第58話
雪のように白い世界の、夢を見ていた気がする。遠ざかる白百合の香りに手を伸ばして、私は、リーンハルトさんを幸せにすると約束して――。
――約束? 私、誰に約束したのかしら。
いかにも夢にありがちな、ぼやけた記憶を辿りながら軽く身じろぎする。私は、どうなったのだっけ。殿下に会って、それからどうしたのだっけ。
ああ、どうしてこんなに体が怠くて重いの。
夢と現実の狭間のようにぼんやりとした意識の中で、初めに思ったことはそれだった。瞼も手足も何もかもが重い。それでもどうにか、ぴくり、と指先だけを動かすことが出来た。
「……レイラ?」
愛しい人の声が聞こえる。どこか憔悴しきったようなその声音に、靄がかかっていた意識がぴんと張りつめた。そうだ、微睡んでいる場合ではない。私は、殿下とお会いして、刺されて、それで意識を失ったのだ。きっと、リーンハルトさんにそれは心配をかけてしまっただろう。無理にでも、瞼をこじ開けなければ。
そんな使命感に駆られ、私は全力で瞼をそっと開いた。きらりと光った銀色の光に、一瞬目を閉じてしまうが、何度か瞬きをしているうちに次第に光に慣れていった。ここはどうやら氷の礼拝堂のようで、光沢のある床や壁が月明かりを反射するせいで目に痛い。
徐々に戻ってきた感覚で、私はどうやら誰かに抱きしめられているらしいということを知った。この温もりを、私は知っている。まだ重たい頭を傾けて、私を支えてくれているその人を見上げた。
「……リーン、ハルトさ、ん」
「レイラ!?」
声が掠れて上手く言葉を紡げない。だが、次第に明瞭になっていく視界の中で、愛しい人の紫紺の瞳を見上げたとき、張り詰めていた緊張の糸が解けるのを感じた。
「レイラ、レイラ、レイラ……っ」
愛しい人の紫紺の瞳からぽろぽろと涙が溢れだす。何度も何度も私の名前を繰り返すリーンハルトさんの姿は、見ていてとても痛々しかった。私はまたこの人にこんなにもつらく、悲しい顔をさせてしまったのか。
その事実を重く受け止めながら、何とか彼に向かって手を伸ばす。上手く力が入らないせいでがたがたと震えるその様は、一層彼の不安を煽りはしないかと懸念したが、リーンハルトさんは縋りつくように私の手を取ってくれた。
「レイラ嬢が目覚めたのか!?」
「レイラ!?」
聞き覚えのある声が響いたかと思うと、リーンハルトさんの傍にハイノさんとシャルロッテさんが駆け寄ってきた。彼らもまた、酷く心配そうに私を見下ろしている。
「っ……レイラ、良かった、本当に……。僕が分かる? 声は聞こえている? 目は見えているかい?」
リーンハルトさんは私を引き寄せながら、労わるように私の頬にかかった髪をよけてくれた。普段ならば顔の近さに赤面するところだが、まだそこまで繊細な心の動きを取り戻せていない。
「大、丈夫ですわ……ご心配、おかけ――」
不意に、脇腹に走った痛みに耐えきれず、思わず言葉を失ってしまう。痛みに苦しんだのが表情に出ていたのだろう。リーンハルトさんの綺麗な瞳から、一層涙が溢れだした。
「ああ、レイラ、痛むんだね、どこが痛むんだい。……ごめん、傷はすぐに塞いだんだけど、足りなかったみたいだ、ごめん、ごめんレイラ、ごめん。……君をまたこんな目に合わせてしまうなんて」
リーンハルトさんに謝られるとは思っていなかっただけに、びっくりして彼の瞳を見上げてしまう。リーンハルトさんの涙が頬に落ちてきて、彼の悲しみが染み渡っていくようだった。
「謝る、のは……私の方です。ごめん、なさい……リーンハルトさん」
リーンハルトさんは首を横に振りながら、そっと私を抱きしめた。その際に僅かに脇腹が痛んだが、そんなことはどうでもいいと思えるほどの安心感に、私はそっと目を閉じる。
ああ、私、生きているのね。この優しい魔術師様に生かしていただいたのね。
客観的に見ていたわけではないが、私が受けていた傷のことを考えると、王国の医療技術で私の命を留めるのは難しかっただろう。きっとリーンハルトさんの魔法が素早く傷を塞いでくださったから、致死量の出血を免れたのだと察する。
「ちょっと兄さん、そんなことしたらレイラが余計痛がるわよ。早く私に診せてよね」
「っ……ごめん、レイラ、つい……」
リーンハルトさんは腕の力を弱めると、ゆるく私を抱き留める姿勢に変えた。シャルロッテさんが床に膝をつき、私の手首に手を添える。
「……うん、脈も触れるし、呼吸も大丈夫そうね。私が誰だかわかる? レイラ」
「シャル、ロッテさん……」
「ええ、そうよ。この男の人のことは……そもそも名前を知らないかしらね」
シャルロッテさんの隣に立って、痛ましいものを見るように私を見下ろすのはハイノさんだ。白い髪が月明かりに照らされて煌めいている。
「ハイノ、さん……ですわ」
「……名前を覚えてもらっていたんだな。俺はあなたに酷いことを言ったのに」
本当にな、とリーンハルトさんがどこか恨みがましく呟く。二人のことは詳しく知らないけれど、どうしてかそのやり取りを聞いて酷く安心してしまった。
「意識も記憶も大丈夫そうね。兄さんの魔法は流石だわ。私じゃあんなに早く傷を塞げなかったでしょうし……」
シャルロッテさんはほっとしたように微笑むと、リーンハルトさんが握っていない方の私の手にそっと触れてくれた。
「心配したのよ、レイラ」
「……申し訳ありません」
掠れてはいるものの、少しずつ滑らかに声が出せるようになってきた。頭を動かすとひどく目が眩むが、耐えられないほどではない。
「まだ少し痛むでしょうけれど、我慢して頂戴ね。屋敷に戻ったら痛み止めを作ってあげるわ」
シャルロッテさんはそう告げると、リーンハルトさんに視線を移す。
「レイラも目覚めたことだし、交代しましょう、兄さん。早いところここから立ち去ったほうがいいわ」
「……そうだな、早くレイラを休ませてあげたい」
リーンハルトさんは心配そうに私を見下ろすと、弱々しい微笑みを浮かべた。
「レイラ、ちょっとの間シャルロッテと一緒にいてくれるかい。すぐ終わらせるから」
「……終わらせる、とは何をですか?」
「君の死体づくり」
「え……」
さらっと言ってのけたリーンハルトさんに、思わず怪訝な目を向けてしまう。だが、リーンハルトさんはそんな私の視線など気にしないとでもいう風に、目尻に溜まった涙を拭っていた。
「君を幻の王都へ連れ帰るからには、ここに死体がないと困るだろう? ……レイラの遺体がないことがバレて、これ以上君を付け回されたら……あの王子のこと、本当に殺しちゃいそうだ」
さらりと物騒なことを述べるリーンハルトさんを、ハイノさんがどこか引き気味に眺めている。シャルロッテさんも同様だった。
「……ルイスが私を刺したこと、ご存知なのですね」
「彼がここを去るのと入れ違うように、僕らはここに到着したからね。……詳しい話は屋敷に戻ってからにしよう。今は、シャルロッテの言う通り、早いところレイラの遺体を偽装してここから退散する方が先だ」
ちょっと待ってて、とリーンハルトさんは私に微笑みかけると、私の体をシャルロッテさんに委ねた。女性の腕で私の体重を支えるのは大変だろうと、思わず私はシャルロッテさんを気遣うように見上げたが、流石は一児の母というべきか全くぶれることなく私を支えてくださった。
気づかなかったが、私はリーンハルトさんの紺色の外套にくるめられているらしく、ふわりと彼の香りを感じてどうしようもない安心感を覚えた。
リーンハルトさんとハイノさんが向かった先は、どうやら私がルイスに刺された正にその場所のようで、花瓶の水をひっくり返したような血だまりが広がっていた。その血の量に、思わず青ざめてしまう。本当に、危なかったのだと思い知った。
その血だまりの傍には、アネモネの花や陶器の欠片、色とりどりの刺繍糸、木の枝、薬草らしきものが積まれていた。いかにも魔術的な要素が漂うその光景に、こんな状況だというのに興味が湧いてしまう。
「……あれで、死体の偽装が出来るのですか?」
私を抱えて下さっているシャルロッテさんを見上げるようにして、そっと尋ねた。彼女はふっと笑って小さく頷く。
「そうね、とても精巧なレイラの人形を作るようなものなのよ。といっても、一月ほどしか形を保てないのだけれど……。触ることができる幻影とでもいえば分かりやすいかしら……。まあ、魔法を知らない王国の人間が見れば、レイラの遺体だと信じて疑わないでしょうね」
禁術ぎりぎりの線を攻めてるけれどね、とシャルロッテさんはどこか茶目っ気のある笑みを見せた。その表情に、釣られるようにして僅かに頬が緩む。
「ハイノさんはよく協力してくれましたね……」
ハイノさんは、私の姿を見るなりリーンハルトさんが禁術を使ったのではないかと懸念するほど正義漢のようだから、少しだけ意外だ。
「この場合は誰も冒涜しないからかしらね。王太子を欺いていると言えば欺いているけれど……レイラを殺そうとした男に罪悪感なんて微塵も湧かないわ」
最後の言葉には確かな怒気が滲んでいた。シャルロッテさんは穏やかな様子だが、実のところは私のことを相当心配してくれていたのだろう。良い友人を持ったことに感謝しながら、シャルロッテさんの温もりを感じていた。
「本当、レイラほど男運の悪い子って見たことない。王太子にしても兄さんにしても、歪みすぎているのよ」
はあ、と大袈裟な溜息をつきながら、シャルロッテさんは嘆く。その様子に思わずくすくすと笑ってしまった。
「ふふ、酷いですわ、シャルロッテさん。ルイスはともかく、リーンハルトさんはあなたのお兄様なのに」
「兄さんがまともだと思っているなら、幻の王都へ帰るのを考え直した方がいいわよ。兄さんから逃げきれるか分からないけれど、私、出来る限り協力するわ」
冗談交じりの言葉だったが、半分くらいは本気のような気がして曖昧な微笑みで受け流す。リーンハルトさんが心優しいだけの人ではないことは、とっくに分かっていた。歪な部分もあるのだろう。だが、それも含めて私は彼を愛しているのだ。
「いいえ、もう決めたのです。リーンハルトさんと生きていく、と。私は彼を心から愛しておりますから」
ハイノさんと共に作業をしているリーンハルトさんの後姿を見つめながら、はっきりとそう告げた。
「……それに、シャルロッテさんやグレーテさんとも家族になりたいですし」
「まったく……レイラは可愛いことを言うのね。レイラのこと、義姉さん……って呼ぶようになるのかしら、いずれ……」
どこか腑に落ちない様子のシャルロッテさんの手にそっと触れる。どう考えてもシャルロッテさんの方が姉のようなおおらかさを持っているのだから、違和感を覚えるのも無理はない。
「ふふ、そのときが来ても、今まで通りレイラとお呼びくださいませ」
「そうね、そうさせてもらおうかしら」
そんな温かな未来に想いを馳せていると、材料の周りに屈みこんでいたリーンハルトさんとハイノさんが立ち上がる姿が見えた。
「これで見た目は充分誤魔化せるだろう」
軽くぱんぱんと手を払って、ハイノさんは材料を見下ろしていた。一見すればガラクタと花の寄せ集めでしかないその山が、私の姿を模した人形になるなんてやっぱり不思議だ。
「……そうだね、完成させようか」
リーンハルトさんとハイノさんが手を材料の上にかざすと、すぐに材料が淡く白い光に包まれる。とても幻想的な光景に思わず見とれてしまった。
時間にしてほんの数秒で、その光は収まった。材料があった場所には、目を閉じて横たわる「私」の姿があり、思わず息を飲む。
「……これは、完全に私ですわね」
当然ながら自分の寝顔など見たことは無いが、顔立ちも髪も身長も、何もかも鏡写しの私と同じだった。右の脇腹と胸の辺りには生々しい刺し傷があり、いかにもそこから出血したかのように赤が流れ出している。これは誰が見てもレイラ・アシュベリーの亡骸だと思うはずだ。
「見た目はね。体の中身はアネモネの花だよ」
それはまた、随分綺麗な魔法だ。私の中にあるものは、アネモネの花のように美しいものだけではないというのに。
「何分、急なことで材料が足りないからこれが限界かな。……あの王太子が、君の遺体を切り裂くような狂ったやつじゃないことを祈ってるよ」
「まさか、そんなことはしない――と思いますわ」
断言できないのが辛いところだが、この偽装された死体を見つけるのは修道女たちである以上、私の死は公のものになるはずだ。王太子である彼が、公になった遺体を損壊するような真似はしないだろう。
「まあ、切り裂いて出てきたのがアネモネの花でも、君に心酔している王太子なら信じてしまうかもしれないね。そんな夢幻があってもいいだろう」
あまりに皮肉気なリーンハルトさんの言葉からは、怒りを越えて呆れのような感情が窺えた。隣でハイノさんが慣れたように苦笑している。
「多分、この様子だとしばらく文句言い続けるぞ……。レイラ嬢も苦労するな」
「お前は余計なことしか言えないってことがよく分かったよ、ハイノ」
リーンハルトさんは一瞬だけハイノさんを睨んだのち、再び私の前に歩み寄った。そのまま軽く屈んで、私の背中と膝裏に腕を差し込むと、軽々と私を抱き上げてしまう。その際に僅かに脇腹の傷が痛んだが、先ほどと違ってかなり覚醒した意識のせいで、その痛みすらも緊張に掻き消されてしまった。
「待たせてごめん。帰ろうか、レイラ。――僕らの家に」
リーンハルトさんは私の目を間近で覗き込みながら、甘い笑みを見せた。私もふっと頬を緩めて、小さく頷く。
ようやく、帰ることが出来るのだ。あの優しくて温かい、幻の王都に。
私はリーンハルトさんの胸に頭を預けながら、リーンハルトさんのお屋敷の中を思い浮かべて再び微笑んだ。アンティーク調の家具も、不思議な魔法具も、紅茶の良い香りも何もかもが恋しくてならない。早く、あの優しい場所でリーンハルトさんやシャルロッテさんと笑い合いたかった。
別れを告げるように、氷の礼拝堂をそっと見渡す。氷のような白い床の上に舞った赤は、あまりにも鮮やかで、白い修道服姿で眠る「私」を毒々しいほどに彩っていた。
残虐よりも死の美しさを思わせるようなその退廃的な光景に、少しだけ安心する。第一発見者にとっては、残酷な死体を見て心に傷を負うよりも、印象的な光景に心を奪われる方がいくらかマシだろう。出来れば私に良くしてくれたヘレナさんが第一発見者になりませんように、と願いながら、心の中で彼女にお別れをした。
リーンハルトさんはシャルロッテさんとハイノさんに軽く目配せをすると、転移魔法を発動させる。星空色の石を思わせる金や銀の光に飲み込まれ、私たちは修道院を後にしたのだった。
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