第62話

 長い長い半年間のことを話し終えた私は、ふう、と一息をついた。こうして話してみると、あまりに波乱のある半年間だったと我ながら笑ってしまう。


 私の我儘を、今こうしてリーンハルトさんが叶えてくださったことに改めて感謝の気持ちが深まった。モニカにも無事に本を渡し、彼女が元気に日々を過ごしていると知ることが出来たし、これで王国に心残りは無くなったと言えそうだ。


 小一時間ほどずっと私の話に耳を傾けてくれていたジェシカはというと、晴れやかとは言えない表情をしていた。それもそうだろう。王国では御伽噺の存在でしかない魔術師と恋に落ち、一方で王太子殿下に監禁され殺されかけ、ようやく今平穏を手にしただなんて、話している私も驚いてしまう。ジェシカの予想の範囲内だった出来事なんて、一つも無いに違いない。


「……お嬢様の殺害説は、あながち間違いでもなかったのですね」


 ジェシカの静かな声には、確かな怒りが滲んでいた。あの王国で、私の死に対して怒ってくれる優しい人は、きっとジェシカとモニカしかいない。


「……でも、良かった。本当に。お嬢様が生きていてくださって。こうしてリーンハルト様と平穏な日々を手に入れてくださって……」


 ジェシカはハンカチに涙を吸わせながら、震える声でそう言った。本当に心から私の幸せを願ってくれていたのだろう。その思いやり深さにまたしてもつられて泣きそうになりながら、頬を緩めた。


「ええ、本当に……。リーンハルトさんには感謝の気持ちで一杯なの」


 軽く髪を耳にかけながらそっとリーンハルトさんを見上げれば、優し気な微笑みが返ってきた。今更ながら、この甘いやり取りをジェシカに見られていたことに少しだけ恥ずかしさを覚える。


「あ、あの、それでね、今の話に出てきた通り……その……私、リーンハルトさんと――」


 きちんと結婚の挨拶をしようと決めていたのに、いざジェシカと前にするとどうにも上手く言葉が出て来ない。親とも思っているほど親しい相手に恋人を紹介することが、こんなにも緊張することだったなんて知らなかった。随分甘ったるくてもどかしい気持ちだ。


「レイラ、僕からちゃんと言うよ。そんな真っ赤な顔で言われても、ジェシカさんだって困ってしまうだろうからね」


 からかうようなリーンハルトさんの言葉に、慌てて頬に手を当てた。確かにいつもより熱を帯びていて、思った以上に気が高まっていたのだと思い知らされる。


「ジェシカさん、僕は、レイラを愛しています。レイラの鮮烈さゆえに、彼女をまっすぐに見られないときもありましたが、今はもう、レイラのことしか目に入らないくらいに……そのくらいの深い想いを抱いています」


 リーンハルトさんはジェシカの方へ向き直って、真剣な声音で切り出した。ジェシカもまた、真っ直ぐにリーンハルトさんの紫紺の瞳を見上げている。


「レイラは、僕の唯一です。誰よりも愛おしい人なんです。……ですから、どうか、レイラと共に生きていくことを許していただけませんか」

 

 リーンハルトさんはジェシカに軽く頭を下げて、目を伏せていた。長い睫毛が僅かに震えている様子から、緊張が伝わってくる。ジェシカは慌てたように席を立ち、リーンハルトさんの肩に手を当てた。


「っ……私は、一介のメイドに過ぎません。レイラお嬢様の恋人ともあろう方がそのような真似をなさる必要は……」


 リーンハルトさんは軽く顔を上げて、ジェシカを見つめた。そして相手を惑わせるあの優しい微笑みを浮かべたのだ。


「レイラの心の母君なのですから、ジェシカさん以上に相応しい相手がいるとは思えません」


「そうよ、ジェシカ。私、あなたに認めてもらいたいの。ジェシカに許してもらえたら、本当に嬉しいのよ」


「レイラお嬢様……」


 ジェシカは再び両目に涙を溜めて、その一粒をぽたりと零した。その涙をすぐにハンカチで拭いながら、ジェシカは幸福そうな微笑みを浮かべる。


「……っ私には、あまりに勿体ないお言葉です。お嬢様」


 ジェシカは指先で目尻に溜まった涙を拭いきると、改めてリーンハルトさんをじっと見つめた。


「……リーンハルト様、どうか、レイラお嬢様をよろしくお願いいたします。絶対に、お嬢様を幸せにして差し上げてくださいませ」


 リーンハルトさんはそんなジェシカの言葉を真摯に受け止めるように、綺麗な笑みを浮かべる。


「はい。必ず、レイラを幸せにします。何に代えても、レイラを守り抜いてみせます」


 誠実なリーンハルトさんの言葉が嬉しくて、それでいて何だかくすぐったく感じてしまう。リーンハルトさんの言葉に含まれた糖度の高さには、少しずつ慣れていたつもりでいたのだけれども、思ったよりも耐性がついていなかったようだ。


 ジェシカは、今度は私に向き直ると、慈しむような笑みを浮かべて語り掛けた。


「レイラお嬢様、本当によかったですね。お優しそうな旦那様で、ジェシカは安心いたしました」


「だ……旦那様……」


 そうだ、その通りだ。今はまだ婚約者だけれども、そう遠くないうちにリーンハルトさんはそう呼ぶべき相手になるのだ。分かっていたつもりであるし、何なら三度目のプロポーズは私からしたのだけれども、いざジェシカにそう言われると恥ずかしさを隠せない。


「そ、そうね。本当に、リーンハルトさんが旦那様になってくださって嬉しいわ……」


 もっと機転を利かせた言葉もあっただろうけれど、今はこれで精一杯だった。


 助けを求めるようにそっとリーンハルトさんに視線を送れば、リーンハルトさんも僅かに耳の端を赤く染めている。


「っ……」


 どうやら、ジェシカの何気ない言葉の流れ弾にもろに当たったらしい。結婚の挨拶をしておきながら、二人して赤面するという何とも不甲斐ない状況に、ますますジェシカの顔を真っ直ぐに見られなくなった。


 ジェシカが、私たちをからかうような相手でなくて良かった。もしもここにいるのが、シャルロッテさんやハイノさんだったら、再起不能な羞恥に悶え苦しんでいただろう。


 裏を返せば、そのくらい幸せで満ち足りた日々を過ごしているということなのだけれども。今までの人生との温度差がありすぎるせいで、まだどうにも慣れない。いや、この幸福感に慣れる日が果たしてくるのだろうか。


 贅沢な悩みだ、と思いながら一人頬を緩める。どうにか落ち着きを取り戻し始めたのを機に、改めてジェシカを見つめれば、彼女はやはり慈しむような表情で私を見守ってくれていた。


「……近々、結婚式もする予定なの。ジェシカも来てくれたら、とても嬉しいわ」


「ありがとうございます、お嬢様。ご招待いただけるなら、喜んで参列いたします。お嬢様のウェディングドレス姿が今から楽しみです」


 きっと、温かな式になるだろう。ジェシカの笑顔、シャルロッテさんやガブリエラさんの心からの歓迎を思えばそれは確信に近かった。


 どちらからともなくリーンハルトさんと視線を絡め、そして笑い合った。きっと、とびきり素敵な一日にしよう。私はもう大丈夫なのだと、ジェシカたちが心から安心してくれるような、そんな式を挙げるのだ。

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