第63話
「ああ、レイラ! この飾りを忘れているわ!」
「それは大変です! 申し訳ありませんが、つけていただけますか?」
「レイラ嬢、ジェシカ殿がお見えになっているが、式場に案内する形で構わないか?」
「ええ、そうしていただけると助かります」
澄み渡った青空が広がるある初夏の日、朝から慌ただしく式の準備が執り行われていた。前々から入念に計画してきたことだけれども、やはり当日の朝となると皆どことなく忙しない。
そう、遂に今日、私はリーンハルトさんと結婚式を挙げるのだ。私がリーンハルトさんに求婚をしてから実に半年が過ぎ、彼と初めて出会った季節がまたやってきた。ちょうど一年ほど前の初夏の雨の日に、私はリーンハルトさんと鮮烈な出会いを果たしたのだ。
あまりに濃密な日々を過ごしていたせいで、もう何年も前のことに感じてしまうから不思議だ。リーンハルトさんと出会ったあの日の衝撃を思い返しながら、空を見上げて懐かしんでしまう。
「レイラお姉様、ブーケ!」
鮮やかな空色のドレスを身に纏ったグレーテさんが、色とりどりのアネモネの花で作られたブーケを運んできてくれた。私は純白のウエディングドレス姿でそっと屈みながら、グレーテさんの小さな手からブーケを受け取る。
「ありがとうございます、グレーテさん。とても素敵なドレスをお召しですね」
「レイラお姉様の方がきれい! いいなあ……」
グレーテさんはシャルロッテさん譲りの紫紺の瞳をきらきらと輝かせて私を見上げていた。この頃少しずつませてきたグレーテさんは、花嫁姿に憧れているのだろう。少し癖のある黒髪をそっと撫でながら、微笑みかけた。
「きっとグレーテさんもいつかこのような式を挙げることになりますよ」
「リーンハルトお兄様みたいなひとと?」
「ふふ、グレーテさんはリーンハルトさんがお好きですか?」
「うん! グレーテが今まで見たおとこのひとのなかで、いちばんきれい!」
幻の王都には整った顔立ちの方が多い印象だけれど、グレーテさんのお眼鏡に適ったのはリーンハルトさんだけのようだ。はっきりと言い切ってしまうあたりに子供らしさを感じてふっと笑ってしまう。
「そうですね、確かに綺麗で優しい方です」
あまり言うと惚気になってしまいそうだわ、と思いながら火照りそうになる頬を何とか抑えた。これだけ時間が経ってもまだ、私はこの手の話に慣れないのだ。
「グレーテ! あまりレイラの邪魔しちゃ駄目よ」
グレーテさんと同じ生地の空色のドレスに身と包んだシャルロッテさんが、衣裳部屋に飛び込んできた。シャルロッテさんには、この式の準備やら何やらでいつも以上にお世話になっている。本当に頭が上がらない。
「シャルロッテさん、邪魔なんてとんでもありませんよ。楽しくお話をしていたところです」
「そう? それならいいんだけど……グレーテがレイラのドレスに染みでも作ったらと思うと目を離せなくて……」
シャルロッテさんはグレーテさんの頭を撫でながら苦笑いを零した。
「グレーテそんなことしないよ!」
「ふふ、そうですわね。グレーテさんももう小さなレディですもの」
「えへへ、グレーテがレディ……」
どこかうっとりした調子で私の言葉を繰り返すと、くるりと回ってドレスをなびかせた。そうかと思えば、グレーテさんはそのまま「パパの所へ行ってくる!」と言って駆け出してしまう。日に日に元気の良さが増しているような気がして本当に可愛らしい。
「あれはしばらくはしゃいでるわよ、きっと……。レイラにレディなんて言われたから大喜びよ」
「そうですか?」
「ええ、グレーテはレイラをお姫様みたいに崇めているもの」
シャルロッテさんはからかうようにウインクしながら一歩私に詰め寄ってきた。そうしてそっと私の手を包み込むように握る。
「今日は、本当におめでとう、レイラ」
「ありがとうございます」
もう何度も言われた言葉だけれど、嬉しい気持ちは変わらない。心からの笑みをシャルロッテさんに返せば、彼女もまた頬を緩めた。
「……儀式のことは、話した通りよ。難しいことは無いわ。レイラと兄さんの心が大切なのよ」
儀式という言葉に、改めてごくりと唾を飲み込む。本日の一番の緊張の源と言っても過言ではない。
これほど気が張るのも無理はない。何せこれから行うのは、リーンハルトさんの呪いを解くための儀式なのだから。
シャルロッテさんから説明を受けた限り、手順としてはとても簡単なもので、覚えることに苦はないのだが、この儀式を成功させる鍵は「二人の心が通い合っていること」らしいのだ。
正直、二人の心のありようが呪いを解く鍵になるのだと言われても、不安は一切なかった。それくらいに私はリーンハルトさんを愛していると断言できるし、彼もまた、盲目的なほどに私を愛してくれている。その気持ちに一点の曇りもないことは火を見るよりも明らかだった。聞き及んだ限りなら、まず心配する要素が無い。
だが、それはそれとして緊張はするのだ。儀式を終えれば、数百年ぶりにリーンハルトさんの時は動き出す。ようやく私と同じ時間の流れで生きていくことが出来るのだ。その事の重大さを噛みしめると、正直指先が震えるくらいに気が張り詰めてしまう。
「この儀式は、『運命の人』の方が緊張するわよね。ラルフがあんなに動揺していたのを見たのは、儀式の時だけだもの」
シャルロッテさんは私を和ませるように懐かしい話をしてくれた。身近に儀式を終えた人がいてよかったと思う。
「大丈夫よ、そう気を張らずに楽しんで。儀式の間はとっても綺麗なのよ。私ももっと見ておけばよかった、って思うくらい美しかったんだから」
儀式の間には、新郎新婦しか入れない決まりになっているらしい。シャルロッテさんにそう言われると、どんな場所なのか楽しみになってきた。
「はい、目に焼きつけておきますね。……私、頑張ります」
「もっと楽にしていいのよ。兄さんの腑抜けようを見ていたら、何だか申し訳なくなってくるから……」
シャルロッテさんは軽く視線を逸らして呆れたように笑った。シャルロッテさんのリーンハルトさんに対するある種の辛辣さは相変わらずだ。
実は、今日はまだリーンハルトさんの姿をしっかり目に収めていない。今日は朝から慌ただしく、「おはよう」と短く挨拶をする時間しかなかったのだ。
リーンハルトさんは魔術師団の正装で参列するらしいが、そのお姿を目にするのがとても楽しみだ。多分、まともにお顔を見られないくらい素敵なんだろう。それはいつものことと言えばそうなのだけれど、やはり雰囲気が違うと余計に目を合わせられなさそうだ。
リーンハルトさんもまた、私のドレス姿は見ていないはずだった。彼のことだ、手放しで褒めてくれるに違いないが、どんな表情で私を見るだろうと思うとひどく落ち着かない気分になってしまった。
教会の傍の控室で、シャルロッテさんから教わった儀式の手順を何度も頭の中で繰り返す。時折深呼吸を交えながら、部屋の隅に置かれた時計を盗み見た。
順番としては、結婚式よりも儀式の方が先だ。その方が心置きなく式を楽しめるからありがたいのだけれども、逆に言えば儀式の時間はもうすぐそこまで迫っているということなのだ。
儀式の所要時間は、ほんの半時間ほどのものなので、式の参列者たちは既にほとんどが集まってきている。その証拠に、控室の外からは賑やかな声が聞こえて来ていた。
魔術師団の師団長であるリーンハルトさんの結婚式ということだけあって、参列者はそれはもう大勢いるのだ。ちらりと窓から見た限りでは、皆いつもと違った装いでとても華やかな光景が広がっていた。
もうすぐリーンハルトさんがここに来る。そうしたら、二人で参列者の前に一度顔を出して、そして教会の奥にある儀式の間に移動するのだ。
直前まではシャルロッテさんとジェシカがついて来てくれるようだが、儀式の間には私とリーンハルトさんだけで入る。そこから先は手順こそ聞いていても未知の世界だった。リーンハルトさんでさえ入ったことのない場所だという。
大丈夫、きっと上手くいくわ。リーンハルトさんと一緒にいるんだから。
そう自分に言い聞かせながら、何度目か分からない深呼吸を繰り返した。早朝から丁寧に着せてもらったドレスの形が崩れないよう細心の注意を払いながら、軽く胸に手を当てる。思ったよりも早く脈打つ心臓が、自らの存在を主張していた。
これは、単に儀式への緊張から来るものではない。リーンハルトさんとの結婚式に対する楽しみな気持ちも大きいのだ。
私だって、人並みに結婚式というものへの憧れは抱いていた。かつてはルイスとともに、盛大だけれども決まり事だらけの式を挙げるものだと覚悟していたが、現実はこんなにも温かく、幸せに満ちた気持ちだ。
それは、紛れもなくリーンハルトさんがいてくださるからだろう。軽く睫毛を伏せて、改めてリーンハルトさんへの愛情と感謝の気持ちを深めた。
その瞬間、規則正しいノック音が響く。
このリズムは、すっかり聞き慣れた。それが、何よりの平穏の証のような気がして嬉しくなってしまう。
「はい」
「お待たせ、レイラ。ハイノが早速号泣してて、相手をしていたら遅れ――」
飾りのついたドアを開け、姿を現したリーンハルトさんはいつもの調子で話していた言葉を不意に失ってしまう。私は窓際にいたのでそれなりに距離はあるというのに、彼が息を飲む音が聞こえた気がした。
だが、それは奇遇にも私も同じだ。突如姿を現したリーンハルトさんの姿に、完全に目を奪われていた。
綺麗。なんて、なんてきれいなの。
人を褒める文句はたくさん学んできたはずなのに、私の頭の中を埋め尽くしたのはそんな不器用な言葉だけだった。それくらいに、目の前のリーンハルトさんの姿に見惚れていた。
いつも纏っている紺色の外套によく似た、それでいてどこか格式高い印象を受けるその衣装は、騎士のような装いであるはずなのにリーンハルトさんが着ているせいかどこまでも優美に見えた。深い紺色の外套に施された金と銀の刺繍が、陽の光を受ける度に煌めいている。
まるで、星空を連れ立って私を迎えに来てくれたみたい。
それくらい神秘的で、綺麗だったのだ。
お互いかなり長い時間見つめ合っていたと思うけれど、先に我に返ったのは私の方だった。瞬きも忘れるほどに注がれた紫紺の視線に気づいてしまったら、私の方が耐えられなくなるに決まっている。頬に熱が帯びるのを感じながら、慌てて言葉を取り繕った。
「私としたことが……その、申し訳ありません。あまりにリーンハルトさんが素敵で、見惚れておりました」
素直に言葉に出せば、それはそれで恥ずかしい。余計に顔が熱くなっていくような気がして、どんな表情をすればよいのか分からなくなってしまう。
「……だ」
「え?」
まるで譫言のように呟いたリーンハルトさんの声はあまりに遠くて、思わず聞き返してしまった。彼の方へ歩み寄ろうとドレスの裾を摘まんだとき、不意に駆け寄って来たリーンハルトさんに抱き上げられ、彼を見下ろす形になってしまう。抱き上げられた拍子にふわりとベールが舞った。
「っ……リーンハルトさん!?」
「綺麗だ、レイラ」
「っ……」
このくらいの甘い言葉は、毎日のように囁かれているというのに、リーンハルトさんが感極まったような声で言うから心が乱されてしまう。夕暮れの終わりのような美しい紫紺の瞳は、ただ私だけを映し出していた。
「レイラは、なんて可愛いんだろう。……僕は幸せ者だ、レイラの隣にいられるのだから」
こんなに幸せで困ったな、と小さく呟くと、リーンハルトさんは悩まし気に息をついて私を抱きしめてくれた。純白のドレス越しに伝わる温もりに、思わず私もゆっくりと息をついて甘い安らぎを味わう。
「相変わらず、リーンハルトさんは私を甘やかすのがお上手です」
「それは嬉しいな。このまま誰よりレイラを甘やかして、溶かしてしまいたいくらいだ」
「ふふ、本当に溶けてしまいそうなほど、いつも頬を熱くさせられておりますわ」
リーンハルトさんの腕の中でそっと彼の顔を見上げれば、すぐに影に覆われ、頬に彼の唇が触れる感触があった。私の頬の熱に比べればいくらか冷たいはずのその温度に、ますます赤が差してしまう。
「本当だ、いつもより熱いね」
「っ……そんなことなさったら、余計に溶けてしまいます!」
「ごめんごめん、つい」
リーンハルトさんは紫紺の瞳を細めて、私の好きなあの穏やかで優し気な笑みを見せた。その微笑みに胸の奥が疼くことは、多分この先一生変わらないのだろうなと予感する。毎日この愛しい人の微笑みを見られることが、この上なく幸せなことだと改めて感じた。
それと同時に、先ほどまで一人で抱え込んでいた緊張がかなり薄れていることに気づく。リーンハルトさんがこうして傍にいてくださるだけで、こんなにも心持ちが違うなんて。
思わずリーンハルトさんを見上げれば、彼もまた軽く首を傾げて私を見つめてくれた。
「どうかした? レイラ」
「ふふ、リーンハルトさんと一緒ならば、この世界に怖いことなんて何一つありませんわね」
恋の力は強大だ。そう、改めて感じた瞬間だった。
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