第57話(ジェシカ視点)
ぽたぽたと零れ落ちる涙を拭う瞬間が、本当に夢のように長かった。目の前にいたレイラお嬢様は、どこか困ったように整った眉尻を下げながらそっと私を抱きしめてくれる。
「ジェシカ……」
ああ、この声は、この可憐な声は確かにお嬢様のものだ。その事実に余計に涙が溢れてきて、何一つ言葉を口に出来ない。
「ジェシカ」
お嬢様がそうやって名前を呼ぶから、涙が止まらない。私を抱きしめてくれるお嬢様の温もりは確かにここにあって、その香りも仕草も私の知っているお嬢様と何一つ変わりはなかった。
「…………レイラ、お嬢様……っ」
「驚かせてごめんなさい、ジェシカ」
「っ……そんな、お嬢様……私、私……」
「少し痩せたみたいね……。いろいろと心配をかけてしまったのでしょうね、ごめんなさい、ジェシカ。本当に」
お嬢様は少しだけ私から体を離して、私を気づかうような言葉を口になさる。私はただただ首を横に振ることしか出来なかった。
「お嬢様……レイラお嬢様……私、私……」
何を言うべきなのだろう。体も声も震えて、上手く言葉を選べない。
「っ……嫌だわ、私まで泣いてしまいそう。今日は笑っていようって決めたのに……」
その言葉通り、お嬢様は慌ててご自分の目尻を指でなぞっていた。滅多に涙を見せないお嬢様だったが、その仕草は幼少期から変わらないもので、懐かしさを感じてしまう。
「……心配かけてごめんなさい、ジェシカ」
「いい、いいのです……お嬢様……。こうして、もう一度お会いできただけで……私は、もう……っ」
ハンカチを取り出して何とか涙を拭いながら、少しだけ息を整える。そうすることでようやく、お嬢様の顔をまともに見られたような気がした。
「魔法、とかじゃありませんよね……? 生きておられるのですよね?」
想像以上に不安げに、私の声は響いた。お嬢様は私を安心させるように、柔らかに微笑んでくださる。
「ふふ、もちろん生きているわ。ジェシカが育ててくれた私のままよ」
その笑い方も、言葉の選び方も、確かにレイラお嬢様だ。どんなに素晴らしい魔法だって、私の知っているレイラお嬢様のありのままを再現することは不可能だろう。
レイラお嬢様は可憐な笑みをしばらく私に向け続けてくださっていたが、ふと視線を上げて私たちを見守っていた青年に語り掛ける。
「リーンハルトさん、お帰りなさいませ。ジェシカを連れて来てくださってありがとうございます」
レイラお嬢様はそう言って、幸せそうな微笑みを零した。青年もそれに応えるように微笑むと、一度だけレイラお嬢様の頭を撫でる。
「ただいま、レイラ。ジェシカさんと話すのは、少し緊張したよ」
そのやりとりを見ただけで、この二人が心から愛しあっているのだと悟るには充分だった。思わず頬を緩ませながら見守っていると、レイラお嬢様が不意に私の手を引いた。
「お茶の用意をしたのよ。さあ、ジェシカも中に入って」
お嬢様から手を引かれたことなんて何年ぶりだろう。その行動も言動も、ただ無邪気なままでいられたときの幼いお嬢様のものによく似ていて、ああ、ここにはお嬢様を抑圧するものは何もないのだな、と実感した。
「では、お言葉に甘えて」
そのまま私はレイラお嬢様の手に引かれるようにして、ティーセットが並べられたテーブルへと導かれたのだった。
「っお嬢様、それは私がやります。お嬢様は座っていてくださいませ」
「あら、今日はジェシカがお客様なのよ。座っていなければならないのはジェシカの方だわ」
生き生きとした表情で、お嬢様は出来たてのアップルパイにナイフを入れていた。さくり、と心地の良い音がする。その様子を、紅茶の用意をしているリーンハルト様が優しい眼差しで見守っていた。
「火傷には気を付けて、レイラ」
「ふふ、ご心配ありがとうございます。でも、もうかなり慣れましたのよ」
「そのようだね。前よりずっと危なっかしくない」
お嬢様がお茶の用意をしている姿は、やっぱりどこか不思議な感じがして、いつまで眺めていても慣れることは無かったが、幸せそうなレイラお嬢様とリーンハルト様を見ていると再び涙が込み上げそうになった。
折角の再会の日に、泣いてばかりいるのも良くない。そう思い、お二人に気づかれぬようそっとハンカチに涙を吸い込ませる。リーンハルト様にいただいた向日葵を眺めながら、何とか気持ちを落ち着かせた。
「なかなか上手く出来たみたい。見て、ジェシカ。私が――といってもリーンハルトさんの妹さんにも手伝って頂いたのだけれど、私も一緒に作ったアップルパイよ!」
綺麗に八等分されたアップルパイからは、まだ僅かに湯気が上っている。ミトンもつけずにお皿を持ってきたお嬢様の姿にはらはらとしてしまったが、どうやら無事にテーブルに運べたようだ。
「素晴らしいですね、レイラお嬢様……。少し見ない間に、こんなにご成長なさって……」
つい、母親のようなことを言ってしまって、少しだけ気まずくなる。お嬢様も私を心の親だと思ってくださっていたことが嬉しくて、調子に乗ってしまいそうだ。
「ふふ、ジェシカにそう言ってもらえると嬉しいわ」
お嬢様はどこかはしゃぐような笑みを見せて、三つの取り皿にアップルパイを取り分け始める。慌てて私も手伝おうとしたが、やはりお嬢様に止められてしまった。
「今日は、私がジェシカのメイドよ。……ジェシカは、私が幼い頃、こうしてごっこ遊びに付き合ってくれたわよね。今でもちゃんと覚えているのよ」
心から愉しそうな様子で、お嬢様は懐かしい思い出を語る。お嬢様は、あんなにも昔のことをちゃんと覚えていてくださったのか。
お嬢様が、ごっこ遊び、なんていう子供らしい遊びが出来たのは、本当に数えるほど短い期間だった。あの奥様がお嬢様にそんな自由を許すはずもない。それでも私は、お嬢様のお勉強の合間になんとかお嬢様を笑わせて差し上げようと奮闘していたのだが、次第にその僅かな時間すらも取り上げられてしまった。
私はお嬢様に何もできなかった、と悔やむばかりだったが、こうして今お嬢様が笑って懐かしんでくださるほどの思い出になっていたのなら、本当に良かった。自惚れるつもりはないが、お嬢様が私を心の親だというほどに慕って下さったのは、もしかするとああいった短い思い出をいくつも積み重ねてきたおかげなのかもしれない。
「はい、どうぞ」
お嬢様は切り分けたアップルパイの一つを私の前に差し出してくださった。甘い林檎の香りが漂ってくる。所々焦げている部分もあるけれど、香ばしくて美味しそうだ。
「ありがとうございます、お嬢様」
「お茶もどうぞ、ジェシカさん」
そう言って今度はリーンハルト様が、目の前のティーカップに紅茶を注いでくださった。多分、相当お茶を淹れるのが上手いのだろう。ふわりと漂った紅茶の上品な香りにうっとりしてしまう。
「恐れ入ります、リーンハルト様」
間もなくして、レイラお嬢様とリーンハルト様が私を挟んで向かい合う形で席に着き、小さなお茶会が始まった。
「っ美味しいです、レイラお嬢様!」
思わず大袈裟なくらいの声を上げて、感想を述べてしまった。レイラお嬢様はやはり公爵家にいたころと変わらない完璧な所作でお茶を嗜んでいらしたけれど、とても穏やかな表情で笑っておられた。
「それは良かったわ。リーンハルトさんの淹れてくれるお茶もとっても美味しいのよ。私、初めて飲んだ時には感激してしまったの」
「大袈裟だよ、レイラ……。飲む前に期待させるのは良くないと思うな」
お二人の会話に耳を澄ませながら、そっとティーカップに口をつける。口一杯に広がる紅茶とペパーミントの香りに、心から気分が安らいでいくのが分かった。レイラお嬢様の言う通り、本当にリーンハルト様はお茶を淹れるのがお得意らしい。この味は、そう簡単に出せるものじゃない。
「本当に、美味しいです。紅茶もアップルパイも」
ただでさえ、このところろくに食事の味を楽しめていたかったのだ。お二人と嗜むお茶が美味しくない訳が無い。久しぶりに心が満たされていく感覚と、言い知れぬ幸福感に溶けてしまいそうだった。
「……本当に、ジェシカには心配をかけてしまったわね……」
お嬢様が眉尻を下げながら、申し訳なさそうにそんなことを呟いた。どうして急にそんな話題になったのか、と不思議に思ったが、ぽたり、と零れ落ちた私の涙を見て納得した。折角の楽しいお茶会で、私が泣いてばかりいては申し訳が立たない。
「っ……すみません、お嬢様。これは、嬉し涙で……」
「ふふ、それならいいのだけれど……。でも、私が生きていることを知らせるのが遅くなってしまって……本当にごめんなさい。傷が癒えるのを待っていたら、こんなにも時間が経ってしまったわ」
お嬢様は、そっとご自分の右の脇腹を押さえて、一瞬だけ辛そうな顔をなさった。
「……傷? お怪我をされたのですか!?」
思わず、声を大きくしてしまう。またしても、不幸な怪我をなさったのだろうか。
それとも、王都で流れている噂通り、誰かの手で傷つけられたのだろうか。
「もう治っているから大丈夫よ。リーンハルトさんや、彼の妹さんが治してくれたもの」
お嬢様はすぐに顔を明るくして、何でもないことのように言ってのけた。確かに、魔法があれば傷も治りやすいのかもしれないが、だからと言ってお嬢様が傷ついていい理由にはならない。
「それは語弊があるよ、レイラ。僕らは傷が治るのを手助けしただけで、頑張ったのはレイラ自身なんだから」
リーンハルト様が、穏やかな表情で私たちを見守っているのに気が付いて、少しずつ心が落ち着いていく。お嬢様相手に随分取り乱してしまった。
「ふふ、リーンハルトさんは相変わらず私を甘やかすのがお上手ですね」
お茶会の雰囲気が元の和やかなものに戻ったところで、お嬢様は僅かに私に向き直った。
「ジェシカには話さなければならないことがたくさんあるわね。どこから話し始めたらいいのかしら……?」
お嬢様はどこか迷うように視線を彷徨わせた。それくらい、多くの経験をなさったということなのだろう。
「お話しくださるのなら、何もかもをお聞きしたいです。レイラお嬢様の逃避行の、その全てを」
どれだけ時間が経っても構わない。私にとってたった一人の可愛らしいお嬢様が、何を見て、どんな経験をしたのか知りたかった。
「……そういうことなら、初めから全部話すわね。……面白い話ばかりではないのだけれど、それでもいい?」
「はい、全てお聞かせください」
怪我をされたと仰っていたし、危険な目にも合ったのだろう。お嬢様が辛い思いをなさったことを聞くのは苦しいけれど、それでもお嬢様のこの半年間の出来事を共有したい気持ちが勝っていた。
レイラお嬢様はにこりと上品な笑みを浮かべると、可憐な声で、幻の王都のこと、リーンハルト様のこと、ローゼお嬢様のこと、王太子殿下のこと、そして修道院で起こったことの真相を語り始めたのだった。
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