後編
その翌朝、目を覚ましたハンスは私が傍にいることにそれは驚いていた。私の魔法は、とてもよく効いたらしい。
「……わざわざ様子を見に来てくれたのか。ありがとう、ガブリエラ」
ハンスの好きなクッキーと冷たい紅茶を用意すれば、彼はどこか弱々しく笑った。私が忘却の魔法を得意としていることは知っているはずなのに、私を疑いもしない彼の信頼が今だけは心苦しくてならない。
「いいんだ。私は大分立ち直ったからな、ハンスの力になれることがあれば、と思って訪ねただけだ」
「ガブリエラは弱ってるやつには優しいもんな」
「まるで普段は優しくないとでも言いたげな口ぶりだな……?」
いつも通りの会話のリズムに安心する。私の選択は間違っていなかったようだ。
これでいい。私たちはこのまま、この心地の良い関係のまま、美しい思い出だけを積み重ねて行くのだ。
それから間もなくして、私もハンスも魔術師団の業務に復帰した。休んでいる間に同僚たちに受け持ってもらっていた分を挽回するように、黙々と業務をこなした。同僚たちからは「無理をするな」と声をかけられたが、やるべきことがある方が却って気を紛らわすことが出来るのだから仕方ない。
久しぶりの訓練を受け、冷たい紅茶を飲みながら一休憩する。いつもの調子を取り戻すのにそう時間はかからなかったが、師団長の指導は相変わらずの厳しさで、訓練後は休憩を挟まなければ動けないほどだ。
師団長にはご自分の魔力の大きさを、今一度見直してほしいものだ。そんな不満を心の中に抱いたとき、不意に気配を感じて隣を見上げる。
「随分疲れているようだね」
そこにいたのはあろうことか師団長だった。怖いくらいの綺麗な顔で微笑みながら、紫紺の瞳は確かにこちらを見下ろしている。
「っ……これは失礼しました。師団長がいらしているとは知らず……」
慌てて姿勢を正そうとすれば、師団長は「今は休憩中なんだから」と笑って私の隣に腰を下ろした。師団長が休憩中に姿を現すのは珍しい。別に師団長のことは嫌いではないし、むしろ尊敬しているくらいなのだが、こうして二人きりで話すのは何だか緊張してしまうのが本音だ。
「大分元気になった?」
師団長は優し気に微笑みながら、私にそんな心配を投げかけた。心を病んで長いこと休んでいた部下を心配してくれたのだろう。上司としては訓練の厳しさを除けば本当にいい人なのだ。
「はい、おかげさまで」
「それは良かった。誰でも一度は病むものだとは言われているけど、あまり長引くのも辛いからね」
師団長は紫紺の瞳でどこか遠いところを見つめていた。師団長本人は心を病んでいた時期が長かっただけに、妙に重みのある言葉だ。
師団長の「運命の人」は、何者かに殺されてしまったのだと聞く。王国アルタイルの王女様だったようだから、何らかの陰謀に巻き込まれたのかもしれない。
「運命の人」に出会ってからの師団長は、随分感情が豊かになった。以前はこうして部下を心配して休憩時間に顔を出すなんて真似はしなかったのだから、何百年生きていようが人は変わるものなのだな、と思い知らされる。
「……ハンスに何かを忘れさせたかったようだけど、ガブリエラは辛くないかい?」
師団長は、穏やかな微笑みのまま、直球にも程がある質問を投げかけてきた。流石は師団長というべきだろう。師団長は、魔法がかけられた痕跡には人一倍敏感なのだ。師団長の前ではまず隠し事なんて出来そうにない。
「……やはり、師団長には敵いませんね」
「別に個人のことまで踏み入ろうってわけじゃないけど、自分で自分に忘却の魔法をかけることは出来ないだろう? 僕からハイノ辺りに忘却の魔法をかけてもらうよう依頼しようか?」
僕がやると全て忘れかねないからね、と師団長は笑った。この魔法は悪夢を薄れさせるために使われているのだから、完全に何かを忘れさせる使い方は禁忌に近いのだが、それでも私を思いやって声をかけてくれたのだろう。その優しさに感謝しながらも、私は首を横に振っていた。
「ご心配おかけして申し訳ありません。……ですがこれは、私が守り抜くと決めた想いなので、私だけは覚えていたいんです」
師団長の紫紺の瞳を見据えてそう告げれば、彼は相変わらず柔らかく微笑み、小さく頷いた。
「あんまり苦しんでいるようなら手を貸そうと思っていたけど、そういうことならよかった。……忘れたところで、無かったことになるわけでもないしね」
そう言って笑った師団長の瞳が一瞬翳ったのは、殺された「運命の人」のことを思い出しているからなのだろうか。師団長もきっと、あまりに辛い現実を忘れたいと願ったことがあるはずだが、それでも忘却の魔法をかけようとしなかったのは「運命の人」への想いを守りたかったからなのかもしれない。意外なところで師団長との共通点を見つけて、少しだけ親近感が湧いた。
「……ルウェインの血にかけられた呪いは、本当に忌々しいですね。私たちの祖先は、呪いの元凶である魔物に一体何をしたのでしょう?」
思わず常々抱いている不満を口に出してしまった。師団長相手にこんなことを言うなんて、自分でも驚いてしまう。
「色々と説はあるけど……子供を殺された魔物が、愛することの重さを僕らに思い知らせるため、何ていう話もあるよ」
だとしたら、その目的は充分すぎるくらいに果たされているのではないだろうか。文献の中でも曖昧なほど遠い昔の魔物に、私たちは今もこんなに苦しめられているのだ。
「……もう充分、思い知った気がします」
ハンスのことを想いながら、どこか皮肉気な笑みを浮かべてしまった。
「ああ、本当に」
師団長も似たようなことを考えていたのか、穏やかな笑みを浮かべたまま冷え切った声でそう呟いた。
「ガブリエラ!」
不意に私の名を呼ぶ声に顔を上げると、魔術師団の本部の建物の影からハンスが飛び出してきた。休憩中にはよく顔を合わせるから、大方クッキーでも強請りに来たのだろう。特に珍しい行動という訳でもないのに、ハンスのことを考えていたせいで妙にどぎまぎしてしまった。
「今日は何のクッキーを……って、師団長!?」
私の隣に座る師団長の存在に気づくなり、ハンスは軽く姿勢を整える。師団長はすぐに立ち上がると、何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべた。
「ごめんごめん、たまたまガブリエラを見かけたから少し話をしていたんだ。午後の業務までゆっくり休むといいよ」
それだけ告げて、師団長はあっという間に立ち去ってしまった。何だか気を遣われたような気もする。
「珍しいな、ガブリエラが師団長と話し込んでるなんて。そんなに仲良かったっけ?」
「長いこと休んでいたから心配してくれたようだな。優しい人だ」
「え、俺も休んでたのにガブリエラだけ……?」
「恐らく、お前は図太いから心配いらないと判断なさったんだろうな。対して私は繊細な心を持ち合わせる可憐なレディだから、わざわざ話を聞きに来てくださったと言うところだろう」
「えっと……可憐なレディって誰の話? 師団長の好みの話?」
「お前な……」
軽く小突くようにしてハンスを睨めば、彼は面白がるようにしてくすくすと笑うのだ。私はこの時間がどうしようもなく好きだ。
「それで? 今日のクッキーは何味?」
「紅茶だ」
「お、いいね。あれ香りがいいから好きだよ。流石ガブリエラ、俺の好みを分かってる」
「別にお前のために作っているわけじゃない」
「またまた、相変わらずガブリエラは素直じゃないな」
他愛もないやり取りをしながら、私たちは歩き出した。ハンスが隣にいるだけで、心が満たされるのを感じる。これが、私の守り抜きたい幸せだった。
「おお! 流石、レイラ嬢は綺麗だなー」
それから二百年ほどが過ぎ、私はハンスと共に師団長の結婚式に参列していた。魔術師団総出で出席しているせいか、まるでお祭りのように賑やかな結婚式だ。王国アルタイルの名門公爵家の姫君であるレイラ嬢は、もしかするともっと厳かな式を望んでいたのではないかと心配したが、師団長の隣で私たちに手を振る笑みを見て安心した。純白のドレスに身を包んだレイラ嬢はとても幸せそうだった。
「ああ、そうだ。ガブリエラは分かってないようだから教えてあげるけど、可憐なレディってレイラ嬢みたいなことを言うんだぞ」
昔のこと引っ張り出してきて私をからかうハンスの脇腹を容赦なく小突きながら、師団長とレイラ嬢の幸せそうな姿を目に焼きつける。彼らが結ばれて、本当に良かった。
「まあ、ハンスの言う通り、師団長の好みが可憐なレディって予想は当たってたな」
「あの溺愛っぷりは見てて面白いね。師団長があんなに腑抜けた顔をするとは……」
「お前も将来するかもしれないぞ。そのときは全力でからかってやる」
ハンスと彼の「運命の人」の結婚式を想像して、ほんの少しだけ胸が痛んだ。だが、耐えられないほどの痛みではない。そこにハンスの幸せがあるのならば、何をしても守り抜きたいという思いの方が強かった。
「……うん、まあ、そうだね、そうかも」
ハンスはどこか切なげな笑みを浮かべながら、曖昧な台詞を口にした。彼は感情が顔に出やすい。そんな表情をされると、私まで苦しくなりそうだ。
「……海へ行こう」
思わずハンスの手を握りしめながら、私は突拍子もない誘いを口にした。ハンスの灰色の瞳が軽く見開かれる。
「海?」
「そう、海だ。遠い昔に私に話してくれただろう? お前は、私を案内してくれると言ったじゃないか」
「そう言えばそんなこともあったな……」
「忘れてたのか? 酷い奴だ」
大げさに不貞腐れたような態度を取れば、ハンスはくすくすと笑って私の髪を耳にかけた。
「嘘だよ、俺がガブリエラとの約束を忘れるわけないだろ」
何気なく放たれた言葉だったが、私にはどこか甘く聞こえてしまう。湧き起こるこの気持ちは確かに恋情なのかもしれないが、それ以上に親愛の気持ちが強かった。それくらい、ハンスは私にとって欠かせない存在なのだ。
「ついでに色んな国を見てまわりたい。一緒に旅をしよう。案内人は任せたぞ、ハンス」
「俺が家族と旅をしてたのは何百年前だと思ってるんだ……。期待しないでくれよ」
「迷うようなことがあったらその日はおやつのクッキー無しだ」
「ええ!? それはあんまりだ、ガブリエラ……」
「たかがクッキーを一日食べられないくらいで、そんなに悲嘆できるお前の感性が羨ましいよ」
それこそ、何百年私が作ったクッキーを食べていると思っているのだ。もっとも、いい加減飽きないのだろうかとこのところ気になっているだけに、その反応は内心嬉しくもあったのだが。
「ガブリエラのクッキーが食べられなくなったら死ぬかも」
「良かったな、呪いが解けて。魔物も驚きの進化の遂げ方だな」
「相変わらずつれないな……」
「生憎こういう性格なんだよ」
軽口を叩き合いながら、私とハンスは幸せいっぱいの師団長とレイラ嬢を見守る。私とハンスの間に降ろされたお互いの手は、今日も、どちらからともなく自然と繋がれていたのだった。
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