第61話

 陽の光に、そっと右手をかざしてみる。きらり、と指輪に埋め込まれた星空色の石が反射した光に僅かに目を細めた。綺麗だ、何度見ても、本当に綺麗。


「そんなに気に入っているなら、もうずっと着けておけばいいのに」


 優しい声が近づき、ふわり、と背後から抱きしめられる。その肩に軽く寄りかかるようにして、くすくすと笑った。


「ふふ、そうしたい気持ちは山々ですが、折角なので式の後から着けたいのです」


 私が負傷したあの夜に、同様に傷ついていたリーンハルトさんから贈られた指輪は、すっかり元通りに直っていた。魔法で直せば早いらしいが、こういった記念品は職人に頼んで修理してもらうのが習わしらしい。三週間ほどの期間を経て、ようやく手元に戻ってきたのだ。


「焦っていたとはいえ、失敗したなあ……。婚約指輪も用意すればよかったね」


 リーンハルトさんは私の髪を梳きながら、大真面目に考えているようだった。


「むしろ、今からでも用意しようか?」


 ここで頷けば、リーンハルトさんは嫌な顔一つせずに早速準備に取り掛かるのだろう。それはそれで嬉しいけれど、私にはこの指輪だけで充分だった。


「あまり甘やかしてばかりですと、我儘な恋人になってしまいますわ」


「レイラの我儘なら喜んで聞くよ」


 私の頭に頬をすり寄せるようにして、リーンハルトさんは何てことの無いように告げた。その言葉通り、彼には私の我儘を叶える気持ちも力もあるのだから、迂闊なことは頼まないようにしなければ。そう、心の中で決意を固めた。


「私にとってはリーンハルトさんと過ごす一秒一秒が贈り物のようなものですのに、これ以上何を贈ろうというのでしょうか」


「レイラははぐらかすのが上手いなあ、可愛い」


 唐突に「可愛い」だの「愛している」だの言ってくるからやっぱりリーンハルトさんはずるい。思わず頬を赤く染めながらも、動揺を悟られないように努めた。リーンハルトさんが背後にいてくださったのは幸いだったかもしれない。


「また照れてるの? いつまでも新鮮な反応してくれるのは嬉しいけど、あまり赤くなってばかりだと心配だよ」


「わ、私を戸惑わせているのはどちら様ですか!」


「分からないなあ、教えてよ、レイラ」


 そう耳元で囁かれ、本当に眩暈を覚えそうなほどの熱を感じる。この調子では、いつか恥ずかしくて死んでしまうのではないだろうか。


「……窓の外が見えてないようだから私が教えてあげるけど、まだ朝よ! 二人とも!!」


 不意に響き渡ったシャルロッテさんの声に、思わずびくりと肩を震わせる。恐る恐る声のした方に視線を送れば、エプロン姿のシャルロッテさんが心底呆れたような表情で立っていた。


 まさか、このやり取りを見られていたのか。これ以上の羞恥はない。ただでさえ赤かったであろう頬に、余計に熱が帯びる。


「無粋な妹もあったものだな、そのくらい分かってるよ」


 リーンハルトさんは淡々と受け答えた。まさか、シャルロッテさんの存在に気づいていてあんなに甘い言葉を吐いていたのか。何となく、してやられたような気分になる。


「今からその調子で、結婚式挙げた後はどうなるの……。糖分過多で見ているこっちが死にそうだわ……」


 シャルロッテさんは盛大な溜息をつきながら、やはり呆れたような――というよりは若干引いたような目で私たちを見ていた。私は誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべながら、視線を逸らす。


「き、気を付けますわ……シャルロッテさんに呆れられてしまっては、悲しいですもの」


「レイラが気を付けてもどうしようもないわよ! 兄さんがこの調子なんだから」


 やっぱり私の予想は当たったわね、と、ぶつぶつと呟くシャルロッテさんを他所に、リーンハルトさんは私を引き寄せて笑った。甘すぎるくらいに、幸せな時間だ。リーンハルトさんの温もりに包まれながら、思わずそっと目を閉じた。





 私がリーンハルトさんに求婚したことを報告したときのシャルロッテさんとガブリエラさんの反応と言ったら、それはもう今も印象深く記憶に残っている。


「プロポーズ!?」

「それもレイラ嬢からか!?」


 どうしてあの流れでそうなるのよ、と訝し気に問うシャルロッテさんに、好きが抑えられなくて、とはにかみながら告げると彼女は紫紺の瞳を次第に潤ませ始めた。


「レイラと兄さんが結婚……」


 軽く頭を抱えながら、シャルロッテさんは衝撃を受けたように呟く。あまりに急な報告で驚かせてしまったようだ。


「いやあ、めでたいな! おめでとう、レイラ嬢。あの師団長をどうにか幸せにしてやってくれ!」


 ガブリエラさんはティーテーブルに体を乗り出して、私の手を握り祝福してくれた。さらりとした指先が綺麗なその手を握り返しながら、頷いてみせる。


「はい、お約束します。式にはきっと、ガブリエラさんもいらしてくださいね」


「もちろん、魔術師団総出で行くさ。ただでさえ、この街で結婚式は珍しいんだから、皆張り切って参列するだろうな」


「それは嬉しいですわ、ありがとうございます」


 ガブリエラさんに満面の笑みを返せば、ふと、シャルロッテさんの方から小さなすすり泣きが聞こえてくる。


「っ……兄さんとレイラが結婚……ようやく、ようやくね……」


 先ほどは衝撃を受けていたようなシャルロッテさんだったが、少しの時間を置いて状況を把握できたのか、ぽろぽろと涙を流しながらそんなことを呟いていた。次から次へと溢れる透明な涙に、今度はこちらが驚かされる番だ。慌てて席を立ち上がり、白いハンカチでシャルロッテさんの涙を拭う。


「ありがとうレイラ……ありがとう……」


 その感謝が涙を拭っていることに対してなのか、それとも別の意味が含まれているのかは定かではなかったが、シャルロッテさんがこの結婚を祝福してくれていることは確かなようだ。反対されるとは思っていなかったが、改めて安心する。


「それで、式はいつにするんだ?」


 ガブリエラさんが興味津々と言った様子で尋ねてくる。普段は固い印象を受ける魔術師団の服ばかり纏っている彼女だが、ドレスアップすればさぞかし美しいだろうと思い、結婚式で彼女の華やかな姿を見るのが楽しみになった。


「それは、まだリーンハルトさんと相談中です。いろいろと準備もあることですし」


「それもそうだな。師団長とレイラ嬢の結婚式だ。とびきり華やかなものにしなければ」


「そうよ! ドレス選びでも何でも、私、手伝うわ!」


 シャルロッテさんは涙を拭いながら、いつものはきはきとした調子を取り戻して意気込んだ。式を挙げたことのあるシャルロッテさんに手伝って頂けるのは心強い。


「私にも出来ることがあれば、言ってくれ。楽しみだな」


 ガブリエラさんは清々しい笑みを浮かべると、改めて私の手を握る手に力をこめた。


「ありがとうございます、お二人とも。お二人に祝福してもらえて、私……本当に嬉しいです」


 二人の友人に心から歓迎されて、温かな幸せを噛みしめる。半年前の私からはすれば、まるで夢のような日々だ。もっともここは幻の王都なのだから、その表現もあながち間違いではないのかもしれないな、などと考えながら、二人につられるようにして満面の笑みを零したのだった。






 数日前の小さな報告会を思い出して、思わずはにかんでしまう。その表情の変化を捉えていたのか、隣に座ったリーンハルトさんがそっと私の髪に手を伸ばした。


「ご機嫌だね、レイラ」


「ええ。体調もいいですし、とても幸せな心地です」


 何度も読み返したルウェインの御伽噺の裏表紙に、注釈や古語の解説を書き加え、羽ペンを置いた。


「あの子に渡す本の準備は順調?」


「はい、もうほとんど完成ですわ」


 細やかな刺繍が美しい布が張られた御伽噺の表紙をそっとなぞる。古びているが、それが却って味を出していて私のお気に入りだった。


 私が死んだことになってから、もうすぐ一月が経つ。体力が回復してきたのを機に、私はこの一月の間悩んでいたことをリーンハルトさんに思い切って打ち明けたのだ。


 それは、出来ることならばジェシカとモニカにだけは、私の無事を知らせたいという相談だった。


 王国では私は死んだことになっている以上、本当ならばもう一切関わらない方がいいのだろう。それは痛いほど理解しているのだけれども、私の死の知らせを受けて涙を流しているかもしれない二人のことを考えると、どうしても諦められなかったのだ。このまま、二人の悲しみを見過ごしたくない。

 

 リーンハルトさんはモニカとは会っているので話が早かったが、ジェシカのことは殆ど知らない。これを機に、私はジェシカへの想いも明らかにした。


「……私の心を育ててくれたのは、間違いなくジェシカです。彼女がいなければ、私はどこかで笑顔も涙も忘れていたでしょう。彼女は、私の心の親なのです」


 自然と出てきた言葉だが、心の親という表現は本当にその通りだ。いつだってジェシカは私を陰で支えてくれた、笑顔を向け続けてくれた。多少私に甘い部分はあったと思うけれど、お母様なんて比べ物にならないくらい、ずっと私の心に寄り添ってくれていた人だ。


「ですから、出来ることならば、一日も早く私が生きていることをジェシカに知ってもらいたいのです。きっと、私の死を誰より悲しんでいるでしょうから」


 こうしている間も、ジェシカは涙を流しているかもしれない。そう思うと、胸の奥が痛くて仕方がなかった。


「そういうことなら、結婚の挨拶を兼ねてジェシカさんをこの屋敷にお呼びしようか。……レイラを幻の王都に閉じ込めるわけじゃないけど、今はまだ君が王国に出るのはまずいからね」


「私の我儘を、叶えてくださるのですか」


「もちろん。レイラの心の親だと言うなら、僕もお会いして認めてもらいたいよ」


「ふふ、リーンハルトさんのことを紹介したら、きっと喜びます」


「こんな男にレイラお嬢様はあげられないって言われたらどうしよう」


「そんなことは無いと思いますが、そのときは一緒に説得してください」


 結婚の挨拶なんていう、当たり前のことが私たちに出来るとは思わなかった。それだけに、何だか頬が緩んでしまう。身内ともいうべきジェシカと、恋人――否、婚約者となったリーンハルトさんが顔を合わせるというのは何だか気恥ずかしい気もするが、それ以上に楽しみな気持ちが大きかった。


 そんな流れを経て、私は、ジェシカとモニカに生存報告をすることにしたのだ。ジェシカは、仕事の都合さえつけば幻の王都に呼べる可能性が高いが、モニカはあの塔から自由に出られるような立場にないことを考えて、間接的な手段を取ることにした次第だ。


 だが、モニカにただの手紙を送るというのも味気ない。そこで思いついたのが、文字の練習と読書の訓練を兼ねて、手書きの注釈付きの本を贈る、というものだった。


 本自体は新品のものでもよかったのだが、思い入れのあるものだからこそモニカに持っていてもらいたい。そう思い、私は公爵家から持ち出した数少ない品である、ルウェインの御伽噺を選んだのだ。


 直接会うことは叶わないだろうが、モニカなら私の字を見れば私の生存を信じてくれるだろう。何日もかけてなるべく丁寧に文字を書きつけながら、モニカへの最後の贈り物の準備を進めていた。注釈も解説ももうほとんど終わり、後は裏表紙にモニカへのメッセージを書きつけるだけだ。


 感情が絡む言葉を人前で書くのは何だか恥ずかしい。今夜にでも、一人でゆっくりと考えよう。そう思い本を閉じたところ、私を見つめていたらしいリーンハルトさんの穏やかな紫紺の瞳と目が合った。


「……そんなに見つめて、どうされたのです?」


 もっとも、ここ数日はリーンハルトさんが私を見ていないことの方が少ないのだけれど。もちろん、私も隙あらばリーンハルトさんの姿を追っているのだから彼だけを非難するわけにはいかない。傍から見れば恥ずかしくなってしまいそうな熱愛ぶりだと分かっているが、今はこれが幸せだった。


「レイラは、先生になってもいいかもしれないね」


「先生、ですか?」


 唐突なリーンハルトさんの言葉に、目を丸くしてしまう。


「そう。幻の王都は、呪いの特性上子どもはあんまり多くないけど、いないわけじゃない。それに、個人的に勉強をしている者もたくさんいる。それこそ、レイラの得意分野の文学や刺繍、王国の地理や歴史まで幅広くね」


 まさに、私が王太子妃教育で叩き込まれてきた分野だ。驚きを隠せない私を宥めるように、リーンハルトさんは優しく微笑む。 


「レイラさえ望むなら、レイラのその知識を活かしてみるのもいいかもしれないな、と思ったんだ。モニカさんにも上手に文字を教えていたみたいだからね」


 思いもしなかった未来の展望に、何度か瞬きをする。


そうか、そんな未来もあるのね。私はもう、自分で選ぶことができるのね。


 朝はリーンハルトさんと朝食を摂って、昼には教師として子供たちに私の持つ知識を分け与える。そうして夕暮れにはこの屋敷に戻ってきて、リーンハルトさんと幸せな時間を過ごす。


 そんな一日を想像しただけで、何だか楽しくなってしまった。自由って素敵だ。自分で選べることが、こんなにも心を躍らせることだなんて知らなかった。


「……私、こんなに幸せでいいんでしょうか」


 緩んだ頬を元に戻せないまま、リーンハルトさんの瞳を見上げた。リーンハルトさんもまたそれに応えるように微笑むと、私の髪を梳いてくれる。


「これで満足されてたら、張り合いがないな。もっと幸せにするつもりなのに」


 亜麻色に絡んでいたリーンハルトさんの手が、やがて私の頬を撫でた。心地よい感触に目を瞑りながら、私もそっとリーンハルトさんの手に両手を重ねる。


「ふふ、私もそのつもりです。……ありがとうございます、リーンハルトさん。私を傍に置いてくださって」


 ゆっくりと目を開き、私の頬に触れた彼の指先にそっと口付ける。私とは違うこの大きな手に包まれていると、とても安心するのだ。王国では人に触れられる機会が少なかっただけに、つい、子どものように甘えてしまいたくなる。


「……っそれは、こちらの台詞だよ、レイラ」


 リーンハルトさんは私から視線を逸らしてそんな嬉しいことを言ってくださった。その言葉に益々微笑みを深めながら、リーンハルトさんの手に頬をすり寄せるようにして再び目を閉じる。甘い時間に、心から酔いしれていた。


「……でも、お礼のつもりなら、指じゃない方が嬉しいな」

 

 その言葉に目を開いた時には、先ほどよりもリーンハルトさんとの距離が縮まっていて、からかうようなリーンハルトさんの言葉も相まって頬に熱が帯びた。


「どうぞ、お望みのままになさってくださいな」


 結婚を誓い合った恋人同士がここまで甘ったるいなんて。正直、想像の範囲を超えていた。


 これも、シャルロッテさんに言わせれば、リーンハルトさんが悪いということになってしまうのだろうか。呆れたようなシャルロッテさんの表情が目に浮かぶようだ。


 からかわれるくらいに祝福を受け続けるこの関係性に改めて幸せを噛みしめる。やがて、どちらからともなく距離を縮めて口付けながら、満ち足りたこの時間を与えてくれたリーンハルトさんに、改めて感謝の気持ちを覚えたのだった。

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