第55話(ジェシカ視点)

 お嬢様が亡くなった。


 妹とも娘とも慈しんでいた、大切なレイラお嬢様が。






「明日、レイラの葬儀を執り行う。あくまでも修道女としての簡易的なものになるが、お前も参列したければ好きにするといい」


 お嬢様がお屋敷から逃げ出してから、もう少しで4か月になろうかというある日の夕暮れ、旦那様は何の前置きもなく、突然私を書斎に呼び出してそんな残酷な知らせを口になさった。


 その言葉の意味を察するのに、たっぷり数十秒を要してしまう。


 レイラお嬢様の葬儀? 修道女として? 


 あまりにも唐突な言葉に、何一つ、理解が追い付かない。一体、何が起こっているのだろう。


「……お待ちください、旦那様。それは、一体どういうことでしょうか……?」


「どういうことも何も、そのままの意味だ。レイラは死んだ。だから葬儀を執り行う、それだけのことだ」


 とても自分の娘について話しているとは思えぬ調子で、旦那様は淡々と言葉を並べられた。どうして、そんなに冷静でいられるのだ。一気に限界まで早まった私の脈の方がおかしいのだろうか。


「旦那様、レイラお嬢様に一体何があったのですか!? 修道院にいらっしゃったって……あれほど捜しても見つからなかったのに……! その上、亡くなっただなんて……! とても信じられません!! 本当に、本当にレイラお嬢様なのですか!?」


 旦那様を前にしているというのに、取り乱すのを抑えることは出来なかった。使用人と雇用主の関係をわきまえるだとか、そんな理性はとっくに飛んでいて、ただ、レイラお嬢様の死なんていう衝撃というにはあまりに残酷な真実を拒絶することで精一杯だった。


 レイラお嬢様が、亡くなるなんてことがあるだろうか。もちろん生きている以上、いつかは終わりを迎えることになるのだろうけれど、それはもっとずっと先の話だと信じていた。少なくとも私が生きているうちに、お嬢様の死という何より辛い出来事には遭遇せずに済むだろうと、勝手に安心しきっていた。一度不幸な事故を乗り越えたお嬢様は、きっと天寿を全うされるためにお目覚めになったのだと、どこか都合のいい解釈をしていたことも確かだ。


 でも、違ったのだろうか。もしかすると、2年前の事故の傷が今更お嬢様の命を蝕んだのかもしれない。不慣れな環境の中で、繊細なお嬢様の体は耐えきれなかったのかもしれない。考えたくはないが、誰かの醜い野望に巻き込まれて花を散らすように命を落としたのかもしれない。


 嫌だ、嫌だいやだいやだ、絶対に信じたくない。レイラお嬢様が、あの美しくて愛らしいお嬢様が、もう、いないだなんて。


「信じられないのなら、明日、自分の目で確認するといい。話は以上だ、下がれ」


 まるで業務連絡でもするような淡泊さで、旦那様はこの話題に終止符を打った。目の下に出来た薄い隈のせいでとても疲れていらっしゃるように見えるけれど、それはこのところ珍しいものでもない。旦那様のその疲労が、レイラお嬢様の死が原因で出来たものなのか、それとも無関係のものなのか、それすら私には判断できなかった。


 何より、言い訳一つもしない旦那様の態度に私は打ちのめされていた。それくらい、レイラお嬢様の死は確実だということなのだろうか。下手な弁明をしてくれた方が、ずっと心は安らいだのに。


 本当は、まだまだ追及したいことはたくさんあった。でも、お嬢様が亡くなった事実を受け入れられていない以上、何を訊いたって信じられはしないのだろう。何より、不意に降りかかった絶望を前に、私はもう限界だった。


 そのまま逃げるように私室に引きこもり、レイラお嬢様が私に贈って下さったハンカチに縋って泣いた。仕事はまだ残っていたはずだけれど、それを分かっていても立ち上がれないくらいの深い悲しみに飲みこまれる。


「っ……お嬢様、レイラお嬢様……っ」


 大粒の涙を流しながら瞼を閉じれば、出会った頃から私に向けられていたあの可憐な笑みが蘇っていく。厳しくなっていく環境の中で、お嬢様が心からの笑みを浮かべられる回数は次第に減っていったけれど、それでも私に笑顔を向け続けてくれた。


 ――ジェシカ、これ、初めて刺繍したのよ。ジェシカにあげる!


 まだ幼いお嬢様が、指先に何度も針を刺しながら作り上げてくださった、向日葵の刺繍が入ったハンカチを握りしめる。お嬢様は、私の好きな花が向日葵だということを覚えてくださっていたのだ。その上で、一番初めの刺繍作品を私に下さった。


 そのときの喜びと言ったら、言葉に表しきれない。もう十年以上も前の話だから、私もまだ少女と呼ぶにふさわしい年だったけれど、あのとき胸の内を満たした感情は母性的な愛おしさだった。流石に年が近すぎて、娘のように可愛がるというわけにはいかなかったけれど、妹に向けるような慈しみを覚えたのは確かだ。


 この十数年間、仕事としてレイラお嬢様の傍にお仕えしてきたことは確かだ。でも、いつからか私の心には、仕事という言葉では割り切れぬ温かな感情が芽生えていた。


 平民の私が、公爵家のご令嬢を慈しむというのもおこがましい話なのかもしれないけれど、周りに理想を押し付けられ、感情など一度も求められたことのないレイラお嬢様の御心を、私だけは守って差し上げたかった。あなたは笑っていていいのだと、幸せを求めていいのだと、背中を押せる存在でありたかった。


 大げさな表現かもしれないが、レイラお嬢様が幸せになって下されば、それだけで良かったのだ。レイラお嬢様がいつか心から幸せそうに笑う姿を見ることが、この十数年間の私の目標だった。


 そのためならば、何だってする覚悟だったのに。


 どうして、どうしてレイラお嬢様がいなくなってしまうの。


 泣きじゃくりながら、お嬢様の死という理不尽に対する怒りに震える。


 お嬢様がこのお屋敷から出て行こうと考えていらっしゃったとき、何が何でもお引留めしたほうが良かったのだろうか。お嬢様がお目覚めになったとき、どれだけ無礼だったとしても、王太子殿下とローゼお嬢様をお部屋から追い出した方がよかったのだろうか。あのときもこのときも、もっと私に出来たことはあったのではないだろうか。


 ぐるぐると後悔ばかりが頭の中を巡っていく。情けない話だが、こうして自分を責めていた方が、いくらか気持ちが楽だった。悲しみだけで心を満たしては、二度と立ち上がれないような気がしたのだ。


 涙が、向日葵の刺繍のハンカチに吸い込まれていく。明日の葬儀に参列するための喪服の用意も、やり残した仕事も、やるべきことは沢山あるのにどうしても体が動かない。そのまま私は、日が昇るまで一人泣き続けたのだった。






 翌朝は、葬儀には相応しくないほど綺麗に晴れ渡る青空が広がっていて、人の力ではどうしようもない天候にさえ憎々しい思いを抱いた。雨でも降ってくれていたのなら、感傷に浸れたというのに。まるで神様とやらがレイラお嬢様の死を祝福しているような気持ちになって、この世の全てを呪いたくなった。


 旦那様は真っ黒な喪服に身を包み、どこか放心したような奥様を支えるようにして、お嬢様の葬儀に参列なさっていた。王家に嫁がれ、現在療養中のローゼお嬢様の姿はこの場には無い。


 お世辞にもレイラお嬢様と仲が良かったとは言えないローゼお嬢様だけれど、レイラお嬢様が亡くなったと知ったら悲しまれるのだろうか。それとも、やはり勝ち誇ったようなあの憎々しい笑みを浮かべるのだろうか。


 ローゼお嬢様のことだ、しおらしく実の姉の死を悼んだりはしないだろう。そう考えれば、彼女の姿がここに無いことは不幸中の幸いのように思えた。


 前日の旦那様の予告通り、レイラお嬢様の葬儀は実に小規模で淡々と進行していった。すすり泣き一つ聞こえない、とても寂しい式が続く。ただ、祭壇に飾られた花が場違いに華やかで、その鮮やかさばかりが目に焼きついて眩暈を覚えた。


 あれ程間違いであってくれと願ったのに、棺の中に収められていた少女は、確かにレイラお嬢様だった。教会のステンドグラスの光を受けて輝く亜麻色の髪、青白いほどに透き通った白い肌、伏せられた瞼を縁どるように伸びた長い睫毛、華奢な手足、胸の辺りで組まれた指、その全てが私の知っているレイラお嬢様と変わりなかった。


「レイラお嬢様……」


 一見すればただ眠っておられるだけのような穏やかな表情をなされているのに、どれだけ呼びかけてもお嬢様の瞼が開かれることは無い。柔らかな頬にそっと触れてみれば確かに冷たくて、もう、レイラお嬢様はここにはいらっしゃらないことを思い知らされた。


 お嬢様の周りに敷き詰められた雑多な花々が、むせ返るほどに甘く香る。その視覚と嗅覚の不均衡に吐き気を催して、それ以上はもう、レイラお嬢様のご遺体を見ていられなかった。


「……だから言ったでしょう? 籠の鳥が逃げ出した末路は、いつだって酷いものなのよって。あなたのせいで、長年の私の努力が水の泡よ……」


 お嬢様の棺の蓋を閉める最後の最後の瞬間に、奥様はぽつりとそんなことを呟かれた。とても小さな声だったから、その言葉を聞き届けたのは奥様を支えていた旦那様と、お傍にいた私だけだっただろう。旦那様は眉一つ動かさずにその言葉を聞き流していた。


 ああ、本当に、この方は、この方たちは。


 ふつふつと抑えがたい怒りが沸き上がる。旦那様も奥様も、普通の形ではなかったとしてもどこかでレイラお嬢様を愛していると信じていた。これも貴族の愛の形なのだと、そう思い込んでいたかった。


 でも、とんだ見当違いだったようだ。それが今、はっきりとわかった。


 奥様がレイラお嬢様を影で褒めていたのも、所詮は自分の教育の成果が表れていることが誇らしかっただけなのだろう。レイラお嬢様の遺体を前に、「私の努力が水の泡」なんていうおぞましいことを言ってのけた奥様を見て確信した。奥様にとって、レイラお嬢様は思い通りに操ることのできる人形でしかなかったのだ。


 それを悟ったとき、私は動き出していた。


 ぱん、と響いた乾いた音と薄手の黒手袋越しに伝わる痛み。周囲の視線が私に注がれるのを感じる。


 私が、私の手が、奥様の頬を叩いたのだ。その事実を自分でも僅かに遅れて認識する。それほどまでに衝動的な行動だった。


「何をするっ!」


 レイラお嬢様の葬儀の間、表情一つ変えなった旦那様が、奥様を庇いながら私を床へ突き飛ばす。奥様の表情は黒いレースのベールに覆われていてよく見えなかったが、どこか茫然としているような印象を受けた。


 もう、いい。ここで斬り捨てられても本望だ。私がここで声を上げなければ、レイラお嬢様は最後までこの人たちに虐げられたまま終わってしまう。


「っレイラお嬢様は、あなたがたの人形じゃない……! レイラお嬢様がどれだけ苦しんで、耐え忍んできたかも知らずに……よくも、よくも……っ」


 睨むように旦那様と奥様を見上げながらも、両目に涙が滲んでいく。どうして、実の娘にここまで冷たく出来るのだ。心を踏みにじることが出来るのだ。


 親じゃない、この人たちは。レイラお嬢様の親なんかじゃない。血縁上は確かに父親と母親に当たるのだろうけれど、この人たちをレイラお嬢様のご両親だと敬う必要なんてない。


「……これだから平民は嫌よ。レイラがどれだけ特別で完璧だったのか、少しも分かっていないのだわ」


 心底嫌悪を抱いたようなその声は、いつも毅然としている奥様にしてはある意味珍しいものだった。これが、奥様の本性なのだろうか。


 確かに、お嬢様は特別だろう。王国有数の公爵家に生まれた尊いご身分の姫君で、ずば抜けてお勉強が得意だった。女神のように可憐で美しい容姿にも恵まれていたといえる。


 でも、違う。今はそんな話をしているんじゃない。それが、どうしてこの人たちに伝わらないのだろう。


 今まではこれが身分の差というものなのか、と、高貴な方々は平民とは全く違う考え方をなさるのだと思っていたが、とんだ思い違いだった。単純に、この二人がどうかしている、歪んでいるのだ。


「完璧なんかじゃない……。レイラお嬢様は、当たり前に笑ったり涙を流したりできる……愛されたいと願うごく普通の女の子でした。それを、あなた方が踏みにじった、お嬢様に理不尽を受け入れさせた……。そんな簡単なことが、どうして今になっても理解できないんですか!?」


「口を慎め、使用人の分際で無礼だぞ」


 旦那様が低い声で警告なさったが、怯むことは無かった。怒りに震えていると、人は大胆になるらしい。


「いいえ、黙りません。私は、お嬢様の無念と痛みをこのまま見過ごせない。あなたがたのお人形として、お嬢様の人生を終わらせたりしない。私を罰するならばどうぞお好きになさってくださいませ」


 ゆらり、と床から立ち上がり、目一杯の力で旦那様と奥様を睨みつける。たかがメイドが怒りを露わにしたところでたじろぐような二人ではなかったが、それでも無視はできないのか二人の視線は私に注がれていた。


「公爵夫人に危害を加えたのだから罪状は充分でしょう? 私は、お嬢様があなた方の人形でないと証明するためならば、ここで命を散らしても少しも惜しくはありません」


 あの公爵家で、この二人に正しい怒りをぶつけられる人はいなかった。虐げられながらも、それでも両親の愛を乞うていたレイラお嬢様にできるはずがない。どれだけ理不尽で残酷な言葉を言われたって、お嬢様には受け入れる、という選択肢しかなかったのだから。


「随分な入れ込みようね……。平民の分際で、レイラの母親代わりにでもなったつもり?」


 鼻で笑うような、それでいてどこか憐みの混じった声で奥様は仰った。奥様がそんなことを仰るなんて、何だか滑稽で笑ってしまう。思わず私も挑発的に笑ってベール越しに奥様の目を見据えた。


「そうですね、私はレイラお嬢様の親ではない。でも、少なくともあなたよりはずっと、あの方の心に寄り添ってきたつもりです」


「完璧なあの子に、そんな甘さは必要なかったわ」


「それこそが、あなたの間違いです、奥様。母親を名乗りたければ、レイラお嬢様の心から目を逸らすべきではなかった」


「……私は、レイラの母親に相応しくないとでも言いたいの?」


「ええ、そうです」

 

 きっぱりとそう言い切れば、一瞬だけ奥様がたじろぐのが分かった。だが、それも本当に僅かな間のことで、奥様は棺の蓋を持つ葬儀屋を一瞥して指示を出す。


「……棺の蓋を閉めて頂戴。葬儀を終わらせましょう」


 どこか不機嫌そうな、それでいて気力の抜けた声だった。完璧なレイラお嬢様の母親であることを誇っていた奥様だから、最後の一言が効いたのかもしれない。これを機に、レイラお嬢様への行いを悔やむような健気さは持ち合わせていないだろうが、奥様の記憶にたとえかすり傷程度でも爪痕を残せてよかった。


 奥様の言葉を合図に、ゆっくりと棺の蓋が閉められていく。最後にお嬢様の顔を目に焼きつけ、指を組んで祈りながら、お嬢様の葬儀で騒ぎを起こしてしまったことを心の中で謝罪する。


「葬儀が終わったら、荷物を纏めて出て行くんだな」


 旦那様は手短にそれだけ告げると、奥様の手を引いて私に背中を向けた。旦那様が奥様をエスコートする仕草はどれもが優しさに満ちていて、その想いのひとかけらでもレイラお嬢様に向けられなかったものかと今更ながら悔やまれる。


 本当に、地獄のような場所だ、この家は。誰一人としてまともじゃない。レイラお嬢様が何をしたというのだろう。親からの愛情も受けず、妹からは貶められ、お嬢様の味方をするのは、私を始めとするお嬢様付きのメイドだけ。


 逃げ出して正解だ。あれ以上公爵家に留まっていたら、レイラお嬢様の御心はきっと壊れていた。いや、逃げ出すまで壊れていなかったのが不思議なくらいだ。


 こんな場所で生き続けるよりは、束の間の自由を手に出来た分、この結末の方が幸いだったのかもしれない。そう思ってしまうほど、お嬢様の一生はあまりに寂しかった。






 レイラお嬢様の棺は、お嬢様が修道女として過ごされていた修道院の傍の墓地に収められることとなった。人生の最後を修道女をして迎えられたレイラお嬢様にはここが相応しい場所なのかもしれないが、アシュベリー公爵家の領地に無理にでも連れ戻さない辺り、旦那様と奥様の愛情の薄さを改めて思い知らされたような気がする。


 私としては、王都にあるこの墓地に収められた方がずっといい。公爵家は、レイラお嬢様を苦しめただけの場所なのだから。修道女の墓地であれば、私のような平民でも気軽に会いに来ることが出来る。これからはこの場所に通うことが、私の日課になるのかもしれないと予感した。


 冷たい大理石に刻まれた「レイラ・アシュベリー」の文字を見て、もう二度とお嬢様は帰ってこないのだと実感してしまう。


 墓石の前には色鮮やかな花束が手向けられ、その中にお嬢様がお好きだった紫色のアネモネを見つけて、再び目頭が熱くなった。夜通し泣き通したせいで、もう、涙など流れないと思っていたのに。


 ぽたぽたと地面に涙が吸い込まれていく。一人、また一人とお嬢様のお墓の前から立ち去る気配を感じながら、私はひたすら泣き続けた。


 お嬢様は、こんなところで終わるような人ではなかったはずなのに。あまりに早すぎる。これでは、ただ苦しんだだけの一生ではないか。


 結局、葬儀では死因すらも曖昧にされ、納得できるようなことは何一つなかった。いずれはきっとお嬢様の最後について調べようと思っているけれど、今はただ、お嬢様がもうこの世にはいらっしゃらないという事実を受け止めるだけで精一杯だった。








 それから一か月。私は一日も欠かさずに、お嬢様のお墓に花を供え続けていた。手向けるのは必ずアネモネの花だ。同じ花を毎日用意するというのは、本来ならば難しいことなのだけれども、実家の商会に融通を利かせて入手している。


「お嬢様、今日も良い天気ですよ。街もいつも通り賑やかです」


 アネモネの花を綺麗に並べながら、お嬢様に語り掛ける。一か月が経ち、ようやく涙を流さずにお嬢様に会いに来ることが出来るようになっていた。悲しみが癒えた訳ではないけれど、心は何とか立ち直ろうと奮闘しているようだ。


 この一か月、実に様々なことが起こった。レイラお嬢様が亡くなった話は王都で噂になっているようで、様々な説が囁かれている。主流となっているのはやはり2年前の事故の傷がたたったのだ、というものだが、中には殺害説なんていう物騒なものまであった。


 もしも、お嬢様が誰かに殺されたのだとしたら。そうだとしたら私は、お嬢様を殺した犯人を許せそうにない。実家の商会の伝手を使ってでも、犯人を突き止め復讐するつもりでいた。今も、密かにお嬢様の死の真相を実家の者に探らせている。


 復讐なんて、お嬢様はきっと望んでいないだろう。私の気晴らしにしかならないことは重々承知している。


 でも、誰だって娘や妹のように慈しんでいた少女が殺されたら、復讐を誓うのではないだろうか。お嬢様とは血の繋がりも何も無いけれど、私にとっては本当の妹のように大切な存在だったのだから。


 そしてもう一つ、王都を賑わせている大きな話題がある。それは、療養中であったローゼお嬢様の死の知らせだった。


 産後の肥立ちが悪く、このところ表舞台に姿を見せることなく療養していたローゼお嬢様だったが、立ち直ることは出来なかったらしい。ローゼお嬢様にどこまで常識が通用するのか分からないが、もしかすると、御子を亡くされた衝撃も大きかったのかもしれない。


 美しい王太子妃が早速懐妊したという吉報は、王国を活気づかせていただけに、王太子妃もその御子も無くなったという落胆は大きかった。もっとも、ローゼお嬢様の素性を知っている私からすれば、それほど大きな悲しみに包まれることも無かったのだけれども。


 人が死んでいるのだから、ざまあみろ、とまでは言えないにしろ、不可抗力とはいえ、レイラお嬢様から初恋の人も王太子妃の座も奪い、その上レイラお嬢様に辛く当たったローゼお嬢様だけが幸せになっていたら、どこか煮え切らない感情を抱いていただろう。醜いとは思いながらも、この結末にどこか胸を撫で下ろしている自分がいるのは確かだった。


 風が、アネモネの花を揺らし、数枚の花弁を浚っていく。芝生が敷き詰められ、木々に囲まれるようにして大理石の墓標がそびえたつこの場所は、一見すれば墓地とは思えぬほど穏やかな場所だった。ちょっとした森の中と表現するのが相応しいかもしれない。


広い土地をふんだんに使い、木々で仕切ることによって個別の空間を演出するこの墓地の形式には、宗教的な理由があるらしい。何でも、ルウェイン一族に祈りを捧げ続けた修道女たち一人ひとりが、ルウェインの魔術師たちから祝福を受けられるように、との願いを込めてこのような造りになっているという話だ。


宗教的な考えはともかくとして、墓標ごとに独立した空間はとても居心地が良い。おかげでレイラお嬢様の安らかな眠りを祈ることに集中できていた。


 公爵家の墓地がどのようなものか詳しく知らないが、レイラお嬢様がこのようなのどかな場所でお眠りになられることが出来たのは幸いだった。生きているときよりもずっと、レイラお嬢様は安らかな心地で眠っておられることだろう。


 風になびいた髪を耳にかけながら、軽く息をつく。私は、この先どうするべきだろう。


 旦那様に解雇されてからというもの、この一か月間は実家に戻り、商会の手伝いなどをこなしていた。父の伝手で公爵家に勤めさせてもらっていたのだから、今回の私の行いは父の面子を潰すようなものだったのに、父も母も一度も私を叱らなかった。それどころか、レイラお嬢様の身に起こった悲劇に同情し、私の悲しみに寄り添ってくれたのだ。しばらくはゆっくり休むように、とまで言ってくれた。


 実家は変わらず温かい場所であるし、このまま商会に正式に雇ってもらうのも選択肢の一つだ。第二の人生として商人になるのも素敵だと思う。でも、どうしても未だに心が前を向けないのだ。


 いっそ、レイラお嬢様と同じように、修道女となって生きていきたい。いつからかそんな想いを抱くようになっていた。そうすればお嬢様の傍にいられるし、ただぼんやりと生きていくよりは人のためになることをした方がずっといい。客観的に見ても、そう悪い考えではない気がする。


 そうだ、それがいい。修道女になろう。もう少しだけ家族と過ごしたら、この修道院に身を寄せよう。そうしてレイラお嬢様の安らかな眠りと、ルウェイン一族に祈りを捧げて慎ましく生きるのだ。


「……私が修道女になったら、一日三回は会いに来られますね。私の顔ばかり見ていては飽きてしまうかもしれませんが、お許しくださいね」


 少しだけ心が軽くなったような感覚を覚えながら、私はその場に立ち上がる。思いがけず、この先の展望が開けたのは幸いだった。

 

 その瞬間、不意に耳に飛び込んできた、さく、と芝生を踏みしめる足音に私は顔を上げた。この場所で誰かと遭遇するのは、この一か月で初めてなだけに少しだけ緊張が走る。この墓地は、それぞれの墓標が独立した空間を持っているため、他の訪問客がいても滅多に顔を合わせない。木々に囲まれているせいで、他の墓標がどこにあるのかも分からないくらいなのだ。


 寂しいことに、レイラお嬢様に会いに来る人は私以外にいない。それに、私以外にレイラお嬢様の死を心から悼む人がいるとも思えないから、きっと間違えて入って来たのだろう。


 私は足音のした方を振り返り、迷い人を別の墓標へ続く道へ案内しようと考えた。小鳥がさえずる可愛らしい声を聴きながら、足音の主と対面する。


 ざあ、と風に木々が騒めき、数枚の葉を散らした。その先でこちらをまっすぐに見つめる背の高い人物の神秘的な雰囲気に、思わず息を飲む。


 そこには、紺色の外套を纏い、紫紺の瞳を持った端整な顔立ちの青年が微笑んでいたのだった。

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