第52話

「似合わないな」


「……え?」


「その服、レイラには似合わない」


 身構えていた割に、殿下の口から発せられた第一声がそんな言葉で、何だか拍子抜けしてしまう。改めて自分の修道服姿を見つめてみるが、シンプルで質素な作りを私は案外気に入っていた。髪の色が淡いせいで、白い服を着ると確かにぼんやりした印象になりがちだが、似合わないとまで言われるとは思ってもみなかった。もっとも、服装に言及されること自体想定外なのだけれども。


「……これが、この修道院の規定の服装なので」


 曖昧に微笑めば、殿下は相変わらず感情の読めない眼差しで私を見ていた。初めて出会ったころから変わらない目だ。リーンハルトさんから殿下の真の想いを聞いた今でも、とても私に好意を寄せている目には見えなかった。


 だが、あの部屋に幽閉されていたときと違うのは、その瞳に憎悪の色が宿っていないことだろうか。翳っているには翳っているのだが、あの2週間よりもずっと穏やかな目をなさっている。その事実に少なからず安心した。このご様子の殿下とならば、きちんと話が出来そうだ。


「わざわざ足を運んでくださり、ありがとうございます。それに、ローゼや公爵家のことも処分を待っていただいているようで、本当に申し訳ありません」


 改めて礼をして、感謝と謝罪の意を口にする。殿下は淡々とした調子で口を開いた。


「別にいい。……それより、あの部屋からどうやって出たんだ?」


 面と向かって話し合うには距離が開いたままだったが、許可なく近づくこともできない。ぽつりと零れた殿下の疑問を受け止めながら、私はなるべく穏やかに答えを返す。


「……以前お話した魔術師様に連れ出していただきました」


「魔術師? まだそんなことを言っているのか……」


 殿下はゆっくりと私の方へ歩み寄り、やがて人一人分の距離を空けて私を見下ろした。殿下の手が私の頬に伸び、殿下と視線を合わせるように軽く上を向かされる。


「……宗教に心酔している様子ではなさそうだな」


「そうですわね。人並み以上の信仰心は持ち合わせておりません」


 リーンハルトさんのことを愛しているが、崇めているのとはまた違う。信仰心という意味では、修道女としては少々足りないくらいだろう。

 

「君が妹と公爵家を見捨てて逃げるのは予想外だった」


「……私も、この道を選ぶことになるとは思ってもみませんでした。でも、あのままルイスとの取引に応じて、ローゼの罪や私たちの想いが有耶無耶になるのが嫌だったのです。……とはいえ、ルイスが折角与えてくださった取引の機会をふいにしてしまって、申し訳ありませんでした」


 見捨てた、と言われると今も胸の奥が痛くなる。そうだ、私は誠実さと自分の心のために公爵家を守る術を自ら手放したのだ。でも、この道を選んだのは他ならぬ私だ、後悔はない。


「罪は罪として清算し、私はルイスとこうして向き合いたかった……。私は一度、ルイスから逃げてしまったから……二度もあなたの心から目を逸らしたくなかったのです」


「あんなに傷つけられてまだそんなことが言えるとは……大したものだな。痛みが足りなかったか?」


 殿下は端整に微笑まれると、私の首元に手を伸ばした。その瞳に残虐な色が浮かんだのと同時に、少しだけ翳りが深くなったような気がして、思わず身震いする。頸動脈に食い来んだ殿下の指先に、緊張と恐怖で早まった脈を意識させられてしまった。


「……まだ、そんな怯えた目で僕を見るんだな」


 ああ、駄目だ。油断するとまた殿下のペースに巻き込まれてしまいそうだ。絡みつくような殿下の視線には、いつの間にか再び執着が混じっていて、その視線を受けた肌が嫌な汗をかく。殿下と向き合おうと決心したというのに、心臓が早まって苦しかった。何とか動揺を抑え込んで、そっと口を開く。


「ルイス――いえ、王太子殿下、申し上げなければならないことがあります。私は一つ、罪を犯したのです」


 名前ではなく殿下と呼んだことに、一瞬殿下は不快そうな顔をなさった。でも、ここだけはきちんと、ルイスとしての彼ではなく王太子殿下としての彼に告白せねばならない。軽く視線を伏せて、頭を垂れる。 


「私は、2年前の事故の真相を存じております。その上で、隠しておりました」


「……2年前? レイラが馬に蹴られたあの事故のことか」


「はい」


 顔を伏せたまま一度だけ深呼吸をする。罪を清算すると決めたのは私だ。躊躇ってはいけない。


「あの事故の首謀者は、ローゼです。私と殿下の婚約破棄を目論んで、馬を暴走させた……あまりにも粗末な陰謀です。殿下に危害が及んでいてもおかしくありませんでした。それを認識していながら隠蔽していたこと、本当に申し訳ございません」


 永遠のような沈黙が訪れる。口の中がやけに乾いて、耳の奥で心臓の音が響いていた。


 だが、次に紡がれた殿下の言葉はあまりにも予想外なものだった。


「知っていた」


「……え?」


「あの女が譫言で何度もレイラに謝っていたからな。分かっていた」


 殿下は私の頬に手を当てると、半ば強引な仕草で上向かせる。殿下が、あの事故の真相をご存知だったなんて。それなのに、ローゼを処刑せず私にあのような取引を持ち掛ける理由が分からなかった。


「……ローゼをお許しになられたのですか?」


「いいや、許してなんかない。正直、事故の真相を知ったときには、本気であの女を殺そうと思った」


 それもそうだろう。殿下の手が血で汚れることに賛同するわけにはいかないが、その場でローゼを殺してしまっても不思議はないほどの怒りを殿下は抱いていらっしゃるはずなのだ。大罪人であるローゼを内々に処分したところで、誰も咎める者などいなかっただろうに。


 殿下本来の冷静さが、彼の理性を留めたのだろうか。それとも、その怒りさえも飲み込んでまで、ローゼを私との取引の材料にしたかったのだろうか。


「……それほどまでに、私を捕らえたかったということですか?」


 そこまでの価値が、私にあるとは思えないのに。殿下にとって私は、どんな存在なのだろう。


 殿下の蒼色の瞳が、そんな私の戸惑いさえも見透かすように私に向けられる。


「半分正解だが、違う理由もある」


 まあ、気が向いたら後で話そう、と珍しく饒舌に殿下はお答えになった。


「それで、君が僕と向き合いたいというからには他にも話があるのだろう。聞こうか」


 殿下の指先が、すっと首筋をなぞる。その感覚に寒気を覚えながら、私は僅かな間だけ目を閉じて呼吸を整えた。


「では……お言葉に甘えて」


 首筋に添えられた殿下の指先は怖くて仕方が無いけれど、きちんと、言わなければ。私の正直な気持ちを、殿下にお伝えしなければ。


「……ルイス、私は……あなたの婚約者だったあの数年間、ずっと……あなたをお慕い申し上げておりました」


 殿下の蒼色の瞳を見上げて、はっきりと告げる。一瞬だけ、驚いたように殿下の目が見開かれた。その瞬間だけは色濃い翳りも執着も消えていて、私が婚約者だった時代によく見た、宝石のように綺麗な蒼色の瞳に変わっていた。


「あなたと、月に一度お会いするのはとても楽しかった……。あなたから頂いたお手紙は、便箋に皺が寄るまで何度も読み返しておりました」


 今なっては懐かしい、淡い初恋に心を躍らせていた時期を思い返す。両親とも妹とも寄り添うことのできない孤独の中で、私にとって殿下の存在はとても大きなものだった。殿下とお会いする日の前夜は眠れないほどに楽しみにしていたし、殿下から頂いたお手紙は一通も捨てることなく保管していた。殿下からの贈り物は傷一つつかないように大切にしまい込んでいた。


 激しい恋ではなかった。どちらかと言えば、友情から一歩進んだ関係のような、そんな優しい恋だった。殿下の想いが私には向いていないだろうと思うのは悲しかったけれど、それでもお傍にいられるだけで楽しかった。


「……だからこそ、私が2年間の眠りから目覚めたあのときに、ルイスがローゼの手を取っておられたことが、とても悲しかったのです。しかも、ローゼのお腹に子どもがいると聞いたときには……いっそ目覚めない方が良かったと、そう思うほどに絶望しました。どこか裏切られたという思いがあったのも事実です。……結果的に、それは間違いだったのですが」


 あのときはローゼのお腹の子が殿下の御子ではないなんて、考えつくわけもなかった。どれだけ冷静でいたとしても、ローゼが不義の子を身ごもっているとは思わなかっただろう。言い訳じみてしまうようだが、何度自分の行動を反省してみても、こればかりはどうしようもなかったとしか言えない。


 殿下は、ただ静かに私の言葉に耳を傾けてくださっていた。心臓は変わらず早鐘を打ったままだけれど、一度口を開いてみると、不思議なくらいにするすると感情が言葉になって溢れてくる。


「1か月間、私はその絶望の中でもがきました。ルイスに詰め寄りたいという気持ちを抱いたときもありましたが……残念ながら、あのときの私はそんな勇気を持ち合わせておりませんでした」


 今でも時折思う。公爵家から逃げ出す前に、たった一言、「どうしてローゼを愛してしまったのですか」と殿下に尋ねることが出来たのなら、私たちはここまで拗れることは無かったのではないだろうかと。もっと言えば、婚約者だった時代に、殿下に「好き」の一言でも伝えられていたのなら、多分、状況はかなり変わっていたはずだ。


 私と殿下に足りなかったのは、きっと、たった一つの言葉だけ。それだけで、こんなにも道を違えることになってしまったのは、何だか皮肉で、でも、どうしようもなかったことなのだと受け入れるしかなくて、少しだけ、胸が痛んだ。


「そんな風に悩んだ挙句、ルイスへの想いを封じて、私は逃げ出すことに決めたのです。……向き合わずに逃げ出したのですから、卑怯ですわね。でも、あのときはどうしてもできなかった。……こんなにも惨めに生きるしかないのならば、死んでもいいという覚悟で私は公爵家を出ました。自棄を起こしていたと言えばそうかもしれません」


 逃げだしたあの日の、冷たい雨の感覚が蘇る。雨が染みて重たくなった外套は一層惨めさを増したものだ。肌に張り付いた雨水は徐々に体温を奪っていって、命を落としてもまあいいか、と自嘲気味に笑ったっけ。


 そんな雨の中で、私はリーンハルトさんと出会ったのだ。


 初めはきっと、弱っている心に差し伸べられた彼の優しさに絆されていただけだった。リーンハルトさんは無闇に私を傷つけたりしないと分かっていたから、傍にいても大丈夫だなんて言う消極的な理由で日々を過ごしていたことも否めない。


 でも、リーンハルトさんと過ごす時間が増えて行くうちに、その思いも次第に形を変えていった。彼が私を慈しむように見つめる目、私がアネモネの花が好きだと伝えたときの嬉しそうな笑み、差し出された手の優しさが、焼きついて離れなくなった。


 ああ、私は彼に惹かれているのだな、と気づいたときにはもう夢中になっていた。


 リーンハルトさんの優し気な眼差しも纏っている雰囲気も声も笑い方も話し方も香りも、何もかも全部、彼が彼であるというだけで愛おしい。こんなにも激しい感情は生まれて初めて知った。その感情を抱かせてくれたのも、身を焦がすほどの鮮やかな熱が私の中にあったのだと教えてくれたのも、リーンハルトさんだ。


「……逃げ出した先で、私はある人に出会いました。彼はどこまでも優しく、不器用で、ちょっぴり不思議な人でした。……彼は、私をただのレイラとして見てくれた、愛してくれた。その愛が私の心の傷を癒してくれたのです。そして私も、次第に彼に惹かれるようになりました」


 殿下は翳る蒼色の瞳で静かに私を見下ろしていた。相変わらず感情は読めないままだけれど、私はちゃんと伝えなければならない。


「……公爵家から逃げ出したあの日、私はルイスへの想いに別れを告げました。そして今、共に生きて行きたいと思う人がいるのです。だから――」


 殿下の瞳の奥を見据えて、淡い初恋に別れを告げる。


「――私は、ルイスのものにはなれません。もう、どうやっても……あなたを慕っていた頃の私には戻れないのです」


 氷の礼拝堂に、沈黙が訪れる。淡い月影が照らす殿下の表情は作り物のように端整で、どこか人間味を感じられなかった。


 何事もなければ、私は殿下の手を取っていただろう。予定調和の幸せが、私たちを待っていたはずだ。でも、度重なる不運と悪意が、私たちの初恋を壊してしまった。不可抗力に近い圧倒的な理不尽が、私たちを引き裂いたのは間違いない。


 せめてもう少しだけ心を強く持てたのなら、感情を言葉にする大切さに気付けていたのなら、結末は変わっていたのかもしれない。


 殿下も私も、その重要性を知らなかった、知り得なかった。お互い、王太子と公爵令嬢という特殊な立場で、教養や品位を求められることはあっても、感情を求められることは無かったのだから。そのせいで、想いを口にするという行為そのものに慣れていなかったのだと思う。


 私が感情を口にできるようになったのは、幻の王都で「レイラ」として過ごすことが出来たからだ。自分の好きなお茶や花の話が出来たのも、リーンハルトさんに好きだと言えたのも、リーンハルトさんが私に愛を、言葉を求めたからだ。


 残念ながら、私は殿下にとって、そのような存在になりえなかった。もしもあのまま何事もなく私が殿下に嫁いでいたら、お互いに、感情を言葉にする重要性に気づくことも気づかせることも無いまま、時を重ねていただろう。


 それを不幸の一言で片づけるのは間違いだろうが、寂しいことであるのは確かだった。もっとも、その寂しさにすら気づくことは無かっただろうから、自己完結した世界で幸せになることは出来たのだろうけれど。


 果てしないように思われる沈黙が、私と殿下の静かな呼吸音だけを響かせていた。やがて、殿下はその表情に一抹の寂しさを浮かべたかと思うと、ふっと笑ってみせる。


「……そうか、レイラが、僕を……」


 珍しく柔らかなその笑みに、失礼だと思いつつも驚いてしまう。殿下は私の首から手を離し、一瞬だけとても安らかな笑みを見せた。

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