番外編1 「元」傷心公爵令嬢と魔術師の一日

前編

「……っ」


 悪い夢を見た。もう何度この悪夢を繰り返しているだろう。額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、私はベッドの上で上体を起こし息を整えた。


 リーンハルトさんと婚約してから一か月が経とうかという頃、私は未だに殿下に刺された夜の悪夢を繰り返していた。毎日というわけではないのだが、少し疲れたり体調が優れなかったりすると、よく悪い夢を見るのだ。体の傷は治っても、心の傷が癒えていない証拠なのだとリーンハルトさんは私を抱きしめながら仰った。


 ベッドからゆっくりと足を降ろし、朝の支度を整える。鏡の中の私はいつも通りの顔色だと思うのだが、不思議とリーンハルトさんには悪夢を見たことがバレてしまう。


 また今日も彼に余計な心配をかけてしまうのかと思うと心苦しくてならない。菫色のワンピースに袖を通しながら、今日こそは気丈に振舞おうと決意してリビングへと向かった。





「今日も、悪い夢を見たんだね」


 朝食を終え、以前リーンハルトさんに買って来ていただいたハーブティーを嗜んでいると、案の定リーンハルトさんは憂いを帯びた表情で呟いた。私としても悪夢にはかなり慣れてきているので、いつまでもその名残を引きずっているつもりはないのだが、どうやったってリーンハルトさんには分かってしまうらしい。


「リーンハルトさんには敵いませんわね……。ですが、そう毎回ご心配頂くほどのことでもありません。このところ、かなり慣れて参りましたから」


 時間が解決してくれることもあるだろう。幻の王都での暮らしが馴染んで来たら、自然と苦しい思い出も薄れて行くはずだ。


「そんな悲しいことに慣れなくてもいいんだよ、レイラ」


 リーンハルトさんは心底心配そうな瞳で私を見つめていた。その思いやりの深さがどうにも嬉しくて、思わず頬を緩めてしまう。


「ふふ、リーンハルトさんにそのように心配していただけるのであれば、悪夢を見るのも悪いことばかりではありませんね」


「またそんなこと言って……。レイラは自分が傷つくことに疎すぎるよ」


 リーンハルトさんは不服そうな表情を見せたが、やがて何かを思いついたように私を見据えた。


「……そうだ、ガブリエラに相談してみようか」


「ガブリエラさんに?」


 唐突に話題に上がった友人の姿を思い浮かべる。長い髪を一つにまとめ上げて凛々しい話し方をされるガブリエラさんは、今となっては私の大切なお友だちの一人だ。


「ガブリエラは忘却の魔法が得意でね……。彼女の家は、御伽噺の時代に姫君専属の薬師を務めていた家なんだ。鎮静剤なんかは、ガブリエラの得意分野だったはずだ」


「そうだったのですか……」


 魔術師団の皆さんは基本的にどのような魔法でも使えるようだが、やはり得意分野というものが存在するらしい。


「今日にでもガブリエラに話を通しておくよ。本当は僕が出来たらいいんだろうけど……加減が効かなくて何もかも忘れさせたら大変だから、この手の魔法は使わないことにしているんだ」


 リーンハルトさんがさらりと物騒なことを言ってのけるのは相変わらずだ。それだけ魔力が強いということなのだろうけれど、それゆえに扱いづらい部分もあるようだ。


「……では、もしもガブリエラさんにお暇な時間があるようでしたら、お願いしたく思います」


 いつまでもリーンハルトさんにご心配をおかけするのは心苦しい。これから少しずつ結婚式の準備に向けて忙しくなっていくことだし、正直なところ良質な睡眠を確保したい気持ちも大きかった。


「ガブリエラなら喜んで取り掛かると思うよ。魔術師団でも、いつもレイラの様子を訊いてくるからね。レイラのような友人が出来て嬉しいんだろう」

 

「それは私も同じ気持ちです。ガブリエラさんのようなお友達が出来てとても嬉しいですわ」


 思わず自然に微笑めば、リーンハルトさんもどこか安心したように頬を緩めた。


「……レイラのその笑い方、すごく好きだなあ」


 何の前触れもなく、しみじみとそんなことを言うからリーンハルトさんはずるい。戸惑い誤魔化すようにハーブティーを一口飲んで、頬の赤さを悟られないようにするので精一杯だった。






「レイラ嬢、師団長に言われたものを持って来たぞ!」


 翌朝、魔術師団に出かけたリーンハルトさんと入れ替わるように屋敷に訪ねてきたガブリエラさんは、どこか得意げな表情で私に小さな紙袋を手渡した。ふわり、と爽やかな茶葉の香りが漂う。


「鎮静効果のあるハーブティーだ。弱い忘却の魔法がかかっているから、悪い夢を見た後に飲むといい」


 今日も今日とて長い髪をすっきりと一つにまとめ上げたガブリエラさんは、深い青の瞳を細めて笑った。まさか、昨日の今日でもう用意してくださるなんて思わなかった。


「ガブリエラさん、ありがとうございます。お忙しい中、申し訳ありません」


「このくらい、なんてことないさ。それより、悪夢を繰り返してるなんて、昨日師団長に言われるまで知らなかったぞ。……今まで辛かったな」


 ガブリエラさんの手がぽんぽんと私の頭を撫でた。リーンハルトさんとはまた違うその温かさと妙な恥ずかしさに、何だか頬が緩んでしまう。


「もう、私は大丈夫ですわ。毎日が幸せで、怖いくらいですもの」


「怖がることなんてない。この毎日こそが、本来レイラ嬢が送るべき日々なんだから」


 大好きな人が傍にいて、友人たちと談笑するこの毎日が当たり前だなんて。王国にいたころはとてもじゃないが想像できなかった。毎日一人で書斎にこもっていた日々が、今ではどうしようもなく寂しいことのように思えるから不思議だ。当時は平気だと思っていたが、今更あの日々に戻るなんて耐えられないと思うくらいには、私は少しずつこの幸福な毎日に慣れ始めているようだった。


「ふふ、幻の王都の皆さんは私を甘やかすのがお上手で困ってしまいます」


「この程度で困っていたら先が思いやられるな。師団長の溺愛はとどまるところを知らなそうだぞ……」


 リーンハルトさんは一体、魔術師団でどんな風に私のことを話しているのだろう。ガブリエラさんにまでこんなことを言われるなんて相当だ。


 知らない方がいいこともあるわね、などと自分に言い聞かせ、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。


「……それはそうと、私としたことがまだお返しを用意できておりませんでした。お礼にアップルパイでも焼こうかと考えていたのですが……」


 昨日の今日でガブリエラさんが訪ねてくるとは思っていなかっただけに、準備が整っていなかった。どうしようかと頭を悩ませていると、不意にガブリエラさんは私の手を取って爽やかな誘い文句を口にする。


「礼なんていらないけど、何かしてくれるつもりなら一緒に幻の王都を見てまわらないか? 前々から、レイラ嬢のような可憐なレディと出かけてみたかったんだ」


 私の周りは男性ばかりでな、とガブリエラさんは笑った。言い方によっては気障にも聞こえそうなものなのに、ガブリエラさんが言うと妙に爽やかだから不思議だ。王国でご令嬢たちから大袈裟なほどの賛辞を受けたことはあるけれど、こんなにも気恥ずかしい気持ちになるのは初めてだった。


「それではお礼になっているのか分かりませんけれど、ガブリエラさんがそうおっしゃるのなら是非。私もガブリエラさんとこの街を巡ってみたいですわ」


 私も、友人と街を見てまわるという経験はない。王国にいたころはもちろん、幻の王都に来てからも生活に慣れるので精一杯で、遊びを目的に街を出歩いたことは無かった。生活必需品を売っているお店とシャルロッテさんのお店しか知らないのだが、この機会に趣の違うお店を見つけてみるのも一興かもしれない。


「そうと決まれば早速行こうじゃないか。幸い今日は天気もいい。レイラ嬢に見せたいものがたくさんあるんだ」


 簡単に身支度を整えた後、ガブリエラさんに手を引かれるようにして青空の下へ飛び出す。リーンハルトさんと並んで歩く時とはまた違った胸の高鳴りに思わず頬を緩めてしまうのだった。






「レイラ嬢、このお菓子はどうだ?」

「この色なんかは、レイラ嬢の可憐な雰囲気にぴったりだと思うんだ」

「疲れたらすぐに言ってくれ。おすすめの店があるんだ、そこで休もう」


 ガブリエラさんと街に繰り出してからというもの、私は彼女から気恥ずかしいくらいのもてなしを受けていた。かつては公爵令嬢だったのだから、誰かに何かをしてもらうということは慣れているつもりだったのに、実年齢はともかく見かけは同年代の友人に甘やかされるというのは今までにないことなのだ。とても嬉しく思う半面、なんだか落ち着かない。


「ガブリエラさん、そのように甘やかされると恥ずかしいですわ」


「このくらいで? 師団長はもっとどろどろに甘やかしていると思ったんだが……」


「そ、それとこれとは別です! それに、これでは私がもてなされるばかりでガブリエラさんへのお礼になっておりませんわ」


「私は充分楽しんでいるぞ? 魔術師団の奴らに自慢して回りたいくらいだ」


 ガブリエラさんは雑貨店などで買ったこまごまとした品が入った袋を抱えながら、屈託のない笑みを見せた。彼女は今日はお仕事がお休みとのことなので、魔術師団の外套は羽織っておらず、ラフなシャツ姿に深い赤色のロングスカートという出で立ちなのだが、すらりとした長身のせいか人目を引いている気がする。


「そうだ、後で帰りがけに魔術師団に寄って行こうか。みんなレイラ嬢に会いたがっていたぞ」


「魔術師団の皆さんが?」


 魔術師団へは、時折シャルロッテさんの店のお手伝いなどで顔を出している。だが、それも回数にしてみればまだほんの三回程度だ。顔を覚えられるほどに親しくなっている方はまだほとんどいない。


「ハンスも会いたがっていたしな。ついでに師団長と一緒に帰ればいいだろう。レイラが迎えに来たと知ったら、師団長は舞い上がるぞ」


「ふふ、大袈裟ですわ」


 口ではそう言ったものの、リーンハルトさんのことだから数年ぶりの再会と言わんばかりに歓迎してくれる気がした。彼の愛の甘さに私も少しずつ慣れ始めている証拠だろうか。


「でも、久しぶりにハンスさんにもお会いしたいですし、お言葉に甘えて最後は魔術師団へお邪魔しようかと思います。もちろん、お仕事が終わる時間に」


「ああ、そうしよう。それまではもう少し、私と遊んでもらおうかな」


 ガブリエラさんは不敵な笑みを見せて、エスコートするように手を差し出してくださった。魔術師というより騎士のような女性だ。ありがたくガブリエラさんの手に自らの手を重ねながら再び街を歩き出す。


 やがて、どこからともなく漂ってきた甘い香りに誘われるままにクッキーを購入し、つまんでみたりした。幻の王都で人気のクッキーだというそれは、香り高い紅茶の味がして、実に私好みだった。


「口にあったかな?」


「ええ、とっても美味しいですわ!」


「それならよかった。私も時折クッキーは作るんだが、やはりこの店の物は格別だな」


 ガブリエラさんは口元を指先で拭い、にこりと微笑んで見せる。その表情通り、彼女もこのクッキーの味を好んでいるらしい。


「ガブリエラさんはお菓子作りがお好きなのですか?」


 彼女がクッキーを作るなんて初耳だ。今までそんな素振りを一度も見せていなかっただけに、少しだけ驚いてしまった。


「クッキーだけは何とか作れるんだ。ほぼハンスに食べつくされてしまうのだがな」


「ハンスさんととても仲がよろしいのですね」


 魔術師団で見かける二人は、軽口を叩き合いながらも何だかんだ仲睦まじい。私にはあのような友情の形はないだけに、とても微笑ましく思ってみてしまうのだ。


「幼馴染と言えば聞こえはいいが、ただの腐れ縁だよ。さっさと『運命の人』でも見つけてくれればいいけどな」


「ふふ、ガブリエラさんは素直じゃありませんのね。とても素敵な幼馴染さんではありませんか」


「レイラ嬢の目にはどんなものも美しく見えるらしいな。ハンスが聞いたら調子に乗るからあいつの前では言わないでくれよ」 


 冗談めかしてガブリエラさんは笑うと、すっと立ち上がり再び私に手を差し出してくださる。


「師団長を迎えに行く前に、もう一軒だけ寄って行こう。是非、レイラ嬢を案内したい店があるんだ」


「それは是非伺ってみたいですわ」


「きっと気に入るぞ、早く行こう」


「はい」


 ガブリエラさんの手に導かれるようにして、私は再び歩き出す。彼女との散歩は、足の疲れを感じさせないくらい心地の良い時間だった。

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