番外編5 狂愛とアネモネ

前編

 俺は、ただ見ていることしか出来なかった。


 親友とも呼ぶべき幼馴染が、美しいアネモネの香りに狂っていく様を。





 エイムズ公爵家の長男として生まれ、幼い頃から人脈を広げることを推奨されていた俺が、王太子であるあいつと出会ったのは8歳になろうかという頃だった。王族と公爵家の子息という堅苦しい肩書に縛られた俺たちは、とても根本的なところで気が合っているような気がして、名前を呼び合う程度にはすぐに親しくなった。


 偶然にも同い年だということもあって、顔を合わせたパーティーでは必ず会話を交わしたものだし、公の場でないところでは砕けた雰囲気で他愛もないことを話すのが楽しかった。それに、同い年ながら冷静沈着で優秀なあいつを、臣下としてそして友人として尊敬していたのだ。


 あいつは何だって完璧にこなした。求められるだけのことをいとも簡単にやってのけた。正に王太子として生まれるべくしてこの世に誕生した人なのだろう。争う気持ちも湧かなかった。


 この上なく高貴な身の上で、何不自由ない生活を送るあいつの日々は、薔薇色に違いない。勝手にそう思い込んでいたのだが、ふとした瞬間に見せるあいつの表情はどこか退屈そうな、熱の無い表情だった。

 

「ルイス、嫌に退屈そうだな。話し相手くらいにはなってやるぞ」


 周りに人がいないのをいいことに、砕けた口調でルイスの隣に座ると、ルイスは手元の書物から視線を上げることも無くぽつりと呟いた。


「特別、今が退屈とは思っていない」


 淡々とした声も、捉えようによっては冷たく聞こえるのかもしれないが、幼馴染の立場である俺からすれば今更怯えるほどのものでもなかった。


「……お前は、時々そうやって酷く退屈そうな顔をしているぞ。気づいていないのか?」


「僕はこの日々を好ましく思っている。退屈なんてことは無い。それに、これ以上満たされることなんて恐らくないだろう」


「まあ、そりゃお前は完璧だけどな……時々不安になるよ。親友の立場としてはもう少し楽し気に生きてほしいものなんだが……」


 親友、という言葉にあからさまに冷ややかな視線を送ってくるが、それ以上何も言わないのがルイスだ。素直じゃないが、なんだかんだ言って俺のことは「友人」として認識しているはずなので俺も何も言わないのが常だ。


「そういう演技が必要な場面があれば、努力しよう」


「当たり前のようにあるだろうよ。例えば、婚約者を迎えたときとかさ」


「どうせ僕の婚約者になるような相手は、どれだけ冷え切った婚姻関係であろうが逃げ出せないんだ。特に必要性を感じない」


「それはそうかもしれないが……」


 本当に、どこか面白みに欠けるというか、見ていて不安になる奴だ。どうしてこんな奴と今も友人をやっているのか自分でも疑問に思うが、やはり根本的なところで気が合っているように感じるせいだろうか。


「ほら、理想の女性像とかないのか? 白金の髪がいい、とか」


「特にないな。強いて言うならば、僕の婚約者はいずれ王妃になるのだから、聡明な女性であればいい」 

 

「本当、夢の無い奴だな。お前がその気になれば、どんな令嬢でも手に入れられるってのに……」


 アシュベリー公爵家の次女がものすごい美少女らしいぞ、と言ってみたところでこの堅物の心が動くはずもないことは分かっていた。それ以上、こちらには一度も視線をくれることなく書物を読み進める友人の未来が、少しだけ心配だ。


 あーあ、どこかのお姫様が、この完璧な王子様の心を動かしてくれないものかね。


 御伽噺を信じる年でもないというのに、思わず一人皮肉気な笑みを浮かべてしまう。もしもこいつが色恋沙汰に熱を上げるようなことがあれば、そのときは全力でからかってやろう。そう、心に決めた瞬間でもあった。






 そんな俺の皮肉気な願いは、意外にもあっけなく叶うことになる。堅物の我が親友に変化が訪れたのは、彼がアシュベリー公爵家の長女と婚約した翌朝のことだった。


 アシュベリー公爵家の長女は、学問に置いても作法に置いてもまるでお手本のように完璧らしい。完璧な王子様と完璧な姫君というのも何とも面白みがないな、などとまたしても皮肉気なことを思いながら、俺は形式上の婚約の祝福のためにルイスの書斎を訪ねた。


「どうぞ」


「失礼いたします、ルイス王太子殿下。この度はご婚約、誠におめでとうござい――」


 敢えて堅苦しい口調で祝福してやろうと目論んでいたのに、目の前のルイスの様子を見て思わず口を噤んでしまう。ルイスは、手に持てるくらいの小さな肖像画をまじまじと見つめていたのだ。赤の他人が見れば、ルイスの表情から読み取れる感情は何もないだろう。だが、飽きるほどルイスの傍にいた俺ならわかる。明らかにルイスは動揺していた。


「……ルイス、その肖像画は? まさか、昨日婚約したというご令嬢か?」


 ルイスの婚約者のレイラ嬢は、ずば抜けて優秀だという噂は耳にしていても、まだ直接お目にかかったことは無かった。亜麻色の髪と瞳を持つ可憐な少女だという話を聞いているが、ぼんやりとした姿しか想像できない。


「……これほど美しい存在に、初めて出会った」


「え?」


 聞き間違いかと思った。まさか、あの堅物のルイスの口からそんな台詞が紡がれるなんて。


「見目も、声も、纏っている空気も、立ち居振る舞いも何もかもが綺麗なんだ」


「ちょ、ちょっと待て……まさか、一目惚れしたのか? お前ともあろう奴が」


「……よくわからない。この感情が何なのか。ただ、酷く心を動かされたことは確かだ」


 おいおいおい、と口に出す余裕すらないほどに、俺も打ちのめされていた。昨日の今日であのルイスを骨抜きにするなんて、一体どんな美少女なんだ。亜麻色の髪に亜麻色の瞳という前情報からして、華やかな美しさは無いのだろうと踏んでいたが、どうやら清廉な雰囲気がルイスのお気に召したらしい。


 まあ、どんな形であれ、この堅物な親友の心が動かされたのならば喜ばしいことだ。あまりに平穏で完璧な毎日を送っているこの王子様の心を、せいぜい搔き乱してくれよ、とまだ見ぬルイスの婚約者にそっと願う。


 このときの俺は、そんな風に軽く考えていた。せいぜい、将来王妃を溺愛する国王陛下が見られるかもな、というくらいにしか考えていなかった。


 レイラ嬢の存在が、ルイスの心を「搔き乱す」なんて可愛いもので収まらず、王国史上まれにみる悲劇を引き起こすことになるなんて、このときの俺は知る由も無かったのだから。






 レイラ嬢と婚約してからというもの、ルイスは明らかに変わっていった。確実に、良い方向に。あくまでも義務としてこなしているようであった学問にも公務にも、俺から見れば人が変わったように意欲的に打ち込むようになったのだ。


 理由を尋ねてみれば「レイラの健気な努力に釣り合うような婚約者でいたい」という健全にもほどがある答えが返ってきて、恋はここまで人を変えるものなのか、と思わず感心したものだ。


 レイラ嬢は、確かに美しい令嬢だった。それだけでなく、慈愛の心と聡明な頭脳を持ち合わせた、人としても完璧な令嬢だ。あの優し気で可憐な笑みを前に、心揺らがない男がいるだろうか。正直に言えば、ルイスを羨ましいと思うくらいには俺もレイラ嬢に惹かれてしまった。


 もちろん、親友の、それも王族の婚約者を奪おうなんて不埒な考えは抱いたことも無い。あくまでも憧れに留める、淡い初恋だった。


 もっとも、当のルイスは俺のレイラ嬢への想いを見抜いているらしく、俺がレイラ嬢を目で追うたびに明らかに機嫌を損ねる。


「アーロン、あまり人の婚約者をじろじろと見るな」


「いずれは謁見の手続きをしなきゃお会いできないような身の上のご令嬢なんだから、見つめるくらいいいじゃないか」


「駄目だ」


 ルイスは、意外にも独占欲の強い男だったらしい。これは結婚してからもレイラ嬢は苦労するだろうな、などと苦笑を零したことはルイスには内緒だ。


 もっとも、ルイスはこんな独占欲を発揮する割に、レイラ嬢の前では怒っているのかと思うほど無愛想だから、レイラ嬢が可哀想で見ていられない。思わず「本当はこいつ、レイラ嬢のこと物凄く好きなんですよ」なんていうお節介を焼きたくなるが、そんなことをしようものならルイスに物理的に首を飛ばされそうなのでやめておいた。


 だが、後になって思えば、ルイスにどれだけ恨まれようとも、ルイスの想いをレイラ嬢に告げるべきだったのかもしれない。ルイスの本当の想いに気づいていたのは恐らく、この王国で俺一人だけだったのだから。


 



 それから7年ほどが経ち、ルイスのレイラ嬢への独占欲は、いつの間にか執着と呼ぶべきものに変化を遂げていた。いつからこうなったのかと言われても、俺はルイスの傍にずっといたせいか、正直よくわからない。ただ毎日毎日少しずつ、レイラ嬢の存在がルイスの心を埋め尽くしていったのは確かで、それはもう引き返せないところまで来ている気がした。


 幸いなのは、レイラ嬢もルイスを好ましく思っているようだということだ。これがルイスの一方的な想いならば、どちらも救われないにも程がある。


 もっとも、レイラ嬢はルイスの想いに気づく機会すら与えられず、相変わらず自分はルイスのお飾りの婚約者なのだと思い込んで過ごしているようだった。まあ、結婚すればルイスの重すぎる愛情を嫌でも思い知ることになるだろうから、今のうちに羽を伸ばしておくのも悪くはないかもしれないのだが。


 あと3年も経てば、ルイスとレイラ嬢は結婚式を挙げる。親友と初恋の令嬢が結ばれるというのもなかなか皮肉な話だが、それでもようやくルイスが満たされるのかと思えば不思議と悪い気分ではなかった。


 だが、そんな予定調和の幸せは突如として終わりを迎える。


 レイラ嬢が、不幸な事故に遭い、意識不明のまま目覚めなくなってしまったのだ。


 どうやらルイスと出かける際に不運にも馬車の馬に蹴られたらしく、かなりの出血を伴ったという。医者に言わせれば、「この先目覚めるかどうかも分からない」とのことだった。


 あまりに突然の悲報に、俺自身動揺していた。ついこの間、夜会で見かけたばかりのレイラ嬢の可憐な笑みが浮かんでは、どうしようもないやるせなさを覚える。


「ルイスっ」


 レイラ嬢の事故の知らせを受け、真っ先に俺はルイスの元へ向かった。飾り気のない書斎の中で、ルイスはいつも通り書物に視線を落としていたが、どこか苛立っているのが張り詰めた空気から伝わってくる。


「ルイス、レイラ嬢は……」


 ルイスは俺に一瞥もくれず、苛立ちを隠すかのように頁を捲っていた。明らかに不機嫌であるし、明らかに落ち込んでいる。無理もない、あれだけ恋焦がれていたレイラ嬢が不幸な事故に巻き込まれたのだから。


「……医者の言うことがすべてじゃないぞ、ルイス」


 奇跡だって起こるかもしれない、とは言えなかった。レイラ嬢が目覚めることを「奇跡」だなんて称したら、目の前の俺の友人の心はどうなるだろう。普段はいくらでも減らず口を叩けるのに、こういう大切な時にはありきたりな慰めの言葉しか出て来ない。


「ではレイラが目覚めるかどうかは、神様とやらの御意志だとでも説きに来たのか?」


 どこか自嘲気味に笑うルイスの表情は痛々しくて、直視できない。俺が今何を言ったところで、この状態のルイスの慰めにはならないのだろう。


「死神にも、神とやらにも、絶対にレイラは渡さない。……レイラは、僕のものだ」


 そう言って笑ったルイスの蒼色の瞳には、あまりに強い執着が宿っていた。ルイスを怖いと思ったことなど今まで一度も無かったが、思わず寒気を覚えてしまう。


 ルイスがレイラ嬢へ向ける感情は、とっくに「恋」だなんて可愛らしいものからは外れてしまっているのかもしれない。それを殆ど確信してしまうくらいには、ルイスはレイラ嬢に囚われていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る