第56話(ジェシカ視点)

 長年公爵家にお仕えしてきたので、美しい貴族の方々は何度も見てきたが、それでも見惚れてしまうほどの綺麗な顔立ちに、思わず息を飲む。


 黒い髪に紫紺の瞳なんて、生まれて初めて見た。まず、平民ではないだろう。年は20歳前後と言ったところで、私より一回りほど年下のはずなのに、その落ち着き方はまだ年若い青年らしくなかった。


 唖然としてその青年を見つめていると、彼は優し気な眼差しでふっと微笑んだ。妙に色気のあるその笑い方に、どんな反応を示してよいのか分からなくなる。


「良い天気ですね」


 青年はゆっくりとレイラお嬢様の墓標へ歩み寄りながら、そんな呑気な言葉を口にした。レイラお嬢様のお知り合いだろうか。お嬢様の交友関係は全て頭に入っている上に、これほど神秘的で魅力的な青年ならば余計に忘れるはずがないのだが、どうしても思い出せなかった。


「ええ、本当に。……あなたも、レイラお嬢様に会いに来たのですか?」


 墓標を見上げる青年の横顔に、そっと問いかける。まともに考えればそうなのだろうが、花束一つ手にしていない姿には違和感を覚えた。


「いいえ、あなたに会いに来ました。ジェシカ・ブレアムさん」


 名前を言い当てられ、ぞわりと背筋が粟立つ。お伽噺を信じているわけではないが、まさか死神か何かの類だろうか。青年の端整な顔立ちも一層非現実感を増して、言葉に詰まってしまった。


「名乗りもせず、先に名前を呼ぶなんて失礼でしたね。僕は、リーンハルト・ルウェイン。……レイラの、恋人でした」


「ル、ウェイン……?」


 ルウェインの姓を持つのは、魔術師の一族であるというルウェイン一族だけだ。それこそ、伝説上の存在だと思っていたのに。


 それに、レイラお嬢様の恋人だったなんて。驚愕の事実ばかり口にする青年に、茫然としてしまった。


「信じられないかもしれませんが、魔術師をしています。お近づきのしるしに、どうぞ」


 青年は軽く指を鳴らすと、次の瞬間には小ぶりの向日葵を手にしていた。彼はそのままその向日葵を私に差し出してくる。目の前で起こった信じられない光景に、やはり言葉が出て来ない。


「……怖がるな、というのも無理な話かもしれませんが……本当に、あなたに会いに来ただけなんです。どうか肩の力を抜いてください」


 青年は私の緊張が馬鹿馬鹿しく思えるほどの柔らかな笑みを浮かべた。その表情を見て、レイラお嬢様の恋人だったというこの方が、穏やかそうな方でよかったと安心してしまう。


 きっと、レイラお嬢様はこの笑顔に惹かれていたのだろう。レイラお嬢様の好みは、王太子殿下のような冷静沈着な寡黙な方なのかと思っていたが、どうも読み違えていたようだ。


「……ありがたく、受け取りますね」


 青年の手から向日葵を受け取れば、彼はどこか嬉しそうに笑みを深めた。直視し続けるのは心臓に悪そうだ。失礼にならないように気を付けながら、軽く視線を逸らす。


「……ご存知のようですが、私はジェシカ・ブレアムと申します。レイラお嬢様付きのメイドとして……ずっと、お嬢様のお傍に置いていただいておりました」


「はい、レイラから聞いています。あなたは、レイラの心の親だ、と。血の繋がりはなくとも、レイラの心を育てたのは紛れもなくあなただと言っていましたから」


「お嬢様が……?」


「はい」


 このところようやく引っ込んでいた涙が、再び溢れそうになる。私が勝手にレイラお嬢様を妹や娘のように慈しんでいただけだと思っていたのに、レイラお嬢様も私を心の親と呼ぶほど親しみを感じてくださっていたなんて。その事実だけでもう、この先どうにか生きていけそうな気がした。


「レイラが涙もろいのも、ジェシカさん譲りなんでしょうかね。この十八年間、レイラの心を守り続けてくださったジェシカさんには、感謝の気持ちで一杯です。きっと……あなたがいなければレイラはどこかで壊れていたと思います」


 この方は、レイラお嬢様を取り巻いていた環境をご存知なのだろう。辛い過去を話せるほどの親しい関係だったのだと悟り、少しだけ安心した。


「……お嬢様とは、いつ巡り会ったのですか? やはり、お嬢様が公爵家を出られてからでしょうか?」


「はい、レイラが公爵家を出たその日に出会い、それから3か月ほど、幻の王都にある僕の屋敷で過ごしていました。――あ、僕の屋敷と言っても、妹もいたのでご安心ください」


 慌てて取り繕ったような言葉に、どこか青年らしい拙さを感じて思わずふっと笑ってしまう。きっとお嬢様もこうして何度も微笑まれたことだろう。


 何より、公爵家を出たあの日に既にお嬢様が雨風を凌げる場所にいられたことに安心した。それも、幻の王都に匿われていたなんて。もちろん、お嬢様も驚きはしただろうけれど、それ以上にきっとわくわくしていただろう。


 見知らぬ土地、初めての自由の中で試行錯誤しながら生活するお嬢様を思い浮かべると、久しぶりに心の奥が温かくなるような気がした。それこそ、遠くへお嫁に行った娘を思いやるような気持ちだ。

 

「レイラが屋敷に来てから、毎日が楽しかった。本当に……数百年ぶりに世界が色づいて見えたんです。こんなこと言うと、大袈裟だとレイラに笑われてしまうかもしれませんが……」


 さりげなく「数百年」なんていう途方もない年数を口にした気がしたが、敢えて追求しないことにした。相手はルウェインの姓を持つ魔術師だ。もう何があっても不思議じゃない。度重なる驚愕の事実に、そろそろ驚きが薄れ始めているのも事実だった。


「レイラお嬢様を大切にしてくださっていたのですね……。本当に……ありがとうございます」


 でも、お嬢様がこの青年の屋敷にいたのなら、どうして最後は修道院で見つかったのだろう。レイラお嬢様の死因に繋がる話になる気がして気が重かったが、尋ねずにはいられなかった。


「……お嬢様に何があったのか、ご存知ですか?」


 青年はちらりと私に視線を向けると、どこか曖昧な笑みを浮かべた。


「そうですね……今、この場で話すには、随分長くなってしまいそうです」


 青年の困ったような紫紺の瞳を見て、食い下がりたい気持ちをぐっとこらえる。彼だって、恋人を失って辛い心境であるはずなのだ。無理矢理聞き出すべきじゃない。


「ですから、場所を変えませんか。あなたを幻の王都にお招きします。そこで少し話がしたいのです」


 予想もしていなかった申し出に、久しぶりにどくん、と心臓が跳ねた。幻の王都なんていう夢幻のような場所に踏み込んだら、帰ってこられないのではないかと一抹の不安が過る。


 思わず、紳士的に青年が差し出した手とレイラお嬢様の墓標を、迷うように見比べてしまった。多分、この人は本当に魔術師なのだろうけれど、王国では伝説上の存在でしかない相手に身を委ねるのは多少の恐怖がつきまとう。


 でも、それ以上に私は願っていた。お嬢様の死の真相を知りたい、と。あの可愛らしい少女の身に何が起こったのか、はっきりと聞き届けたい、と。


 お嬢様の墓標の前に備えたアネモネの花が揺れる。一度だけ目を閉じ、迷いを吹っ切るようにして深呼吸をした。


 時間にすれば僅か数秒の躊躇いだったが、随分長く感じた。私は意を決して青年に向き直り、紳士的に差し出されたその手に自らの手を重ねる。


「お招きいただき光栄です、魔術師様。どうか、私を連れて行ってください」


 たとえ行きつく先がこの世の果てでも、それでもいい。お嬢様の無念を晴らす手掛かりがつかめるのなら、どこへだって行く覚悟だ。


「ありがとうございます。では、そのまましばらく手を離さないでください。……もしかすると、僕が合図を出すまで目を瞑っていた方が楽かもしれません」


 一体これから何が起こるというのだ。正直なところ、好奇心よりも恐怖心の方が勝っていたが、ここは彼の忠告に素直に従おう。青年の手を握ったままゆっくりと目を瞑る。


「では、行きましょうか。すぐにつきますよ」


 青年の言葉の直後から、瞼越しに何やら光を感じたが、青年からの合図は無いので目はそのまま閉じ続けた。どうやら歩いていくわけではなさそうだ。


 お嬢様も、こんな不思議な体験をされたのだろうか。そう思うと少しだけ、警戒心が緩んでいく気がした。これからお嬢様の死の真相を聞くのだから明るい気持ちになるのは不謹慎だと言うのに、この非現実的な出来事に少しだけ心を動かされている私がいた。







「もう、目を開けてもいいですよ」


 青年の優しげな声に、恐る恐る両目を開けてみる。しばらく光に慣れるために何度か瞬きをして、それからようやく辺りを見渡すことが出来た。


「……ここは」


 青年に連れて来られた先は、落ち着いた雰囲気のお屋敷だった。アンティーク調の調度品はどれも質がよさそうだったが、控えめな美しさがある。品のいい屋敷、という言葉がよく似合う印象だ。


「ここは、僕の屋敷です。離れには妹たちも住んでいます」


「素敵なお屋敷ですね。……しかし、どうやってここへ?」


 目を瞑っている時間はほんの数十秒程度だった。それこそ魔法の類なのだろうと想像はつくけれど、聞かずにはいられない。


「転移魔法を使って移動したんです。帰りもきちんと送って差し上げますから、ご心配なく」


 どうぞ、と私を案内してくれる青年の声に従って、私は歩き出した。今はともかく、レイラお嬢様の元メイドという肩書がある以上、あまりはしたないことは出来ないが、それでも時折辺りを見渡してしまう。


 ここで、お嬢様は3か月の間お暮らしになっていたのか。


 廊下を、階段を、花瓶の隣を、可憐な笑みを浮かべたお嬢様が通り過ぎる姿を想像してみる。きっとお嬢様の隣にはいつも青年の姿があって、幸せな時を過ごされたんだろう。その名残が、この穏やかな屋敷の香りの中に確かに残っているような気がして、胸の奥が熱くなった。


「お茶を用意しているんです。話は、一息ついてからにしましょう」

 

「お気遣いありがとうございます」


 青年の言葉通り、次第に紅茶の良い香りが強くなってきた。僅かにペパーミントの香りを感じ取って、これはお嬢様の好きな茶葉だったと懐かしく思ってしまう。この優し気な青年の言動からして心配していたわけでは無いが、お嬢様が自分の好きなお茶を飲めるような環境にあったのだと知って、心が安らいだ。


 やがて、青年は繊細な装飾の施された扉の前で立ち止まった。扉は完全に閉まっているわけではないようで、どうやらこのよい香りはこの扉の先から漂っていたようだと推測する。


 青年はそのドアノブに手をかけようとしたところで、不意に私の方へ振り返った。


「……ジェシカさんは、心臓が弱かったりしますか?」


 何の脈絡もない質問に面食らいながらも、何とか答えを返す。


「い、いえ……特に、持病の類は」


「よかった。じゃあ、大丈夫ですね。少し驚かれるかもしれませんが……まあ、そこは開けてのお楽しみ、ということにしましょうか」


 青年はどこか悪戯っぽく笑うと、今度こそドアノブに手をかけた。どことなく不穏な言葉に覚悟を決める。


 ここは幻の王都だ。常識では通用しないような出来事や、見たことも無い動植物があったっておかしくない。ごくり、と唾を飲み込んで、青年が扉を開けるのを見守った。


 扉が開かれると同時に強くなる紅茶の香り、お茶菓子の甘い匂い。ティーセットを並べる馴染みの音。


 陽の光に満ちたその部屋に、一瞬目が眩んだ。随分大きな窓があるようだ。先ほどと同じように何度か瞬きを繰り返して、部屋の全貌を眺める。


 その中に、可憐な笑みを携えた人影を見て、息が止まるかと思った。


 いや、一瞬、確かに止まっていた。


「っ……」


 どうして、とかこの目がどうかしているのだとか、疑うよりも否定するよりも先に、温かい涙が頬を伝って零れ落ちて行く。その人影が嬉しそうにこちらに駆け寄ってくるのを、私はただ、茫然と眺めていた。


 これが幻の王都の見せる夢だというなら、それでもいい。それでもいいから。


 今だけは、その名前を呼ばせてほしい。


「っ……レイラお嬢様!!」


 今、私の目の前には、あの愛らしい可憐な笑みを浮かべたレイラお嬢様の姿が確かにあるのだった。

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