第53話

「……婚約者として過ごしたあの日々が満たされていたことだけは、本当だったんだな。……ああ、うん、悪くない気分だ」


 殿下はまるで自分に言い聞かせるようにそう呟くと、改めて私に向き直った。笑みは随分薄れたけれど、それでもどこかすっきりとした顔をされていて、想像以上の殿下の変わりように戸惑いを隠せない。


「……僕も、この5日間ずっと考えていた。君に何を伝えるべきか、別れの言葉は何を言うべきか、ずっと、ずっと考えていたんだ。……逃げ出した以上、きっともう君は僕のものになる意思はないのだと分かっていたからな。本当はもっと早くここに来たかったが、話すべきことを考えているうちにこんなにも時間が経ってしまった」


 珍しく饒舌な殿下の姿は、私を幽閉していたあの2週間からは考えられなかった。彼と分かり合えたらいいと思っていた私だが、こうも急激に態度が変わるとは思ってもみなかった。


 殿下は端整な笑みを浮かべ、そっと私の頬に触れる。いつになく優しいその仕草に、動揺が広がるばかりだ。殿下はそのまま私の目を覗き込むようにして続けた。


「この目も、髪も、温もりも、声も、何もかも僕のものになるはずだったのに……どうしてこうなったんだろうな。やはり、君の妹とは思えないほど愚かなあの女のせいだろうか……。ああ、でも、そうだな……ここまで僕を執着させた君も大概だと思わないか」

 

「……その執着に隠された感情は、一体何なのです?」


 リーンハルトさんから殿下の想いを伝え聞いてはいたけれど、殿下の口からは私に対する感情は紡がれていない。殿下が私に向けて言葉にした感情など、幽閉されていたあの部屋で、私のことが憎いと言ったあれくらいだ。それに、こんな立場で、「私のことが好きなのでしょう」とはとても訊けない。


 そんな私の言葉に、殿下は軽く声を上げて笑った。いつの間にか蒼色の瞳には執着が戻っていて、どこか狂気じみたその笑みに身が竦んでしまう。


「ああ、何だろうな。実は僕も不思議でならないんだよ。君に向けた感情は沢山あったはずなのに、どうしてかもう、あまり思い出せないんだ。ただ君が、水面のように静まり返っていた僕の心の平穏を乱したということばかりが思い起こされて、君が目障りで仕方ないような気がしている」


 殿下はいつになく端整な笑みを深めて、私の肩を掴んだ。幽閉されていた時よりは遥かに優しい触れ方のはずなのに、なぜだか今の方が恐怖は勝っている。それでも、殿下の蒼色の瞳から目が逸らせない。


「僕に言えるのはただ一つだ、レイラ。僕の心の平穏を、返してくれないか。君がいなければ僕は、ただ穏やかに満ち足りた日々を生き続けていたはずなんだ。君が、あんなにも躊躇なく、突然に、僕の心に触れたりするからこうなったんだ」


 殿下もまた、綺麗で苦しい笑みを崩さぬまま、ただ私の目だけを見ている。


 蒼色の執着の中に浮かぶのは、愛情でも恋情でもなくただ真っ黒な憎しみだった。それでいて縋るような切なさが垣間見えて、その感情の鮮烈さに息が出来なくなる。


「なあ……返してくれよ、レイラ、返してくれ……君に奪われた平穏を、あの静寂の日々を、僕の心を、なあ、レイラ、なあ!!」


 最後は、殆ど怒鳴るような声だった。いつの間にか震えだしていた肩の揺れはもう隠しようがなく、本能的な恐怖で足が竦む。私を幽閉していたあの2週間でさえも声を荒げることの無かった殿下が、こんなにも取り乱す姿は初めて見た。


 駄目だ、向き合おうと決めたのは私なのに、このままでは駄目だ。


「ルイス……どうか、どうか落ち着かれてくださいませ」


 震える声ではまるで説得力が無い。それでも何とか声を絞り出すしかなかった。案の定、殿下は私の怯えを見抜いているようで冷ややかな嘲笑を浮かべる。


「落ち着く? 僕の心をここまで乱したのは君だろう? 君さえいなければ、こんなにも苦しむことは無かった」


「……ルイスは、私と過ごしたこの9年間は無駄だったと、そう思われているのですか?」


 分かりあえるかもしれない、と思った私の考えが甘かったのは認める。殿下のお立場からすれば、実際、私と婚約を結んでいた期間は結果として無駄だったと切り捨てるのは無理もない話だ。


 でも、ルイスとして、私のかつての婚約者としては違うのではないかと思っていた。それはリーンハルトさんからルイスの真の想いを伝え聞いたからこそ抱いた考えだったけれど、本当にルイスが私を愛してくださっているのなら、こんな風に私と向き合わないまま切り捨てて、彼が私への執着から解放されるとはどうしても思えないのだ。


「むしろ、そう思わずにいられる君が、どこまでも憎くてならないな……。君は僕を壊すだけ壊して、どこへ行くつもりなんだ? 僕の見えないところへ逃げて、存在するかもわからないような夢幻と幸せになるつもりか?」


 殿下は両手を私の首に纏わりつかせると、そのまま私を引き寄せた。決して首を絞められているわけではないのに、幽閉されていたときに繰り返された苦しみが蘇って息が出来なくなる。逸らすことを許されない両の目に、じわりと涙が滲むのを感じた。


 強いられた緊張で簡単に気が触れそうだ。リーンハルトさんが傍にいるときは分からなかったが、私の心は回復していたわけではなかったのだと思い知る。2週間の間に得た心の傷が、生々しく開いていくのが分かった。


「彼は……夢幻なんかじゃ、ありません」


 絶対に、紡ぐべき台詞はこれじゃなかった。でも、震える唇からようやく零れ落ちたのが、この言葉だったのだ。あの優しい魔術師様を、誰より私を愛してくださっている人を、否定されたことがどうしようもなく哀しかった。もっとも、その哀すらも、混乱して張り詰めた心の中に溶けて見えなくなってしまったのだけれども。


「まあ、君を誑かした奴が実在しようがしまいがどうでもいい。重要なのは、君が僕を裏切って逃げ出すことの方なのだから。……一体、何度言えばわかる? 君は僕のものなんだ。聡明なレイラにこんな簡単なことが分からないわけないよな? なあ、レイラ?」


 両目に滲んだ涙が、頬を伝い首筋へ流れていった。自分の意思とは関係なく流れて行くその涙に、ああ、多分、私はこれが限界なんだろうな、なんてどこか他人事のような感想を抱く私がいた。


 分かりあえる、なんて幻想だったのかもしれない。それすらも私の傲慢に過ぎず、身勝手な歩み寄りでしかなく、今更言葉を伝えたところで何もかも遅すぎたのだと言われたら、そうだ、その通りだとしか言えない。


 私がこの人をここまで傷つけたのか。あの冷静沈着だった殿下に、ここまで支離滅裂なことを言わせてしまっているのか。


 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、口に出したいけれど私が許されたいだけのような気がして、伝えることが憚られる、そんな呪いに苛まれてしまう。


 身勝手と思いやりの境界はどこかしら。誰も教えてくれなかったのだから、自分で見極めるしかないのだけれど、私はいつもいつも間違ってしまっているような気がしてならない。ただ、それでも彼と向き合いたかったという想いに嘘は無くて、それがどうやっても彼に伝わらないことはやはり、悲しかった。


「……ルイ、ス」


 ああ、震える声で私は何を言おうとした? こんなにも怯えたままで、彼にどんな言葉を届けようとした? 頭の中がぐちゃぐちゃになって、伝えるべき言葉も感情もどろどろに溶けていく。


 殿下は翳り切った瞳で私を見下ろすと、ふっと微笑んで私を引き寄せた。抗う間もなく彼の腕の中に囚われてしまう。肩の震えが直接彼に伝わってしまうことが、余計に恐ろしかった。この怯えさえも咎められてしまうような気がしてならない。


 思えば9年もの付き合いがあったのに、殿下に抱きしめられたのはこれが初めてだ。もっとも、それに感慨を覚える余裕もなく、私は何とか頭が真っ白にならないように耐えるので精一杯だった。


「……こんなにも震えて、怯えているんだな。そうか、僕が怖いか、怖いんだな。ああ……でも、不思議と悪くない気分だ。たとえ恐怖でも憎しみでも、君の感情の一つを独占できるのは悪くない……悪くないよ、レイラ」

 

 先ほどとは打って変わって、囁くように穏やかな声が耳元で紡がれる。耳に吐息がかかる感触にも、狂気を孕んだその声にも、痛いくらいの恐怖が増していく。


「君は僕がローゼの罪を見逃して、君に取引を持ち掛けたことを不思議がっていたな。……この際だから教えてやる」


 殿下はくしゃり、と私の髪を握りしめて笑うように告げた。


「君が、自分の命を狙った女と大して情もない公爵家のために、自分の身を堕として僕に仕えようと葛藤する様が見たかったんだ。それこそが、あの女を殺すよりも、愚かな公爵家を取り潰すよりも、ずっと僕の心を満たす罰だった。中途半端に甘く、公爵家に囚われている君が、彼らを見捨てることは無いだろうと踏んでいたからな」


 本当に一瞬、息が止まるかと思った。殿下の歪みを、私は甘く見ていたのだと思い知る。


「思った通り最高だったな、不幸な君が病んでいく姿を傍で見守るのは。僕が真相を知っているとも知らずに、ローゼの罪を隠す罪悪感に苦しむ君は本当に憐れで、救いようがなくて、どうしようもなく僕の心を満たした。僕の言葉一つで怯えるのも、首を絞めれば涙を流すのも、レイラも所詮は力には屈するしかない一人の少女なのかと思うと、婚約者だった時代よりずっと君を近くに感じられた」


 あの2週間に何度も見た殿下の苛立ちの裏に、そんな感情が隠れていたのか。読み取れるはずが無かった。あまりにも感性が違いすぎる。個性というにはあまりに恐ろしいその考え方に、私は茫然としたまま涙の代わりにふっと笑みを零した。


ああ、何もかも殿下の手のひらの上だったのか。あの葛藤も罪悪感も、何もかも全部。完敗だ。私は殿下の想いを甘く見ていた。もっとも、殿下のその想いは恋心というにはあまりにも狂気に染まっていて、少なくとももう、愛情という形を保っていない気がしてならないけれど。


「……歪んでいるわ」


「ああ、そうだな、歪んでいる。君が歪ませたんだ、レイラ」


 まるで愛の言葉でも囁くかのような甘さを漂わせた声で、殿下は笑った。圧倒的な狂気を前に、完全に私は動けなくなっていた。


「あともう少しで、君は心を壊して堕ちてくるはずだったのに……一体何が君に前を向かせたんだろうな」


 殿下は私を抱きしめながら、ただ笑っていた。声のトーンだけで言えば、かつてないほど明るい笑い声ではあるのだけれど、隠し切れない狂気と哀愁が、その笑みをどこか痛々しいものに変えていた。


「ただ、レイラの目を、涙を、温もりを、声を、その身体を巡る血を、奪いつくして壊したい。……いや、奪いつくしてもいいんだよな。君は、僕のものなのだから。最初から、そう、決まっているのだから」


 殿下の手が後頭部に添えられて、息が苦しいほどに抱きしめられた。ベールが床に落ちて行く気配を感じ取る。殿下は露わになった亜麻色の髪に口付けるように、顔を寄せて笑った。


「ああ、そうだ……君は僕のものなのだから、離れるなんて許されるはずがない。そうだろう? レイラ、君は、僕だけのものだよな」


「……ルイス?」


 先ほどまでの混乱が嘘のように、殿下は落ち着き払っていた。その不気味なほどの静けさに、ぞわり、と背筋に寒気が走る。絡みつくように抱きしめられているせいで、殿下の表情を窺うことは出来なかったが、どうにも胸騒ぎがしてならない。向き合おうとしたのは私なのに、一刻も早く逃げ出したい衝動に駆られた。


「君がどれだけ言葉を尽くそうが、誰を好きであろうがどうでもいい。君の可憐な声を聴くのは悪くない気分だが、何を言ったって、もう僕らは変わらないんだ。諦めてくれ。円満に終わりにしたいだろう? そのために僕をここに呼び出したんだろう?」


 殿下は私の頭に頬をすり寄せるようにして一層私を引き寄せながら、私の髪を梳いた。見なくても、殿下の長い指に亜麻色が絡む様子が目に浮かぶ。リーンハルトさんに同じことをされるときはあんなにも穏やかな気持ちになるのに、今はただただ怯えてばかりだ。


 殿下の言う「円満な終わり」とは何だろう。確かに私は殿下と向き合って、分かりあえたらいいと思っていた。お互い前を向いて歩いて行けるような終わり方が出来れば、淡い初恋も報われるのではないかと信じていた。


 でも、恐らく殿下は違うことを考えていらっしゃる。同じことを思っているのなら、気が触れそうなほどの緊張感は漂っていないはずなのだから。何より、身も竦むような狂気を一瞬で静め、妙に落ち着き払った殿下の様子が不気味でならない。


「なあ、レイラ、一つだけ頼みごとがある。……一度だけ、たった一度でいいから、僕を抱きしめてくれないか。それでもう、終わりにするから」


 ぽつりと囁くように告げられたその言葉には、諦めの色が浮かんでいた。それでいて縋るような切なさが滲んでいて、私の首を絞めるほどの執着の末に行きついた願いがこれなのかと思うと、とても無視はできない。


 殿下の言う「円満な終わり」はこのことだったのだろうか。結局、殿下は私に対する感情を、憎しみと歪み以外に明らかにしなかったけれど、この願いだけは確かに私を好ましく思ってくれていた証のような気がしてしまう。どこか腑に落ちない感覚があるのは確かだが、それでも見過ごせない感傷が過った。

 

「……分かりました、ルイス」


 殿下の腕の中でそう呟けば、一瞬だけ腕の力が弱められる。改めて殿下の顔を見上げれば、不思議なほど静かな表情をなさっていた。酷く翳った目は変わらなかったけれど、先ほどまでのような激しい憎悪も執着も浮かんでいない。


 これで、最後。悲しい初恋とはもうお別れの時間だ。


 私はそっと腕を殿下の背中に回し、彼の肩に寄りかかるように頭を預けた。それに応えるように殿下も私を強く引き寄せる。傍から見れば恋人同士のような甘い抱擁だろうが、二人の間に漂う哀愁は拭いきれなかった。


 私が殿下の婚約者のままだったなら、いつか、これが日常になっていたのだろうか。かつては当たり前に訪れる未来だと思っていたのに、今となってはあまりの非現実感に上手く想像もできない。


 軽く目を閉じて初恋の終わりに想いを馳せていると、やがて僅かに腕の力が弱められる。それを合図に再び目を開いて殿下の顔を見上げれば、殿下は翳った瞳のまま、どこか吹っ切れたように微笑んでいらっしゃった。


「……レイラは、温かいな。この温もりは多分、一生忘れない」


「……私も、ルイスのことを忘れませんわ」


 殿下の腕の中でそう告げれば、彼はどこか可笑しそうに、そして冷ややかに笑った。


「ああ、そうだろうな。忘れるほどの時間は、もう、君には無いのだから」


「え――――」


 その瞬間、右の脇腹に走った痛みを、私は理解できなかった。ぼたぼたと白い床に滴り落ちる赤の鮮やかさだけが目に焼きついていく。


 ……何、何が起こっているの? どうしてこんなに痛くて熱いの。


 私の脇腹に刺さっている鋭い銀色のナイフは、紛れもなく殿下の手に握られていて、彼は淡々と作業をこなすようにそれを一気に引き抜いた。生理的な涙が零れ、足が震えて崩れ落ちそうになるが、腰に回された殿下の腕がそれを許してくれない。ぶわり、と全身に汗が浮かぶ。


「っ……ルイ、ス! どう、して……」


 乱れて行く呼吸の中で、やっとのことで紡ぎだした言葉はそんなどうしようもない台詞だった。刺された箇所を右手で押さえながら、左手で殿下の腕に爪を食い込ませる。殿下が私を傷つけた本人だということは分かっているのだが、何かに縋っていないと正気を保てそうにない。そのくらいの鮮烈な痛みに襲われていた。

 

 嫌だ、死にたくない、痛い、熱い、怖い恐い嫌だいやだいやだいやだいやだいやだしにたくない、いたい、いや、くるしいのはいや。


「レイラ、君が生きているというだけで、僕の心は乱されて仕方がないんだ。君が僕のものにならないというのなら、ここで死んでくれないか」

 

 そんな残酷な言葉を告げる殿下は、かつてないほど甘い微笑みを浮かべておられた。一方の私は殿下の狂気に怯える暇もないほどに、痛みに耐えることで必死だった。全力で殿下の腕から逃れようと足掻くも、痛みで上手く力が出ない。


「っやめ、て……ルイス、おねが、い……いや、痛いの、はいや、なの……ごめ、んなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」


 死にたくない、ここで殺されたくない。ようやく、自分の命に価値があると思えたのに。私が死んだら悲しむ人がいるのに。ここで私が死んだら、あの、優しい魔術師様は、リーンハルトさんは、どうなるの。


駄目だ、ここで、しんだらだめだ。いきて、あの愛しいひとを抱きしめなくちゃ。


「……おね、が……い、やめ、て……ルイスっ!」


 そんな私の抵抗を嘲笑うかのように、殿下はナイフを私の胸に突き立てて、声を上げて笑った。私は声にならない悲鳴を上げて、ナイフが引き抜かれるのと同時に殿下にもたれ掛かる。


「レイラは、命乞いの声まで綺麗なんだな。最後に良いことを知ったよ」


 恍惚の混じった殿下の声が耳元で紡がれ、やがて私は床の上に乱雑に放り出された。脇腹と胸から溢れ出す赤が、私の周りに広がっていく。殿下は私の傍にしゃがみこんで、愉悦の混じった笑みを見せて私の頬に触れた。


「君の命で痛み分けだ、レイラ。君が僕の平穏を望んでいるのなら、苦しみながら死んでくれ。そうすればようやく、僕は君から解放されるような気がするんだ」


 霞む視界はやけにふわふわとしていて、これが現実なのかよく分からなかった。ただ、息が苦しいような気がする。胸が、痛むような気がする。痛くて熱くて赤が流れだしたまま止まらない。 


「最初から、こうすればよかったんだな。9年ぶりに心が軽いよ、レイラ。本当に……最高の気分だ」


 殿下は言葉通りかつてないほど晴れやかな笑みを浮かべながら、泣いていた。その不安定さと矛盾こそが、彼が私に向けた想いの全てのような気がして、何も言えなくなってしまう。


 次第に、痛みも熱さも遠ざかっていく。ただひたすらに、眠たいような気がしていた。


殿下は血の付いた手で私の前髪を掻き上げると、露わになった額にそっと口付けを落とす。


「……これで、君は僕のものだ」

 

 血の付いた殿下の手が私の視界を奪う。そのままゆっくりと撫でおろされて、瞼を閉じるように誘導された。最早私にそれに抗う力はなく、暗闇に意識が溶けて行くのを感じた。


「おやすみ、レイラ」


 一筋の涙が、目尻から横顔を伝って零れ落ちて行く。殿下の満足げな笑い声を聞き届けたのを最後に、私はそっと意識を手放したのだった。

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