第54話

 血のように鮮やかな薔薇が、目の前に咲き乱れている。どこかぼんやりとしているが、この景色には見覚えがあった。これはそう、殿下と出会って一年が経とうかというときに、殿下と王城の温室を散歩していたときの光景だ。


「まあ! 見事な薔薇ですわね。いい香り……」


 一流の庭師によって厳重に管理された花々は、どれもが息を飲むほどに美しく、殿下の隣だというのにこのときの私は少しだけはしゃいでいた。もっとも、今思えば10歳の少女にしては年相応というべき振舞だったのだけれど、屋敷に戻った後で浮かれすぎてしまった自分を恥ずかしく思ったものだ。


 薔薇はそこまで好きではないが、美しいものは美しい。刺繍のモチーフにもよく登場する花であるし、この機会によく観察しておいて損はない。そんな気持ちで食い入るように赤い薔薇を見つめていた。


 殿下は何も言わず、薔薇に顔を寄せる私を見下ろしていた。相変わらずその眼差しに温度はなく、こちらから見つめ返しても微塵も動じない。殿下の婚約者となって一年が経ったこの頃には、殿下の寡黙さにも殿下が私に向ける興味の薄さにも気づいていたが、それでも私は殿下とお会いする時間を楽しみにしていた。公爵家から離れて、ただ殿下と共に過ごす時間というのは、一種の非現実感があって私の心を躍らせたものだ。


「殿下はどのようなお花がお好きですか?」


 話題を振るのは、いつだって私からだった。私が話さなければ、永遠に続くような静寂が訪れるだけだと気づいたときから、特に気を付けるようにしていた。沈黙が気まずくないと思うほど、私と殿下の関係は密なものではないのだ。それに、殿下を少しでも退屈させないことが、私に課せられた婚約者としての役目のような気もしていた。


「考えたことも無い」


 殿下は退屈そうにそう呟いて、感情の読めない瞳で温室を見渡していた。


 ……これだけ美しい花々が揃っているのに、殿下の心を動かす花は一つもないのね。


 それはきっと、あまりに寂しいことのはずなのに、このときの私は当然のように受け入れていた。むしろ、これほど美しい花々でも殿下の心を動かせないのだから、私の存在など殿下にとってはあまりに些末なものなのだろうと、今となっては見当違いな認識を深めていったのだった。


 甘い花の香りの中で、ふと、大輪の花々の間に咲いた可愛らしい花を見つける。様々な種類の色が取り揃えられたその花は、私の好きなアネモネだった。


「私は、アネモネが好きなのです。この温室にも咲いているのですね」


 小ぶりのアネモネは、王宮の温室に置くにしては少々地味だ。王族のどなたかが、アネモネの花を好きだったりするのかもしれない。


 アネモネの周りにはぱっと目を引くような華やかな花々ばかりが咲いていて、それが却ってこの花の可愛らしさを引き立てていた。小さくて、可憐で、それでいてはっきりとした色があって、この瞬間、私は一層アネモネを好きになった。


 そのまましばらくアネモネの花に見惚れ、はたと気づく。うっかり沈黙を生み出してしまった。興味の無い私の好きな花の話など、殿下にとってはこの上なくどうでもいい話題だっただろう。失敗した、という思いを噛みしめながら、私は軽く視線を彷徨わせるようにして謝罪する。


「……申し訳ありません、少しぼんやりとしてしまいました」


 殿下を退屈させてしまうなんて、婚約者として失格だ。そんな苦い思いを抱きながら、そっと殿下を見上げる。その瞬間に互いの視線が絡み、殿下がこちらを見下ろしておられたことに気づいた。


「別に構わない」


 殿下は淡々とそう告げると、ふいと視線を逸らしてしまわれた。多分、本当にどうでもいいと思われているのだろう。なかなか距離を詰められないことを心のどこかで残念に思いながら、私は姿勢を正して温室を見渡した。


「酔ってしまいそうなほど甘い香りですわね」


 深く息を吸い込めば、本当に眩暈を覚えそうなほど甘い香りが漂っていた。この甘さにも殿下は顔色一つ変えられないのだから、どこまでも寡黙な人なのだと思ってしまう。


 ふと、殿下は私の姿を見つめると、不意に私の髪に手を伸ばした。エスコートするとき以外は私に触れる素振りも見せない殿下なので、妙にどぎまぎしてしまう。だが、私の髪に触れた殿下の手に一片のアネモネの花弁が握られているのを見て、理由を察した。


「あ……いつの間にかくっついていたのですね。お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」


 食い入るようにアネモネを見つめていたせいで、いつの間にか付着していたのだろう。はしゃぎすぎた、と恥ずかしさを覚えながら軽く目を伏せる。


 殿下は、アネモネの花弁を取っても尚、私の髪に触れていた。いつもはまとめていることが多いから、珍しく思っているのかもしれない。殿下は亜麻色を指に絡めると、本当に一瞬だけ、ふ、と頬を緩められる。


 それは、殿下のお傍にいる者でなければ絶対に見逃してしまうほど、ごく些細な表情の変化だった。何がお気に召したのか分からないが、滅多に見られない殿下の柔らかい表情をとても嬉しく思う。


 多分、このとき抱いた感情は、恋情というより、滅多に笑わない友だちが微笑んでくれた、という喜びに近かった。殿下はご友人と一緒におられる時はもう少し表情が豊かな印象を受けていたから、ようやく私も、ほんの少しだけ彼らの仲間入りを果たせたのかもしれないと、そんな充足感を覚えたのだ。


 本当に、懐かしい光景だ。殿下がほんの少し表情を緩められるだけで、こんなに喜んでいたなんて。今ではとても考えられない。


 ――ずいぶん、可愛らしい関係だったのね。


 不意に響いた凛とした声を合図に、温室が消え、辺りは真っ白な世界に切り替わる。やがて景色は少しずつ姿を変え、氷の礼拝堂に似た場所に私はいた。ふわりと漂った白百合の香りと、どこからともなく振りだした白い光に、妙な安心感を覚えてしまう。とても心地が良かった。


「そうですわね……この頃は、何とか歩み寄ろうと必死でしたから」


 最後の最後まで、殿下に歩み寄ろうとしたつもりだった。もっとも、結局それも私の身勝手に過ぎず、殿下の歪みを加速させてしまっただけなのだけれど。


 私は、甘く見ていたのだ。殿下の想いも、その想いが歪んだ先に待ち受ける結末がどれほど残酷なものであるかも、見極めきれていなかった。


 殿下に刺されたときの衝撃や痛みは、このぼんやりとした夢の中ではあまり思い出せない。幸いだ、と思うべきなのだろう。この夢の中までも苦しみ続けていたら、心のどこかが壊れてしまいそうな気がする。


 ――傍から見れば、悲しい恋なのかもしれないわね。


 白い光の中に、ちかちかと銀と蒼が混じる。皮肉にも殿下を思わせるその色は、妙に私を感傷的な気分にさせた。


 ――でも、レイラは油断しすぎだわ。あなたの首を絞めた男を相手に、隙がありすぎるのよ。


 溜息交じりの凛とした声に、私は曖昧な笑みを零すしかない。彼女の言うことはもっともだ。でも、殿下が本気で私の命を奪おうとするなんて考えたくなかった。それも一種の逃げだと言われたらその通りなのだが、それでも私は私が初めて恋をした殿下の冷静さを、正しさを、信じていたかった。


 私が、殿下を歪ませてしまったのだ。不可抗力と度重なる不運による部分はかなり大きいとはいえ、元凶は私に違いない。だからといって、不当に傷つけられたことを受け入れる気にはなれないが、事実は事実として心に留めておくことにした。


「……刺されるのって、あんなにも痛くて怖いものなんですね。知りませんでした」


 ――知らなくていいわよ、そんなの。私もあなたも散々ね。


 私は、雪のような白い光の中に垣間見える銀と蒼に曖昧に微笑みかける。


「……でも、あなたがいてくださってよかった。この場所に一人でいるのは、あまりに寂しいですから」


 ――私はどこにもいないって言ったでしょう。これだって、所詮はあなたの夢みたいなものなのよ。


 雪のように舞い降りてきた光をそっと手のひらで受け止める。温度は感じないけれど、それはすぐに溶けて見えなくなってしまった。


「それなら、お姿を見せてくださいませんか。もっと近くでお話がしたいのです」


 ――馬鹿ね。私の姿が見えるようになったら、もうリーンハルトの許へ戻れないわよ。


「……そう、なのですか」


 分かっている、私の置かれている状況がいかに危機的かということくらい。死んだっておかしくないほどの傷と出血量だったのだから。でも、その現実を受け止めるにはあまりに心が落ち着かなくて、今はこうして白百合の香りと戯れることで精一杯だった。


 ――でも、いいわよ。話ならしてあげる。リーンハルトのことなんてどう? 私たちの共通の話題ってそれくらいしかないじゃない。


「リーンハルトさんのこと、ですか……」


 話をしたいと言い出したのは私だが、この状況で少女らしい会話をするというのは、どうにもちぐはぐな感じがする。だが、確かに彼女の指摘する通り、私と彼女の共通の話題になり得るものと言えばリーンハルトさんについてなのだろう。こんな不均衡さを含めての夢なのだから、それも悪くないのかもしれない。

 

 ――レイラは、リーンハルトのどこが好きなの?


 いきなり直球にも程がある質問をされ戸惑いながらも、何とか言葉を紡いでいく。


「そうですね……彼が彼であるというだけで好きですが、やはりお優しく慈愛に満ちた心をお持ちであることと、少し不思議な雰囲気をまとっておられる辺りは特に好きですね。あと、笑った顔がどこか可愛らしいのに色気があってずるいです」


 本当は好きなところはもっとたくさんあるが、いざ言葉にしようと思うとなかなか出て来ない。それに、自分の夢の中だというのに妙な照れ臭さがつきまとってならなかった。


 ――わあ、べた惚れね……。リーンハルトが聞いたら舞い上がりそうだわ。


「そういうあなたはどこがお好きなのですか?」


 これ以上追及されるのは恥ずかしくてたまらない。無理やり話の矛先を彼女に向けた。


 ――そうね……放っておけないところかしら。話を聞いている限り、今は随分まともな人になっているようだけれど、優しくはなかったわよ、あの人。


「リーンハルトさんがですか?」


 ――ええ、綺麗な顔をして残酷なことばかり言うから、初めは正直怖かったわ。


「想像もつきません」


 優しくないリーンハルトさんなんて、本当に考えつかない。白百合の香りはくすくすと笑った。


 ――本質は変わっていないでしょうから、気をつけたほうがいいわよ。私の知っているリーンハルトなら、今回のことを受けて王国を燃やしていても不思議はないわ。


「……怖いこと仰るのですね」


 ――あなたも気づいているんでしょう。彼は、とても不器用な人だから。


 不器用という言い訳一つで国を滅ぼされてはたまったものではないのだが、随分楽観的なお姫様もあったものだ。死者はある意味気楽なのかもしれない。


 だが、彼女の言う通り、リーンハルトさんにそれくらいの衝撃を与えてしまったことは事実だ。ペンダントをつけていたから、きっと今頃リーンハルトさんは私の傍に来てくださっているのだろうけれど、彼がどんな表情で意識を失っている私を見ただろうかと思うと胸が痛かった。しかも、よりにもよってアメリア姫が亡くなったときと同じ手順を踏んで刺されているのだから、彼の心の傷を抉っていることは間違いないのだ。


「……リーンハルトさんには悪いことをしてしまいましたね」


 何度謝っても許されない事態になってしまった。このところ、私はリーンハルトさんに辛い表情をさせてばかりだ。


 ――そうね、このまま死んだら、私、あなたのこと許せそうにないわ。


 凛とした声は僅かに怒りを滲ませて、きっぱりとそう言い放つ。私だって、このまま死ぬようなことがあれば自分を許せないだろう。あんなにも心優しいリーンハルトさんを傷つけるだけ傷つけて、勝手に死ぬなんて考えたくない。でも、夢の中に閉じ込められている今は、どうにか目覚めることを祈るしかなかった。


「あなたは……私がリーンハルトさんと幸せになることを応援してくださるのですね」


 凛とした声は、愚問だとでも言うようにふっと笑った。どことなく高飛車な感じがして、いかにも姫君らしい笑い方だ。


 ――当たり前よ、彼にはいい加減幸せになってほしいわ。きっと、レイラもこの立場だったら自然とそう思えるわよ。


「どうでしょう。私はあなたのようにさっぱりとした性格ではないので、悪霊の類にでもなってしまいそうですわ」


 ――悪霊でも何でも、あなたがいてくれれば彼は喜ぶわよ。


 確かに、リーンハルトさんの想いの深さを考えれば、そんな気がしてしまう。時折、怖いほどの盲目さを感じるのは否めなかった。盲目さという点では殿下と共通する部分は確かにあるはずなのに、それでもリーンハルトさんのことは嫌いになどならないのだから、恋の力はずるくて強大だ。


「……できれば生きて、彼に会いたいですわね」


 ――もちろん、それが一番だわ。ここがリーンハルトの頑張りどころね。これでレイラを呼び戻せたら、思いきり甘やかしてあげて頂戴。


「そんなことで良ければ、彼が望むだけそうして差し上げますわ」


 ――望むだけ、ね。リーンハルトが満足することはあるのかしら……。私の知ってるリーンハルトなら、レイラを傷つけるような真似はしないでしょうけれど、屋敷に囲っていつまでも守り抜くくらいのことはしてもおかしくないわよ。


「ふふ、そんなこときっとシャルロッテさんが許しませんわ」

 

 ――シャルロッテ? ……ああ、リーンハルトの妹さんね。へえ、リーンハルトにきっぱり言ってやれるなんて、いい妹さんじゃない。……会ってみたかったわ。


 最後の言葉には、僅かな後悔と悲哀が滲んでいて、思わず言葉に詰まってしまう。きっと、彼女とシャルロッテさんはとても気が合っただろう。はきはきとした性格の二人に囲まれて、リーンハルトさんが言いくるめられる様子が目に浮かぶようだ。


 ここにもまた一つ、あるはずだった幸せな未来の姿があるのか。同情するのとはまた違うが、切なさを覚えてぼんやりと白い光を見上げる。私たちは、初恋が実らない呪いにでもかかっているのではなかろうか。


 実らなかった二つの恋についてぼんやりと考えていると、不意に白い光が揺らぎ始める。光の中には、霞むようにしてぱっと消えてしまうものまである。突然の変化に、私は姿の見えない彼女に向けて視線を彷徨わせた。


「……これは?」


 ――お迎えが来たみたいね。


 凛とした声がくすくすと笑うと、ふわりと白百合の香りが強くなる。まるで隣で彼女が笑っているような感覚に陥った。


 ――リーンハルトか死神か。さて、どちらかしらね。


「……リーンハルトさんであってほしいですわ」


 ――そうね、私もそう願っているわ。


 凛とした声はどこか寂し気な声でそう告げたかと思うと、ふっと笑ってみせた。


 ――お別れね。あなたはこの夢のことは忘れてしまうでしょうけれど、楽しかったわ。……もしもあなたが生きていたら、リーンハルトときっと幸せになって頂戴ね。


 その台詞に、急な寂しさを感じて、思わず彼女に縋るように白い光に手をかざす。そんな僅かな間にも、目の前の白い世界は崩れ始めており、氷の礼拝堂によく似た景色が溶けかけていた。


「っ……約束します――」


 アメリア姫、と、そう言いかけたとき、ぶわりと風が巻き起こる。声も何もかもが掻き消されていく感覚の中で、一瞬だけ、白百合の香りが強くなる。抱きしめられているようなその温かさに、私は一粒の涙を零した。


 約束いたしますわ、アメリア姫。


 もしも私が生きていたのなら、私たちの愛するあの優しい魔術師様を、きっと幸せにして差し上げる、と。


 次第に薄れゆく白百合の香りとそんな約束を取り交わして、夢の中の私の意識はぷつんと途切れたのだった。

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