ってしまう。

 

「アレンは今日は何をするの? シェリル嬢が来るにしても、まだ時間があるものね。私と一緒に音楽会に行く?」


 母上は、昔から音楽が好きだ。こうして度々楽師たちを集めては、ご友人のご婦人方と小さな音楽会を催している。ドレスや宝石にあまり興味が無い母上にとっては、かけがえのない娯楽の時間だった。


 僕もたまに同行して、母上の母国の楽器の演奏なんかを聴いたりするのだが、実に心地よい時間を過ごせた。だが、今日は「彼女」に会いにいくからお断りしなければならない。


「折角ですが、今日は図書室へ行こうと思っているのです。また、お誘いくだされば幸いです」


「また図書室へ? アレンは偉いわね」


 今日は王太子としての勉強をしに行くわけではないからその言葉を素直に受け取るのは少々気が引けてしまう。ただ、曖昧な笑みを浮かべて受け流すしかなかった。






 朝食を終えて、僕は羊皮紙の束を片手に図書室を目指していた。廊下ですれ違う使用人たちが次々と頭を下げて行くのも、もう見慣れた光景だ。


 そしてすれ違う誰もが、深い色の髪か、極端に華やかな色の髪をしている、ということにも、もう疑問すら抱かなくなってしまった。


 これには、この城のある決まりごとが関係していた。その決まりごとというものは、僕の生まれる前から根付いていたもので、厳格で私情を挟まない父上が、唯一、城の者たちに押し付けた理不尽と言ってもいい。


 その決まりごと――否、いっそ禁忌と呼ぶのが相応しいほどに、この城で忌避されている規則は全部で3つある。


 一つ目は、アネモネの花を飾ること。


 二つ目は、菫色を衣服や装飾品、刺繍などに用いること。


 そして三つ目は、亜麻色の髪や瞳を持つ者が働くこと。


 妙に具体的で、それでいておかしな禁忌だと思う。あの厳格な父上が、こんなよくわからない我儘を城の者たちに押し通したというのが今でも理解できない。


 でも、城の者たちはそれを徹底していた。父上に近い使用人であればあるほど、その三つの禁忌に触れぬよう、細心の注意を払っている印象を受ける。


 使用人の採用を決める際にも、この妙な決まりごとはきっちりと守られていた。傍目には亜麻色とは言えないような髪でも、捉えようによっては亜麻色に見えるというのなら、決してこの城で働かせたりしないのだ。それでもどうしても働きたい、納得がいかないと反論するようであれば、強い酒で髪を脱色するように申し付けるのが習わしだった。


 人の見目など気にしたことも無さそうなあの父上が、そんな些細なことに拘るなんて。本当に父上が言い出したことなのか、と疑ってしまいたくなる。


 アネモネの花はともかく、城の人間から菫色と亜麻色を奪ってまで、父上は何をなさりたいのだろう。好きも嫌いも感情に表わさない父上が、唯一示すその執着にだけは昔から興味があった。


 いつか聞いてみたいと思っているのだが、父上との関係がこんなにも疎遠なものであることを考えると、もしかするとこれは永遠に謎のまま終わるのかもしれない。使用人に訊いてみても、「知らない」と答えるか、固く口を閉ざすかのどちらかなのだから。


 そう、僕に何でも教えてくれる「彼女」でさえも、この禁忌の前には口を閉ざしてしまうのだ。


 ぎい、と大きな図書室の扉が開かれていく。扉を開けてくれた使用人たちに小さく「ありがとう」と呟いて、「彼女」が読書をしているであろういつもの場所へ向かった。


 入口から一番奥にある、日当たりの良い閲覧室。「彼女」はいつもそこで分厚い本を読んでいるのだ。


 今日は、どんな本を読んでいるだろうか。先週は王国の歴史書を読んでいたし、その前は流行の小説を読んでいた。「彼女」はどんな分野の本でも隅々まで読んでしまうのだ。


 「彼女」のことを考えながら入口から閲覧室へ向かうこの瞬間は、いつも少しだけ足早になっているような気がする。お互いそれなりに忙しい身の上だから週に一度しか会えないこともあって、「彼女」と会えるこの時間を、僕は思ったよりも楽しみにしているのかもしれない。


 蔵書棚のある広間と続き部屋になった小さな閲覧室に、そっと足を踏み入れる。本の古びた紙の匂いと、輝くような陽光の中に、今日も「彼女」はいた。


「モニカ、おはよう。今日はどんな本を読んでいるんだい?」


 僕の声に、分厚い本に熱中していた「彼女」ことモニカは、弾かれたように顔を上げる。驚かせてしまっただろうかと申し訳なく思ったけれど、すぐに柔らかな笑みを浮かべたのを見てほっと息をついた。


『おはようございます、アレン王太子殿下。今日は、こちらの本を読んでいるのです』


 僕と二人で少しずつ取り決めた、手を使った合図を送ると、モニカは読んでいた本の表紙を見せてくれた。どうやら、有名な文豪作品を読んでいるらしかった。


「ああ、それ面白いよね。特に、主人公が森に迷い込んだあたりで――」


『駄目です! まだ、内緒にしてください』


 モニカが慌てたように手を使って合図を送ってくるその姿が、どうにも可愛らしくて、思わず笑ってしまった。


 可愛い、なんて、自分より十歳以上年上の女性に対して、失礼な誉め言葉だっただろうか。でも、モニカは年齢を感じさせない純真さがある人だった。




 僕がモニカと出会ったのは、もう十年も前のことだ。あの日、初めて図書室に入った僕は、この部屋で一生懸命に読書をする彼女の姿に目を奪われた。


 幼い僕は、母上によく似た赤い髪を持つモニカに純粋に興味を持ったのだ。始まりは本当に、ただそれだけのことだった。


 モニカがこの城で働くメイドであることは、服装からしてすぐにわかった。赤毛のメイドなんて一度見たらきっと忘れないはずなのに、モニカの姿を見たのはこの日が初めてのことだった。


 無遠慮に近づいた僕に、モニカは親切に接してくれた。王太子とメイドという立場があるのだから、後から考えればそれはモニカにとって当たり前のことだったのかもしれないが、他の使用人たちは父と瓜二つの僕を恐れるのに、モニカは少しも怯えなかったのだ。彼女のその寛容さも相まって、僕はまるで姉が出来たような喜びを抱いたものだ。


 モニカは、生まれつき声を持っていないのだと筆談で教えてくれた。まるで貴族の令嬢が書くような美しいモニカの字に、年下ながら生意気にも感心してしまった。


「綺麗な字だ。モニカの両親はよほど達筆な方だったんだね」


『いいえ、これは……さる高貴なご令嬢に教わったもので……』


 僕の質問にはいつも丁寧に答えてくれるモニカが、このときばかりは言葉を濁した。そのときのモニカの複雑な表情は、いまだに忘れられない。純真な笑顔ばかり見ていただけに、モニカのどこか苦し気なその表情はやけに印象に残った。


 多分、聞いてはいけないことだったのだ。幼いながらに僕はそれを理解した。しつこく追及してモニカに避けられるのは御免だったし、誰にだって触れられたくない事柄の一つや二つあるだろう。それ以上、僕はその話を掘り下げるような野暮な真似はしなかった。


 そうしてそのまましばらくは、僕が話し、モニカが筆談で答えるという方法を取って会話をする日々を過ごしていたのだけれども、僕としては彼女の負担になっているような気がして、少し気が引けていた。

 

 だが、だからと言って姉のように慕うモニカとの会話をやめてしまうのはあまりに残念だ。そこで考え出したのが、こうして手を使った合図で会話をするというものだった。何年もかけて少しずつ言葉と合図を結び付けて、今ではこんなにも流暢な会話をできるまでになったのだ。こんなに嬉しいことは無い。


 モニカとのこの合図づくりは、いわば僕の趣味のようなものだったが、僕の先生がたまたまそれに目をつけ、学者や医師たちが集まる学会で発表してみてはどうかと助言をくれたのだ。正直、そんな大きな話になるとは思っていなかったのだが、このことをモニカに話すと彼女はとても喜んでくれた。


『それは、とても素敵なことですね。私と同じように声を出せない人々が、殿下の手によって救われるかもしれません』


 姉と慕うモニカにそこまで言われたら、もう形にするしかない。先生は早速、発表の場を設けてくれているようだから、それまでに資料をしっかりとまとめておかなければならなかった。





 発表資料の草案である羊皮紙の束を取り出して、モニカの前に置く。彼女はヘーゼルの瞳を瞬かせて、そっと羊皮紙に触れた。


「この間話した発表の資料を作って来たんだ。モニカの意見も聞かせてほしくて」


 そう告げると、モニカは返事の代わりに穏やかに微笑んで、ゆっくりと資料を読み始めた。


 慎ましい美しさのある、綺麗な横顔だ。僕はそのまましばらくモニカの横顔を見つめていたのだが、視線を感じたのか、彼女がちらりとこちらを見たのを機に、慌てて彼女が先ほどまで読んでいた文豪の作品を手に取る。彼女が読んでいたページを見失わないように指を挟んだまま、ぱらぱらとページを捲った。


 モニカが僕をこっぴどく批判するようなことはしないと分かっているが、目の前で自分の書いたものを確認してもらうというのはどうにも緊張する。面白いはずの文豪作品が全く頭に入ってこなかった。



 しばらくして、モニカがとんとんと羊皮紙の束を整える音が響いた。そっと顔を上げてみれば、モニカは柔らかく微笑んで合図を送ってくれる。


『素晴らしい内容でした。これは、先生方もきっと驚いてしまうでしょうね』


「本当かい? どこかおかしなところは無かった? どんな些細な点でもいいんだ」


 不安に思って尋ねれば、モニカは少しだけ思案するように口元に指をあてて羊皮紙を見つめ、やがてぱらぱらと捲って僕に見せた。そこは、合図の具体例を記載した頁だった。


『私の記憶違いであれば申し訳ないのですが、この合図は親指と人差し指で行うのではなく、親指と中指で行うのではありませんでしたか?』


 流れるように合図を送りながら、モニカは具体例の一つを指さした。よくよく確認してみれば、モニカの言う通り二人で取り決めた合図と少々異なった記載をしてしまっている。


「モニカが正しいよ、すごいな……。僕も見落としていたのに」


 具体例なんて、モニカはもううんざりするほど知っているのだから、読み飛ばしてくれても良かったのに。こんな隅々まで読んでくれた彼女の真摯な態度に、胸の奥が熱くなった。


 モニカはただにっこりと微笑んで、僕を見ていた。声なんて出さなくても、彼女が僕を温かな気持ちで見守ってくれていることがよく伝わってくる表情だ。


「ありがとう、モニカ。僕と決めた合図を覚えてくれていて」


 改めて礼を言えば、モニカは驚いたように僕を見つめゆっくりと首を振った。


『お礼を言わなければならないのは私の方です。おかげさまで、殿下とこうして楽しくお話ができます』


「楽しいと思ってくれているのならよかった」


『それに、近頃では仕事仲間たちも簡単な合図を覚えてくれたのです。これだけで、随分手間が減りました。殿下のお陰です』


「合図を……?」


 それはとても喜ばしいことであるはずなのに、モニカが仕事仲間たちとこの合図を使って会話をしているのを想像すると、一瞬、胸の奥がちくりと痛んだ気がした。思わず胸に手を当ててみるが、当然ながらどこも傷ついている様子はない。


 きっと、気のせいだろう。そう決めつけて、慌ててモニカの方へ向き直る。


「……それは良かった。モニカの役に立ててるなら僕も嬉しいよ」


 僅かな沈黙を生んでしまったせいで、モニカは軽く小首をかしげていたが、僕の言葉にどこか安心したように微笑んでくれた。ヘーゼルの瞳を細めるその表情は、年上の女性だというのにやっぱり可愛らしいと思ってしまう。


 メイドらしくきっちりと結い上げた赤毛は、よく見れば母上よりもずっとくすんでいて、華やかとは言い難い色なのだけれども、僕にはその色がどうにも優しく見えてならないのだ。向日葵のようなヘーゼルの瞳も、陽だまりの象徴のようでとても綺麗だと思う。


 そんな風に彼女を褒め讃えたいのに、やはり言葉は今日も口から出て行ってはくれなかった。よくよく考えてみれば、婚約者であるシェリルに対しても言えたことが無いのだ。モニカに言えるはずがない。それに、たかだか15歳の子どもがそんな台詞を口にしたところで、大人なモニカは軽く受け流してしまうだけだろう。


 もどかしいな、何だか。


 胸の奥に芽生えたこの感情の正体は今日も分からないまま、僕は、モニカの隣で穏やかな時間を過ごすのだった。

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