番外編2 魔術師ガブリエラの初恋

前編

 恋を、してしまった。


 この想いが報われないことなんて、誰より私が分かっていたはずなのに。





 遡ることざっと三百年ほど前、私は、この呪われた美しい幻の王都に生まれ落ちた。温かな両親の愛と、不思議なことだらけの素敵な魔法の中で私はすくすくと育っていった。


 父は魔術師団に勤める立派な魔術師で、凛々しい話し方をする父の真似をしたくて、女の子らしい言葉遣いは最初から使っていなかったような気がする。王国の小さな商家から嫁いできた母は、始めこそそれを諫めていたけれど、いつしか諦めてしまったのか口を出してくることは無くなった。


 ルウェインの一族には、「運命の人」と結ばれるまで死ねない呪いがかけられている。場合によっては数百年の孤独に耐えねばならない過酷な呪いだ。そのため、幻の王都に住む多くの夫婦は、可能であるならば子どもが一人ぼっちにならないよう、なるべく兄弟を持たせてあげよう、と考えることが多いようで、この王都では一人っ子というのは珍しい。


だが、私はその例外だった。あまり体が丈夫ではなかった母は、私一人を生むので精一杯だったのだ。


 それを責めるような真似は、私や父はもちろん、幻の王都の住人の誰一人としてしなかったが、母だけは心のどこかで気に病んでいるようだった。ふとした拍子に私を心配そうに見つめる母の瞳は、数百年経った今でもよく覚えている。


 そんなある日、私が7歳になったころ、旅に出ていた父の友人が幻の王都に帰ってきた。父の友人だというその男性は、どうやら私が生まれる前に「運命の人」である旅芸人の女性と結婚式を挙げ、そのまま新婚旅行がてら妻の母国を旅してきたという何とも自由奔放な人だった。


 その長い新婚旅行の間に子どもまで出来たのだと言って、その人は私たち家族に奥さんと子供を紹介してくれた。一年中雪の降る国からやってきたという奥さんは、髪も瞳も色素の薄い美しい人で、彼らの子どももまた、灰色の髪と灰色の瞳を持つ淡い雰囲気の少年だった。


その少年は私より一つ年上で、ハンスという名前だった。奇遇なことに彼にも兄弟はいなかった。


 そんな私とハンスが、次第に兄妹のように親しくなっていったのはごく自然なことだったのかもしれない。私を一人っ子にしてしまったと気に病んでいた母も、ハンスの登場でいくらか安心してくれたようだった。


 ハンスは、とても朗らかな少年だった。母親の母国だという雪国の話や、幻の王都に戻ってくるまでに立ち寄った様々な国の話をよく聞かせてくれた。


「母さんの国もいいけど、俺はやっぱ海が好きだったな。王国アルタイルの南の方に、王国ミストラルってところがあるんだけど、その国の海の青さと言ったらそれはもう……」


 ハンスは旅先で集めたという色とりどりの貝殻を机の上に並べて、海の美しさを思い出してはほうっと溜息をついた。幻の王都から出たことのない私にとっては、羨ましいことこの上ない経験だ。


「海とは、そんなにも美しいものなのか……。私も、いつか見てみたいな」


 母が病弱なこともあって、私たち家族はあまり遠出をすることは無かった。だが、そう遠くない未来に私は一人になってしまうのだ。有り余る時間の中で「運命の人」を捜しながら海を見に行くというのも一興だろう。


「それなら俺が案内するよ。ガブリエラは何だかんだ世間知らずそうだし」


「失礼だな、これでも私はしっかりしていると言われるんだぞ」


「はは、それはそうかも」


 ハンスは屈託のない笑みを浮かべたかと思うと、不意に何かに気づいたように私の目元に触れてきた。


「ああ、でも……ガブリエラの瞳の方が綺麗な青かもしれないなあ」


 恐らく、当時10歳のハンスは何の意図もなく言ってのけたことだと思うのだが、私の幼い心にはその言葉はやけに鮮烈だった。正直、私の瞳はあまりに深い色だから、遠目に見れば青とは思えない色なのだが、ハンスはよく見ていてくれたらしい。ハンスが持つ異国の不思議な色合いに憧れていた私にとっては、どうしようもなく嬉しい出来事だった。


「……ハンスにそう言ってもらえると、何だか嬉しいよ」


 にこりと微笑みかければ、ハンスは満面の笑みを浮かべて私の頭を撫でた。本当に、兄が出来たような心地で、この時の私は満たされた気持ちになっていたものだが、今思えばこんな些細な戸惑いがやがて恋心に変化していったのかもしれない。




 


 それから数十年が経って、いつしか私もハンスも一人になっていた。寿命を全うした両親を穏やかに見送り、家の片づけなんかをしばらくはこなしていたのだが、時折どうしようもない寂しさに襲われてベッドに蹲る日々が続いていた。


 これが、ルウェインにかけられた呪いか。このとき初めて、私は我が身にかけられた呪いの恐ろしさを実感したのだ。幼い頃から何度も言い聞かせられていたせいで覚悟していたはずの事なのに、愛しい人たちに取り残されることがこれほど精神と体を蝕むなんて思っていなかった。


 「ルウェインの血を持つ者は一度は病む」なんていうのはこの街ではよく耳にする言葉だが、あれはどうやら本当のことだったらしい。魔術師団の団員として友人や先輩たちと充実した日々を送っていたはずなのに、家族を失ってからというものその楽しさを上手く思いだせなくなってしまった。


 そんな私を救ってくれたのは友人たちだった。夜眠るのが辛いならば眠らなければいい、と彼らは朝が来るまで私に付き合ってくれた。私が独りにならないよう、いつも誰かが家にいてくれた。私を心配して毎日のように尋ねて来てくれる彼らのお陰で、私は少しずつ少しずつ回復していったのだ。


「ガブリエラは大分元気になったけど、ハンスの方はもう少しかかりそうだな……」


 私の家で紅茶を飲みながら、友人たちはそんなことをよく口にした。殆ど同じ時期に家族を失い、同じように心を病んでいた私とハンスは、このところあまり顔を合わせていなかった。というよりは、ハンスに避けられていた、とでもいうべきかもしれない。


 向こうも自分の心と向き合うので精一杯なのだ。病んだ幼馴染の面倒まで見きれないだろう。そう思い、しばらく距離を置いていたのだが、私の心が回復したのならば話は別だ。


「私も様子を見に行くことにしよう。今の私ならば、多少はハンスの役に立てるかもしれないからな」


「ガブリエラが行けば、そりゃハンスは喜ぶだろうけど……気をつけろよ。あいつはガブリエラの比ではない病み方だったからな……」


 友人はどこか苦い顔をしながら私を見つめていた。


「どうせ死ねないんだ。何をどう気を付けるっていうんだ?」


 冗談めかしてそう呟いたが、友人の顔は晴れないままだった。


彼の言いたかったことを察することになるのは、残念ながら事が起きてからになるとは、このときの私には知る由もない。




 その翌日、鮮やかな夕焼けが幻の王都を染めるころ、私はハンスの好きなクッキーと紅茶の茶葉を持って彼の家を訪ねた。ハンスは私の作るクッキーと、氷を入れた紅茶が好きだから、なんだかんだ言いながらきっと口にしてくれるだろう。久しぶりにハンスに会えることもあって、私の心はどこか浮かれていた。


「……ガブリエラ、どうして」


 一人で暮らすには大きすぎる家のベルを鳴らせば、どこかやつれた様子のハンスが顔を出した。元より色素の薄い彼は、仄暗い部屋の闇に溶けて行ってしまいそうな儚げな雰囲気だった。


「私は大分元気になったからな。ハンスの手伝いに来たんだ。幽霊みたいな顔をしてないで、一緒にお茶でも飲もう」


 なるべくいつもの調子を装ってハンスの肩を叩けば、彼はどこか複雑そうな顔をしていた。いつもならば屈託なく笑い返してくれるところなのだが、やはり彼を蝕む心の闇は相当なものらしい。あれだけ家族と仲が良かったのだから、無理もない話なのだが。


「……あいつらに止められなかったのか? ここに来るなって」 

 

 不機嫌そうなハンスを見るのはあまり慣れていないので、彼の冷たい口ぶりに何だかどぎまぎしてしまうが、ここで引くわけにはいかない。


「気をつけろ、とは言われたけどな。一体何に気を付けるっていうんだか」


 いつものように開けられたドアの隙間から部屋の中へもぐりこめば、すれ違いざまにハンスが小さく溜息をつくのが聞こえた。


「……信頼されたもんだな」


「何か言ったか?」


「別に。……散らかってるから適当なところに座ってくれ」


 相変わらずぶっきらぼうな物言いでそう告げると、ハンスもドアを閉めてリビングの方へと足を進めた。


「キッチンを借りるぞ。ハンスの好きな冷たい紅茶を淹れてやるからな」


 いつもより二割り増しくらいに元気な風を装えば、ハンスはつられるようにしてふ、と小さな笑みを見せた。元より彼の笑った顔は好きなのだが、少し弱ったようなその笑みを見て何だかやけに動揺してしまう。ただでさえ、久しぶりに彼に会えて心の内は穏やかではないというのに。


 不毛な想いだな、と私はハンスに背を向けて自嘲気味な笑みを零してしまった。お湯を沸かし、茶葉の準備をしながら何とか気を紛らわせようとする。

 

 絶対に、私はこの感情に名前を付けるわけにはいかないのだ。ハンスは、私の「運命の人」ではないのだから。初めて会ったあの瞬間に、それは分かりきっていたことだ。


 彼に惑わされそうになるたびに、別のことをしてどうにか気を静める。もう、何十年も繰り返してきた習慣だ。初めのころは、いつか出会えるであろう「運命の人」に思いを馳せたりしていたのだが、どう足掻いたってその姿はハンスの面影を帯びてしまうから、いつからかやめてしまった。

 

 死ねない絶望を味わうだけでも充分だと言うのに、こんな切ない思いまで背負わせるこの呪いは、本当に大したものだ。私たちの祖先は、この呪いをかけた魔物に一体どれだけの非道を行ったというのだろう。


 本当に、本当に嫌になる。


 手早く茶葉をティーポットに入れて、温度を調節したお湯を注ぐ。少し指先が震えてしまったが、魔法を使って作業していたので幸いにも零すことは無かった。


 ハンスを励ましに来たというのに、私がこんな調子では笑えない。いつもならばすぐに切り替えることが出来るのに、こうしてもやもやと引きずってしまうあたり、私もまだ完全回復したとは言い難いようだ。今日はお茶だけ楽しんだら、早めに家に帰ろう。


 そう決意して、クッキーの用意をするべく食器棚の方へ向かおうとした瞬間だった。


 不意に、背後からぎゅっと抱きしめられる。逃げられないほど強い力で抱きしめられたわけでもないのに、一瞬、頭の中が真っ白になって動けなかった。


「……ハンス?」


 私の体の前に回されたこの腕は、紛れもなくハンスのものだ。兄妹のように仲の良い私たちだが、多くの幼馴染がそうであるように、年頃になってからはお互い無闇に触れることも無くなった。こうして抱きしめられることなんてもってのほかだ。


 普段は沈黙なんて少しも気まずくないのに、今だけは別だった。妙に早まった心臓の動きを、彼に悟られてしまいそうで怖くてならない。この想いは、見破られるわけにはいかないのに。


「……お腹が空いたか? もうお茶もできるから、中庭でお茶にしよう。今日は心地の良い風が吹いていて――」


 その言葉の続きは、言えなかった。ハンスの唇が、私の項に触れたからだ。本当にただ掠めただけなのだが、私の動きを止めるには充分だった。


「……ハンス?」


 極限まで早まった心臓に耐えきれなくなって彼の方を振り向こうとしたが、彼の腕はそれを許してくれなかった。魔法を使えば彼から離れることくらい容易いことだろうが、ここで無理やり彼から離れるのも気が引ける。


 きっと、彼は寂しかったのだ。誰かに触れたくなっただけ、この行動に深い意味なんてない。


 そう、自分に言い聞かせていつも通りを取り繕おうと、無理やりはにかむような笑みを浮かべたとき、ハンスは消え入りそうな声で呟いた。


「……ガブリエラ、君だけは、どこにも行かないで」


 ああ、ほら、やはり彼は寂しかったのだ。いくら友人たちが訪ねて来てくれるとは言え、こうして触れ合えるような間柄の友人はいないだろう。きっと昔を思い出して、「妹」のような私に縋りたくなっただけだ。


「大丈夫だ、私はここにいるじゃないか」


「この先も、ずっとだ。ずっと、傍にいると言ってくれ」


「ずっと……って……」


 それは、二つ返事で了承してはいけないほどの重みを帯びた言葉だった。ハンスは一体どのくらいの期間のことを指して言っているのだろう。彼が立ち直るまでの時間だろうか。あるいは、彼が「運命の人」に出会うまでのことを言っているのだろうか。


「そのままの意味だ。いつまでもずっと、二人だけで生きて行こう」


 捉えようによっては熱烈な愛の告白のような言葉だが、勘違いするわけにはいかない。私はそっとハンスの腕に触れながら、誤魔化すように笑った。


「……どうしたんだ? 急に。もちろんハンスと一緒にいるのは悪い気分ではないが、いつまでも一緒というわけにはいかないだろう。お互い、『運命の人』にもいつかは巡り会うのだから」


 そうして幸せな家庭を築いて、愛する人と共に穏やかな終わりを迎えるのだ。それが、私たちが呪いから逃れられる唯一の方法であり、幸せになる道なのだから。


 それをハンスも痛いほど理解しているはずなのに、彼はさらりと言ってのけた。


「いらないよ、そんなの」


 ハンスは私の肩口に顔を埋めるようにして、縋りついてきた。どくどくと早鐘を打つ心臓の音はきっと彼にも届いているだろう。


「い、いらないなんて……そんな滅多なことは言うものじゃない。きっと、『運命の人』に出会ったら、惹かれてやまないはずなんだ」


 そうじゃなきゃ、やりきれない。「運命の人」を愛せなければこの生はただの地獄だ。そう定められた魂なのだ。


「そうかもしれない。でも、今、俺が惹かれているのはガブリエラだ」


 それは、何より甘く、そして残酷な言葉だった。本当ならば、飛び上がって喜びたいくらいの台詞だ。他の誰でもないハンスが、私の一番欲しい言葉を言ってくれたのだから。


 だが、それと同時にどこか腹立たしくもあった。私がこの数十年間葛藤して隠し続けてきた思いを、こんなにもあっさりと口にするなんて。彼はこんな甘い言葉を吐いておきながら、「運命の人」が現れればあっという間に私の前から消えて行くのだろう。ハンスにとっては、それでもいいくらいの軽い想いなのだろうか。


 私には、無理だ。ハンスと過ごす甘い日々を知ってしまったら、きっともう戻れなくなる。


 それが、何を意味するのかハンスだって分かっているはずだ。一人ぼっちで終わりのない孤独に耐えるなんて、私には出来ない。


「……っどうして」


 思わずきつく手のひらを握りしめながら、苦し紛れにただそれだけを呟いた。背後でハンスがどこか自嘲気味に笑う。


「……だから来るなって言ったのに。忠告を聞かなかったガブリエラも悪いんだよ」


 ああ、駄目だ。これ以上踏み込んだらきっと、本当に私たちは戻れなくなる。


 その直感を抱いたのと同時に、私はくるりと体の向きを変え、ハンスに向き合った。いつも穏やかな様子の彼らしくないどこか虚ろな瞳は、確かに私だけを映し出していて余計に心が苦しくなった。


 そのまま私はハンスのシャツの襟を掴み、半ば強引に引き寄せ、その勢いのまま彼に口付けた。それと同時に、得意の忘却の魔法を彼にかける。この魔法に限っては、魔術師団の中で一番得意な自信がある。ハンスはもちろん、師団長にもきっと負けないくらいの自信があった。


 本当は悪夢に苦しむ人の心を軽くするために使う優しい魔法なのだけれども、このときばかりは私は私とハンスの関係を守り抜くために使った。それくらい、私の心は追い詰められていたのだ。


「……私も、お前が好きだよ、ハンス」


 抗う間もなく私の魔法にかけられたハンスは、微睡の中でも僅かに目を見開いてその台詞を聞き届けたようだった。でも、問題ない。私の魔法にかかれば、目覚めたときには全部忘れているはずだ。


「……ガブリ、エラ……」


 体を支えきれなくなったのか、ハンスは私にもたれ掛かりながら、どこか恨めし気にこちらを睨んでいた。彼の告白を遮ったのだからそれも当然の反応だろう。でも、これでいい。明日の朝からも、いつもと変わらない私たちでいられる。


「……ごめん、ハンス」


 私がそう呟いたのと、彼が夢の中に誘われたのはほとんど同時だった。脱力した彼の体を何とか支えながら、彼の背中越しに静まり返った部屋の中を見つめる。


 これで、良かったはずなんだ。私は私とハンスの関係性をちゃんと守れたのだから。


 それなのに、この空しさは何だろう。どうして頬を涙が伝うのだろう。


 私にもたれ掛かるハンスの体をぎゅっと抱きしめながら、一人嗚咽を漏らす。この感情が恋だなんて認めていなかったはずなのに、確かに何かが終わったような気がしてならないのだ。


 今だけは、と眠るハンスの肩に顔を埋めながら、ただただ泣いた。この初恋は、私だけの秘密だ。私だけの宝物にするのだ。

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