第60話

「レイラ!?」

「レイラ嬢!?」

「レイラお姉しゃま!」


 リーンハルトさんと入れ違うように書斎に姿を現したのは、エプロン姿のシャルロッテさんと魔術師団の外套を纏ったガブリエラさん、そして淡い緑色のワンピースを纏ったグレーテさんだった。かなり呼吸も気分も落ち着いていたが、床に座り込む私を見て三者三様に慌て始める。


「兄さんに何かされたの!?」

「遂に魔術師団が師団長に刃を向けるときが来たか……」

「リーンハルトお兄しゃまとけんかしたのー?」


 女性が三人集まると、こうも賑やかになるものなのか。その畳みかけるような様子に圧倒されていると、不思議と塞ぎこんでいた気分が和らいでいく。ガブリエラさんの手に引かれるようにして立ち上がりながら、私は何とか微笑みを取り繕った。


「……ご心配おかけして申し訳ありません。あの、リーンハルトさんは何も悪くありませんわ」

 

「でも顔色が悪いわ。体調がまだ万全じゃなかったのかしら……」


 シャルロッテさんはハンカチで私の頬や首筋の汗を拭ってくれていた。酷く心配そうな紫紺の瞳はリーンハルトさんとそっくりで、罪悪感が芽生える。


「いえ、体調というより……心の問題です」


 私のせいで、お茶会が台無しだ。申し訳なさに胃がキリキリと痛む。


「……落ち着いて、食事でもしましょうか。兄さんはどこかへ出掛けてしまったから、私たちでいただきましょう」


 シャルロッテさんは私を宥めるように、微笑んでくれた。リーンハルトさんは外出してしまったのか。彼への罪悪感はが膨れ上がる。


「……リーンハルトさんに悪いことをしてしまいました」


 私はどれだけあの人を傷つければ気が済むのだ。自己嫌悪するくらいなら改善するよう努力したほうがいいのは分かっているけれど、もどかしくてならない。


「師団長は傷ついている、という素振りではなかったけどな。それよりもひどく心配そうな顔をしていた」


 ガブリエラさんは凛とした面持ちにふっと微笑みを滲ませる。リーンハルトさんと共に仕事をしている彼女が言うからにはそうなのだろう。


「一緒にご飯食べよー! レイラお姉しゃま!」


 グレーテさんは私のワンピースを軽く引っ張るようにして、書斎の外へ連れ出そうとしているようだった。確かにグレーテさんはもうお腹が空いて仕方がない時間だろう。シャルロッテさんの言う通り、まずは食事でもして気分を落ち着けてみるのがいいかもしれない。






 中庭で一通り食事を終え、今は食後の紅茶を嗜んでいた。程よい甘さと香りが口の中に広がって、思わずほうっと息をつく。


 青々とした芝生の上で駆け回るグレーテさんを見ていると、自然と頬が緩む。彼女の朗らかさと元気の良さには励まされてばかりだ。


「悪い夢、ね……。無理もないわ、あんなことがあった後では」


 シャルロッテさんは深刻な面持ちで呟いた。二人には、先ほどの事のいきさつを話し終えたところだ。ただの悪夢で迷惑をかけてしまったというのに、二人ともとても真剣に聞いてくれた。


「だから師団長は、我々女性を呼んだ方がレイラ嬢も安心すると思ったんだな。本当に紳士だ」


 ガブリエラさんはどこか感心した様子を見せていた。確かに、リーンハルトさんは瞬時に私の混乱を見抜いてシャルロッテさんたちを呼びに行ってくれたのだから、本当に頭が上がらない。


「リーンハルトさんのことを怖いなんて、思っておりません。でも、きっと誤解を与えてしまいました」


「そんな悪夢の後だ、仕方ないと思うよ」


「そうよ、レイラ。あまり自分を責めすぎると塞ぎこんでしまうわ。兄さんは話せばわかる人だから、帰ってきたら一緒に会いに行きましょうよ」


「……いえ、私一人で参ります。こんなことで、リーンハルトさんとの間に距離が出来てしまったら悲しいですもの」


 きっぱりとそう言い放つと、シャルロッテさんはどこか意外そうな表情をしていた。確かに、かつての私であればシャルロッテさんのお言葉に甘えて付き添って頂いていたかもしれない。


 でも、本当に、リーンハルトさんが怖いわけではないのだ。男性全員を恐れているというわけでもない。ただあのときは最悪のタイミングで、自分を制御できなかった。それをきちんと伝えなければ。


「……レイラは少し変わったわね、いい方向に。辛い経験ばかりしてきたのに、そのひたむきさは本当に尊敬するわ」


 唐突に、シャルロッテさんに真剣な声音で褒められて、何だか恥ずかしいような気がしてはにかんだ。本当に、姉のような立場で私を見守ってくれているシャルロッテさんにそんなことを言われると、素直に嬉しいと感じてしまう。私も少しは成長できているようだ。


「そうだな、本当、師団長には勿体ないくらいだ」


 ガブリエラさんは大真面目にそう言ってのけると、紅茶をぐいっと飲み干した。前々から思っていたが、幻の王都の皆さんはリーンハルトさんに対する評価が辛辣だ。それだけ親しい証のようにも思えて、思わずくすくすと笑ってしまう。


「そんなことありませんわ。むしろ、リーンハルトさんと釣り合うような女性になれるよう、頑張らなければと思っていたところです」


「心配しなくても、兄さんはレイラがいてくれるだけで幸せなのよ。見てて分かるでしょう? 頑張るのはいいけどあまり無理しすぎないでね」


 シャルロッテさんは紅茶にお砂糖を追加しながら、どこか呆れた調子で笑った。だが、ふっと表情の明るさを落として、紅茶をかき混ぜる手を止める。


「……本当に、兄さんにはレイラが必要なのよ。レイラが誘拐されていたあの二週間、とても思い詰めていたわ。修道院でレイラに異変があったって感知したときには、本当に、この世の終わりのような絶望を顔に浮かべていたのよ」


 あれは痛々しいを越えてちょっと怖かったわね、とシャルロッテさんは小さく笑って誤魔化す。ガブリエラさんもその時のことを思い出しているのか、どこか複雑そうに視線を伏せていた。


「……でも、意外だったのは王太子の後姿を見ても、殺さなかったことね。以前の兄さんなら迷うことなく命を奪っていたはずなのに……人を傷つけることよりレイラを守ることを優先したのだわ。過激な部分はどうしてもあるけれど、兄さんはレイラのお陰でかなり変わったと思う」


 それは私だって同じだ。リーンハルトさんのお陰で、人を愛することを、愛されることを知った。乾いていた心がようやく潤って、少しずつではあるけれども人の感情を考える余裕ができ始めている。


 ようやく寄り添えたのだ。ここですれ違うわけにはいかない。私はシャルロッテさんとガブリエラさんを見つめて、なるべく明るい笑みを浮かべる。


「ありがとうございます、お二人とも。ちゃんと、自分の気持ちをリーンハルトさんにお伝えいたします」


 リーンハルトさんが帰ってきたら、真っ先に会いに行こう。麗らかな陽光の下、そう決意したのだった。






 リーンハルトさんがお戻りになられたのは、夕方になってからだった。片づけを終えた後、三人に別れを告げ、そのまま小一時間ほどリビングでリーンハルトさんをお持ちしていたところに、彼は帰ってきたのだ。


「お帰りなさいませ! リーンハルトさん!」


 きちんと事情を伝えなければ、と意気込んでいたせいか、妙に明るい声になってしまった。リーンハルトさんは軽く面食らったような顔をしていたが、すぐにふっと微笑んでくださる。


「ただいま、レイラ。……シャルロッテたちは?」


「少し前にお帰りになられました」


「レイラを一人にしているなんて、気が利かないな……。レイラはまだ万全の体調じゃないのに」


 リーンハルトさんは小さな紙袋をテーブルに置くと、外套を脱いで椅子に掛けた。


「リーンハルトさん、ご昼食を摂られておりませんわよね。早めの夕食にいたしましょうか?」


「大丈夫、もともと一日一食で行動するのが常だったからね。いつもの時間で問題ないよ」


 彼は私と一定の距離を保ったまま、いつも通りの優し気な笑みを浮かべる。まるでこの屋敷に来たばかりの頃のような距離感から、彼が私を気遣ってくれていることが痛いほど伝わってきた。


「王国の王都でハーブティーを買ってきたんだ。普段の紅茶でもいいけど、この方が気分が落ち着くかと思って。なるべくレイラの好みそうなものを選んだつもりだけど、上手く淹れられるかは正直自信ないんだ」


 だから、期待しないで待ってて、と呟きながら、リーンハルトさんは食器棚からティーセットを取り出し、ポットに水を汲み入れる。


テーブルの上に置かれた紙袋に触れてみれば、ふわりとペパーミントの香りが漂ってきて、どうしてか泣きそうになった。


 私がミントの入っているお茶が好きだと、知っていてくださったのだ。随分前に、シャルロッテさんの店で一度飲んでいただけなのに。


 ああ、本当に、この人は。


 気づけば衝動的に、私はリーンハルトさんの背中に抱きついていた。手際よくお茶の準備をしていたリーンハルトさんが驚いたように手を止める。


「……びっくりした。どうしたんだい、レイラ。さっきのことなら僕は全く気にしていないから、無理しないで――――」


「――好きです」


「え?」


「愛しています、リーンハルトさん」


 自分でも驚くほどはっきりと告げた後、私はリーンハルトさんの背中に顔を埋めるようにして彼を抱きしめる力を強めた。


「一瞬でも、あなたに怯えた自分が許せません。私はこんなにもあなたに惹かれているのに。あなたはこんなにも私を思いやってくださるのに」


「……随分急で大胆な告白だね」


 リーンハルトさんはどこか戸惑うように笑った。彼は私が彼の体に回した手をそっと離すと、私の方へ振り返る。顔を合わせたリーンハルトさんが柔らかい微笑みを浮かべておられるのを見て、たまらず再び彼を抱きしめた。ふわりとリーンハルトさんの香りに包まれて、心の底から安らぎを感じる。


「ええ、でも、抑えきれなくて。……リーンハルトさん、愛しています。あなたがあなたであるだけで、愛おしい」


「……レイラ」


 リーンハルトさんは慈しむように微笑んで、私を見ていた。ああ、それは、私が一番好きなリーンハルトさんの表情だ。いつまでも眺めていたいくらい、好き。


「リーンハルトさん、どうか、私と一緒に生きてくださいませんか。もう絶対に、あなたにあんな悲しい表情はさせません。寂しい思いもさせません。あなたの隣で生きることを、どうかお許しいただけませんか」


 リーンハルトさんの紫紺の瞳が、僅かに見開かれる。そのままたっぷり数秒間の間を経て、彼はどこか悪戯っぽく笑いながら私の頬に手を当てた。


「……それは、もしかして僕に求婚してる?」


「ええ、そうですわ」


 きっぱりとそう告げると、リーンハルトさんはどこか楽しそうに笑った。


「参ったな、指輪の修復がまだ間に合ってないのに」


「あ、ああ……そうですわね、私としたことが……」


 好きが溢れて思い切り過ぎたかしら、と心の中で反省する。あまりに一人で暴走しすぎて、何だか恥ずかしくなってきた。


「三度目の正直をレイラに奪われるとは思ってもみなかったけど、これは想像以上に嬉しいな」


 リーンハルトさんは私の頬に手を当てたまま、お互いの額をくっつけるようにして距離を縮めた。夜に近い夕暮れを思わせる、綺麗な紫紺の瞳に見つめられるのは、やはりいくら繰り返しても慣れない。


「……僕を、レイラの旦那さんにしてくれるの?」


 控えめな聞き方なのに、こちらが優位に立っている気がしないのはどうしてだろう。いざというときに見せるリーンハルトさんの余裕には、まだまだ敵わないのだと思い知らされて、頬に熱が帯びる。


「……ええ、なってくださいますか?」


 戸惑いながらもリーンハルトさんの瞳を見つめ返せば、彼はとても幸せそうに笑みを深めた。


「――もちろん、喜んで。僕の唯一の人」


 優しい声で告げられたその答えに、心の中が言いようのない喜びに満たされる。思わず満面の笑みを浮かべて彼を見つめると、自然と視界が滲み始めた。嬉しくて泣くことなんて、今までになかった。そんな感情を教えてくれたのは、紛れもなくリーンハルトさんだ。


 何か言うべきなのに、感極まって言葉が見つからない。一粒の涙が頬を伝っていく。その途端、リーンハルトさんに抱きしめられてしまった。私の存在を確かめるかのように腕の力を強めるリーンハルトさんが何だか可愛らしくて、溺れるほどの幸福に、彼にもたれ掛かるようにして笑みを深めた。


「でも、本当に……こんな僕と一緒に生きてくれるの? レイラ」


「こんな、とは酷い仰りようです。リーンハルトさんは誰より素敵な方なのに」


「……夢みたいだ」


「それは、私も同じ気持ちですわ」


「一生離せないけど、大丈夫?」


「もう、リーンハルトさんのお傍を離れたりしませんので、無用な心配です」


「……本当に可愛いことを言うね、大好きだよ」


「ええ、私もあなたを愛しています、リーンハルトさん」


 私は、この人と生きて行くのだ。これから先もずっと。誰よりも深く、この人を愛し続けよう。


 その誓いを込めて、私はそっとリーンハルトさんに口付けた。前回は彼からだったから、お返しのつもりで。頬に帯びた熱は尋常じゃないはずなのに、こんなにも大胆なことをやってのけた自分に、心のどこかで驚いてしまう。


 少しだけ顔を離してリーンハルトさんの様子を窺えば、不敵に笑んだ彼に再び引き寄せられてしまった。


「足りないよ、レイラ」


 そうして再び繰り返される口付けに、脳の奥まで溶けてしまいそうだった。慣れない感覚に芽生えた恥ずかしさや戸惑いすらも、次第に心地よさに変えてしまうのだから、リーンハルトさんは本当に素晴らしい魔術師だ。一体、どんな魔法を使っているのかしら。

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